山岡 淳先生
動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。
山岡 淳先生の略歴
・工場動員・進学適性検査・八高理科・日本大学・渡辺徹・脳波計「木製号」・生理心理学懇話会
・1958年日本大学博士課程修了。ウィーン大学神経心理学研究所での在外研修を経て、1999年日本大学定年退職。文学博士
・近所のおばさんから日大の心理学で脳の研究ができると聞いて心理学を志すようになったというきっかけ、編入した日本大学で渡辺徹先生から言われて日本で最初の脳波計「木製号」の担当になるよう指示をされ、自分でアルバイトをしながら、試行錯誤して脳波計測を実現した経緯には胸躍るものがありました。
日時:2014年9月10日(水)
場所:名古屋国際会議場
インタビュアー:荒川歩(武蔵野美術大学)、高砂美樹(東京国際大学)、鈴木朋子(横浜国立大学)
場所:名古屋国際会議場
インタビュアー(以下、「イン」と略)A では、どうぞよろしくお願いします。これからお話を伺いますが、「性格心理学研究」の第1号、「生理心理学と精神生理学」の2012年の記念号、さらに日本応用心理学会のクロスワード第53号に書かれていた内容と重複する内容を質問するかもしれませんが、別のものとしてお話しいただければ幸いです。
山岡 はい。
インA 事前に一応どういう内容かというのはお送りしましたけれども、まず最初に、どういう経緯で心理学に出会われて、そして目指されたのかという話。そして、日本大学に進学されて、そこでどのような研究をされて、卒業後、ご就職されてから、生理心理学の学会の設立に関わられるなど、いろんなお話があると思います。また、日本心理学会の理事としてさまざまな活動に携わられ、資格検討委員会や基礎資格認定制度実行委員会などでも活動されていますので、そのあたりのことも含めて、もし思い出,記憶に残っていることなどございましたら、教えていただければと思います。
では、まず最初ですけども、お生まれから、心理学への出会いについて教えていただけますでしょうか?
山岡 生まれはね、昭和4年7月25日。
インB 先生、お生まれは、ちなみに湘南ですか。
山岡 父親の勤め先が東大の理学部助手から九大工学部助教授に変わりましたので、福岡市で生まれました。
インB 福岡ですか。
山岡 ええ、ですから、パスポートの出生地は福岡で、福岡市の女子師範付属小学校にはいりました。しかし数年後に父親が東京に転勤しましたので、1年生の途中から鎌倉市の御成小学校に転校しました。がさらに3年生の暮に、「ここに通いなさい」と言われて、横浜国大の付属小学校の3年に3学期から転校させられ、由比ガ浜の自宅から鎌倉八幡様の池の横を通り、片道20分以上の道を通いました。小学校6年の12月に、真珠湾で勝ちムードになり、湘南地域の家庭は海軍一色の空気でした。中学校は湘南中学に進学しましたが、たびたび農村での勤労奉仕に出かけ、やがて工場動員となりました。海兵などに志望する者のクラスは中学から近い工場で、半日は勉強する日課ですが、私の軍隊志望でない者のクラスは、鎌倉駅6時半の横須賀線で平塚の海軍工廠(造機・造兵)に通い、授業はありませんでした。私は材料試験という職場に配属させられました。
家庭の都合で、昭和20年春に長野県軽井沢に疎開することになり、小諸市の民間の軍事工場で働きましたが、8月に終戦、その長野県立岩村田中学校4年生まで小諸で乗換えて通学しました。そこの教科書の進路は湘南中学校よりも進んでおり、大変驚かされました。因みに、そその岩村田中学校の一年下のクラスに東京教育大学の原野広太郎氏がおられた(クラス担任が同じ)ことがその後十数年たってから解り、驚き合いました。
終戦後の秋の終わりに、疎開先から鎌倉の自宅に戻ることになり、疎開先に挨拶に行った玄関先で脚を骨折しましたが、田舎の医師の誤診により半年間通学できず、一年間休学としました。そのために、半年後の4月に湘南中学の4年に復学しました。
ところが湘南中学校では、授業の先生は戦死されたり、または捕虜のまま未帰還であったりで授業は開けられず、出席簿で出席をとるだけで、4年以下のクラスの授業は殆んど自習ばかりでした。戦地から先生が帰還されると、5年生の高校受験のための突貫授業をされ、工場動員のために勉強出来なかった3~5年次の教科書に集中されておられました。4年次以下の生徒たちは碌な食事もなく、ただ自習ばかりさせられていました。そこに、私の担任の先生から、「5年卒業生と一緒に旧制高等学校を受験するならば、自宅で自習するために、2週間以上登校しなくてよい」との許可をいただきました。しかし、3年次の教科書の勉強もできていないのに5年を卒業する生徒と一緒に高校を受験するのは全く無謀で、2年間分以上のギャップは余りにも大きいと、受験を希望する者は誰もいませんでした。
インB 高校はどこでしたっけ
山岡 「高校受験の願書を出すならば、学校に来なくて自宅で自習していてよい」というクラス担任との約束を折角いただけたので、そのお礼とお詫びに私は、高校受験の願書を提出せざるを得なくなってしまいました。受験先については、母方の親戚がいる名古屋にある第八高等学校としました。
インA 理科に進まれたのですね。
山岡 はい、私はもともと文科よりも理科の方が好きでしたので、理科を選びました。どうせ不合格なのだからと、合格発表を見にも参りませんでしたところ、叔母から合格したとの祝電を受け取り、入学すべきか辞退すべきか2・3日間困惑しましたが、結局八高理科に入学,急遽下宿探しをすることになりました。
八高では、「指導教官」という制度があり、在学中の3年間(以上)は一切の面倒を見てくださることになっており、在学中の指導教官を生徒が選んでお願いをすることになっていました。湘南中学校で1級上の先輩のお勧めで英語担当のS先生に指導教官を引き受けていただけました。がお願いの冒頭に、「山岡君! 君はね、学力検査の成績はものすごくひどいんだ、進適(進学適性検査)の点が高く、それで入れたんだ、君はよっぽど頑張っても、ストレートで卒業するのは大変だよ」と言われたんです。ご存じのように、進学適性検査は、マッカーサーが旧制の学校制度を廃止・改革するために、文部省に造らせたとの噂があった検査であって、暗号解読など学力と関係ないという試験で、落ち着いて考えていれば誰でも解けるテストであり、2時間?ほど楽しませてもらったテストでした。入学後に八高では、学力と進適と半々の点数を評価したと聞きましたので、指導教官のご忠告がよく解りました。
後日、日大に入学した後に、杉並区の杉並公会堂で「文部省が進学適性検査を継続実施するか否かの公開討論会が開かれる」ので、聴衆の一人として顔出しして来いと某先生から申され、八高で受験したことを思い出していました。
私は湘南中学の4年の終わりの頃でも、数学は未だ三角の勉強が途中であり、微積分などの勉強も終わっている5年生と一緒に授業について行くことは難儀でした。英語も、海軍工廠の工場動員で「英語反対!」と騒いでいたひとりであり甚だ不勉強でした。「飛び級」は損であると痛感させられましたね。四修(旧制中学校の4年修了後の飛び級)で八高に入学してみて、ドイツ語、体育、国語、社会、地学、無機化学の実験などは同級生と同じスタートであり、四修でも五卒と比べてハンデが少なく、同僚と一緒に勉強する意欲が出ましたし、まあまあの成績を評価されたことを今でも覚えています。学習のスタートラインが同じである科目は好きでありましたね。という複雑な気持ちで3年間の高校生活を過ごしましたが、幸いにして新制大学へと学校制度が変わり、「新制大学に旧制高校の生徒を残し難い」とトコロテンで?、お情けで八高を卒業させていただいたのだろうと思っています。
他方,八高理科に入学早々に、先輩集団から「お前は湘南中学の卒業だろう、蹴球部に入れ」と勧誘され、サッカー部の部員にさせられました。その部長は、五高から東大心理を卒業された阿部芳甫先生(あべちゃん)でした。前記の指導教官のS先生(さとうくん)と蹴球部の阿部先生とは、私にとって父親以上の生涯の偉大な恩師がたであります。旧制高校の先生と生徒との関わりかたは、私の日大と学生たちとの交流の在り方や、さらに日大を退職後も延々と続いている卒業生たちと私との人間的な在り方に、大きな要因になったと思っています。
八高理科を卒業する際に、一応医学部を受け、矢張り一浪しました。翌年は、今度は新制大学の入試を受験するので、新制の学科試験を勉強しなければならない、外地の大学から引揚げてくる人が多いので、特に医学部の受験希望者が非常に多い、私は臨床医学を望む気は余りない、新しい領域である放射線医学に行く気はない、など躊躇していました。そもそも八高生の頃に、友人たちと「生と死との境界は?」とか「意識・記憶・感情などの機能は何時頃から始まるのか?、またその座はどこか?」などと語ったり、そのことを書いた本を京都まで探しに行ったりしていました。動物学の先生で発生学を黒板に書きまくった先生(おさかな)の迫力の影響もあったのかもしれませんが、結局自分の疑問は全く解決されないままでした。一浪の終わりころ、ある親しいおばさんから「淳ちゃんが昔から疑問としてきたことは、医学部ではなくても、日大の心理学で取り扱っていて、脳の勉強もできるそうだよ、そこ(新制)の3年次に入れるそうだよ」と言われたんです。「脳? 文学部で? 文学部で脳をやるの?」、「一浪しているが3年に入れるらしい」と何故そんなことを御存じであったのか?と驚きました。「ただし明後日が願書締め切りだ」と言われたんです。生死、文学部、脳,三年編入など自分の脳の中の整理がつかないうちに受験しました。入学手続きをして八高の阿部先生に報告したところ、「日大の渡辺先生の許に行くことは大賛成だが、心理学では食えないぞ!」と一喝されましたが、私が医学部を辞めて脳の心理学をやってみようかという転向を聞き,「どうなるかわからないが、やってみるか?」とのお返事を頂きました。
そもそも八高理科に在学中に受けた阿部先生の心理学では「ゲシュタルト心理学、ヴェルトハイマ―」などを、社会学の先生は「祭りの社会学」などの講義をされながら、「お前らは理科の生徒だから」と気休めのような話し方で言われ続けていました。科目によっては、大勢の「代返」をしながらも、社会学的な講義には関心を持ち、社会を見る眼を育てていただいていました。とはいえ私は、文学部心理学科の学生になった早々であったので、「心理学と脳との繋がり」についての理解は、十分できていませんでした。
日大心理学科3年次に入学し、渡辺徹という心理学ワールドの大ボスであられる老先生のもとに入門できました。先生は片方のお耳がよく聞こえないので、「わしは耳が遠いから解らん!」って、他人の話を余り聞こうとされない頑固な心理学界の大先生で通っていましたね。また、国文学への造詣も深い先生であると言われていましたね。
インB 渡辺先生は着てるものは着物でしたよね。
山岡 講義のときは洋服ですが、夏などの普段の部屋では浴衣で歩いておられました。
気品のある白髪の老教授が冒頭に、「お前、なんで心理学に来たのか」と質問されたので、「生死の境界や意識の始まりなどの疑問」のことを申しあげましたらば、「丁度良い、うちでは脳波計を発注したのに未だ品物が入らない、お前がそれの督促をせよ」と厳命されました。学部3年生になったばかりに、そのとき初めて「脳波計」という言葉を聞きました。三鷹市の三鷹台駅の近くにある三栄測器(当時は三ツ星電気)という木造の日本家屋の工場に、真夏の暑い中を何度か通いました(電車賃は自分持ちでした)。
その年、昭和26年の9月21日に脳波計が入りました。電磁誘導が怖いので、筐体はチーク材の木製で、大きなGT管の真空管を使った回路、バッテリーと積層電池を使った直流電源による大きな装置です。見た目は幼稚園のオルガン風でした。筐体は6チャンネルですが、予算の都合で最初の回路,中身は2チャンネルでした。運送中の振動を避けるために、三鷹市から水道橋までリヤカーを使って静かに運搬。リヤカーのエアを抜いて、そろそろ運んだそうです。
40名くらいが入れる講堂に担ぎ込まれたのですが、講堂にはコンセントがないので、仕方がないから天井からぶら下がっている電灯の裸電球を外し、そこから電気のコードをぶら下げて電源としたんです。シールドルームもハンダゴテも何もない。法・文学部の事務局に行くと、「お前! 心理学の研究室では謄写版を使って、アンケート用紙の印刷をするのが研究なんだよ。藁紙(ざらがみ)以外は何もあげない。ハンダゴテなど要らない.なくて良いんだ!」と追い帰されてしまう始末でした。
仕方がないから、バイトで稼ぎ、ペンチやスイッチなど工具類を揃え始めましたらば、「学術会議が来月の某日に、脳波研究の現状査察に来られる」という情報が入りました。日大心理学の脳波室を含め、現在稼働しているといわれている都内4か所の脳波室を巡回するのだそうです。「日本での脳研究が遅れているのは、脳波の記録ができないためである」といわれていたとか。当時は確かに、「日本国内の脳波計では、交流波形や電源が不安定なための雑音ばかりで、脳波波形にならない」と噂されていました。私は八高理科に在学中に、基礎的な三極真空管の実験程度ならばやっていましたが、マイクロボルト・レベルの低周波波形の記録の経験は全くありませんでした。しかも、シールドレスの状況での記録などかんがえたこともありませんでした。査察を受けることになり、早急に講堂の隅にコンセントを取り付け、コードのパイプをシールドし、建物の外に第一種アースをとっていただきました。当日に、日本の最新の若手脳研究者の集まりであった「脳波研究班」(生理学、精神神経科、脳神経科、電気工学が主力)の査察のお蔭で最低の工事は何とかしていただきました。他方、電極、電極固定具、電磁誘導を遮断するための工夫や部品などは、すべて自分で、独りで、試行錯誤するしかありませんでした。シールド工事については、全く考慮していただけず、シールドの有無も申しあげないままでした。
十数名の若手教授から助手の先生方が査察に来られ、北大の生理学の藤森聞一教授が被験者になって脳波を記録しました。日大心理の次の査察先は都立松沢病院の脳波室で、そこの会議室で4か所の脳波波形の比較検討がなされ、私はそこで後ろからそっと見学させていただきました。数名の方々が、「これ(日大)だけは本当の脳波波形だ、あとはキレイそうに見えるが、雑音だらけである!」との評価をされ、自分ながらホッとした覚えがあります。その場以後、日大の脳波計は「木製号」と称され、「山岡は木製号の付属品だ」と自称しています。しかし、シールドレスで記録した脳波、電極装着部位の毛髪を切らない、剃らないで記録された脳波、それは脳波とはいえないという批判を受け、その研究結果は信用できない、と大声で評価された時代がありました。吾ながらその方々からの批判によく耐えていたと思います。その「苛め」は、医学からが強かったです。
インA 先生の卒業論文も、「人格と脳波」ですね。
山岡;はい、そうです。渡邊徹先生は、心理学概論の授業もやっておられましたが、どっちかというと、人格心理学と民族心理学で、人格心理学、パーソナリティが専門であられたように思います。私自身は、疲労とかポリグラフィックな実験研究をしたかったのですが、先生から「とんでもない、人格以外はダメです」と一蹴され、「お前は俺の言う通りにやれ」と決められたのが「人格と脳波」という主題で,キプレスの躁鬱・回帰性、ユングの向性、サーストンの神経質の三紙筆検査の結果と脳波(α波)の波形との関係が卒論になりました。ポリグラフィック研究についても、脳波をまともに描けないのに他の現象との同時記録をやるなんでとんでもない、と一蹴され、内々に自律神経系機能と脳波との関連性の実験を時々こっそりとやっていました。
インB その当時はどうやって脳波をとってたんですか?
山岡 当時の常識は,電極を着けるところを鋏で切って剃って着けたんです。だから、御茶ノ水駅のホームに、たまに、毛髪の数か所が丸く剃ってある男性を見かけたことがありました。今時、そんなことをしたら、人権問題になりますよね。
心理学科に入学して一年余り経った4年生の夏に、国家公務員の六級職(今でいう上級職)を人事院などから、「受けろ、受けろ」と言われて、大脇先生の心理学概論の本を買い、何とか受かりました。私自身は運輸省に入りたかったのですが、その年は採用がないといわれ(運輸にはいれば汽車賃が楽になる?)ました。私の知った限りでは、法務省矯正局で、数十名の応募者が集められて、東京少年鑑別所の技官一名のための面接試験であったと思いますが、3月下旬に「辞令を渡すから東鑑(東京少年鑑別所)に来い」と言われました。そしたら渡邊先生が「何? お前は心理学の勉強は殆んどできていない,とんでもない、直ぐに断れ!」と一喝され、その夜、その鑑別所の課長宅に伺い、辞退を申し出ました。課長は「渡辺先生が仰ったらば仕方がない」となりました。がその直後に、法務省が脳波計の第一号を購入することになっており、脳波記録の経験者を技官として採用することになっていたとわかりました。そして四月から毎週一度、脳波記録と資料整理のために鑑別所に来所せよ、とお声をかけてくださいました。がその話の続きがあり、「脳波計の納入が暫く遅れる、その理由は、脳波室に予定している独房のドアーの幅が3センチ小さく、脳波計が入らない、厚い壁を壊し、脳波計を入れてからドアーを埋め戻さなければならない、工事が1か月以上かかる」という事態になったと言われました。やっと脳波が記録されましたらば、実は裏話があり、脳波計の金額は高額なために、脳波計は非常持ち出しの扱いであり、その旨が責任者名2名の名前を付けて入口に貼ってありました。しかし万一火災などになっても、ドアーが狭く、搬出できませんから、非常持ち出しできない、その責任技官は脳波計と心中となるね、と笑い話をしていました。
それから数年たって、日本赤十字病院でも日赤の第一号脳波計を入れることになり、脳波室の場所、シールドルームの仕方など、留意事項を聞きに日大心理学実験室においでになりました。年賀はがきのお玉年でできた「小児麻痺センター」の一室でしたが、大変気を使って完成された検査室であり、感心しました。近郊や地方からの患者が多く、年間3千件以上の脳波検査がありました。そのうちに全国的に脳波記録をする病院や相談所、さらに研究所などが多くなり、医療としての脳波検査の技師の資格や医師法との問題などが起こり、諸官庁などとの話し合いにも関わったことが多くありました。
インA その間の身分というのは、非常勤だけで、大学に籍を置かれて。
山岡 大学を卒業し、大学院前期課程の学生となり、直に副手(無給)になりました。日赤病院では、昭和35年3月31日発令の嘱託の辞令をいただきましたが、東京少年鑑別所ではフォーマルには無給(六級職は辞退した)で、飲み会などではタダ飲みさせていただいていました。要するに私は、脳波計の付属品に過ぎなかったのですが、他の医療刑務所などから、また神経生理学の病院・研究機関などから、心理学出身である私に、臨時にお声をかけていただくことがありました。
インA なるほど。この時期に小保内先生などと共同で研究をされていますね。
山岡 小保内虎夫先生は、日大の心理学科が大正13年に創設された時から感応理論に基づく実験心理学の講義をされておられ、晩年は日大教授でした。感応理論を標榜されておられ、脳波研究に関心が深く、専任である東京教育大学の心理学科の学生たちに、脳波研究を勧めておられました。そのお蔭で私は、金子隆芳先生など懇意にさせていただけました。
渡邊先生のお人柄から、日大心理学科に専任としてお迎えできた方は多く、教育心理学と統計法の田中寛一先生が、唯心論の千葉胤成先生、因子分析などの古賀行義先生が専任教授として指導をしてくださいました。非常勤講師ではありましたが、電気生理学の小溝協三先生(東大の橋田生理の門下生で時実俊彦先生の兄貴株)は私の研究の全面的指導をしてくださいました。またゲシュタルトの盛永四郎先生、犯罪心理学の植松正先生も個人的に助言をいただいていました。
渡邊先生が脳波を導入しようと、日大医学部生理学の円谷先生に相談をされたらば、小溝先生を推薦されたそうです。そこで渡邊先生が武蔵小金井で、小児科・内科を開業されている小溝医院の庭に突然に訪問し、電気生理学の講師を依頼されたそうです。ステッキを持って中折れ帽子をかぶったご老人が草むしり中の畑に立って、「わしは耳が遠いが非常勤講師に来てくれ」と仰ったそうで、小溝先生はそのお姿に大感激して即刻引受けられたと、何度も話されていました。渡邊先生のお人柄の一面だと思います。
インA 大学時代は、卒業論文以外にはどのような授業がありましたか?
山岡;大学院の授業の一つに電気生理学という科目がありました。大学院の同級生たちは、電気のデの字も嫌いだけれども、小溝先生の話は皆喜んでいました。カエルの解剖も面白がりました。前の週に、カエルを買ってこいと言われましたが、本郷の実験動物の店に行く電車賃を節約して、後楽園の池でガマカエルを捕まえてきましたらば、「神経系が違うから代りにならない」と大目玉を食いました。解剖後の始末をして置け、と申されましたが、水道橋の辺りには動物の死体を埋めるような場所がなく、仕方がないから、大学の総長用公用車の車庫の屋根の上にポイッとしたこともありましたね。「文学部ですから仕方がない」では言い訳になりませんね。
インA 大学院時代も、副手の仕事をされながら、研究を続けられて‥‥‥。
山岡 脳波の記録が私の本職です,綺麗な、雑音のない脳波を。修士課程に入り、意識の始まりは何時か?の疑問を思い出している内に、新生児や乳児の脳波に関心を持ち始めました。木製号と称される脳波計は予算の都合で中味2チャンネルでしたが、中味は6チャンネルの新しい金属製の脳波計(当時は8チャンネルが標準なので2チャンネル分が空っぽ)が購入されました。一時的に2チャンネルの木製号と6チャンネルの脳波計都が実験室に存在し、邪魔になりました、そこで丁度良いからと、2チャンネルの木製号をトラックで大学から外部に持ち出すことを企画しました。小溝先生のお蔭で、麻布の愛育病院に木製号を持ち込み、乳児の脳波記録をしようとしたのですがダメでした。すぐに、世田谷区にある都立未熟児センターをご紹介いただき、ここに木製号を移動し、センター長の「未熟児の脳波研究」のお手伝いをするために、未熟児の出産を待ち続けました。公には言えませんでしたが、産婦たちには内緒です。というのは、「脳波をとる」は「撮る」ではなくて、「盗る」とか「捕る」と誤解されて、記録を拒否されてしまいます。まして、産まれて産湯直後の未熟児の脳波をとるなど、言語道断です。産院に行くと,「今日は一人産まれそうですよ」と言われて待っていますと、なかなか産まれない、仕方なく帰宅し、翌日参りますと、「昨日帰られたらば直ぐに産まれましたよ」ということがよくありました。ここで記録された脳波の資料が、私の修士論文になったのです。
私の学位論文は、学部学生時代からの夢であった「瞑想の意識的変動をポリグラフィックに表現」することであります。脳波波形を記録することを始めるとともに、意識を客観的に表現することを試みたいと思っていました。昭和27年に日本心理学会大会が日本大学で開催された折に、京都大学の佐藤幸治先生が座禅の心理学を研究されていると私に申されたので、そのことに強い関心を持ちました。その直後、東大精神神経科の笠松章教授以下のグループが、座禅の脳波について大規模な実験的な研究を始められましたが、ひとりの大学院学生の研究と東大教授がたの総合研究とは比較にならないと思っていました。そこに、たまたまヨガの出版社から座禅の脳波の原稿を依頼され、それを縁に、ヨガの修行者を被験者としたポリグラフィック実験をささやかながら行ない、その結果を投稿しました。
インA 「ヨガ瞑想の生理心理学的研究」というご研究ですね。
山岡 うん。ポリグラフィック実験としては最新の実験的研究であったと思います。新皮質の頭皮上の電気生理学的研究である脳波だけではなく、辺縁系、脳幹部の機能との統合的・総合的な考察をするべきであるとかねがね痛感していました。前記したように、瞑想、座禅のポリグラフィック実験を夢見ながら、実験場に恵まれず、なかなか進みませんでしたが、海馬や前皮質が人間性にとって重要な機能を持っているのではないかとの空気が広がってきましたので、私の全人的心理学とか統合的心理学という語を強調し易くなってきたように思います。看護の世界ではすでに、全人看護が重視されてきました。統合医学という語が近年耳にされるようになりましたと同時に、鍼灸、催眠、気功、漢方など、代替医療が話題になる時代になりましたね。私は統合的医療という観点からも、望ましいことだと思いますね。
インA ありがとうございました。ご研究の話はお話しいただいたと思いますが、心理学の流れについて感じたことなどありますか。
山岡 私、一つ申し上げたいことがあります。心理学は今、単科学会が50くらいあるんだそうですけれども、医学の世界はさらに典的ですが、往年は幾つかの少ない章や分科に分かれていましたのに、近年は多くの科にどんどん細分化されてしまいました。現実にあった話ですが、ある若い医師が「私は消化器の医師といわれますが、実は、食道の、それも入り口の辺りの専門ですから、胃や腸などは解りません」と自己紹介されました。「臨床医は人間全体を理解するという姿勢を持っていただきたい」とかねがねお願いしてきました。心理学も、知覚・学習・性格・社会などと専門化するとともに、分科しっぱなしでなく、全人的に、統合的に理解するという姿勢を持つべきであると強調したいです。もっとも私自身、心理学を始めた頃は、生理心理学と称し、生理と心理との関連性を中心に眺めてきましたが、近年両者の他に、スピリチュァリティーの次元も加えるべきであると強調しています。ただし、この日本語については、宗教とか霊魂ではなく、他の適切な語がないか、と迷っているところですが。
日本は島国であったお蔭で、日本固有の文化を持ってきましたが、国土が狭いのにも関わらず、南北に長い国なので、多種多様な文化・文明・産業を持って来たと思います。剣道、柔道、弓道などの武道、茶・花・書などの道、その他日本芸術など広義の「道」を見直し、平素の日常生活の中に導入すべきであると思います。
終戦後、アメリカ心理学化したために、「質と量」のことが放置されてしまい、「統計・推計」に振りまわされてしまっていると懸念しています。特に後者については反省の姿勢を持って、是非再考してほしいと思います。と同時に、「資本主義と共産主義」、「男性と女性」など相対立するもの同志の共存・調和を認めるべきであると思います。一方だけになると、偏重してしまいますので。
インB 先生は脳波学会にも関わられておりますが,やはり医者が多い?
山岡 日本の医師法は、諸外国に比して非常にオールマイティですね。近年、医師の数が多くなったとともに、看護師、薬剤師、臨床検査技師など、医療系の技師の種類も多くなりましたね。それに伴って、体育学領域の出身者が、リハビリなど医療の領域に大勢進出してきていますね。私は大学院の後期課程に入った昭和30年春から、日本女子体育短大・日女体大で45年間非常勤講師をさせていただいてきましたが、そこは幼児、舞踊、芸術などの体育が特色であったこともあり、少しでも身体に関するような仕事については、体育出身者がどんどん進出していますね。好ましいことだと思います。以前、意識レベルの実験の一つとして、柔道の絞め技で「落ちる」と脳波がどう変わるかという実験をしました。私は柔道は未経験でしたが被験者になったら、簡単に落とされて、立派な脳波変化を記録できました。その実験結果が新聞に報道されて、高校生では絞め技は直ぐにご法度になりました。心理学領域の出身者は、どうも遠慮勝ちなのか、躊躇してしまうのか、資格制度の改革とも併せて、積極的に研究領域を拡大して欲しいと思いますね。
インA ありがとうございました。他に学会の理事を通して感じられたことなどありますか?
山岡 心理学の資格制度の問題ですが、臨床検査技師の資格制度の業務独占を実現されたように、心理学界でも業界が一致して、団結して、諸官庁と協力し立法すべきだと思います。内部で相互に発言し合うばかりではなく。本当に残念でなりません。相互に対立し合ったりしないで、心理屋さんは、自分の性格を見直して欲しいですね。
インA ありがとうございました。いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか。
山岡 どうぞどうぞ。
荒川 37歳のとき、昭和41年の時に、ウィーン大学に留学されていますね。なぜローラッヘル先生に。
山岡 昭和36~37年の一年間、日本大学から長期留学を命ぜられ、ウィーン大学神経心理学研究所のローラッヘル教授にお世話になりました。
これはね。昭和39年に日本大学に長期留学制度ができて、14学部から、年間6名を留学させることになりました。その翌々年に、文理学部から一人海外留学させる、山岡をと、突然に学部長から申されました。脳波の実験、特に心理学領域で脳波の記録、特に性格と脳波について、ローラッヘルの名前は前々から知っていましたので、即座にウィーン大学の名前を申し上げましたところ、「音楽を聴きに行くのではない、心理学の勉強に行くのだよ」と反応されましたが、ウィーン大学に行くことを承認していただけました。
教授は人間の脳波と性格との関係を調べた最初の研究者であり、その後脳波の記録中に偶然に皮膚のマイクロバイブレーション(MV)を発見(それと同時に日本で稲永・菅野両氏がその発見をされた)されたかたです。ウィーンでは脳波計を使って、こまごました小実験の抄録を提出してありましたので、マイクロバイブレーションの共同研究をさせていただくことになりました。私の留学中は、まさに東西冷戦の最中でしたが、共産圏諸国に自由に往復したオーストリアでの生活経験とそこで得た世界観は、私の生涯の在り方に大きな影響を与えました。教授が、「日本での脳波の研究は解った、折角、ウィーンまで来たのだから、欧州人と大いに接触せよ」と研究室を与えてくれ,数年前のポンコツ車を駆って、イタリーやドイツ、隣の共産圏諸国などを散策できたことを今でも感謝しています。帰国直後から暫く経験した全国的大学紛争や京浜安保などとの対応にも大変参考になりました。
インA 紀要にそのマイクロバイブレーションのアイデンティフィケーションについてまとめられたわけですね。そして、その年の日心の32回大会で、その生理心理学懇話会の話が決まったわけですね。
山岡 そうそう、偶然にね。東京教育大学を会場として日本心理学会大会があった時に、今でも会場の様子を覚えていますが、岩原信九郎先生と新美良純先生と私の三人で、こういう学会を作ろうよと。ただし、学会は形式ばってるから懇話会とし、裏話ができる、自由に話し合いのできる集まりを、年間に何回でもやりましょう、ということで始まったのです。私が3回目をやろうとしたらば、あちこちのキャンパスではバリケートで閉鎖されてしまい、虎ノ門の共済会館の小部屋で開催しました。岩原、新美両先生のご貢献は大きいですね。
インA なるほど。はい、ありがとうございます。
インB 先生、一番最初に脳波計を渡邊先生が購入されたということでしたが、渡邊先生って私の中では全然生理心理のひとではないんですが、なぜ脳波計を使おうとしたっていう話をこぼされてませんでした? 何か。
山岡 それね、渡邊先生は、心理学は全人的だっていうことを考えておられていたと思うんです。渡邊先生の概論には、八方面というのがあって、いわゆる生理心理学的なものも考えておられました。ご本人は医学部に行く気があったが、血を見るのが嫌で,医学部を辞めて心理学にした、と時折話されていました。医学部系の大学や病院では脳波の記録をするも困難な時代に、文学部の心理学が脳波計を設置するという意欲は、通常考えられませんね。無謀といわれるくらいの先生ですね。福島生まれですが、鹿児島の第七高等学校(造士館)から東大に進まれたのです。
心理学の研究に脳波を導入するべきだと思ったが脳波計を購入する予算がないと、渡邊先生は、学債を募集することを大学当局に交渉され、6チャンネルの脳波計に当面2チャンネルの回路を持った脳波計を発注されたのです。昭和1952年の日心の第18回大会で「人格と脳波」と題して口頭発表されました。
これは山岡先生がされた研究を発表されたのですか?
山岡 ええ、私が記録した脳波のα波の大きさについて発表されました。私が知る限りでは、日本心理学会で脳波の題目について発表されたのは、大脇義一先生の「脳波による連想過程の諸段階の研究」もありましたが、実験的ではありません。因みに、大脇先生は東北大学の心理の教授で、東北大の生理学には本川弘一先生という大御所がおられ、日本の脳波のメッカでした。
渡邊先生は口にはされなかったですが、綺麗な脳波波形を記録できたことを内心喜ばれていたと思います。日大で日本心理学会大会を開催した折や来客があった折には、脳波記録の状況をお見せしておられました。お蔭で、文学部の事務局も、木製号のバッテリーだけは快く購入してもらえました。
インA なるほど、ありがとうございます。では、時間もそろそろですので、止めたいと思います。どうもありがとうございました。
山岡 はい。
インA 事前に一応どういう内容かというのはお送りしましたけれども、まず最初に、どういう経緯で心理学に出会われて、そして目指されたのかという話。そして、日本大学に進学されて、そこでどのような研究をされて、卒業後、ご就職されてから、生理心理学の学会の設立に関わられるなど、いろんなお話があると思います。また、日本心理学会の理事としてさまざまな活動に携わられ、資格検討委員会や基礎資格認定制度実行委員会などでも活動されていますので、そのあたりのことも含めて、もし思い出,記憶に残っていることなどございましたら、教えていただければと思います。
では、まず最初ですけども、お生まれから、心理学への出会いについて教えていただけますでしょうか?
山岡 生まれはね、昭和4年7月25日。
インB 先生、お生まれは、ちなみに湘南ですか。
山岡 父親の勤め先が東大の理学部助手から九大工学部助教授に変わりましたので、福岡市で生まれました。
インB 福岡ですか。
山岡 ええ、ですから、パスポートの出生地は福岡で、福岡市の女子師範付属小学校にはいりました。しかし数年後に父親が東京に転勤しましたので、1年生の途中から鎌倉市の御成小学校に転校しました。がさらに3年生の暮に、「ここに通いなさい」と言われて、横浜国大の付属小学校の3年に3学期から転校させられ、由比ガ浜の自宅から鎌倉八幡様の池の横を通り、片道20分以上の道を通いました。小学校6年の12月に、真珠湾で勝ちムードになり、湘南地域の家庭は海軍一色の空気でした。中学校は湘南中学に進学しましたが、たびたび農村での勤労奉仕に出かけ、やがて工場動員となりました。海兵などに志望する者のクラスは中学から近い工場で、半日は勉強する日課ですが、私の軍隊志望でない者のクラスは、鎌倉駅6時半の横須賀線で平塚の海軍工廠(造機・造兵)に通い、授業はありませんでした。私は材料試験という職場に配属させられました。
家庭の都合で、昭和20年春に長野県軽井沢に疎開することになり、小諸市の民間の軍事工場で働きましたが、8月に終戦、その長野県立岩村田中学校4年生まで小諸で乗換えて通学しました。そこの教科書の進路は湘南中学校よりも進んでおり、大変驚かされました。因みに、そその岩村田中学校の一年下のクラスに東京教育大学の原野広太郎氏がおられた(クラス担任が同じ)ことがその後十数年たってから解り、驚き合いました。
終戦後の秋の終わりに、疎開先から鎌倉の自宅に戻ることになり、疎開先に挨拶に行った玄関先で脚を骨折しましたが、田舎の医師の誤診により半年間通学できず、一年間休学としました。そのために、半年後の4月に湘南中学の4年に復学しました。
ところが湘南中学校では、授業の先生は戦死されたり、または捕虜のまま未帰還であったりで授業は開けられず、出席簿で出席をとるだけで、4年以下のクラスの授業は殆んど自習ばかりでした。戦地から先生が帰還されると、5年生の高校受験のための突貫授業をされ、工場動員のために勉強出来なかった3~5年次の教科書に集中されておられました。4年次以下の生徒たちは碌な食事もなく、ただ自習ばかりさせられていました。そこに、私の担任の先生から、「5年卒業生と一緒に旧制高等学校を受験するならば、自宅で自習するために、2週間以上登校しなくてよい」との許可をいただきました。しかし、3年次の教科書の勉強もできていないのに5年を卒業する生徒と一緒に高校を受験するのは全く無謀で、2年間分以上のギャップは余りにも大きいと、受験を希望する者は誰もいませんでした。
インB 高校はどこでしたっけ
山岡 「高校受験の願書を出すならば、学校に来なくて自宅で自習していてよい」というクラス担任との約束を折角いただけたので、そのお礼とお詫びに私は、高校受験の願書を提出せざるを得なくなってしまいました。受験先については、母方の親戚がいる名古屋にある第八高等学校としました。
インA 理科に進まれたのですね。
山岡 はい、私はもともと文科よりも理科の方が好きでしたので、理科を選びました。どうせ不合格なのだからと、合格発表を見にも参りませんでしたところ、叔母から合格したとの祝電を受け取り、入学すべきか辞退すべきか2・3日間困惑しましたが、結局八高理科に入学,急遽下宿探しをすることになりました。
八高では、「指導教官」という制度があり、在学中の3年間(以上)は一切の面倒を見てくださることになっており、在学中の指導教官を生徒が選んでお願いをすることになっていました。湘南中学校で1級上の先輩のお勧めで英語担当のS先生に指導教官を引き受けていただけました。がお願いの冒頭に、「山岡君! 君はね、学力検査の成績はものすごくひどいんだ、進適(進学適性検査)の点が高く、それで入れたんだ、君はよっぽど頑張っても、ストレートで卒業するのは大変だよ」と言われたんです。ご存じのように、進学適性検査は、マッカーサーが旧制の学校制度を廃止・改革するために、文部省に造らせたとの噂があった検査であって、暗号解読など学力と関係ないという試験で、落ち着いて考えていれば誰でも解けるテストであり、2時間?ほど楽しませてもらったテストでした。入学後に八高では、学力と進適と半々の点数を評価したと聞きましたので、指導教官のご忠告がよく解りました。
後日、日大に入学した後に、杉並区の杉並公会堂で「文部省が進学適性検査を継続実施するか否かの公開討論会が開かれる」ので、聴衆の一人として顔出しして来いと某先生から申され、八高で受験したことを思い出していました。
私は湘南中学の4年の終わりの頃でも、数学は未だ三角の勉強が途中であり、微積分などの勉強も終わっている5年生と一緒に授業について行くことは難儀でした。英語も、海軍工廠の工場動員で「英語反対!」と騒いでいたひとりであり甚だ不勉強でした。「飛び級」は損であると痛感させられましたね。四修(旧制中学校の4年修了後の飛び級)で八高に入学してみて、ドイツ語、体育、国語、社会、地学、無機化学の実験などは同級生と同じスタートであり、四修でも五卒と比べてハンデが少なく、同僚と一緒に勉強する意欲が出ましたし、まあまあの成績を評価されたことを今でも覚えています。学習のスタートラインが同じである科目は好きでありましたね。という複雑な気持ちで3年間の高校生活を過ごしましたが、幸いにして新制大学へと学校制度が変わり、「新制大学に旧制高校の生徒を残し難い」とトコロテンで?、お情けで八高を卒業させていただいたのだろうと思っています。
他方,八高理科に入学早々に、先輩集団から「お前は湘南中学の卒業だろう、蹴球部に入れ」と勧誘され、サッカー部の部員にさせられました。その部長は、五高から東大心理を卒業された阿部芳甫先生(あべちゃん)でした。前記の指導教官のS先生(さとうくん)と蹴球部の阿部先生とは、私にとって父親以上の生涯の偉大な恩師がたであります。旧制高校の先生と生徒との関わりかたは、私の日大と学生たちとの交流の在り方や、さらに日大を退職後も延々と続いている卒業生たちと私との人間的な在り方に、大きな要因になったと思っています。
八高理科を卒業する際に、一応医学部を受け、矢張り一浪しました。翌年は、今度は新制大学の入試を受験するので、新制の学科試験を勉強しなければならない、外地の大学から引揚げてくる人が多いので、特に医学部の受験希望者が非常に多い、私は臨床医学を望む気は余りない、新しい領域である放射線医学に行く気はない、など躊躇していました。そもそも八高生の頃に、友人たちと「生と死との境界は?」とか「意識・記憶・感情などの機能は何時頃から始まるのか?、またその座はどこか?」などと語ったり、そのことを書いた本を京都まで探しに行ったりしていました。動物学の先生で発生学を黒板に書きまくった先生(おさかな)の迫力の影響もあったのかもしれませんが、結局自分の疑問は全く解決されないままでした。一浪の終わりころ、ある親しいおばさんから「淳ちゃんが昔から疑問としてきたことは、医学部ではなくても、日大の心理学で取り扱っていて、脳の勉強もできるそうだよ、そこ(新制)の3年次に入れるそうだよ」と言われたんです。「脳? 文学部で? 文学部で脳をやるの?」、「一浪しているが3年に入れるらしい」と何故そんなことを御存じであったのか?と驚きました。「ただし明後日が願書締め切りだ」と言われたんです。生死、文学部、脳,三年編入など自分の脳の中の整理がつかないうちに受験しました。入学手続きをして八高の阿部先生に報告したところ、「日大の渡辺先生の許に行くことは大賛成だが、心理学では食えないぞ!」と一喝されましたが、私が医学部を辞めて脳の心理学をやってみようかという転向を聞き,「どうなるかわからないが、やってみるか?」とのお返事を頂きました。
そもそも八高理科に在学中に受けた阿部先生の心理学では「ゲシュタルト心理学、ヴェルトハイマ―」などを、社会学の先生は「祭りの社会学」などの講義をされながら、「お前らは理科の生徒だから」と気休めのような話し方で言われ続けていました。科目によっては、大勢の「代返」をしながらも、社会学的な講義には関心を持ち、社会を見る眼を育てていただいていました。とはいえ私は、文学部心理学科の学生になった早々であったので、「心理学と脳との繋がり」についての理解は、十分できていませんでした。
日大心理学科3年次に入学し、渡辺徹という心理学ワールドの大ボスであられる老先生のもとに入門できました。先生は片方のお耳がよく聞こえないので、「わしは耳が遠いから解らん!」って、他人の話を余り聞こうとされない頑固な心理学界の大先生で通っていましたね。また、国文学への造詣も深い先生であると言われていましたね。
インB 渡辺先生は着てるものは着物でしたよね。
山岡 講義のときは洋服ですが、夏などの普段の部屋では浴衣で歩いておられました。
気品のある白髪の老教授が冒頭に、「お前、なんで心理学に来たのか」と質問されたので、「生死の境界や意識の始まりなどの疑問」のことを申しあげましたらば、「丁度良い、うちでは脳波計を発注したのに未だ品物が入らない、お前がそれの督促をせよ」と厳命されました。学部3年生になったばかりに、そのとき初めて「脳波計」という言葉を聞きました。三鷹市の三鷹台駅の近くにある三栄測器(当時は三ツ星電気)という木造の日本家屋の工場に、真夏の暑い中を何度か通いました(電車賃は自分持ちでした)。
その年、昭和26年の9月21日に脳波計が入りました。電磁誘導が怖いので、筐体はチーク材の木製で、大きなGT管の真空管を使った回路、バッテリーと積層電池を使った直流電源による大きな装置です。見た目は幼稚園のオルガン風でした。筐体は6チャンネルですが、予算の都合で最初の回路,中身は2チャンネルでした。運送中の振動を避けるために、三鷹市から水道橋までリヤカーを使って静かに運搬。リヤカーのエアを抜いて、そろそろ運んだそうです。
40名くらいが入れる講堂に担ぎ込まれたのですが、講堂にはコンセントがないので、仕方がないから天井からぶら下がっている電灯の裸電球を外し、そこから電気のコードをぶら下げて電源としたんです。シールドルームもハンダゴテも何もない。法・文学部の事務局に行くと、「お前! 心理学の研究室では謄写版を使って、アンケート用紙の印刷をするのが研究なんだよ。藁紙(ざらがみ)以外は何もあげない。ハンダゴテなど要らない.なくて良いんだ!」と追い帰されてしまう始末でした。
仕方がないから、バイトで稼ぎ、ペンチやスイッチなど工具類を揃え始めましたらば、「学術会議が来月の某日に、脳波研究の現状査察に来られる」という情報が入りました。日大心理学の脳波室を含め、現在稼働しているといわれている都内4か所の脳波室を巡回するのだそうです。「日本での脳研究が遅れているのは、脳波の記録ができないためである」といわれていたとか。当時は確かに、「日本国内の脳波計では、交流波形や電源が不安定なための雑音ばかりで、脳波波形にならない」と噂されていました。私は八高理科に在学中に、基礎的な三極真空管の実験程度ならばやっていましたが、マイクロボルト・レベルの低周波波形の記録の経験は全くありませんでした。しかも、シールドレスの状況での記録などかんがえたこともありませんでした。査察を受けることになり、早急に講堂の隅にコンセントを取り付け、コードのパイプをシールドし、建物の外に第一種アースをとっていただきました。当日に、日本の最新の若手脳研究者の集まりであった「脳波研究班」(生理学、精神神経科、脳神経科、電気工学が主力)の査察のお蔭で最低の工事は何とかしていただきました。他方、電極、電極固定具、電磁誘導を遮断するための工夫や部品などは、すべて自分で、独りで、試行錯誤するしかありませんでした。シールド工事については、全く考慮していただけず、シールドの有無も申しあげないままでした。
十数名の若手教授から助手の先生方が査察に来られ、北大の生理学の藤森聞一教授が被験者になって脳波を記録しました。日大心理の次の査察先は都立松沢病院の脳波室で、そこの会議室で4か所の脳波波形の比較検討がなされ、私はそこで後ろからそっと見学させていただきました。数名の方々が、「これ(日大)だけは本当の脳波波形だ、あとはキレイそうに見えるが、雑音だらけである!」との評価をされ、自分ながらホッとした覚えがあります。その場以後、日大の脳波計は「木製号」と称され、「山岡は木製号の付属品だ」と自称しています。しかし、シールドレスで記録した脳波、電極装着部位の毛髪を切らない、剃らないで記録された脳波、それは脳波とはいえないという批判を受け、その研究結果は信用できない、と大声で評価された時代がありました。吾ながらその方々からの批判によく耐えていたと思います。その「苛め」は、医学からが強かったです。
インA 先生の卒業論文も、「人格と脳波」ですね。
山岡;はい、そうです。渡邊徹先生は、心理学概論の授業もやっておられましたが、どっちかというと、人格心理学と民族心理学で、人格心理学、パーソナリティが専門であられたように思います。私自身は、疲労とかポリグラフィックな実験研究をしたかったのですが、先生から「とんでもない、人格以外はダメです」と一蹴され、「お前は俺の言う通りにやれ」と決められたのが「人格と脳波」という主題で,キプレスの躁鬱・回帰性、ユングの向性、サーストンの神経質の三紙筆検査の結果と脳波(α波)の波形との関係が卒論になりました。ポリグラフィック研究についても、脳波をまともに描けないのに他の現象との同時記録をやるなんでとんでもない、と一蹴され、内々に自律神経系機能と脳波との関連性の実験を時々こっそりとやっていました。
インB その当時はどうやって脳波をとってたんですか?
山岡 当時の常識は,電極を着けるところを鋏で切って剃って着けたんです。だから、御茶ノ水駅のホームに、たまに、毛髪の数か所が丸く剃ってある男性を見かけたことがありました。今時、そんなことをしたら、人権問題になりますよね。
心理学科に入学して一年余り経った4年生の夏に、国家公務員の六級職(今でいう上級職)を人事院などから、「受けろ、受けろ」と言われて、大脇先生の心理学概論の本を買い、何とか受かりました。私自身は運輸省に入りたかったのですが、その年は採用がないといわれ(運輸にはいれば汽車賃が楽になる?)ました。私の知った限りでは、法務省矯正局で、数十名の応募者が集められて、東京少年鑑別所の技官一名のための面接試験であったと思いますが、3月下旬に「辞令を渡すから東鑑(東京少年鑑別所)に来い」と言われました。そしたら渡邊先生が「何? お前は心理学の勉強は殆んどできていない,とんでもない、直ぐに断れ!」と一喝され、その夜、その鑑別所の課長宅に伺い、辞退を申し出ました。課長は「渡辺先生が仰ったらば仕方がない」となりました。がその直後に、法務省が脳波計の第一号を購入することになっており、脳波記録の経験者を技官として採用することになっていたとわかりました。そして四月から毎週一度、脳波記録と資料整理のために鑑別所に来所せよ、とお声をかけてくださいました。がその話の続きがあり、「脳波計の納入が暫く遅れる、その理由は、脳波室に予定している独房のドアーの幅が3センチ小さく、脳波計が入らない、厚い壁を壊し、脳波計を入れてからドアーを埋め戻さなければならない、工事が1か月以上かかる」という事態になったと言われました。やっと脳波が記録されましたらば、実は裏話があり、脳波計の金額は高額なために、脳波計は非常持ち出しの扱いであり、その旨が責任者名2名の名前を付けて入口に貼ってありました。しかし万一火災などになっても、ドアーが狭く、搬出できませんから、非常持ち出しできない、その責任技官は脳波計と心中となるね、と笑い話をしていました。
それから数年たって、日本赤十字病院でも日赤の第一号脳波計を入れることになり、脳波室の場所、シールドルームの仕方など、留意事項を聞きに日大心理学実験室においでになりました。年賀はがきのお玉年でできた「小児麻痺センター」の一室でしたが、大変気を使って完成された検査室であり、感心しました。近郊や地方からの患者が多く、年間3千件以上の脳波検査がありました。そのうちに全国的に脳波記録をする病院や相談所、さらに研究所などが多くなり、医療としての脳波検査の技師の資格や医師法との問題などが起こり、諸官庁などとの話し合いにも関わったことが多くありました。
インA その間の身分というのは、非常勤だけで、大学に籍を置かれて。
山岡 大学を卒業し、大学院前期課程の学生となり、直に副手(無給)になりました。日赤病院では、昭和35年3月31日発令の嘱託の辞令をいただきましたが、東京少年鑑別所ではフォーマルには無給(六級職は辞退した)で、飲み会などではタダ飲みさせていただいていました。要するに私は、脳波計の付属品に過ぎなかったのですが、他の医療刑務所などから、また神経生理学の病院・研究機関などから、心理学出身である私に、臨時にお声をかけていただくことがありました。
インA なるほど。この時期に小保内先生などと共同で研究をされていますね。
山岡 小保内虎夫先生は、日大の心理学科が大正13年に創設された時から感応理論に基づく実験心理学の講義をされておられ、晩年は日大教授でした。感応理論を標榜されておられ、脳波研究に関心が深く、専任である東京教育大学の心理学科の学生たちに、脳波研究を勧めておられました。そのお蔭で私は、金子隆芳先生など懇意にさせていただけました。
渡邊先生のお人柄から、日大心理学科に専任としてお迎えできた方は多く、教育心理学と統計法の田中寛一先生が、唯心論の千葉胤成先生、因子分析などの古賀行義先生が専任教授として指導をしてくださいました。非常勤講師ではありましたが、電気生理学の小溝協三先生(東大の橋田生理の門下生で時実俊彦先生の兄貴株)は私の研究の全面的指導をしてくださいました。またゲシュタルトの盛永四郎先生、犯罪心理学の植松正先生も個人的に助言をいただいていました。
渡邊先生が脳波を導入しようと、日大医学部生理学の円谷先生に相談をされたらば、小溝先生を推薦されたそうです。そこで渡邊先生が武蔵小金井で、小児科・内科を開業されている小溝医院の庭に突然に訪問し、電気生理学の講師を依頼されたそうです。ステッキを持って中折れ帽子をかぶったご老人が草むしり中の畑に立って、「わしは耳が遠いが非常勤講師に来てくれ」と仰ったそうで、小溝先生はそのお姿に大感激して即刻引受けられたと、何度も話されていました。渡邊先生のお人柄の一面だと思います。
インA 大学時代は、卒業論文以外にはどのような授業がありましたか?
山岡;大学院の授業の一つに電気生理学という科目がありました。大学院の同級生たちは、電気のデの字も嫌いだけれども、小溝先生の話は皆喜んでいました。カエルの解剖も面白がりました。前の週に、カエルを買ってこいと言われましたが、本郷の実験動物の店に行く電車賃を節約して、後楽園の池でガマカエルを捕まえてきましたらば、「神経系が違うから代りにならない」と大目玉を食いました。解剖後の始末をして置け、と申されましたが、水道橋の辺りには動物の死体を埋めるような場所がなく、仕方がないから、大学の総長用公用車の車庫の屋根の上にポイッとしたこともありましたね。「文学部ですから仕方がない」では言い訳になりませんね。
インA 大学院時代も、副手の仕事をされながら、研究を続けられて‥‥‥。
山岡 脳波の記録が私の本職です,綺麗な、雑音のない脳波を。修士課程に入り、意識の始まりは何時か?の疑問を思い出している内に、新生児や乳児の脳波に関心を持ち始めました。木製号と称される脳波計は予算の都合で中味2チャンネルでしたが、中味は6チャンネルの新しい金属製の脳波計(当時は8チャンネルが標準なので2チャンネル分が空っぽ)が購入されました。一時的に2チャンネルの木製号と6チャンネルの脳波計都が実験室に存在し、邪魔になりました、そこで丁度良いからと、2チャンネルの木製号をトラックで大学から外部に持ち出すことを企画しました。小溝先生のお蔭で、麻布の愛育病院に木製号を持ち込み、乳児の脳波記録をしようとしたのですがダメでした。すぐに、世田谷区にある都立未熟児センターをご紹介いただき、ここに木製号を移動し、センター長の「未熟児の脳波研究」のお手伝いをするために、未熟児の出産を待ち続けました。公には言えませんでしたが、産婦たちには内緒です。というのは、「脳波をとる」は「撮る」ではなくて、「盗る」とか「捕る」と誤解されて、記録を拒否されてしまいます。まして、産まれて産湯直後の未熟児の脳波をとるなど、言語道断です。産院に行くと,「今日は一人産まれそうですよ」と言われて待っていますと、なかなか産まれない、仕方なく帰宅し、翌日参りますと、「昨日帰られたらば直ぐに産まれましたよ」ということがよくありました。ここで記録された脳波の資料が、私の修士論文になったのです。
私の学位論文は、学部学生時代からの夢であった「瞑想の意識的変動をポリグラフィックに表現」することであります。脳波波形を記録することを始めるとともに、意識を客観的に表現することを試みたいと思っていました。昭和27年に日本心理学会大会が日本大学で開催された折に、京都大学の佐藤幸治先生が座禅の心理学を研究されていると私に申されたので、そのことに強い関心を持ちました。その直後、東大精神神経科の笠松章教授以下のグループが、座禅の脳波について大規模な実験的な研究を始められましたが、ひとりの大学院学生の研究と東大教授がたの総合研究とは比較にならないと思っていました。そこに、たまたまヨガの出版社から座禅の脳波の原稿を依頼され、それを縁に、ヨガの修行者を被験者としたポリグラフィック実験をささやかながら行ない、その結果を投稿しました。
インA 「ヨガ瞑想の生理心理学的研究」というご研究ですね。
山岡 うん。ポリグラフィック実験としては最新の実験的研究であったと思います。新皮質の頭皮上の電気生理学的研究である脳波だけではなく、辺縁系、脳幹部の機能との統合的・総合的な考察をするべきであるとかねがね痛感していました。前記したように、瞑想、座禅のポリグラフィック実験を夢見ながら、実験場に恵まれず、なかなか進みませんでしたが、海馬や前皮質が人間性にとって重要な機能を持っているのではないかとの空気が広がってきましたので、私の全人的心理学とか統合的心理学という語を強調し易くなってきたように思います。看護の世界ではすでに、全人看護が重視されてきました。統合医学という語が近年耳にされるようになりましたと同時に、鍼灸、催眠、気功、漢方など、代替医療が話題になる時代になりましたね。私は統合的医療という観点からも、望ましいことだと思いますね。
インA ありがとうございました。ご研究の話はお話しいただいたと思いますが、心理学の流れについて感じたことなどありますか。
山岡 私、一つ申し上げたいことがあります。心理学は今、単科学会が50くらいあるんだそうですけれども、医学の世界はさらに典的ですが、往年は幾つかの少ない章や分科に分かれていましたのに、近年は多くの科にどんどん細分化されてしまいました。現実にあった話ですが、ある若い医師が「私は消化器の医師といわれますが、実は、食道の、それも入り口の辺りの専門ですから、胃や腸などは解りません」と自己紹介されました。「臨床医は人間全体を理解するという姿勢を持っていただきたい」とかねがねお願いしてきました。心理学も、知覚・学習・性格・社会などと専門化するとともに、分科しっぱなしでなく、全人的に、統合的に理解するという姿勢を持つべきであると強調したいです。もっとも私自身、心理学を始めた頃は、生理心理学と称し、生理と心理との関連性を中心に眺めてきましたが、近年両者の他に、スピリチュァリティーの次元も加えるべきであると強調しています。ただし、この日本語については、宗教とか霊魂ではなく、他の適切な語がないか、と迷っているところですが。
日本は島国であったお蔭で、日本固有の文化を持ってきましたが、国土が狭いのにも関わらず、南北に長い国なので、多種多様な文化・文明・産業を持って来たと思います。剣道、柔道、弓道などの武道、茶・花・書などの道、その他日本芸術など広義の「道」を見直し、平素の日常生活の中に導入すべきであると思います。
終戦後、アメリカ心理学化したために、「質と量」のことが放置されてしまい、「統計・推計」に振りまわされてしまっていると懸念しています。特に後者については反省の姿勢を持って、是非再考してほしいと思います。と同時に、「資本主義と共産主義」、「男性と女性」など相対立するもの同志の共存・調和を認めるべきであると思います。一方だけになると、偏重してしまいますので。
インB 先生は脳波学会にも関わられておりますが,やはり医者が多い?
山岡 日本の医師法は、諸外国に比して非常にオールマイティですね。近年、医師の数が多くなったとともに、看護師、薬剤師、臨床検査技師など、医療系の技師の種類も多くなりましたね。それに伴って、体育学領域の出身者が、リハビリなど医療の領域に大勢進出してきていますね。私は大学院の後期課程に入った昭和30年春から、日本女子体育短大・日女体大で45年間非常勤講師をさせていただいてきましたが、そこは幼児、舞踊、芸術などの体育が特色であったこともあり、少しでも身体に関するような仕事については、体育出身者がどんどん進出していますね。好ましいことだと思います。以前、意識レベルの実験の一つとして、柔道の絞め技で「落ちる」と脳波がどう変わるかという実験をしました。私は柔道は未経験でしたが被験者になったら、簡単に落とされて、立派な脳波変化を記録できました。その実験結果が新聞に報道されて、高校生では絞め技は直ぐにご法度になりました。心理学領域の出身者は、どうも遠慮勝ちなのか、躊躇してしまうのか、資格制度の改革とも併せて、積極的に研究領域を拡大して欲しいと思いますね。
インA ありがとうございました。他に学会の理事を通して感じられたことなどありますか?
山岡 心理学の資格制度の問題ですが、臨床検査技師の資格制度の業務独占を実現されたように、心理学界でも業界が一致して、団結して、諸官庁と協力し立法すべきだと思います。内部で相互に発言し合うばかりではなく。本当に残念でなりません。相互に対立し合ったりしないで、心理屋さんは、自分の性格を見直して欲しいですね。
インA ありがとうございました。いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか。
山岡 どうぞどうぞ。
荒川 37歳のとき、昭和41年の時に、ウィーン大学に留学されていますね。なぜローラッヘル先生に。
山岡 昭和36~37年の一年間、日本大学から長期留学を命ぜられ、ウィーン大学神経心理学研究所のローラッヘル教授にお世話になりました。
これはね。昭和39年に日本大学に長期留学制度ができて、14学部から、年間6名を留学させることになりました。その翌々年に、文理学部から一人海外留学させる、山岡をと、突然に学部長から申されました。脳波の実験、特に心理学領域で脳波の記録、特に性格と脳波について、ローラッヘルの名前は前々から知っていましたので、即座にウィーン大学の名前を申し上げましたところ、「音楽を聴きに行くのではない、心理学の勉強に行くのだよ」と反応されましたが、ウィーン大学に行くことを承認していただけました。
教授は人間の脳波と性格との関係を調べた最初の研究者であり、その後脳波の記録中に偶然に皮膚のマイクロバイブレーション(MV)を発見(それと同時に日本で稲永・菅野両氏がその発見をされた)されたかたです。ウィーンでは脳波計を使って、こまごました小実験の抄録を提出してありましたので、マイクロバイブレーションの共同研究をさせていただくことになりました。私の留学中は、まさに東西冷戦の最中でしたが、共産圏諸国に自由に往復したオーストリアでの生活経験とそこで得た世界観は、私の生涯の在り方に大きな影響を与えました。教授が、「日本での脳波の研究は解った、折角、ウィーンまで来たのだから、欧州人と大いに接触せよ」と研究室を与えてくれ,数年前のポンコツ車を駆って、イタリーやドイツ、隣の共産圏諸国などを散策できたことを今でも感謝しています。帰国直後から暫く経験した全国的大学紛争や京浜安保などとの対応にも大変参考になりました。
インA 紀要にそのマイクロバイブレーションのアイデンティフィケーションについてまとめられたわけですね。そして、その年の日心の32回大会で、その生理心理学懇話会の話が決まったわけですね。
山岡 そうそう、偶然にね。東京教育大学を会場として日本心理学会大会があった時に、今でも会場の様子を覚えていますが、岩原信九郎先生と新美良純先生と私の三人で、こういう学会を作ろうよと。ただし、学会は形式ばってるから懇話会とし、裏話ができる、自由に話し合いのできる集まりを、年間に何回でもやりましょう、ということで始まったのです。私が3回目をやろうとしたらば、あちこちのキャンパスではバリケートで閉鎖されてしまい、虎ノ門の共済会館の小部屋で開催しました。岩原、新美両先生のご貢献は大きいですね。
インA なるほど。はい、ありがとうございます。
インB 先生、一番最初に脳波計を渡邊先生が購入されたということでしたが、渡邊先生って私の中では全然生理心理のひとではないんですが、なぜ脳波計を使おうとしたっていう話をこぼされてませんでした? 何か。
山岡 それね、渡邊先生は、心理学は全人的だっていうことを考えておられていたと思うんです。渡邊先生の概論には、八方面というのがあって、いわゆる生理心理学的なものも考えておられました。ご本人は医学部に行く気があったが、血を見るのが嫌で,医学部を辞めて心理学にした、と時折話されていました。医学部系の大学や病院では脳波の記録をするも困難な時代に、文学部の心理学が脳波計を設置するという意欲は、通常考えられませんね。無謀といわれるくらいの先生ですね。福島生まれですが、鹿児島の第七高等学校(造士館)から東大に進まれたのです。
心理学の研究に脳波を導入するべきだと思ったが脳波計を購入する予算がないと、渡邊先生は、学債を募集することを大学当局に交渉され、6チャンネルの脳波計に当面2チャンネルの回路を持った脳波計を発注されたのです。昭和1952年の日心の第18回大会で「人格と脳波」と題して口頭発表されました。
これは山岡先生がされた研究を発表されたのですか?
山岡 ええ、私が記録した脳波のα波の大きさについて発表されました。私が知る限りでは、日本心理学会で脳波の題目について発表されたのは、大脇義一先生の「脳波による連想過程の諸段階の研究」もありましたが、実験的ではありません。因みに、大脇先生は東北大学の心理の教授で、東北大の生理学には本川弘一先生という大御所がおられ、日本の脳波のメッカでした。
渡邊先生は口にはされなかったですが、綺麗な脳波波形を記録できたことを内心喜ばれていたと思います。日大で日本心理学会大会を開催した折や来客があった折には、脳波記録の状況をお見せしておられました。お蔭で、文学部の事務局も、木製号のバッテリーだけは快く購入してもらえました。
インA なるほど、ありがとうございます。では、時間もそろそろですので、止めたいと思います。どうもありがとうございました。