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山本 多喜司先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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山本 多喜司先生の略歴

・広島大学、人間・環境学会(MERA)、健康心理学、古賀行義、ワープナー
・1951年広島文理科大学教育学科心理学専攻卒業。広島大学教育学部教授、早稲田大学人間科学部教授。1971年米クラーク大学へ留学。人間・環境学会(MERA)創設世話人。博士論文「空間体制化の有機体発達論的研究」。
・復員後、小学校教員として学業不振児を教える中で心理学が必要と感じ大学へ進学しました。恩師である古賀行義との思い出や、クラーク大学でワープナーに指示し研究したこと、大学紛争で苦労したことが心に残っています。本明寛を中心に健康心理学を発展させ、心理学の発展を支えました。

日時:2014年10月28日(火)
場所:武蔵野美術大学新宿サテライト
インタビュアー(以下、「イン」と略) よろしくお願いします。ではまず、先生が心理学を学ぶまで、なぜ学ぼうと思われたかをお聞かせください。

山本 私の兄が小学校の教員をしておりまして、私は小さいときから、兄のような、学校の先生になりたいと常々思っておりました。奈良県師範学校に入学いたしまして、そこで、京都大学の大学院を出た、大西憲明という先生が、「精神薄弱児の心理」という講義をしておられるのに出会ったわけです。昔のことで、内容はあまり覚えておりませんが、一つ思い出すのは、知恵遅れの子どもは割合頑固で、強情で、一つのことを繰り返し実行したり、行動したりする、固執傾向が強いというお話をいただいたのが印象的であります。
 その後、私が師範学校の高学年のときに戦争がだんだんと激しくなりまして、学徒出陣で、熊本陸軍予備士官学校というところで軍事訓練を受けることになりました。ちょうど熊本が、B29の爆撃によって町が全部灰じんに帰したというところで、火消しに動員されたこともあります。昭和20年8月15日、日本が連合軍に敗れたことについて、天皇陛下が宣言なさった。有名なラジオ放送は、軍隊でありますから聴いていないのですけれども。
 月末に郷里の奈良に復員いたしまして、そしてすぐ卒業ということになって、9月1日から、奈良市の郊外にある、小さな小学校の教員に任命されたわけです。私が担当いたしましたのは、男女合わせてちょうど26人のクラスであります。その中に、ケンちゃんという、1人の、知恵遅れと申しますか、学習が不振な子どもさんがいたわけであります。私はこの子をなんとか少しでもできる子どもにしたいと思いまして、軍隊教育と同じように、月月火水木金金と鍛えれば覚えるだろうと思って、放課後に残して特別指導をやったのですが、一向に効果が上がりません。こちらもいらいらするものですから、怒鳴りつけたりすると、「先生、そう怒るなよ。怒ったら、余計分からんようになるよ」と言って、「ああ、俺はいらいらしてるんだな」と思って、負うた子に教えられるような思いがしたわけであります。そのようなことで、これは心理学を勉強しなければいけないと思ったのが動機であります。
 ところで、どこでどう心理学を勉強したらいいかという情報が、軍隊から帰ったばかりですから、よく分かりません。いろいろ情報を集めていたら、奈良師範学校の先輩で、広島高師から広島文理大の倫理学専攻を卒業した人がいまして、その方が吉野で中学校の先生をしておられたわけです。私は、その先輩に、広島の大学の様子を聞こうと思って、訪ねていきました。倫理学と心理学は文学部の中でも非常に近いから、よく知っておられまして、「心理学には、古賀行義先生という、すごく立派な先生がいらっしゃる。君、ぜひとも広島へ行け」と言って、激励を受けました。そして帰りに、広島の心理学教室を創設された、久保良英先生の『心理学要論』という書物を1冊貸してくれました。新しいノートなどは、戦争末期はとても手に入らなかったので、いわゆるわら紙をとじてノートを作って、そこへその『心理学要論』の概要を写し取ったわけです。そうすると、心理学概論はこのようなものだということが、大体分かったわけです。
 ところが、今度は語学です。「英・独・仏の一つを選んで受験せよ」と書いてあるわけですが、独・仏など及びもつかないことで、英語はさて、戦争中、英語の授業はほとんど受けていませんでした。特に日本の教育を担当する教員養成の中で、敵性言語をやっているということは、やはり肩身の狭い雰囲気があったのでしょう。今でこそ、敵性言語だからこそ皆に教えて勉強させるべきだという理論も成り立つわけですが、私は本当に勉強しておりません。そこで、さあ困ったなと思って考えて、いろいろ情報を集めていましたら、奈良の近くに天理市がありまして、天理教のあるところです。その天理教の天理外語専門学校というところがありまして、戦後、そこで夜間クラスを開設しているという情報を得たわけです。そこで、昼は小学校の教員をやりながら、夜は英語クラスに出席して、なんとかまがりなりに、受験勉強をやったということであります。
 そのようなことで、昭和23年に私は文理科大学に入学したわけですが、昭和23年2月頃に試験があったわけです。試験は、心理学概論の試験と英語を受けたわけです。心理学概論は、久保先生の本を読んでますから、大体大丈夫です。しかし今、思い出して、やはり間違っていたなというのは、「次の項目について説明せよ」という項目の中に、「無心像思考」というものがあったわけです。無心像思考は書いていなかったわけです、私が読んだテキストに。だから、「心像を伴わない思考方法である」と書いたのですが、その歴史的概念などは全然知らないから、間違いだったわけです。それから英語の方は、できたわけではないでしょうが、まぐれ当たりで、なんとか入れてもらった。
 その頃、やはり、若いわれわれ世代はほとんど、学校では勤労動員や、軍隊へ行ったりして、まともな勉強をしていないのです。われわれの年代の日本心理学会の理事の人と話して、「俺たちは勉強しなかったな」と言うと、「俺もそうだよ」というような時代だったわけです。

イン 勉強をしたくてもできない時代のような感じだったのでしょうか?

山本 できない時代です。皆やはり勉強していないから、なんとか平和になったら勉強したいという向学心が、若者の中で非常に強くなっていた時代だと思います。
 広島大学の心理学専攻は10人前後を募集していたわけですが、試験を受けにいったら、93人でしたか。試験場へ行って、驚きました。

イン 狭き門ですね。

山本 ええ。「俺は、これはもうだめだ」と思っていたのですけれども、まぐれ当たりで、入れてもらったのです。それは、どこでもそうだったようです。
 13人が入学を許可されたのですが、女子が1人、入っているのです。奈良女高師を出た人です。女子が大学へ入るということが、まだまれなといいますか、少ない時代だったわけですが、だんだんそのような兆しが高まってきていた時期だと思います。

イン 先生のように、小学校の教諭をなさって、現職でありながら入られた方は、他にいらっしゃったのですか。

山本 師範学校からストレートに来た人はいましたけれども、現職から来た人は、1人いました。私よりもだいぶ年配で、山口師範学校を出て、中国の小学校の先生をして、もう奥さんも子どももいる人ですが、同じクラスに1人いらっしゃいました。私よりも、五つも六つも年配の人でした。そのようなことが、広島大学に入学頃の様子であります。
 さて、入ってみたところが、文理科大学の建物は、れんが造りの鉄筋の3階建てなのですけれども、中は全部燃えてしまって、がらんどうであります。昭和23年ですから、(終戦から)2年たっているわけです。学校を始めなければならないということで、床は粗削りの板を張ってありますけれども、壁は焦げたままでありますし、天井からは鉄の棒がぶら下がっているという、そのような教室でした。実験室も、同じような、天井から鉄棒がぶら下がっているというような。しかし、戦争の終わり頃になってきて、図書と主なる実験器具は、郊外のキリスト教会の倉庫に預け、さらに農家の大きな蔵に疎開させてもらっていたわけです。それを、戦争が終わってから持ち帰っておりましたから、いわゆる本と実験器具は、避難をしていたおかげで、免れたわけです。それは幸せだったと思います。
 私が入学した頃の先生方はどのような先生かということですが、教授はお二人でした。一人は楠弘ユウ(変換不可能、門構えに右)という先生で、この先生は東京帝大の恩賜の銀時計をもらわれたような秀才だったそうでありますが、私は民族心理学という講義を習いました。しかし、(習ったのは)5、6回だけです。6月頃に、先生は病気でお亡くなりになりました。主任教授は、古賀行義先生。古賀先生も、東京帝大の心理を終わられてから、経済学科をもう1回学ばれたという経歴を持っておられます。心理と経済とを修められたということで、名古屋の高等商業学校の教授に行かれたようでありますが、その後、広島大学に移られた。この先生には、私は個人的にも一番かわいがってもらったし、影響を一番多く受けさせてもらった先生です。
 この先生は、因子分析の、わが国におけるパイオニアであります。名古屋に赴任される前に、アメリカに1年、コーネル大学でLLサーストンと一緒に仕事をしたというお話を聞きました。それから、イギリスに1年、ゴルトン研究所で、身体計測のデータを因子分析されたわけです。その論文が、『バイオメトリカ(Biometrika15.1923)』という雑誌に載っているわけです。
 また余計な話ですけれども、私が助手のときに、古賀先生が学位をお取りになったわけです。大先生が学位など要らないでしょうけれども、日大の渡辺徹先生が、「古賀、おまえ、学位論文出せよ」と言われた。そこで先生は、『バイオメトリカ』に載っている論文を中心にいくつか集めて、私が助手のときに、「これを学位論文にするから、君、2通清書してくれ」という仕事をもらったわけです。
 ところが、これもおもしろい話ですが、因子分析の論文ですから、相関係数がマトリックスであるではないですか。それを入れる際に、学位論文といっても、美濃紙の薄いものにカーボンを敷いて、そして変数20ぐらいのマトリックスをこのように書いていきますと、ずれるのです。そのような苦労をしたことがあります。それが、先生が渡辺先生に出された学位論文です。今、Rテクニックは一般的に使い、またQテクニックを使います。古賀先生は、今から70年も80年も前ですか、「因子分析における逆手の応用」という名前で、Qテクニックを紹介していらっしゃいます。これは、あまり一般の人が知らないことではないかと思います。それが古賀先生です。
 それから、助教授で、三好先生という方がいらっしゃった。三好稔先生。この先生は広島文理大の第1回の卒業生で、ずっと教室に残って、助教授をしておられました。私は小学校の教員の経験があるものですから、三好先生の指導の中で、三好先生が当時、基本的欲求検査という検査を標準化する仕事をしておられて、そのお手伝いをしていたわけです。卒業期になっていきますから、「卒業論文で、小学校の先生が指導上で問題だと思う子どもと、普通の子どもの両方に実施した基本的欲求検査のどこが違うのかということを、君、まとめてみろ」とお話いただいて、「問題行動の心理学的研究」という卒業論文を書いたわけです。それが、三好先生との関わりです。
 それから、新制大学が発足いたしまして、大学院を指導しなければいけないのに、その指導の先生の数が足りないということで、東京から2人の先生がおみえになりました。1人は、高木貫一先生。この方は、戦争中は東京大学で航空研究所の指導をしておられた方で、戦後は、国鉄の労働科学研究所にいらっしゃったわけです。産業心理、実験心理に詳しい方ですから、その先生が広島に教授でみえました。もう1人は、兼子宙先生。この方は、海軍の技術研究所におられたわけです。戦争が終わってからは、人事院の能率局長をしておられた。このお二方が、広島大学大学院の補充といいますか、強化のために、単身赴任をなさいました。私は助手をしている頃でありますから、両先生は朝早くにおみえになって、助手室でお茶を飲みながら、いろいろ、東京の心理学事情を聞かせてもらったものです。同時に、その頃は、昼食会が助手室で、いつも先生方が皆集まるということが、広島の先生と東京の先生が仲良くなって融合して、研究室を運営していくのに、うまくいった理由だろうと思います。
 そのようなことをリードなさったのが、やはり古賀大先生です。古賀先生は、後輩、あるいは弟子が言うのは恐れ多いことですが、非常に人徳のある、立派な先生であります。私は、人間的には先生を見習わなければと、絶えず思っていたわけです。趣味としては、弓を引かれるのです。それから、謡、仕舞。これは金春流です。桜間龍馬さんという能楽師を、若い人でしたけれども、一月に1回、広島に呼んで、「山本、おまえも勉強せよ」と言って、謡の稽古や、仕舞の稽古をさせられたといいますか。そのような指導がなければ、芸能に対して興味はないですけれども。また先生の(自宅の)近くに私が下宿していましたので、日曜日に釣りに行くのに、「おい、行こうか」と言って、先生に下宿へ来ていただいたり、あるいは、「岡山でピカソ展がある。行こうじゃないか」と言って、先生の家族と、教室の連中が皆、岡山へ展覧会を観にいったり、そのような、家族ぐるみで、弟子も組み込んでご指導いただいたというような、教室の雰囲気でした。
 古賀先生について忘れることができないことは、私が助手のときに、先生が古賀式知能検査というものを作られたわけです。それを各地で講演して指導する、実施方法を指導するというような時代だったわけです。小倉で講演中に、先生が胃せん孔を起こして、小倉の国立病院に入院された。予後が非常によくなくて、輸血をしなければならない。戦後ですから、それほど自由に輸血もできなかったということで、若い学生さんにお願いして、小倉まで行ってもらって、輸血をするということの現場監督のような役を、私がさせてもらったことがあるわけです。『中国新聞』で、「愛の献血リレー、1万cc」などという美談として、ニュースになったこともあります。幸いにして、先生は回復された。また、偉い先生だけれども、冗談をおっしゃるのです。「僕は女子学生の良い血をたくさんもらったから、この頃、おっぱいが膨れてきたよ」などと。本当に、淡々とした先生でありました。
 そのようなことや、古賀先生に対する思い出は、先生の近所に、近藤敏行さんという、もう亡くなられましたけれども、分校の助教授の先生がコネチカット州立大学へ留学して、そして、帰ってこられた。最新のジャーナルをたくさん持って帰られたので、その近藤先生と、私と、もう1人、近所にいる、これも亡くなりましたが、助手と、古賀先生と、古賀先生の自宅で、日曜の昼から、分担して、読書会をやってもらった。英語のできない私などはもうひやひやですけれども、それでいろいろ教えてもらった。個人指導のようなものです。有難かったと思います。
 それから、古賀先生については、短歌もお作りになりました。随筆集もあります。『目前心後』という随筆集です。非常に奥行きの深い先生でありました。図書館長をやったり、教養学部長をやったり、日本心理学会の会長もやられました、日本大学へ移られてから、定年後に。大村さんや、山岡さんは、私とは相弟子なのです。広島の同窓会を東京でやったりするとき、学会のときに、日大の人にも来てもらって、そして先生を囲んで、和やかな会を時々やっていたというようなことです。
 
イン 広大は、古賀先生を中心に、すごく家庭的な雰囲気だったのですね。皆さんで、公私共に一緒になって、やっていらっしゃる。

山本 そうです、家庭的なのです。

イン そのようなところで、先生は育っていらしたのですね。

山本 そうです。私は女房まで古賀先生にお世話をしてもらって、その後もいろいろ面倒をかけた。だから、ありがたいと思っています、本当に。

イン なるほど。

山本 クラークの話を、少しさせてください。

イン はい、お願いします。

山本 私は、1971年に、国費の在外派遣の順番といいますか、外国へ行って勉強してこいというものがありまして、どこへ行こうかと思って、考えておりました。いろいろ理由はありますが、歴史的に見ると、久保良英先生は、G・スタンレー・ホール(G.S.Hall)から学位を、Ph.D.を取っておられます。久保先生は、1915年です。それから、私の女房の親父、横山松三郎が1925年にやはりクラークでPh.D.を取って、帰ってきて、慶応大学にずっといたわけです。
 ワープナー(S.Wapner)さんがいまして、ワープナーさんの論文を読んで、彼と手紙のやり取りをしておりました。そのようなことで、「行きたいが、いいか」と言ったら、「来い」という手紙をいただいたので、1971年に行きました。Hainz Werner Institute of Developmental Psychologyという研究所があるわけです。ハインツ・ウェルナーは、ハンブルグ大学でウイリアム・シュテルン(W.Stern)の後を継いで、正教授になった人です。その後、アメリカに亡命して、クラークで先生をやっていたという人です。クラークには、ユダヤ系のヨーロッパからの有名な先生が、心理学に限らず、たくさんいらっしゃるようです。タマラ・デンボー(T.Dembo)さんは、クルト・レヴィン(K.Lewin)の弟子です。この人に、私はかわいがってもらいました。後でまた話します。
 そのようなことで、クラークへ行きましたが、クラークは、ご存じのように、心理学の歴史では、非常に有名な大学です、小さな大学ですが。一番有名なものが、これです。1909年に、G・スタンレー・ホール(G.S.Hall)が総長をやっておりまして、フロイトとカール・ユングをアメリカに招待して、5回ぐらい、講演をやったようです。それはクラーク大学が創立して20周年記念ということで、心理学の講演会だけではなく、他の学問領域の講演会も一緒にやったということで、必ずしも心理学者ばかりではないようです、その他の大人数で映っている写真を見ましても。スタンレー・ホール・メモリアル・ルームというものが今でも残っていまして、それがチェアマンの部屋です。調度品も皆そのままで、古いもので。テーブルのこのようなところが、少しすり減っているのです。ワープナーさんに聞いたら、「スタンレー・ホールがここへ足を乗せて、いつもこのようなかっこうをして本を読んだりしていたので、これは彼の足跡なのだ」ということや、廊下に、フロイトの像が置いてあって、彼は、「これは、有名なフロイトの像だ」と。フロイトがここで1909年に講演したことが、アメリカにおける精神分析の最初であるということで、米国精神分析学会が寄付してくれたという像がありました。これを、学生紛争のときに、学生がどこかへ持ち出して、キャンパスのどこかへ捨てておいた。それを持ち帰って、ここに飾ってあるということを説明してくれました。
 そこで、私の研究との関わりの話をしなければいけません。クラークへ行ったのは、私が外国で勉強する最初です。そして、基本的に英語もきちんとやっておりませんから、会話も不十分な中で、行ったわけです。まず、下宿を探さなければいけないわけです。そこで、ワープナーさんに、「下宿を探したいが、どうしたらいいだろうか」と言ったら、前の日の夕刊を出してきて、丸をつけて、「こことここは大学の近くだから、電話をかけてアポイントメントを取って、見に行きなさい」ということでした。さて、電話のかけ方もろくに知らないような状態ですが、秘書に聞いて、二つ三つとかけて、時間をずらして。そして見に行ったのですけれども、大体、スタンダードが分かりません。値段も分からないし、部屋も、これでいいのかどうか。「ちょっと一晩考えさせてくれ」と言うと、「だめだ」と。「君がノーと言うのなら、次のお客に会うのだから」と。仕方がない。「ノー」と。また次に行く。結局、分からないから決まらないということで、夕方に戻ってきて、「どうだった?」とワープナーさんが言うから、「だめだったんだ」と言ったら、「また明日行けばいい。君、今日行ったところの地図を、大学を中心にして、どう行ったか、描いておきなさい」と言うのです。「描いておきなさい」と言っても、初めての町を、どこをどう行ったのか分かりません。だけれども、描いて。「これから毎日、あなたが歩いたこの近辺の町の、認知地図を描きなさい」と。変なことを言うなと思ったのですけれども、しょうがないから。そして何日目かに、ワン・ベッドルーム・ウィズ・ファニチャーで立派なところが、目も肥えてきたから、女房が来ても泊まれるだろうというぐらいの部屋でということで、決めました。認知地図を私に描かせたのは、その頃、アメリカで、環境認知の研究というものが台頭し始めていたわけです。大体、初めての町の認知などというものは、非常に単純にしか書けないではないですか。それがだんだん複雑なものが分かって、全体の町の構造が分かってくるという。これが、部分から全体へ体制化していく、プロセス・アナリシスなのだと。そのような目的で、私に認知地図を書かせたわけです。後で聞いてみると、いろいろそのような研究が、当時、出ていたようです。ちょうど、私は、よい、ナイーブな被験者だったわけです。
 そのようなことで、さて、何を研究したらいいかということであります。確かに認知地図の発達はおもしろいわけですけれども、小学校の子どもを大学まで連れてきて、そのようなことをやらせたりすることは、セキュリティーを保証しなければいけないし、とても新米留学生のできることではないということで、ネズミを使ってやろうかということになったわけです。私は、ラット・エクスペリメントなどは、やったことがありませんでした。ところが、どうだろうかという話になって、そして、ラットはたくさん飼っていますから。迷路ではなく、オープン・フィールドにおける、ラットの行動を観察する。このテーブルの倍ぐらいの大きなテーブルに、いろいろファニチャーのようなものを置いて、回転ホイールで、ネズミが遊ぶようなものがあるではないですか。あのようなものも置いて、一つのコーナーからネズミを放して、どのような探索経路を取るかということを、トップからビデオで撮るということをやったわけです。それなら、試行を繰り返すに従ってだんだん拡大していくし、そこで、近くの場所に停留する時間は長いが、遠いところでは少ないなど。慣れた環境の中の、オブジェクトをリアレンジして新規な環境にした場合に、どのように行動が変化するかというような研究をやったわけです。
 そのときに、タマラ・デンボー(T.Dembo)が、実験室で遅くまでやっていたら、やって来て。私は昔、オープン・フィールドといっても、このように構造化されたところではなく、野原のようなところでネズミの生態的移動行動を研究したことがあるということで、非常に興味を持って、以後、いろいろと指導してくれました。良いおばあさんだったです、デンボーさん。そのような思い出もあります。
 そのような研究が中心になって、帰ってきてから、「学位論文を書け」ということで、「有機体発達論に基づく行動の変化」という論文を、学位論文にしたわけです。

イン その論文が、昭和50年の「空間体制化の有機体発達論的研究」でしょうか。

山本 そうです。そのようなことから、教育心理学的なものに最初は興味を持っていたのですけれども、だんだん環境心理学がおもしろくなってきたわけであります。それで、毎年のように、夏休みにワープナーのところへ行っていろいろと話をしておりました。1979年に、行くと、「うちに泊まれ」ということで、いつも泊めてもらっていたわけです。そのときに、「日本に環境心理学会はあるか」と言うから、「いや、ない」と。「それなら創れよ」ということで、「創れよと言ったって、簡単じゃないじゃないですか」と言うと、「それでは、誘い水として、日米セミナーというものを東京でやろうではないか」という話になったわけです。そのときに、アメリカの環境心理学の代表的なイッテルソン(W.H.Ittelson)や、ベヒテル(R.Bechtel)や、アルトマン(I.Artoman)など、そのような人に電話をかけて、電話会議をやったわけです、いつ頃の期間がいいかなど、いろいろと。大体の話がまとまって、私は、そのようなものを持って帰っても、1人でできるわけではないですから、当時、萩野源一先生が、広島大学を終わってから、日大の大学院で指導をしておられて、日本心理学会の会長をしておられたので、先生に電話をかけて、「このような話を持って帰ったんだけど、どうだろうか」と言うと、「それはおもしろい。やろうじゃないか」と言われて。そして日大では、亡くなった浅井正昭さん、あの人は英語がよくできる人だったのですが、その方が、援助といいますか、サポートをされて、日大を中心として、東大の建築、社会学という人たちに呼びかけて、環境心理学のシンポジウムをやったわけです。それが動機となって、1982年に、Man-Environment Research Associationという、MERA(メラ)という環境心理学の学会が、日本にもできて、今でもやっているわけです。これが創刊号です。
 同じような学会が、アメリカにはEDRAというものがありまして、Environmental Design Research Association。ヨーロッパには、International Association for People and Physical Environment Research(IAPS)という、同じく環境心理学の学会があります。それからオセアニアに、やはり同じような学会People and Physical Environment Research(PAPER)があります。このような学会が、自分のところの大会を開くときに、相互に連絡をして、メンバーが好きなときに行けるようにという交流計画ができたことが、大変うれしいことでありました。
 それからもう一つ、クラークの中では、Takahashi Student-Scholar Exchange Programというもの、この話を少ししましょうか。

イン はい、お願いします。

山本 何回目かにクラークに行っておりますときに、クラーク大学の理事にミセス・ヒギンスという女性がいらっしゃいまして、その人の旦那さんが、ノートン・スチル・カンパニーという、鉄鋼会社の社長をしていたわけです。ニューイングランドスタイルのすごい家に住んでいらして、私も何回か招待されて、「ああ、すごいなあ」と。テニスコートもあるし、プールもあるし、驚きました。そのような方と少し親しくなったわけです、パーティーごとにお会いしますから。広島から来ているということも、だんだん分かったわけです。広島と呉の間にクレトイシという工場があって、それがノートン・スチル・カンパニーと提携したか合併したかになって、あるとき、クラークにいくばくかの寄付をしてもらうことになった。何がいいかということになったら、「体育館か何かにしてもらおうじゃないか」という話になったそうです。ワープナーが、「広島だから、おまえも1枚かめ」ということで。ところが、クレノートンは、「体育館など、とてもじゃないが」と思っていたわけです。そこで、エクスチェンジ・プログラムなら年間何百万かで済むわけですから、そのような話を、クレノートンの社長の高橋さんという人としたわけです。そうしたら、「先生、それでいきますから、よろしく」と言う。ワープナーも、それをサポートする。そして、このようなプログラムができたわけです。そのおかげで、私の大学院で指導した人が、十数人留学生として行きました。それから、(日大の)浅井さんが、「山本君、うちにも回せ」ということで、「もちろん、それは結構なことだ」ということで、日大からも数人行っています。そのような交換プログラムができた。これは、クラークにとっても、日本の大学にとっても、良かったことだと思います。
 もう一つ、私の後半の研究の中で、非常に大きな意味を持ったものは、健康心理学会との出会いです。早稲田に定年後に参りまして、本明寛先生、この先生も日本心理学会の会長をなさった先生です、この先生と一緒に、健康心理学会を創るという設立に参加させてもらったわけです。もう既に故人ばかりですが、本明先生をサポートした連中の中には、横浜国大の間宮先生、筑波の内山喜久雄先生、それから、関西の社会心理学の木下冨雄さん。木下さんは、まだお元気ですかね。それから、春木豊さん、織田正美さん、野口京子さんであります。
 臨床心理学は、適応異常や疾病の人を治療していくことが眼目で、大いに河合隼雄さんが頑張って進歩したわけですが、病気になってからよりも、予防的なところ、ライフスタイルを整えるなどという、予防的なものにもっと力を入れなければいけないということが、健康心理学のそもそもの発足の理由になっているわけです。アメリカでは、マタラッツォ(J.D.Matarazzo)などという、APAの会長をしたり、健康心理部門のデレクターをやったりした人。マタラッツォさんには非常に親しくしていただいたのですが、ものすごく馬力のある人です、実行力もありますし。アメリカで、APAの38部門でしたか、健康心理学部門を発足するに当たって、1983年、アーデンハウス会議。ニューヨークの郊外のアーデンハウスというところに、健康心理学を志すリーダーが集まって、健康心理学の領域はいかに、あるいは教育カリキュラムはどうすべきか、あるいは就職はどうすべきかなどということを、何日か合宿して、アーデンハウス会議をやったわけです。
 そのようなことを読んでいたものですから、本明先生は、「箱根会議をやろうじゃないか」と言って、その当時、今挙げた、間宮先生、内山さん、木下さん、春木さん等々、箱根で2泊3日の会議をやったわけです。クリスマスを挟んででした。私は、年末に箱根へ行って、ホテルだから温泉に入って、顔合わせでもして、酒でも飲んだら、と思っていたわけです。ところが、本明先生は非常に計画的な人で、分担を決めて、発表させるのです、大学のカリキュラムは、大学院のカリキュラムは、就職先は、資格問題は、職場開発はと。そのようなことが基本になって、日本健康心理学会というものが発足して、だんだんと活動を広げていくことになったわけであります。
 それからもう一つ、健康心理学会のことです。1994年に、国際応用心理学会が、スペインのマドリードでありました。そこで、健康心理学の国際会議を創ろうではないかということを、本明先生が提案されたわけです。IAAP(国際応用心理学会)の中には、もちろん健康心理学部会があります。それから、APAにももちろん、APAには第38部会がある。「健康心理学者だけ集まる会を創っても、屋上屋を重ねるから、しょうがないんじゃないか」と言って、アメリカの大先生連中は反対だったわけです。ところが、本明先生は、そこがやはり、うまいと言いますか、押しが強いと言いますか、創ってしまいました。そして、早稲田で国際健康心理学会をやったり、モントリオールでやったり、カリフォルニアでやったり、何回かやったのですが、無理したら、やはり続かないです。また、アジア健康心理学会というものも創ろうということになった。これは今、文化女子大学の教授をしておられる、野口京子先生、国際派で、アメリカにもいた人でありますが、この方が非常に熱心になって、健康心理部会なり、アジア健康心理学会なり、というものを熱心に推進しておられます。しかし初めは、本明先生が京都で国際会議を始めたことが元になっているわけです。
 それから、4番目の話題は、大学における仕事です。日本心理学会の総会を、それぞれ地方でやっています。これが、比較的規模の大きい大学では、10年に1回ぐらい回ってくるのです。私は、広島大学にいる間に、4回、大会を準備させてもらいました。1回は1953年。これは古賀行義先生で、私は助手でありましたが、まだ戦後復興が途中の頃でありまして、総会や、あるいは大講演会をする場所がないのです。先ほど言いましたように、昭和28年でも、まだ十分ではなかった。大学の横に附属小学校がありまして、附属小学校に体育館兼講堂のようなものがありまして、それを借りて、そこで大人数の発表会をやったことが最初であります。当時は、全国学会をやると、助手1人が病気になるというようなことが言われていて。

イン それだけ大変なお仕事ですよね。

山本 大変でした。お金を集めたり、準備をしたりというようなことで。
 2回目が、三好稔先生が退官される頃であります。この頃は、だいぶ整備されてきたわけです、昭和39年ですから。私の講座の主任教授であった、古浦一郎先生が退官されるのが、昭和49年で3回目。それから、私が退官前の昭和63年に、4回目をやらせてもらったということであります。このとき、私が年次大会をやると言うと、ワープナーが、「ぜひ俺が行って、講演してやるから」と言って、来てくれました。
 
A 当時、宿の手配までも助手が担当されていたのですよね。

山本 宿の世話は、やはり大変でした。大失敗がありまして。私がまだ助手の頃ですから。助手は町中を歩いて、めぼしい宿に頼むわけです、何室ぐらい確保できるのかということを。本通りの裏側にホテルがありまして、「ホテルは洋式だから、横山松三郎は外国帰りだから、ホテルがいいだろう」と言って、そこへ割当てたのです。そうしたら、結婚してからの話ですけれども、「山本、あそこはラブホテルだったよ」と言って、冗談で叱られました。「それほど、僕は純真だったんですよ」と言って、「親父、安心してくれ」というような冗談を言ったこともあります。その頃、古浦先生は、いちいち泊まっている宿を前日に回って、「遠方、ご苦労さまでございます」と言って、挨拶に歩かれた。そのような時代でした。

山本 もう一つの話題は、大学時代においては、やはり大学紛争です。広島の大学紛争の火の手が上がったのは、佐世保にアメリカの原子力潜水艦が入港するということがあって、学生運動のリーダーたちが佐世保に集まって、阻止運動をやったわけです。そのために、奨学金停止をされたわけです。それがますます彼らの怒りを買って、学内で反対闘争を燃え上がらせたということが動機でした。一番盛んなときには、木造の本部、事務局が焼かれたり、教育学部も正門を入ったすぐの右側でしたから、バリケードを築くと同時に、壁に大きなプロパガンダを書いたり。
 その当時、私の指導教官であった、三好稔先生が学長代理をしておられまして、教育学部の講堂で、学生との団体交渉がありました。1時から始めて、夜の9時ぐらいになってもやめないものですから、若い学生委員が皆に打ち切りを宣言してもらって、三好先生を抱えて、玄関前に公用車を待たせていて、そこへ皆で囲んで連れ込んで、帰ってもらおうとしたわけです。私は、先生と一緒に乗り込んだのです、公用車に。そうしたら、追いかけてきた活動家の学生が車を囲んで、そこへ二重三重にばーっと寝転がってしまったのです。結局、深夜まで動けなくなった。どこの大学もそうですけれども、そのように激しい時代でありました。
 入学試験はとても学内でできない時代でありましたから、市内の高等学校を借りて、やったり。あるいは、私が教務委員のときに、合格発表の名前を、当時はまだ大きな紙に墨で書いていたわけですが、それを大学前の日赤の玄関に貼り出させてもらうということで、それを抱えて正門を走り出したら、タックルされて。発表を待っている人がいるではないですか。必死になって、後から追いかけてきた仲間に助けてもらって、紙を貼り出したというような時代でした。大学紛争は、一つの思い出です。
 それから、附属小学校の校長を、昭和58年から2期ほどやりました。心理学の教授は、割合によく校長に当たるわけです、専攻が専攻だから。その頃の思い出として、一番強烈な思い出は、夏休みの海浜実習です。夏休みになる前に、学校のプールで水泳練習はやらせるわけですが、夏休みに入ると、1週間ほど、島の海浜校舎がありまして、そこへ泊まり込んで、水泳練習をやるのです。そして、打ち上げに、遠泳をやるわけです。危険防止のために、教育実習にきた、大学の学生さんに頼んで、5、6人を1組にして、必ず横を泳いでもらうというやり方。校長の役割は何かというと、船に乗って、太鼓があって、「エーンヤー、ドンドン」などと、そのようなもので激励するわけです。ほとんどの子どもたちが、完泳できるようになったわけです。新学期になって、子どもたちの様子を見たり、報告を受けたりしたときに、夏休み前とがらっと変わってしまいます。自信がつくのです。それは、体育で自信がつくだけではなく、学級の中でのいろいろな行動の上においても、勉強の上においても、自信がついてくる。私は、教育というものはすごいものだなということを、そのような具体的な例で実感した。これは、校長をやってよかったなという、強烈な思い出です。
 それから、大学移転基本計画委員という、これも大変な仕事でした。

イン 今の広大の場所へ移転するときの委員ですか。

山本 ええ。そのときの教育学部長は、日本大学へ移られた、萩野源一先生、日心の会長もされた。その先生が学部長で基本計画委員長だったから、私は委員として駆り出されて。今の広島大学は、東広島市という、山の中の広い場所ですけれども、沼あり、畑あり、山ありというようなところで、長靴を履いて、現地を視察に行った思い出があります。広いところに校舎を建てる場合に、やはり、学部の所要面積について、競り合いが起こってくるのです。「広いんだから、いいじゃないか」と言っても、やはり、学部セクショナリズムのような。広島大学には水畜産学部がありまして、そこの代表などは、牛1頭を放牧するのに何ヘクタールの、「うちで牛の数は何頭だから、これだけ要るのだ」という主張をするわけです。ナンセンスですけれども、それほど、学部間の競争になると、まとまりにくいものでした。しかし、そのようなことを経て、なんとか。不便なところでしたけれども、今は新幹線も止まるようになりました。そのような思い出もあります。
 その後、私は教育学部長を2期ほどやりまして、管理職も大変な仕事です。私のときには、まだ統合移転の前でしたから、広島大学の教育学部のサブブランチとしては、昔の文理科大学があって、広島高等師範学校があって、それから広島師範学校があって、それから広島女子高等師範学校が三原にありまして、そして福山に、教育学部の体育・美術系の福山分校がありました。そのように、それぞれに分かれている。これを一つにまとめるときに、やはりお互いに、歴史も違うし、専攻も違うし、なかなかまとまりにくいわけです。特に、大学院が、一部は設置されているが、一部はされていない、あるいは、誰を担当にするかなど、そのようなことに非常に苦労しました。しかし今や、全部昇格して、そして一つにまとまって、良い活動をしているようです。それはしかし、だいぶ苦労しました。
 それから、定年後に早稲田に移りました。早稲田の人間科学部の経験も、良い経験になりました。早稲田の卒業生も、来週、また、「山喜会(山本を囲むゼミ会)年に1回の会をやろう」と言って、計画しているようです。
 教員生活というものは、そのような点で、非常にありがたいものです。私は、大先生方から受けたご恩を、その一部でも後輩に伝えられればいいなと思っているところです。

A ありがとうございました。

イン ありがとうございました。


インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)
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