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台 利夫先生

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台 利夫先生の略歴

キーワード・紹介
・東京文理科大学、サイコドラマ、MAPS、モレノ研究所、法務技官    
・1952年東京文理科大学心理学科卒業、法務技官(心理)として少年鑑別所に勤務しサイコドラマを実践・研究。國學院大學教授、筑波大学教授、文教大学教授を歴任。博士論文「自発的行為と役割関係の統合的発展に関する研究」
・卒論では松沢病院で統合失調症患者を対象にして研究しました。戦後の米軍キャンプから非行少年が事件を起こす時代に、法務技官として勤務し、松村康平から学んだサイコドラマを導入しました。NYではモレノ研究所で研修を受けました。

日時:2014年9月15日(月)
場所:台先生ご自宅
日本心理学会オーラルヒストリー
日時:2014年9月15日(月)
場所:台先生ご自宅
インタビュイー:台 利夫先生
インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)、鈴木聡志(東京農業大学)、高砂美樹(東京国際大学)

インA ではじめに、台先生が心理学を学ぶまでのことをお伺いしたいと思います。先生は、1927年に東京都渋谷区で誕生なさったんですね。

台 ええ。小学校はね、青山南町南青山です。青南小学校です。

インD 詫摩先生とは同学年だったということですが。

台 詫摩さんはね、途中で学芸大の附属に移ったらしいんです。で、学芸大が、当時、東横線のですね、碑文谷の手前かな、あの辺にあったんですね。で、そこの附属に詫摩さんは移ったと思うんですね。思い違ってなければですが・・・。

インD 小学校を出られて、高等小学校ですか、中学校ですか。

台 昔はね、中学校は5年です。それで、高等学校が3年ですから、今の中学・高校よりちょっと上なんですね。ですから、卒業が、順調に行って23か、24で卒業と。

インD 戦争中の思い出は何かありますでしょうか。先生、東京にお住まいだったんですよね。空襲など、体験されましたか。

台 ええ。だけど、自宅は世田谷区の奥沢町っていいましてね。どこかっていいますと、等々力っていうとこあるでしょ? 等々力と田園調布のちょうど間にですね、奥沢町っていうのがあります。で、そこにいたんですよ。で、奥沢町にいたんですが、本籍が、生まれたところが渋谷でありますから、渋谷に小学校の同級生が住んでまして。それで、もうどんどん、空襲がね、毎日あるっていう状態の中で、召集令状が来たんですよ。当時、私は18でした。そしたらね、普通20歳で召集令状っていうのは来るんですが、18歳で来ちゃったんですよ。その理由は、私の年代から41、42歳まで、全部死んでるんですよ。それで、18歳の人を、教育召集と称してですね、実は召集なんですが、集めたわけですね。そしたらね、5月の26日に、渋谷にある大和田小学校に集まれって。皆さん、ご存じないと思うけども、道玄坂の途中にですね、恋文横丁っていうのがありましてね。それで、そこのところに大和田小学校っていう小学校があった。で、そこへ集まれっていう令状が来たわけです。で、5月26日の何時までに来いというから、空襲がいつあるかわかんないんで、東横線がしょっちゅう止まってましたから、友達の渋谷の家に泊まった。そうしたら、東京大空襲でね、その晩はもう、あの辺一帯やられちゃったんです。で、もちろん友達のうちも焼夷弾を受けたんですが、どういうわけだか、隣のうちは燃えたのに、不発弾でしてね、それで燃えなかったんですよ、そこの友達のうちは。それで、私は朝、明治通りを歩いて、渋谷まで行ったわけです。もうね、道路が熱くて歩けないんです。電信柱なんか、みんな木でしょ、その当時は。ぼんぼん燃えてるわけですよ。それをぽこぽこ、ぽこぽこ飛びながらね、渋谷の駅まで行ったら、東横、今、要求百貨店ありますね、デパート、あれが、ぼんぼん燃えてるわけです。それで、やっとその道玄坂へ行きまして、小学校へ行ったんです。

インB 大和田小学校まで。

台 そうしたらね、集まった人がけが人ばっかりなんですよ。もうごろごろ寝てるわけです、やっとそこへたどり着いて。血だらけなんですね。そしたらね、肩章をつけたお偉いさんがやってきまして、軍人が、こうやって見ましてね、「これはだめだな」と。「集められない」。兵営が麻布かな、どっかへ行くんですが、「これは連れていけない」って言うわけです。それでね、「おまえら、今日は解散しろ」と。で、帰っちゃったんですね。それでね、次にいつ来るかと思ってたら、戦争が終わってしまいました。ええ。

インB 結果的には。

台 そういう時代でした。もう東横の燃えてるのは、今でも。東横のまだ昔の建物が、新館の方じゃなくて、古い建物ですね。すごい状態でした。

インC 先生、旧制高校はどこに進学されたんですか?

台 旧制はね、國學院大學、当時は予科っていってました。早稲田も予科。私立大学は全部予科なんです。ところが、予科っていうのは旧制高校と同じ資格なんですね。それで、旧制の国立を受けられたわけです。そんな関係で、東京文理科大学の方に行ったんですね。
 当時ね、受験で並んでましたら、今でも覚えてんですが、私のすぐ横にいたのが、国際基督教大学の先生になった星野命君がですね、隣で受験してました。

インA 昭和24年に、東京文理科大学心理学科に進まれた。

台 ええ。

インA 先生は、東京文理科大学では、どなたに師事をされたのでしょうか。

台 依田新(あらた)先生といって、性格心理をやってたんですね。依田先生はその後、名古屋に移って、それから東大に移って辞められてます。

インA もともと心理学科に進学されたのは、どうしてでしょうか。

台 そうですね、10代の終わりの頃、進路を選ぶとき、どなたもそうでしょうけど、そんなに明確な方針や目的はないんですよね。ですから、いろいろ受けたけど、落っこったりしたこともありますし。
 兄がですね、精神科の医者をしてまして、そんな関係で、まだ戦争中ですけども、「クレッチマーの『天才人』という本を読んでごらん」って言われたんで、読んだんですね。これは大変面白いものでですね、だいぶそれに影響されたということはありますね。主としてそういう理由でしょうか、心理を選んだのは。それで依田先生につく形になっていきます。

インA クレッチマーの本を読まれたのは、何歳ぐらいのときですか。

台 そうですね、文理大に入る前ですから、昭和20年に戦争が終わって、兄が帰ってきて、間もなくでしょうかね。だから、19歳の終わりぐらいでしょうか。

インA ありがとうございます。

インC 先生、文理大が新制になる前ですね。

台 そうですね。

インC 同じ時期に、東京教育大が49年にできたのかな。

台 そう。私が卒業したときには、まだ教育大の卒業生はできてなかったですね。私が卒業してから1年後に、第1回の卒業生が出たかな。ですから、文理大がまだありましたから、文理大の私の1期下の人と、教育大の1回生が同時に出てました。移行期ですから。

インD 同時に高等師範学校も同じ敷地内にあって。

台 そう。まだあった。だから、あの頃は学校制度が紛糾してまして、複雑です。

インA 当時は、依田新先生以外の先生はどのような方がいらっしゃったのでしょうか?

台 主任教授は、実験心理の小保内(おぼない)虎夫っていう先生ですね。で、依田先生。あと、教育心理学の先生もいましたし、いろいろいましたね。

インB 何か印象に残っている先生とか、授業とか、ありますか。

台 印象に残っている先生は、依田先生。それ以外の関係で、もともと性格心理とか、そういうものが好きだったせいもあるし、いろいろな事情もありましてね。当時はですね、ご存じのように、昔は心理学と他の科学、例えば哲学とか社会学とか、そういうのも一緒になってるんですよ。昔は、哲学者なんだか、心理学者なんだかわかんない時代が19世紀にありました。その名残がまだありまして。そして、私が教わった先生の一人に、「心理学の論理」という、授業がありました。それが中村克巳先生。かなり優秀な先生ですが、この先生は、東大の哲学を出た方です。この方がとってもよく教えてくれましたね。それで、その先生は印象に残ってます。私が卒業して間もなく亡くなったのですけど。

インD また、当時の文理大の心理っていいますと、小笠原慈瑛(じえい)先生とか。

台 あ、小笠原先生はね、教わった記憶があんまりないんですけども、小笠原先生はまだ講師でいらしたですね。ええ。で、あと、何人か講師の専任の先生いました。

インD ええ。上武先生や。

台 上武先生は、私の辞める直前に入ってきたかな。ええ。まだ戦争で引っ張られてましたから。

インD 小宮山先生。

台 小宮山先生は、覚えがないですね。

インD あと、後藤岩男先生。

台 後藤岩男先生はよく覚えてます。

インD ああ、そうですか。

台 ええ。で、後藤岩男先生は、発達の本ですね、児童の本を書かれたんですが、その後何十年かたって、私が筑波に行ってから、大塚の養護学校の校長をやってたとき、兼任でね。だから、その当時、(後藤先生の)赤ちゃんだった方が(成長して)教員で来て。その方は後に、筑波大の体育の教授に行ったと思うんですね、後藤さんの息子が。

インD あ、後藤先生の息子さんが、筑波の体育の先生になられたんですか。

台 体育だったか、特殊教育だったか、ちょっとわかんないんですけど。

インD ああ、そうですか。

インA 田中寛一先生は、もう辞められていたのでしょうか。

台 田中寛一さん、もう、ええ、ほとんど入れ替わりぐらいで辞められてたと思います。

インA ちなみに台先生は、卒業論文はどんな題目で、どんなことを研究されていましたか。

台 卒業論文はですね、兄が医者だったせいもありまして、専ら松沢病院でずっと書かしてもらいました。

インB ああ、すごいですね。

台 論文の題目は、ご存じのように、クレッチマーの本から教わったのは、類型っていう概念なんですね。で、この類型っていうのは、平均と違いまして、臨床を何回も何回も、こう、いわゆる面接を繰り返してるうちに、何人かこう、もちろん1人じゃなくて、何十人もですね、面接してるうちに、例えばノイローゼ、例えば分裂病、今は統合失調症っていうんですか、そういう人たちの理想型っていうのが生まれてくるんですね。それが類型です。その類型っていう概念は、ですから、本来、統計とは違いますから、実験には引っかからないんですね。
 ところがですね、やっぱり実験の力っていうのが、どんどん増えてましたから、どうしてなのか知りませんが、類型を頭に起きながら実験をしてる人が出てきましてですね。これを実験類型学って言ってたんです。何だか訳の分からない言葉なんですが。
 それから、依田先生を通してですね、レヴィンの心理学を徹底的に教わったんです。で、もうやはり大学のときに教わったというのは一生を支配しまして、今でも私は、基本はレヴィン流の考え方を持ってます。そこでですね、学生だからそんな理論の違いなんていうのはどうでもよくなっちゃって、そのレヴィン流の考え方とクレッチマー流の考えとごっちゃにしましてですね、(卒論の研究を)やったんですが。
 当時、レヴィンの弟子はたくさんいまして、ロシアの女性なんかも来てまして、オブシアンキーナという、後にロールシャッハもやった人がいまして。この方がですね、統合失調症を被験者にして、テンションの高まりを研究してるんです。要するに、統合失調症っていうのは非常に気持ちが動くんですね。ですから、そのテンションシステムっていうのがですね、あっという間に解消するっていいますか。

インB こう思ったら、こう思ったりという気持ちの動きでしょうか。

台 うん、そう、もう緊張が下がったり上がったりという説が出てたんです。
 で、それに対して反論しようとしたわけです。どうして反論しようかっていうと、統合失調症のテンションの持ち方っていうのは2種類ありましてね、一つは、そういうふうに、ポツポツ、ポツポツ切れるんです。もう一つはですね、強迫性が入ってるタイプがありまして。それで、強迫性が入ってると、かえってしつこく固執するんですね。で、そっちにねらいをつけたわけです。それで、テンションの実験をやりまして、どのくらい続くかというですね。で、松沢病院で、患者さんを相手にですね、ずっと1年ぐらいやりましたかね。それで論文を書いたということなんです。
 そしたら、当たり前と言えば当たり前なんですが、やっぱりタイプが二つあって、すごくしつこいのは、なかなか緊張が取れないのが結構いたということで出したわけですね。そういうのが卒業論文です。

インB タイトルは覚えてらっしゃいますか。

台 はい。タイトルはですね(製本された卒業論文を見せてくださる)。「検討」ということで、「精神分裂病者における作業中断の効果」ですか。作業をさせてて、ぱっと中断するんですよ。そうして、作業をさせてて、中断させて、あと、緊張がどのくらい残るかと。

インC 戦前も、(心理専攻の学生が)病院に出入りするような習慣っていうのは、文理大の先生にあったんですか。

台 さあ、知りませんね。ぜんぜん知らないです。

インC あんまりこういう話聞いたことがないので。

インA 特に松沢病院なんて。

台 というのは、兄が松沢にいましたから。その関係だと思います。松沢に行って、精神医学の教科書にあるこういうタイプの患者さんをね、やりたいんだけどっていうことを医者に言うわけですよ。当時、詫摩先生のおじさんが松沢病院で医者をやっておられまして。怖い方でしたが、「教科書どおりの患者なんか1人もいないよ」って言われましたけどね。ええ。そんなようなことがあって。でも、まあ、皆さんの協力いただいて、学生の身分で論文が書けたということです。

インB それで、法務省法務技官に就職されたんですね。

台 ええ。どうしようかと思ったんですが、心理学は科学だからということで、技官という名称にもひかれて、法務省。国家公務員受けまして、犯罪の方に入っちゃったんです。それで、いわゆる大学関係とはその後、何年ですかね、私、1952年に出ましたから、昭和27年に出ましたから、それから、大学へ戻ったのが昭和42年、國學院大學ですから、約16年間は、学会とも、いわゆる日本心理学会というか、そういう、いわゆるアカデミックな会とはですね、関係なかったんです。
 ただですね、私は先ほど言いましたように、昭和24年に大学に入ったんですが、どういうわけか、24年に入ってすぐに心理学会の会員になってるんです。それでですね、そのとき古本屋で買った昭和19年の『心理学研究』を今でも持ってまして。
 その理由の一つは、昭和19年の『心理学研究』に、文理大の非常勤講師で宮城音(おと)弥(や)先生っていうですね、かなりジャーナリズムに有名な先生がいまして、その先生が心理兼精神科っていうか、異常心理教えてたんです。当時は、先ほど言いましたように、心理学っていいましてもいろんな分野の人が入ってまして、その先生の論文で、「精神分裂病の概念とその変遷」という論文が『心理学研究』の第18巻に載ってるんです。で、それが昭和19年です。
 その後、昭和23年まで『心理学研究』は出ていません。昭和23年の1月にまた復刊したんですけども、その4年間の間は、もう戦争に負けたときでしたから、もうめちゃくちゃでですね、雑誌どこじゃないんですね。23年に復刊しまして、またそのときに、宮城さんの論文がまた載ってます。19巻ですね。そんなようなことでですね、『心理学研究』はずっと取ってました。
 主に犯罪をやってたときは、『犯罪心理学研究』という犯罪関係の人たちの同業誌みたいなもんですね。それはずっと第1回からですね。発足したのが、昭和24、5年でしょうかね。ちょっと覚えてませんが、第1回からずっと、その犯罪心理学会の会員ではあると。それで、『犯罪心理学研究』の方に投稿しておりました。
 そして、昭和42年に、國學院から声がかかりまして、それで、じゃあ、移ろうかってことで戻ったという次第です。

インA 法務技官の時には、先生は少年鑑別所で主に勤務をなさっていたようですが。

台 そうです。ときどき、刑務所とか女子刑務所とかに出張して仕事するってこともありましたけども、ほとんど少年鑑別所ですね。

インA どういったお仕事内容が多かったですか。

台 当時、昭和27年に大学を出まして、40年代の初めまではものすごく非行が多かったですね。荒っぽい非行です。例えば、私は、横浜が振り出しですが、横浜に崎陽軒っていう店が駅前にありましてね。

インA 今もありますね。

台 あそこに、まだ米軍があそこに、横浜市内にキャンプを張ってましたから。そこのキャンプ場から、女子非行少年が機関銃を持ち出しましてね、崎陽軒でぶっ放すと。まあ、すごい時代でした。
 だから、私はやったのは、まず少年の面接ですね。で、面接をやりまして、生活史から、パーソナリティのテストから、それを主にやりまして。この子をどうするか。刑務所に送るか、少年院に送るか、家に帰すかという裁判、今、審判と言ってますが、審判があります。その前の鑑定資料です。これ、大人の場合は鑑定といいますが、少年の場合は鑑別といってます。それを出すんですね。で、やっぱり結構まじめにやらないと、できないんです、一つケースが。それをね、1か月100ケース以上やりました。

インA 1か月100ケースですか。

インB それはすごいですね。

台 ええ。ものすごい数だったです。

インA それだけ非行が多かった。

台 非行がものすごい数だったです。

インD 少年鑑別所が発足したのが昭和24年ですので。ちょうど先生が大学に入った年なんですけど。

台 入った頃です。そうですね。

インD 学生時代は、少年鑑別所という仕事があるということはやっぱり知っていらっしゃったんですか、少年鑑別所というふうな話は。

台 いや、知らないですけども、法務省っていうとこは、そういう心理の学生を唯一雇うところで。労働省もね、産業心理関係でちょっと雇ってましたけども、さっき言ったように、パーソナリティに興味があったんで、労働省に行く気はしなかったんですね。国家公務員試験を通りますと、各役所を回ります。そうすると、「どうだい、君、来ないか」なんて、こう勧誘されるんですけども、自分で考えてですね、ちょっと産業へ行く気はないなと思いましてね。そうすると、消去法でいって、もう法務省しかないかと思って、で、法務省へ入ったわけです。

インA ちなみに、非行少年に使うパーソナリティのテストは、当時どのようなものがあったでしょうか?

台 当時は、今ほどっていうか、その後ほどはロールシャッハはやってませんでしたから。でも、TATはもう出来てました。私がやっておりましたのは、TATです。少年鑑別所っていうのは、4週間おりましてですね。今は制度がすっかり変わりましたんでわかりませんが、4週間だけいると。その間に鑑別をしなきゃいけません。その後は、うちへ帰るか、少年院へ行くか、少年刑務所に行くかですね、決まるんですが。そうやって牢屋みたいなところに入れておいて、出てきて面接をやって、テストをやってというだけで。4週間、こんな若い人たちは何やってるのかと、これじゃ、ちょっとまずいんじゃないかと思いまして。当時は役所も大変自由な雰囲気がありまして、「何、やってもいいよ」みたいな感じだったんで、グループカウンセリングをですね、始めたわけです。
グループカウンセリングの中で、彼らはですね、「おまえ――鑑別所には教官と称する刑務官みたいな方がいるんですが――だめじゃないか、こういうことをして」って怒りますと、「はい、まじめにやります」って言ってですね、謝って終わりなんですよ。で、また非行をやって入ってくるという。大体2回も3回も入ってくるんですね。で、何やってんだろうかと、そう言っちゃ悪いですけどもね。ああやって、「まじめに、おまえ、やらなきゃだめだよ」って言って、「はい、まじめにやります」って言って終わりで、部屋へ戻っていく。「いや、あれだけじゃあ、しょうがないんじゃないか」と思いましてね。
 で、何か少し治療的っていうか、教育的なこと、やってはどうだろうか。何かやれるだろう。で、少年たちは言葉より行為が先に出るのをみて、サイコドラマを始めたわけです。
 ところが、テストをやるのが本業なんです。そこで、サイコドラマに近い、このMAPSというですね、Make a Picture Story Testの略なんですが。TATとですね、サイコドラマの中間みたいな面白いテストなんです。あんまりそれは、きちっと数量化して出るテストじゃないんで。TATもそうですけどね。ですけども、動きが入るんですね。手で人形を置いてしゃべるという。TATは、ご存じのように、いろいろ絵がかいてますが、(MAPSは)背景の絵だけで人物がいないんですね。そこへ、人形が76枚ありまして、その中から取って、そこの絵の上に置いて、ストーリーを語る。そうすると、動きが入ってくるわけです。
 結局、グループカウンセリングをやりながら、そういうサイコドラマっていうか、ロールプレイングをやって、テストの方は、そのMAPSをやるという、そういうやり方をやってきたわけです。むろん他の義務づけられたテストもやりましたけど、そんなことで、何ていうか、鑑別を濁してきたといいますか。

インD その心理劇なんですけど、先生はどなたから教わったわけですか。

台 それは松村康平先生です。お茶大の研修会です。一つは、私は横浜に約7年おりましてね、それから高松少年鑑別所に転任になったんです。で、ここはですね、横浜以上に、何ていうんですかね、さっき言った、その「まじめにやれよ」「はい」で済んでるところでして。ただ、一つ横浜と違っておりますのは、子供たちの行動が、非行にしましても、あるいは所内でのいろいろ生活行動を見ていましてもですね、非常に、何ていうんですかね、横浜の少年以上にヴァーバルよりもノンヴァーバルな表現っていうのが多いんですね。それで、彼らを教育するのはヴァーバルよりもノンヴァーバルの方がいいんじゃないかと思いましてね。
 東京へは昭和36年に戻ってきたんです、36年に練鑑ですね。東京少年鑑別所っていうのが練馬にあって、そこへ戻ってきたんです。それで、先ほど言ったようなことを始めたわけなんです。帰ってくると同時に、お茶大の門をたたきまして、松村康平先生に、サイコドラマを教わったということですね。

インD その矯正施設で、サイコドラマを当時やっていたんですか。先生が始めたのですか。

台 そうですね。ほとんどやってないでしょうね。私の後輩があとで、田中さんっていう人が、あれは教育大の1回生だか、文理大の私のあとの人か知りませんけども、やっぱり法務省へ入りまして、私とは関係なくですね、神戸の方でやってたんじゃないかと思いますけども、よく知りません。

インD 田中茂さんですね。教育大の1回生です。

台 1回生ですか。彼も卒業後に法務省に入りましたから、犯罪心理学会では知り合っておりましたけども。そんなことで、法務省ではまだやってなかったと思いますね。
 それとですね、当時、サイコドラマを日本へモレノから導入した人はお2人いまして、1人が松村康平先生です、お茶大の。もう一人が、横浜市立大学の外林大作先生。この外林さんの弟子というか、教え子が、横浜少年鑑別所の教官をやってましてね。その方がロールプレイをやってたんですが、それも参考になったかもしれせんね。もちろんやり方はちょっと違ってましたけども。だから、あの方の方が私より早いのかもしれませんね。ただ、どこのカウンセリングもみんな違うように、松村先生と外林先生、ちょっとやり方が違うんですが。

インA 先生は、國學院大學の文学部に移られたあとは、専門はサイコドラマですよね。

台 ええ。サイコドラマと非行関係ですね。

インA 國學院大學では、1975年、昭和50年に海外派遣研究員でニューヨーク医科大学に行かれたみたいですが。

台 ニューヨーク・メディカル・カレッジってとこに1年ほど行ってたんですが。

インA どういった人に師事をされたのでしょうか。

台 アメリカでの師事はないんですよ。あちらこちらの研究所をまわりました。大学に10年勤めますとね、順番が回ってきて、「誰か行かないか」って言ったら「誰も行かない」って言うから、「じゃあ、俺、行くから」って。「それじゃ、何してくる?」って言うから、「じゃあ、ニューヨーク行ってですね、それで、サイコドラマ勉強してこよう」って言って、それで行ったんです。モレノはご存じですか。

インB はい。

台 モレノが死んだ翌年なんで、群雄割拠といいますか。偉い人が死ぬと、いろんな人がいろんなところでやってましたので。ニューヨークにも一人シロカという方がいましたが、その人のところに行って。その人から紹介されて、モレノの奥さんがやっぱり(サイコドラマを)やってましたので、モレノと同じ場所で。ハドソン川の流域に、劇場がありまして、モレノの、何ていうんですかね、サナトリアム兼サイコドラマ同場のビーコンハウスってとこがあります。そこで奥さんがやってました。

インA モレノ研究所ですかね。

台 モレノ研究所って昔言ってたのですが。で、そこに見学に行って、「サタデー・ナイト・セッション」とかいうのに参加して帰ってきましたけども。
 その他にも、サイコドラマは各地でやってましたから、あちこち回りまして、ほとんどそういう見学で終わっちゃったですけど。

インA ちょうど全盛期というか、そういう感じだったんでしょうかね。

台 モレノが死んで、もうサイコドラマがやや傾いてた時期ですね。

インA ああ、そうですか。

台 徐々に。ええ。やっぱり偉い人が死ぬと、自然とそうなりますよね。

インA 筑波大学に、その後、1980年、昭和55年に移られたんですね。

台 ええ。

インA その次の年に文学博士を、博士号を取得されていらっしゃる。

台 はい。これはね、早稲田大学に本明(もとあき)先生がおりまして、この方がパーソナリティ、まあ、ロールシャッハの専門家ですけども、主にやってまして、先生の本の分担執筆で存じてましてですね、で、博士論文を早稲田へ出すことができました。
当時はワープロがないでしょ。だから、手書きなんですよ。でね、手書きを、印刷して出してね、本明先生が「いいだろう」っておっしゃったんです。ところがね、早稲田のもう一人の先生が副査で、見て、「当用漢字じゃない」って言われるんですよ。で、「全部直せ」って言うんですよ。

インB 一から全部?

台 ええ。参ったね、あれは。

インB ワープロだったら楽ですけどね。

台 ええ。当用漢字じゃないから。やっぱり私、昭和の初めの人間ですから、古い字書くんですよ。例えば「台」の本字の「臺」っていう、こういう字ですね。この字は当用漢字にないと思うんですね。

インB はい。

台 で、心ならずもああいう古い字体を使ってるわけですが、これを書くもんでですね、「全部直せ」って言われたんですよ。それで、娘2人と家内も動員しましてね、もう間に合わないんです、出す時間が。本当に苦労しました。

インA 今ではないような苦労があったんですね。

台 題が、「自発的行為と役割関係の統合的発展に関する研究」という変な名前つけた。まあ、論文だからしょうがないと思ってね、だいぶ妥協の産物です。

インD それはご著書になってるんでしょうか。

台 星和書店で出した『心理劇と分裂病患者』です。

インA 本明先生のところで取られたということは、本明先生ともご交流が? パーソナリティ関係で交流されていたのでしょうかね。

台 ええ。学会で、(本明)先生からときどき、「非行少年の心理とか、犯罪心理についての論文書いてくれないか」って、頼まれましてね、何冊か書きました、分担執筆で。

インD 博士論文とも関係していることですが、先生はずっと病院臨床をされていたわけですよね。

台 はい。

インD 鑑別所時代から病院臨床を続けていたんですか。

台 そうなんです。それがね、今の法務省ではありえないことなんですが。週1回、研究日っていうのが取れたんです。で、「どこ、行ってもいいよ」って言うんです。それで、慶応大学の精神科の助教授で、塩入円祐って先生がいたんですよ。その塩入先生が、いろいろな学内の事情で、助教授で辞められてですね、杉並の鷺ノ宮で開院してたんです。そこにパートでゆきました。塩入先生の病院が、広いお庭でですね、大きな廊下があって。病院ったって、平屋の日本家屋なんですけども、そこでサイコドラマをやらしてくれたんですよ。それで、毎週通ってましたよね。
 ですから、法務省にいながらそんなことができたのは、本当に自由だと思いましたね。そんなことで、精神科関係と、犯罪の方と、二股かけてやっておりました。

インD 國學院で教えられてたときも、その週1回の病院は続けてらっしゃったんですか。

台 大学に移った時に塩入先生との関係が切れちゃったので、やめました。でも練馬にですね、陽和病院っていう病院があるんですが、そこでサイコドラマをやっていました。で、そこでは、看護婦さんの研修から始めまして。看護婦さんが何十人かいますから、交替で看護婦さんの研修をやる。それから、患者さんのサイコドラマの方に、看護婦さんが交替で2人ぐらいずつ入るという形で研修をやってきました。

インA ずっと臨床の場所を持ちながら、研究もされてたんですね。その後、筑波を退官なさったあとは、文教大学にいらっしゃったんですね。

台 ええ。文教にね、7年ぐらいいましたかね。その前ですが、筑波時代が終わる頃に、2年間ですか、3年間ですか、大塚養護学校っていいましてですね、ダウン症のですね。あれもね、何であそこの校長に併任になったのかよくわかんないんですけども。附属学校がいくつかありまして、教育と体育と心理の先生の持ち回りなんですが、教員免許を当時は持ってないと、校長になれないんです。
 それで、今は、教員免許状は、ちゃんと免許の試験を受けてですね、たとえ小学校・中学校の先生でもですね、受けないと免許状、取れないです。ところがですね、文理大のときには自然に取れたんです。つまり、卒業したら、1枚入っているんです、もう1枚、紙が。見ましたらね、中学校、高等学校の社会の教員免許状なんです。
ということで、筑波大で「誰か行く者はいないか」って言って、体育で誰もいないんですね。そのときは、たしか体育の学部の方が校長で行くはずだったんです。でも、誰もいないもんで、その免許を持ってる人ということで心理の方へ来ちゃったんです。で、心理の中で、免許持ってるのは私一人だった。そんなこともありましてね、それで、大塚のその養護学校へ行って、ダウンとおつきあいをしたということです。

インA 何か思い出はありますか、校長先生時代の。

台 いや、むしろ組合との関係ですよ。大変でした。社会勉強でした。児童についてもね、結構、授業の見学をいろいろさせてもらいましたので。そういう機会がないですからね。だから、勉強になりましたけども。

インA さすがに養護学校では、サイコドラマは難しい感じでしたかね。

台 ええ、それは難しいですね。でもね、先生方のやっている、人形を使ったりですね、ボールを使ったりするものの中には、そういうロールプレイに似たことを随分やってますね、ああいう遅滞児の教育には。だから、それをまたいただいてきて、授業で、講義でしゃべったりはしましたけども。

インA 最後に学会のお仕事を少しお伺いしたいんですが、日本心理学会の理事をされていたということで、何かその間に思い出になるようなことがございましたら教えてください。

台 やはり思い出になりますのは、本明先生が理事長をしてまして、私は常任理事をやっておりまして。その当時、持ち上がったのが、例の認定心理士の立ち上げですね。あれの草案というものを作れっていうふうに本明先生から指示をされまして、私が作ったわけです。認定心理士の原案を作ったのが思い出ですね。

インD それは先生の筑波時代でしたよね。

台 そうです。筑波時代です。その認定心理士の草案作成委員長をしてましてね。学会活動はそのぐらいの思い出しかないですけど。

インA 日本臨床心理士の資格認定協会の評議員をされたんですね。ちょうど臨床心理士の資格認定が始まる頃でしょうか。

台 そうですね。これはいつ頃までやりましたかね。臨床心理士資格認定協会の評議員は、期間はよく覚えていません。

インA ちなみに、この臨床心理士の資格ができるときには、先生はどのようなお仕事をされたんでしょうか。

台 倫理委員です。倫理の問題をずいぶん、たびたび呼び出されてやってましたね。倫理制度がまだはっきりしてなかったんで、やはり原案作りっていいますか、ええ。

インA インタビューの項目は以上になります、本日はありがとうございました。

台 ありがとうございました。

インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)、鈴木聡志(東京農業大学)、高砂美樹(東京国際大学)
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