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髙木 修先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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    髙木 修先生

髙木 修先生の略歴

・京都大学・関西大学・態度・援助行動・被服心理学
・1970年京都大学博士課程修了。1979年スタンフォード大学にて在外研修。2011年関西大学定年退職。博士論文「態度構造及び態度と行動の関係に関する研究」
・動詞対を用いた態度の構造の分析など世界に先駆けて新しい手法を開発するとともに、合成洗剤や輸血、震災での援助行動など態度の実現としての行動の研究まで、理論から現場に至る幅の広い社会心理学の魅力をうかがうことができました。

日時:2017年8月7日(月)
場所:ニュー末広ビル貸会議室(京都府京都市)
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 今回は、日本心理学会の90周年事業のオーラルヒストリーにご協力いただき、ありがとうございました。事前にお知らせしたように、おおむね、心理学を学ぶまでの話と、出身大学で師事した先生や、そのときの大学の様子、そして、研究テーマを選んだ理由とその変遷、そして学会での活動についてお話しいただければと思います。先生のご経歴などについては、すでに、「研究者・教育者としての我が人生-心理学との出会いから定年退職まで-」(http://www2.kandai-koyukai.com/al/sensyuu_kai/pdf/henreki.pdf)や「髙木 修先生のご退職にあたって」(東村, 2011) に書かれていますので、重なる部分もあるかと思いますが、重なっても結構ですし、また別の語り口から語ってくださっても結構ですので、お話しいただければと思っています。では、まず初めに、心理学を学ぶまでという話についてお伺いしてよろしいでしょうか?

大学までの進路選択
髙木 高校生の頃、マスコミュニケーションにおいてテレビがラジオに取って代わって日常生活の中に深く浸透してきて、それに応じて生活様式も変化していました。叔父がテレビ局で仕事をしていた関係もあって、テレビが今後社会生活において果たす役割などについて話を聞くことがよくありました。その影響でしょうか、テレビの社会的な責任とその効用について専門的に勉強し、それを生かせる仕事に就きたいと思うようになりました。
 ちょうどその頃、高校の親友の家へ遊びに行きました。彼のお父さんは、京都大学人文科学研究所の美術史の教授で、古典西洋音楽にとても造詣が深く、音楽評論家でもあり、NHKの仕事をよくされていました。私の関心を親友から聞いておられたのか、お父さんが、「読みたいなら、貸してあげるよ。」とある本を出してこられました。その本は、コミュニケーション学の父と評される有名なSchramm, W.L.の本で、NHKの国際局長、崎山正毅さんが『コミュニケーションと社会的責任』(日本放送出版協会)というタイトルで翻訳出版されたものでした。この本を読んで、私はますますマスコミュニケーションへ関心を持つようになり、「専門的に勉強できるのはどこだろうか。」、「多分、社会学だろう。」と考えました。そこで、家族社会学を大阪市立大学で教えていた叔父に、私の関心を話して、「京都大学文学部で社会学を勉強したいのだが」と相談しました。叔父は、「社会学もいいが、これから社会で役立つのは心理学だよ。人の心と行動を対象とする心理学を学んだほうがよいよ。」とアドバイスしてくれました。私は、素人なりに、「社会学と心理学の両方を勉強できるのはきっと社会心理学だろう。」と考え、心理学、専門領域としては社会心理学を学ぼうと、京都大学に進学することにしました。
京都大学進学後
髙木 京都大学では、専門教育科目の履修は基本的に3年生になってから始まりますが、心理学専攻の定員が20名なのに希望者が多いので、勉学意欲の高い学生を選抜する目的で、2年生から、受講負担の大きい、基礎的な心理学の実習科目の履修を課せられました。毎週、知覚や学習や、いろんな実習題目でデータを取り、分析し、その結果をレポートにして出すことを求められました。クラブ活動との両立が難しいほど「しんどい」授業でしたが、苦労すればするほど、心理学が面白くなり、心理学を学ぶことが自分の希望に合っていると思うようになりました。
 3年生になって、専門教育科目の授業が始まりました。授業での教師との出会いは、私がどのようなテーマで研究するようになったかという話につながります。京都大学には、当時、社会心理学が専門の教員はおらず、非常勤講師で授業は賄われていました。そのうちの一つに心理学調査法という授業科目がありました。担当は、木下冨雄大阪女子大学助教授で、心理学研究で使われるいろいろな調査法について学びました。特に関心を持ったものは、態度の質問紙調査法です。ワーディング一つで結果が大きく変わるので、注意して質問文を作らなければならないということを叩き込まれました。
 もう一つの授業は、心理学実習で、担当者は非常勤講師の木下稔子先生でした。いろいろな実験法について学びましたが、特に印象に残ったのは、Osgood, C.E.のSemantic Differential法(SD法)でした。
 さらに、最も大きなインパクトを受けたのは、非常勤講師の廣田君美関西大学教授による社会心理学研究という授業でした。この科目は、学部と大学院の共通科目になっていましたので、同じ教室で、院生と学部生が一緒に受講しました。受講生は、大学院、学部の区別なく、教授から同じ課題を割り当てられ、みんなの前で発表します。その発表内容について、学部生も質問しますが、院生たちがかなり難しい質問をしてくれて、学部生を厳しく鍛えてくれました。その授業で使われた本は、当時、社会心理学の最新のテキストブックと評されていたKrech, D., Crutchfield, R.S.& Ballachey, E.L.による“Individual in Society”(McGraw-Hill)でした。この本は、非常にユニークな構成になっており、実験や調査の実例を囲み記事風に紹介し、その研究に関わる諸理論を解説しています。
 この本のパート2では、「態度」が取り上げられていました。さらに、このパートは3章に分かれていて、最初の章のタイトルは「態度の性質とその測定」で、態度がどのような構造になっていて、それらをどのように測定するかという話です。次の章のタイトルは「態度の形成」で、態度がどのように形成されていくか、形成に関わる要因は何なという話です。最後の章のタイトルは「態度変容」で、態度がどのような状況において変化するのか、変化に影響する要因は何かという話です。
 私は、廣田先生から、この3つの章を担当し、みんなの前でその内容を分かりやすく説明するように指示されました。これは、3年生になったばかりの私にとって大変難しい課題でした。しかし、よく頑張ったと今でも思いますが、必死に勉強していきますと、段々とどこがポイントで重要なのかが分かってきて、出てくるだろう質問も予想できるようになりました。私は、この発表を通じて、専門的に研究する社会心理学の研究テーマが決まったと思いました。それは、最初の章に該当する「態度の性質、およびその性質を踏まえた独自の態度測定法の開発研究」です。
 この章で著者たちは、態度を三つのコンポーネント(成分)が相互に関係しあって構成される持続する一つのシステムだと主張しています。なお、その三つのコンポーネントとは、我々の周りに存在する社会的な対象についてのcognitiveコンポーネント(ポジティブあるいはネガティブな評価・信念)、feelingコンポーネント(ポジティブあるいはネガティブな感情)、action tendencyコンポーネント(賛成あるいは反対の行為傾向・準備状態)です。また、彼らは、ある個人が社会的対象に対して行う行為は、その対象に関して抱く三つの成分で構成されている態度を反映すると主張しています。さらに、彼らは、コンポーネントが持つ三つの特徴によって、態度が個人の社会的な行為に及ぼす効果・影響に違いが発生すると主張しています。第一の特徴はvalenceで、対象に対する好意性あるいは非好意性の程度のことです。第二の特徴はmultiplexityで、コンポーネントを構成する要素の数や多様性のことです。第三の特徴は、第一と第二の特徴において三つのコンポーネント間の相互関係、intercorrelationで、一貫性しているかしていないか、その程度はどの程度かのことです。最後に、彼らは、三つのコンポーネントが、どのような関係や割合で態度のシステムを構成しているのかというconstellationの視点から、態度のタイプ分けを行っています。三つの成分がバランスをよく備わっている態度、三つのどれかのコンポーネントが大きなウェイトを占めている態度の合計四種類の態度です。
 私は、彼らが展開したこれらの態度構造理論に非常に興味を持ちました。そして、彼らが理論の中で主張し、仮説した内容を一つ一つ、データでもって実証してみようと考えました。そのためには、独自の測定法を考案する必要がありました。また、その有効性が指摘されだしている分析法として、因子分析法と数量化理論を使ってみようと考えました。
 最初に注目したのが、態度成分の中のaction tendency成分でした。これが態度の一つの成分だとしても、それがどのような方法で測定できるのか分かりませんでした。私は、態度の測定法の一つであるSD法の応用を考えました。SD法は、反対の意味を持つ形容詞対を複数個評定尺度として使って、例えば「銀行」を、明るい―暗い、大きい―小さいなどの尺度で、銀行に対するイメージ(態度)を測定しようとするものです。
 そこで、私は、SD法の応用で行動傾向成分を測定しようと考えました。具体的には、形容詞対の代わりに動詞対を用いることです。例えば、近づく―遠ざかる、褒める―非難するといったいくつかの動詞対を複数個評定尺度に用い、「安楽死」に対して、どの程度、近づきたいか、それとも遠ざかりたいか、褒めたいか、非難したいかを質問することで、態度対象に対する評定者個人の行動傾向・準備状態を測定しようとしました。このような方法は、それまで存在しませんでした。私は、動詞対を用いたこの尺度をBehavioral Differential(BD)と呼び、態度の行動傾向成分の測定に用いることにしました。
 当時、因子分析法を用いた研究の発表はほとんど見られませんでしたが、私は、因子分析法を用いてこの尺度の構造を解明しようと計画しました。D2乗法という、Osgood, C.E.が提案した因子分析に代わる方法を手計算でやりました。Guilford, J.P.の3次元における直交回転法は、グラフ用紙で軸を手で回して一番きれいな構造になるようにしました。
 その結果、Behavioral Differential尺度が、三つの因子から構成されていることが分かりました。第1が感情的因子で、褒める―非難するという動詞対で代表されるもの、第2が認知的因子で、重視する―軽視するという動詞対で代表されるもの、第3が行動的因子で、抵抗する―屈服するという動詞対で代表されるものです。そこで、この尺度を、因子の頭文字を取って、Affective、Cognitive、Behavioralの順番は変わりますが、ABC Differential尺度と呼ぶことにしました。残念ながら、心研のような雑誌で発表していないので、広く人々の目には留まっていません。
 当時、京都大学には、文学研究科と教育学研究科の院生が参加する言語学研究会がありましたが、私の研究を知り、興味を持って、学部生であった私に研究会で発表するようにいわれました。彼らの評価が結構高かったので、この研究の内容で学士論文(卒論)を書くことにしました。テーマは「SD法により測定された社会的態度の因子分析的研究:動詞対を材料にして」でした。

インA これをまとめられたのが1968年に書かれている「社会的態度の研究⑴ SD 法による社会的態度、特に行動意図性の測定―動詞対を用いた因子分析的研究―」(関西大学社会学論集 第1巻 第 5-6合併号, 67‒81.)ですね。

髙木 はいそうです。なお、この研究を、関西大学の学術雑誌に投稿する際、関西大学の教授で、京都大学で因子分析法を非常勤講師として教えに来ておられた辻岡美延先生に、因子分析結果の読み方について指導を受けました。


修士課程に進学して
 学部時代に、態度の行動傾向成分を測定するためのABC Differential 尺度を考案しましたが、大学院の修士課程では、残りの2つの成分を測定する尺度を考案すると共に、それらの尺度で捉えた態度の構造を因子分析法によって解析することにしました。
 最初に取りかかったのは、態度の認知的成分を測定する尺度の検討でした。既存の測定法が当時存在しなかったので、心理学の他領域で用いられている手法の応用を考えました。思いついたのが臨床心理学でよく用いられる投影法的手法でした。それは、例えば、「戦争」に対する態度の場合、「もし火星人があなたのところにやってきて、地球には戦争とういうものがあるそうだが、戦争ってどんなものですか。教えてください。」と質問されたとし、自分が知っていることを自由に書いて答えてもらい、その記述された内容を幾つかのカテゴリーに基づいて内容分析するという方法です。この手法で重要なのは、書かれた内容を分析する際の基準(カテゴリー)でした。種々検討した結果、5つの評定カテゴリーを設定することにしました。具体的には、記述の多さから評定する情報量(認知の豊富さ)、記述がどれくらい多岐にわたっているか(認知の多様性)、記述においてどれぐらい原因と結果の関係が押さえられているか(認知の統合性)、好き-嫌いなどの感情的な表現がどれぐらい含まれているか(認知の感情性)、記述の表現がどれくらい強力なものか(認知の強度)の5つです。
 最後に残されているのが態度の感情的成分を測定する尺度ですが、これは、既存の態度の測定法であるリッカート法やサーストン法の援用が可能だと考えました。
 そこで、つぎの研究課題は、考案した3つの測定法で態度成分を測定し、それらをテストバッテリーにして、態度対象ごとに因子分析法にかけて、その態度構造を経験的に解明することでした。学部時代には、手計算で因子分析を行いましたが、大学院前期課程の頃には、IBM の大型計算機によって、BMDと呼ばれるプログラムを使って計算することが可能になっていました。しかし、その費用は、院生が簡単に支払える額ではありませんでした。そこで、アルバイトをしてお金を貯めて、研究用の分析と位置づけた特別の計らいで減額してもらい、計算依頼をすることにしました。後日、IBMで分析結果を受け取り、恐る恐る内容を確認したところ、思わず「やった!」と喜びの声が出ました。それは、態度対象によって構造に多少の違いはありましたが、いずれの態度も、基本的に3つの成分(因子)から構成されていることが判明したからです。
 その後、態度構造の違いを精査していく過程で、態度の構造化の違いが気になりました。構造が明確に三つの成分に分化している明瞭な態度から、それがごちゃ混ぜになって、きれいに分化していない態度まで幅広く存在していたからです。そこで、この違いの原因を検討してみることにしました。私は、構造がきれいに分化しているということは、態度がよく発達しているということではないかと考えました。では、その構造の明確度に反映される態度の発達を規定するものは何なのかという疑問が湧いてきました。当時、心理学教室の主任教授は発達心理学が専門の園原太郎先生でした。私は、気楽に教授に相談に行けるタイプではありませんでしたので、教授室のドアをノックするまでにだいぶ時間がかかりました。勇気を出して私の課題を先生に説明したところ、即座に「髙木君、それは自己関与だよ。」とおっしゃいました。私は、うれしくなり、「ああ、そういうことですか。じゃあ、先生、自己関与を測定する尺度はありますか。」と聞きましたら、「それは、自分で考えることだ。自分で作ることだ。」と叱られました。
 そこで、「自己関与」の程度を測定する尺度を作ることになりました。種々検討した結果、4つの項目で測定することにしました。「態度」対象は、自分にとってどれほど重要か、関心があるか、日頃誰かとそのことについてどの程度話し合っているか、そのことについてどの程度積極的に情報収集をしているか、の4項目です。そして、同じ態度対象であっても、それへの自己関与度の高い人の構造は明確に分化しているだろうが、自己関与度の低い人の態度構造は不明確だろうと仮説して、態度構造研究を進めていくことにしました。
 私の研究には、Krech, D., Crutchfield, R.S.& Ballachey, E.L.らの態度構造理論にはないユニークな分析視角があります。すなわち、彼らの態度構造理論は、ある一つの対象に対する態度における成分の関係を扱っています。私は、これを「態度内構造」と呼びました。しかし、我々は、ある時点で、複数の対象に対してそれぞれ独自の態度を持ち、そこにその人独特の何らかの態度間の関連構造(態度布置)があるはずだと考え、これを「態度間構造」と呼ぶことにしました。そこで、それを何らかの形で示せないかと考えました。「態度内構造」では、態度対象ごとに因子分析をしましたが、態度間の関連構造は分かりません。そこで、「over-allの因子分析法」という新たな分析法を使うことにしました。すなわち、複数の態度対象のそれぞれについて考案した尺度で測定したデータの全てをテストバッテリーにして、over-allの因子分析法を適用するという方法です。これによって、複数の態度の構造的な関連構造が判明できると考えたのです。そこで、以後は、自分の研究を、「態度内構造」と「態度間構造」の両方を明確にしていく研究と位置づけることにしました。

博士課程に進学して
 博士課程では、学部、修士課程で行った態度の構造化過程に関する研究をさらに発展させることにしました。まず、以前の研究では、大学生を対象に、彼らを自己関与度の高い者と低い者に分けて、態度の発達、つまり構造化の進展度を比較しました。そこで、自己関与度の幅を広げるために、大学生に加えて高校生、中学生という広い年齢幅で構造化の進展過程を比較すること、結果の安定性を考慮して、対象者数を増やすこと、中学生や高校生でも関与して態度をいだけるような態度対象を広く選ぶことにしました。
 もう一つ新たな目的を付け加えました。これは、態度が行動の準備状態であり、態度から行動が予測できるという仮定の検証を、態度の構造化過程の研究の枠組みの中で検証することにしました。態度と行動の関係に関する研究で、最初にその不一致を報告したのはLaPiere, R.T.(1934)で、中国人の旅行者がアメリカを旅行したとき、「あなたはだめです。」と泊まることを拒否されたが、その旅館の主人は、以前の調査で、中国人に対して偏見を持っていないと回答していたのです。つまり、「態度と行動の非一貫性」というわけです。
 私は、この非一貫性の問題を、態度の構造化の進展度の違いから説明しようと考えたのです。つまり、態度成分が適応的に密接に関係している、構造化が進展していれば、態度と行動の対応関係は緊密になり、一方、構造化が進展しなければ、態度と行動の関係性は脆弱だと仮説したのです。その仮説検証のためには、中学生や高校生でも態度対象に関係する行動の経験があり得るような態度対象を選択する必要がありました。

関西大学の助手に着任
 私は、京都大学の大学院を1年終わった段階で、関西大学の助手に採用されました。そのときにお世話になったのが、関西大学教授の辻岡美延先生です。関西大学に赴任して間もなく、大学付置の経済・政治研究所が研究員を募集していることを知りました。私は、すぐに応募しました。当時、その研究所にはいくつか研究班がありましたが、環境問題研究班(公害班)にはその領域で有名な研究者がたくさん所属しており、彼らの指導を期待してその班に入れてもらいました。それは、密かに、班の研究課題である環境問題を、態度と行動の非一貫性の研究の枠内で行おうと考えていたからです。
 私は、班の研究テーマである環境問題の中でも、特に水質汚濁の研究を引き受けました。なぜなら、当時、琵琶湖も瀬戸内海もそうでしたが、赤潮で、ぷかぷかと魚が浮いてくるという赤潮問題が大きな社会問題になっていたからです。これは、各家庭からどんどん流れ出てくる合成洗剤の界面活性剤が原因だと言われていました。合成洗剤に代えうるものは何かというと、石けんです。合成洗剤を石けんに換えれば、当然、赤潮問題は解決するわけです。しかし、家庭の主婦は、濯ぎに時間がかかる、水も多くいる、洗濯物に臭いが付くなどの理由で、環境汚染の元凶であることがよく分かっていながら、一向に換えようとしませんでした。私は、この現象こそ「態度と行動の非一貫性」ではないか考えました。
 消費者団体と協力して主婦を対象に調査し、各地で主婦対象の講演もしました。デモにも参加しました。現実の問題の中で態度と行動の非一貫性を研究するためにいろいろな調査をしました。この結果を、研究所の出版物を通じて公表しました。これらの研究は、「環境社会心理学研究」のはしりだと思っています。当時は名古屋大学の、現在関西大学の廣瀬幸雄教授は、私の京都大学の後輩で、環境社会心理学研究の第1人者ですが、「先生の論文を読みました」と言ってくれましたが、当時は環境問題を心理学の立場から研究したものはほとんどありませんでした。
 もう一つ、私の研究者としての人生の中で大きな転機につながったことがあります。それは、京都大学の社会心理学の非常勤講師であった関西大学の廣田君美教授が「髙木君、この本を翻訳せんか」と言って、Kiesler, C.A.の『現代社会心理学の動向』シリーズの1冊である、Zimbardo, P.G.教授の“Influencing Attitudes and Changing Behavior”の翻訳の機会を与えていただいたことです(邦題『態度変容と行動の心理学』(1979)誠信書房)。

スタンフォードでの在外研究
 79年から80年にかけて1年間の在外研究の機会を関西大学から得ました。どこへ行くか、いろいろ悩みました。廣田教授に相談したところ、「スタンフォードのジンバルドのところだ。君は彼の本の翻訳したんやから、きっと受け入れてくれるよ。」ということで依頼してみたところ、気持ちよく、「どうぞ」ということで招聘してくれました。
 最初は「戦争と平和の研究所」が入っているフーバータワーの地下の研究室に入りました。しばらくして心理学科が入っているビル、ジョーダンホールの中の研究室に移りました。隣の部屋に早稲田大学の春木豊教授が同じように在外研究で来ていて、一緒に研究生活を送りました。
 Zimbardo教授はすばらしい授業をすることで有名で、授業に出席して、色々講義の仕方を学びました。ある授業の後で彼の個人研究室に行き、「これからの社会心理学で取り組まなければならない研究テーマは何でしょうか。」と質問しました。彼は、「あなたは、態度と行動の関係の研究をしていますね。じゃあ、Helpingです。人を助ける行動です。困っている人が周りにいたら、助けないといけないと思いながら、人は気づかないふりをして、横を通り過ぎたりします。それは、態度と行動の非一貫性の問題ですね。」とアドバイスしてくれました。
 そこで、スタンフォード大学の文献検索システムを使って、援助行動研究の論文や本の情報を集めることにしました。援助行動とキーワードを入れると、山ほど文献のリストが出てきました。しかし、prosocial behavior(向社会的行動)は、キーワードに使えませんでした。キーワードにHelping(援助行動)を入れて出てきた多くの文献の中から代表的な研究をプリントアウトして日本に持ち帰りました。

孤独感研究の紹介
 スタンフォード大学には諸外国の研究者が集まっていました。カナダからボローチアンという名前の「孤独感」の研究者がその中にいました。その人と仲良くなって、今後の研究情報を聞いてみました。孤独感の研究だということで、援助行動研究の他に孤独感研究の文献もたくさん集めました。それらを日本に持ち帰りましたが、援助行動と孤独感の両方の研究はできそうにないので、孤独感に関する研究情報を、友人の大阪教育大学教授の工藤力さんと、関西大学での教え子で助手の西川正之さんに渡しました。日本における孤独感研究は、多分その情報をもとに始まったと思っています。その文献リストの中にUCLAのPeplau, L.A.先生たちの孤独感尺度があり、西川さんたちがそれを翻訳したのが日本で最初の孤独感尺度だと思います。

帰国後の援助行動研究
 スタンフォード大学での在外研究を終え、1980年に帰国しました。当時、日本には援助行動研究の専門家はいませんでしたので、私が呼びかけて援助行動研究チームを作りました。我々が最初に手がけたのは、援助必要場面を生活現場に設営し、たまたまその場に居合わせた人々が、どのような援助行動をどの程度行うのかを観察・記録し、人間や環境の要因を軸に分析するというフィールド実験でした。研究の結果を、どんどん学会誌や学会大会で発表しました。なじまない研究なので、最初の内は「びっくりカメラだ」と揶揄する人もいましたが、科学的な研究の条件を満たすことに配慮して行いましたので、徐々に受け入れられ、援助行動の研究者が全国的に増えました。そんな中で一番反響が大きかったのは、大阪の環状線で行ったシルバーシートの席譲り行動の研究でした。この他に、調査的な研究も行いました。インドシナ難民の地域社会への受け入れに関する研究、静岡駅前地下街のガス大爆発時に見られた若者の献血行動の研究、劇症肝炎で死にかけている赤ちゃんを助けようと放送で呼びかけたら、大学生たちが献血のために駆けつけて、全血交換で赤ちゃんの命が救われた事件について、その現場となった福井愛育病院で行った調査などで、この他にも沢山現場研究や調査研究があります。
 援助行動の研究が全国的に根付いてくると、援助行動の専門書を出版したいという願いが研究者から出てきました。そこで、学習院大学教授の中村陽吉先生との共編著で、日本で初めての専門書、『「他者を助ける行動」の心理学』(1987年、光生館)を公刊しました。執筆者は、その頃日本各地で積極的に援助行動の研究を行っていた15名の研究者でした。
 このような研究の蓄積を経て、「援助行動」(向社会的行動)が私の主要な研究テーマとなりました。年代に沿って私が行った個別研究のテーマを整理すると次のようになります。先に述べました日常生活における援助行動に関するフィール実験や調査研究、援助行動のタイプを明らかにする類型論的研究、援助行動や非援助行動の動機の研究、行動タイプと動機の比較文化的研究(ノースカロライナ大学で行った日米比較研究)、援助行動の意思決定過程の研究、地震災害時における緊急的援助行動に関する研究、日常生活場面での緊急あるいは非緊急の個人、企業ボランティア活動に関する研究などです。 
 環境問題であれ、日常生活における緊急・非緊急的な援助行動問題であれ、それらの研究は、初期の態度研究で問題となった「態度と行動の関係」に関する問題意識、フレームワークを共有しています。以後の被服行動や消費者行動の研究も同じです。

被服心理学研究
 スタンフォード大学での在外研究を終えて1980年に日本に戻ってきてから始めた研究に、被服心理学研究があります。帰国して間もなく関西学院大学教授の佐々木薫先生の紹介ということで、日本繊維機械学会の事務局長、多治見さんから電話がありました。彼は、「今まで衣服は自分自身で仕立てて着るものでしたが、既製服がどんどん出てきたので、やはり消費者の嗜好や欲求を踏まえて衣服を考えていかなければならなくなりました。そのためには心理学的な視点から衣服にアプローチする必要性が出てきました。そのような視点で、心理学の指導をしてくれませんか。」と依頼されました。衣服に対する態度と衣服の購買、着用、廃棄の行動には何らかの一貫した関係が存在するであろう。これは私の基本的な研究関心に関連すると考え、引き受けることにしました。そこで研究会を立ち上げて、講習会を開いて、家政学の被服関係の先生方に心理学的なアプローチ、データの取り方、分析の仕方、結果の読み方などをお教えしました。この活動は、何年も続き、日本家政学会の被服構成学分科会から注目されるようになりました。
 また、この活動を通じて、この分科会で活躍されていた滋賀大学教授の神山進先生と知り合うことになりました。多くの共同研究を行い、学会誌や学会大会でその結果を発表しました。同様の関心を持つ仲間が徐々に集まり出し、研究活動をグループでするようになりました。それが、被服社会心理学(Social Psychology of Clothing、SPC)研究会です。10年以上続きましたが、その間、研究会活動だけでなく、専門書や外国の代表的な専門書の翻訳本を数冊刊行しました。その活動の成果でしょうか、社会心理学研究の中で、被服社会心理学という応用的な研究分野が新たな位置を獲得するまでに発展しました。

消費者行動研究
 もう一つ、新たに始めた研究領域があります。援助行動の研究成果をある講演会で発表した時、受講者の一人(食振興という組織の代表者)から「私たち食品業界は、消費者が、食品を購入するとき、食品のどこを見て、どのように考え、特定の食品を選択決定するのかを知りたいと思っています。この疑問に答えることの出来る心理学的な研究を行い、その結果を資料として我々を啓蒙してくれませんか。」と依頼されました。これは、商品に対する態度と消費行動の関係という私の基本的な態度研究の関心に関連すると考え、引き受けることにしました。
 研究は、このような手続で行いました。スーパーやコンビニの売り場において、我々考えたレイアウトでレトルト食品を種々並べ変え、消費者の選択・購買意思決定行動を、陳列棚の上に設定した隠しカメラで撮り、買い物を終えて出てきたところで、購買決定に至った過程を出口調査で聴き取りしました。カメラ映像の分析から、おもしろいことが分かりました。消費者は、食品の選択をする時、パッケージを振るのです。どうして振るのかわからないですが、振るのです。この他にも、パッケージの内容を確認する独特の仕方がありました。また、陳列された食品の数が多過ぎると、迷って結局買わないし、少な過ぎると好きなものが見つからないので買わないのです。適度な品ぞろえが必要であることが分かりました。出口調査で聞き取った内容を、認知心理学の手法で解析し、店頭での購買意思決定過程の特徴を明らかにしました。経済学者が中心の消費行動研究会から、我々の心理学的なアプローチの仕方がユニークだと、注目されました。消費社会心理学研究の草分けと自負しています。

震災での実践
 もう一つだけ言いたいことがあります。1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起こりました。あのとき、心理学研究者でも、被災者の立ち直り、被災地の復興に何らかの形で関わるべきだという意見がありました。なおさら援助行動を研究する私にとって、その認識は強くありました。私は、研究者でしかできないことで関わろうと考え、研究室の学部生、大学院生を総動員して、被災地の現場に出かけました。
 私たちは、調査という手法を通じて救援・復興活動に関わることにしました。被災者は、避難所となっている大きな講堂に200人、300人と多数が収容されていました。そのような避難所では、何人ものボランティアが活動していました。その様子を見て、私は、被災者の要求はボランティアによって十分満たされているのだろうか、逆に、ボランティアはやりたい活動を通じて充実感、達成感を抱けているのだろうかと疑問に感じました。そうだ、被災者の要求、希望を聞き取って、整理し、その内容を避難所のボランティア・リーダーに知らせよう。ボランティアにも聴き取りをして、どのような活動をしたいのか彼らの希望を整理しよう。そして、それらをマッチングさせることによって救援・復興活動を一層有効なものにしようと考えました。震災後2週間、ほぼ1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月後に実施した調査によって、被災者の要求とボランティアの活動意向とをマッチングして避難所リーダーに情報提供しました。被災者にも、ボランティアにも、大変喜ばれました。

インA ところで、先生は、2度目の在外研究として1987年にノースカロライナ州立大学、チャペルヒル校に行かれましたが、これはどのような経緯からですか?

髙木 当時、援助行動研究が私の中心的な研究活動となっていました。そこで、世界を代表する研究者であるLatane, B.先生のところで在外研究をしたいと考えました。彼は、オハイオ州立大学からノースカロライナ州立大学チャペルヒル校に移っていました。教授陣、学生の質、施設・設備の点で高い評価を受けている有名大学です。当時、Latane教授は、大学の社会科学研究所の所長をしていて、そこのvisiting scholarとして、研究所の施設やシステムを自由に使ってもいいと提案してくれました。特に私の興味をひいたのは、computer assist panel-survey(CAPS)という調査システムでした。かなり大きい部屋の中に幾つかのブースがずらりと並んでいました。ノースカロライナ大学の学生の母集団を代表する調査パネルが多人数選ばれていて、「あなたが質問に回答することに対して謝礼が用意さています。自分の自由な時間にここへやって来て、可能な時間で、このモニタースクリーンに出てくる質問に回答してください。」と依頼されるパネル調査システムでした。
 そこで、日本で行った援助行動のタイプを析出する類型論的研究と、援助行動と非援助行動の動機を見つける研究をこのシステムを使って行い、アメリカ人学生と日本人学生の間でどのような違いがあるかを明らかにしようと比較文化研究を行うことにしました。なお、それらの結果は、関西大学の学術誌や学会大会で発表しました。

インA 少し話が変わりますが、学会の役員としての思い出についてなにかありますか。

学会理事としての仕事:学会誌編集の電子化
髙木 私の学会員としての活動の専門領域は社会心理学です。そこの社会心理学会では、代議員、理事、それから渉外担当・広報担当・編集担当の常任理事、さらに会長(理事長と呼んだ時期もある)を務めました。平成24年9月17日に、名誉会員に推戴されました。一方、公益社団法人日本心理学会では、専門別と地域別の代議員を何期か務めた後、理事、渉外担当・編集担当・財務担当の常務理事を複数期務め、平成26年6月8日に名誉会員の称号を贈られました。学会の役員として関わったことは結構たくさんありますが、その一部を紹介したいと思います。
 学会誌の編集・発刊作業は複雑多岐にわたっているため、努力して書いて投稿した論文が発刊されるまでに1年、中には2年もかかることがあります。その間、海外で同じような研究が発表されてしまうと、論文としての価値がなくなり、引用されなくなってしまいます。この問題を解決するためには、編集・発刊の電子化が考えられました。日本社会心理学会の編集担当常任理事とその後の会長の時代に、日本の心理学系学会では最初だと思いますが、編集と発刊の電子化を実現しました。日本社会心理学会には、若くて、活動的で、エネルギッシュな会員が多く集まっています。そのような会員のために少しでも早く自分の研究を世に問う機会を提供することが役員の責務だと考えました。
 日本心理学会では、編集委員を務めた後、編集担当の常務理事になり、編集委員長を引き受けました。そして、「自分には電子化の経験があるので、ぜひ日本心理学会でも電子化されたシスメムの導入をしたい。」と提案し、認められ、それが実現されました。

学会理事としての仕事:財務改革と一般向けシンポジウム、心理学叢書
その後、私は、財務担当の常務理事になりました。理事長がいろいろな企画を実行するにはお金が要るので、安定した財政状況にしておかなければなりません。新たな企画を実現するためには、節約できるところはどんどん節約することが財務担当者の責務と考え、種々断行しました。
 ほぼ時期を同じくして、学会の公益社団法人化の問題が起こりました。認可において求められる大きな条件がありました。それは、収支、すなわち、入ってくるお金と出ていくお金がバランスを保っていることでした。そうでないと公益化が実現できないのです。つまり、儲けがあるとだめなのです。
 ところが、日本心理学会には、資格関係で多額のお金が毎年度入ってきていたのです。このバランスを取るにはどうしたらいいのかを検討しました。それには、一つとして、学会の活動を増やすことが考えられました。公益団体ということは、やはり、学会が会員の研究の場という位置づけだけでなく、その活動や成果が、国民の生活の安寧、幸福、社会の安定、秩序に寄与しなければなりません。そのような目的の活動を財政面で保障していく手立てを検討しました。そして、公益法人化の申請書類には、そのことを明記しなければなりませんでした。
 公益法人化のために提出が求められている書類は非常に沢山あり、そのためのソフトも販売されていましたが、高額でも優秀なコンサルタント会社を雇い、指導を受けることが必要でした。有能な学会事務局員の助けを得て、作成された文書案をチェックするだけでなく、文書作成にも関わりました。目出度く、1回の申請で認可がおりました。心理系の学会では最初の偉業だと思います。
 公益社団法人の学会であるためには、何らかの公的な活動をしなければなりません。以前から、一般市民を対象にした公開講演会、シンポジウムは、学会大会時などで一回程度開いてきました。ところがそのテーマの多くは、必ずしも、日常的な問題に関わる、一般市民が関心を持てるテーマではありませんでした。極めて学術的なテーマでした。そこで、私が、「日常的なテーマで、講演会を全国的に開くことが必要です。」と提案し、認められました。発起人の責任ということで、2回の講演会を企画し、司会を担当することにしました。初年度の講演会は東京と京都それぞれ1回、次年度の講演会は東京と大阪でそれぞれ1回開催しました。
 講演会では、参加者は多くても500名程度です。せっかく講演会を開催しても、その効果は限られています。そこで、講演会の内容を一般的な準専門書として本にして出版しようと提案し、認められました。具体的には、学会の監修で『心理学叢書』を出版することになりました。なお、講演会だと時間が限られている関係で、演者は3名か4名程度です。しかし、本にする場合は、その領域で活躍する他の人にも執筆を依頼することで、取り上げるテーマを増やすことにしました。担当した2回の講演会を基にして、2冊の心理学叢書の編集に関わりました。1冊目が、『思いやりはどこから来るのか?利他性の心理と行動』、2冊目が『無縁社会の行方:人々の絆はなぜなくなるの?』です。

日心連と資格問題
 学会の渉外担当の理事として何期か活動したことがあります。その1つは日本心理学諸学会連合での活動です。日本には心理系の学会が40余りあると思います。それらの学会の代表者が集まって選挙をし、連合の常任理事と理事長、副理事長を選びます。連合は、いわゆる心理学ワールドの特定の問題の解決を図るという目的で構成されています。
 私は、社会心理学会の常任理事、会長の時に、その後、日本心理学会の渉外担当の常務理事の時に、連合に関わりました。日本心理学会の渉外担当常務理事のときには、連合の副理事長として、資格問題を担当しました。資格には、すでに、科目履修型の日本心理学会の認定心理士がありましたが、資格試験型の心理学検定の立ち上げに関わりました。
 その後、国家資格の問題が出てきました。国家資格の制度実現は、日本の心理学界の積年の重要な課題でした。国家資格ではありませんが、医療業務と関わる臨床心理士の資格がかなりの歴史を持ってすでに存在していました。国家資格と臨床心理士の所轄官庁が文科省と厚生省に分かれるので、最初は二資格一法案で実現するということで、150人ぐらいの国会議員からなる議連が賛同してくれて、「これ、いける」と期待していました。結局、郵政法の問題が起こり、国会が解散となり、お蔵入りになりましたが、この間、心理学のほうがまとまると、今度は医療関係者のほうからいろいろ注文が出てきて、ここのやり取りがとても難しかったです。両者の意向を調整する目的で協議会が連合の中に出来て、副理事長の仕事として、その調整に努めました。この難しい調整の努力が、日の目を見て、法制化も済み、間もなく動き出す国家資格、公認心理師につながっていると思います。
 それらの努力を認めてくれたのか、日本心理学会が支援する心理学教育研究会が企画し出版した『心理学教育の視点とスキル』(2012)の第6節「心理学教育と資格」を担当して資格問題についてまとめていますので、読んでみてください。
 

社会人や他大学の院生の指導

インA 先生のもとには、いろいろな大学から学生や院生が集まって来ているようですが、それには、関西に社会心理学の選任教員のいる大学が少ないという背景があるのですか。

髙木 はい、その通りです。京都大学や同志社大学の院生が、私の大学院のゼミナールに参加してくれました。関西大学の院生は、そのような優秀な院生がゼミナールの発表や議論に加わってくれることで、大いに刺激を受けて、「これはもっと勉強せんとあかん。」ということで、研究に励みがつきました。学外からやって来た優秀な院生が後期課程に進学すると、学部開設科目、社会心理学実験実習の副担当の非常勤講師になってもらい、「教えることは、学ぶことだ」という考えに従って、両方の勉強をしてもらいました。


関西社会心理学研究会(Kansai Social Psychology、KSP)の立ち上げ

インA 先ほどの話にあったKSPを先生が立ち上げられた経緯について教えてください。

髙木 あれは私が関西大学の助手に就任して間もない頃だと思います。京都大学の2人の院生、金児暁嗣さん(後に、大阪市立大学の教授、学長、相愛大学の学長も歴任)と田尾雅夫さん(後に、経営心理学を研究し、京都大学の経済学部の教授となる)と一緒に立ち上げました。3人とも研究が大変好きでした。そこで、「若手研究者だけで、代表者を置かず、会費を徴集せず、全て堅苦しいことはやめて、ただ集まって、発表する会を開きましょう。」ということになったのです。研究会の後、飲むことが好きな人たちが結構いましたので、どちらがメインか分からないようなときもありましたが、会後、飲食しながら、みんなで、先ほどの研究発表はどうだった、こうだったと、議論していました。
 最初に相談に行ったのは関西学院大学の田中國夫先生と佐々木薫先生でした。両先生は、「おもしろい、どんどんやりなさいよ。」と励ましてくださって、KSPを始めました。その後、京都大学の木下冨雄先生にも加わっていただきました。我々は、だんだんと大学の役職に就き、忙しくなって、欠席することが増えてきましたが、木下冨雄先生が毎回欠かさず出席して若手研究者を指導していただきました。生みの親は我々ですが、育ての親は木下先生です。今日も続いていると思いますが、この研究会活動は他の地域にも知られることとなり、名古屋でも九州でもそのような研究会ができたようです。

インA そうですか。

髙木 なお、Young Social Psychology(YSP)というサブの研究会も開かれるようになりました。現在早稲田大学の教授をしている竹村和久さんたちが中心となった会で、特に、方法論に興味をもっている若手研究者の会でした。

インA ありがとうございます。

インB もう終わってしまった話かもしれないのですが、京都大学で先生が心理学を学ばれたときの教授陣の話や学友の話など、その辺りを教えてください。

髙木 そうですね。私の専門領域は社会心理学ですが、社会心理学の専任教員は京都大学にはいませんでしたので、全て学外の非常勤講師の先生から指導を受けました。心理学教室の主任教授の園原太郎先生は発達心理学が、助教授の柿崎祐一先生は知覚心理学が、同じく助教授の本吉良治先生は学習心理学が専門でした。
 私が京都大学から博士の学位をいただいたのは、本吉良治先生からお声かけをいただいたからです。先生は、学位審査の対象者を見つける時、周りの人に、「卒業生で、今誰が頑張っていますか。学位を取っていますか。取ってないのなら、学位に値する研究をしているか、研究業績を集めて、誰かその領域の専門家に読んでもらいましょう。そして、ゴーサインが出たら、声かけしましょう。」と相談されたようです。ある時、先生に呼び出され、学位申請をしてはどうですかと意向の確認がありました。「先生、私は社会心理学の研究をしていますが。」と答えると、「いや、人に読んでもらった。君は良い仕事をしているから、まとめなさい」と言っていただいきました。それで、今までの研究の中から、「態度の構造化の研究」、「態度と行動の関係の研究」、関西大学の研究所でやった「生活現場での態度と行動の一貫性の研究」をまとめて、京都大学の博士論文に仕上げることにしました。ボリュームが多過ぎるので、研究所の研究は副論文の形にして提出しました。本吉良治先生が主査、社会学の教授と生理心理学の教授が副査となり、3人から口頭諮問を受け、合格して学位をいただきました。なお、学位取得のありがたさを実感したのは、学位記授与式においてでした。京都大学の総長の前に並び、一人一人署名しながら、学位記を授与されました。驚いたことに、参列した99名の内で文系は、私1人でした。工学部、農学部、医学部などの理系の研究科の学位のほとんどは課程博士ですが、私がいただいたのは論文博士でした。

インB それが84年ですね。

髙木 はい。私は、本吉良治先生から学位をいただいたことが人生における大きな転機になったと思っています。それ以降、研究や教育に対する姿勢や責任感が明らかに変わったことを実感しました。

インB 京都大学は、先生の専門と学生のやりたいこととが必ずしも合っていない時でも、学生の意向を尊重し、結構自由にさせてくれる大学という風土があるようですね。

髙木 そうです。私の場合のように、社会心理学の指導教員がいなければ、大体、社会心理学に興味・関心を持っても、「指導する人がいないから、だめだよ。」、「責任をもって指導できないよ。非常勤講師はいるけど、卒論や修論を書くのに、指導を求めるのは難しいよ。」と言われます。京都大学は、「頑張るなら、頑張れよ。」という感じで、言い方は悪いですが、「捨て育ち」の感がありますね。
 他大学では、先生の研究の一部を担い、共同研究者というよりは研究補助者として研究に加わり、研究結果の一部を基に論文をまとめるようなことが多いと聞いています。京都大学は、「あなたのやりたいことをやりなさい。出来る範囲内で指導します。研究の便宜は図りますが、あとは自由に自己責任でやりなさい。」という感じです。京都大学では、野性的な人が育つといわれるのは、そのようなところから来ているのではないでしょうか。

インB 先生のお話を伺っていて感じたのですが、現場で結構役立っているといいますか、現場に入っていって心理学を実践されているようですが、それも京都大学の風土によるのでしょうか。

髙木 多分、そのようなことだと思います。

インB 私は、他の京都大学出身の先生にも、そのような印象を持ったことがあります。ただ、私はそのような先生に直接お話を伺う機会がなかったので、それが学校の文化なのか、先生の指導方針なのかよく分かりませんでした。

髙木 社会心理学自体が、現場に入って研究することを求めていると思います。私が会長のとき、まずは、若い研究者をいかに現場に送り出すかを検討しました。現場に入っていって偶然にでもつかんだ発見・驚きを研究のテーマにすることが研究の引き金になり、社会貢献の糸口になる可能性の大きいことを訴えました。

インA なるほど。

縁で集まってきた研究者

髙木 研究の始まりと展開は運命的なもので、まさしく、人との偶然の出会い、縁が関わっています。人生は縁ですが、研究も縁です。
 私は、学生に、よき「書」を得なさい、よき「師」を得なさい、よき「友」を得なさいと言います。私の場合は、よき「書」は『コミュニケーションと社会的責任』と“Individual in Society”ですが、よき「師」は廣田先生と木下先生です。よき「友」は、いろいろな研究で苦労を共にした仲間です。院生であり、共同研究者である彼らは、偶然の出会いから始まり育った親密な関係にある人たちです。その中には、研究者だけでなく、職場で起こった問題の解決を願って大学にやってきた一般社会人もいます。二人の例を紹介しましょう。
 その一人は、当時60歳代男性、Kさんです。ダイエーの役員として社長の番頭(社長室長)をしていた人です。彼は、社長の命を受けて、東京から神戸に赴任し、ダイエー系の流通科学大学を創り、その経営を任されていました。さらに、神戸にあるKiss-FM という放送会社の社長もしていました。そんな時、阪神・淡路大地震が起こりました。地震後すぐに会社に駆けつけたところ、社屋の被害が激しく、通常の放送番組を流すことが難しい状況でした。彼は社長としてある決断をしました。こんな時、地域の放送会社はどうすべきか考え、予定されていた放送番組を全部取り止めて、被災者に役立つ救援情報を流すことにしました。「どこの井戸の水は飲めます。」、「どこの病院では、透析ができます。」、「どこのラーメン屋は、ただでラーメンを食べさせてくれる。」などといった被災者には有り難い情報が流れました。これを聞いた市民から被災者に役立つ情報が次々に会社に寄せられました。何千という情報で、それらを整理して、1日中流したのです。
 彼は、以前、社長の指示で、情け容赦なく人員整理をしてきました。ところが、これらの素晴らしい人間性にあふれた市民の行為に感激し、人間にはこれほどすばらしい面もあるのだということに気づき、その思いやりの人間心理を研究するために、会社を一時休職して、私の大学院にやって来ました。
 被災地の避難所の状況はすごかったです。体育館や講堂に沢山の被災者が詰め込まれていて、彼らが使う便所は、水が来ないので流れず、便が詰まって使用できない状況でした。また、被災者はほとんど着の身着のままで逃れてきた人たちで、着たものは非常に汚れていました。そのような中で、便所を掃除する人たち、被災者の下着を集め、洗って翌朝に持って来てくる人たちがいました。被災者ではありません。彼が関係する会社の社員でした。彼らは、企業ボランティアとして活動していたのです。
 企業ボランティアとして活動が始まるまでの経緯、活動の内容や抱えた問題や課題など聞き取り調査し、災害時に貢献する企業ボランティアのあり方について修士論文を書きました。博士論文では、同じように、東北地方で発生した地震や津波の被災者を救援するために個人や企業が行ったボランティア活動を中心にまとめました。
 もう一人は、当時50歳代男性のIさんです。彼は、日本航空のキャビンアテンダントのチーフマネージャーをしていた人です。航空機の客室という閉ざされた空間のかなでは、提供されるサービスに対して色々なクレームが出てきます。「料理がまずかった。」、「対応が悪かった。」、「前に迷惑をかけている人がいるのに、注意しなかった。」などなどです。研究の材料として研究室の持参したクレームは何千件もありました。彼は、閉ざされた空間の中で提供されるサービスを通じて、サービスの受け手である乗客と、サービスの提供者であるアデンダントの間で、双方が満足できる関係をいかに作り上げられるのかを研究したいと言いました。どのような内容のサービスをどのように提供どうすれば乗客は喜び、同時にサービス提供者も仕事の達成感、充実感を持てるか、そのような関係はどうしたら築けるのかをアテンダントと旅行経験者を対象に調査して、修士論文にまとめました。彼は、ホテルでのサービス提供関係にもその結果を応用して、研究を発展させました。
 
インA クレイマーとして済ませるのではなくて、自分たちがそれをどのように生かせるかという視点ですね。

髙木 そうですね。例えば、迷惑な乗客がいた時、単刀直入に注意するのはだめです。「静かにしてください。他の人に迷惑ですから。」と言うと、注意することを嫌がる他の乗客もいるのです。客室の雰囲気が悪くなるからです。では、どのように注意したらいいのでしょうか。難しい問題です。時間のこともあり、その内容をお話しする時間がありません。現実の生活場面で起こる問題の解決法にも適用できるおもしろい方法がたくさんありました。

 私の研究室の院生には、関西大学の学部から上がってくる人もいますが、むしろ他大学から来る人の方が多いです。また、既に大学を出て、社会で仕事して、問題を抱えて、それを解決したいとやってくる社会人も結構いました。私は、いずれの人たちに対しても、「ウエルカム、ウエルカム」で対応しました。私は、むしろ、多様な背景、問題意識をもっている人たちを指導することに一層喜びを感じるタイプです。

インA 先生のところにそのような人が多く集まってくるのですね。

インA ありがとうございました。では、予定の時間になりましたので、これで終わりにしたいと思います。今回は、本当に貴重なお話をありがとうございました。

(録音終了)
インタビュアー:荒川 歩(武蔵野美術大学),鈴木朋子(横浜国立大学),小泉 晋一(共栄大学)
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