祐宗 省三先生
動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。
祐宗 省三先生の略歴
・広島大学、社会的学習理論、バンデューラ、ニール・ミラー、ICP「祐宗・ベイン賞」
・1955年、広島大学教育学部心理学科卒業。1957年、オハイオ州立大学に留学。1959年に広島大学大学院博士課程を中退して、広島大学助手に就任。その後、広島大学教授、武庫川女子大学教授を歴任。2008年、日本心理学会第3回国際賞(功労賞)受賞。1976年、文学博士「弁別移行学習の下位問題分析による学習様式に関する発達的研究」。
・広島大学で上代晃先生から学習心理学の指導を受け、ラットの弁別学習の研究のほか社会的学習理論を日本に紹介し先駆的研究を行いました。バンデューラとも交流をもち、国際心理学会(ICP)でも国外連絡調整委員長として活躍をされました。ICPには「祐宗・ベイン賞」が設立されています。
日時:2015年2月27日(金)
場所:祐宗先生ご自宅にて
インタビュアー:小泉晋一(共栄大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)、高砂美樹(東京国際大学)
場所:祐宗先生ご自宅にて
祐宗 まず、私の自己紹介をさせてもらいます。
私は現在、緑区大島にある相模原ロイヤルケアセンターにおります。車椅子ですけれども、昔は、学生時代に北アルプスに登ったり、サッカーをしたり、それからスキーをしたりしたものです。今では、杖をついておよそ100mくらいは歩けます。
苗字は「ゆうそう」ではなく「すけむね」です。名前は「しょうぞう」ではなく「せいそう」です。「1日に3回ぐらいは反省せよ」と言って、母がつけてくれたということを後に聞きました。ですが、なかなか反省できません。
それから、今年、満86歳になります。私は広島出身で、広島大学を卒業して、最初は学習心理学を勉強しました。広島には、教育学・心理学を専門に研究する教育学部と、教員養成をする学校教育学部が別にあるわけです。これは全国でも珍しいと思います。
今、広島の平和公園には碑がありますね。この墓碑銘を書いたのは、私が広島大学で英語を教授してもらった先生です。雑賀先生です。この雜賀先生は、毎期のテストに、テキストの最初のページと最後のページと真ん中のページが出るのです。皆それを知っているものですから、勉強していって、皆「優」をもらったのです。
私は現在、原爆手帳をもらっているわけです。それで、医療費はただです。なぜもらったかといいますと、学生時代に、近くの山の上に勤労学徒動員で学校林の伐採に行っていました。8月6日の朝に、一応食事をして座っていましたら、南から飛行機が飛来して来たのです。それをはっきり見たのです。そうしたら、すぐにピカーと光って、ドンときのこ雲が上がったのです。
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 見られたのですか。
祐宗 ええ。それをはっきり見たのです。
ですが、お蔭様で今、元気なのです。中心部にいた人はほとんど死にましたが、生きている人がいました。ちょうどその時、電車に乗っていても元気な人もいます。別の電車に乗った人は全員死んでいます。そのような状況だったのです。私は、そこで命拾いを一つしたわけです。
また別の命拾いをしたのは、学生の頃、最初は広島師範学校でした。そのときに、もう学校では勉強はなくて、寮の中の農作業をしていました。そこにアメリカの機銃掃射、グラマンが来たのです。ちょうど100mぐらい離れた所へ、バンバンバンと撃ってきたのです。僕はそのときに命拾いをしました。それから、広島に1トン爆弾が落ちたのです。これも大きな音がしたのですが、僕は助かったのです。それからもう一つは、阪神大震災です。ちょうど広島に帰っていたのです。そうしたら、夜、家がギクッとしました。何だろうと思って、朝になって起きてテレビを見たら、神戸がやられていました。そのときでも命拾いをしたのです。
インB そのとき、ちょうど武庫川女子大学のお勤めのときですね。
祐宗 そうです、そうです。
それからもう一つ貴重なことは、日本の心理学の開祖、西周です。彼が生まれたのは津和野です。そこへ何回も行ったことがあります。そのうちの1回は、発達心理学で著名な柏木惠子先生をお連れしたことがあります。それを懐かしく思っています。
それから広大を定年後、武庫川女子大学に招聘されたのです。それは大学院臨床教育学専攻科を作るためです。初代研究科長をして、今、修士課程、博士課程がありますが、僕は何人か博士号を出しました。そのうちで覚えている一人は長谷範子さんで、四天王寺大学の教授をしております。それからもう一人は、藤原さんという人ですが、この人は最近、大阪市立大学の教授になったそうです。
それから次に、おかげさまで、武庫川女子大学では非常に高給をもらったのです。そのようなことで、南米とアフリカを除く多くの国々に行きました。その中でも、東西にドイツが分かれていたでしょう。そのときに、東ドイツのライプチヒの国際心理学会に行きました。そのときに一緒だったのが、今は亡くなられたと思いますが、波多野誼余夫氏も一緒でした。
日本人は全部一つのホテルに閉じ込められて、パスポートも閉じ込められて、そこから出られないようになりました。ですから、ライプチヒの町しか覚えておりません。ソ連兵がずっと歩いていました。それから、酒に酔ってうろうろしている人が非常に多かったです。後に、鉄のカーテンがとけて、私はもう一度行きましたが、今ではソニーセンターになっていました。
インA ソニーセンターですね。今、行かれたのは70年代ぐらいですか。
祐宗 いや、はっきり覚えておりません。72年には東京で、東京プリンスホテルで国際心理学会がありました。そこで僕は、シンポジウムのコメンテーターになりました。弁別学習です。
それから私は、先年、天皇陛下から瑞宝中綬章をもらいました。もしよかったら、見ていってください。
本論に入りますが、まず「心理学を学ぶ前。なぜ心理学を学ぼうと思ったか」というところです。今は国立ですが、当時は官立といいましたが、私はまず、官立の広島師範学校男子部本科を、昭和24年3月に卒業しました。そこで、川中勝教授から心理学を初めて学びました。この先生のおかげで、広島市立千田小学校に教員として勤務しました。当時、川中先生はそこの小学校の校長もなさっていて、30歳代後半でした。この小学校のすぐ隣には、今の国立、官立の広島文理科大学がありました。それから4年制の旧制広島高等師範学校がありました。そして、国立広島大学がありました。私は、川中先生のお勧めで、新制の国立広島大学教育学部心理学科に入学しました。
次に、「出身大学、師事した先生について。どこで誰に心理学を学んだか」というところです。まず、国立広島大学教育学部では、私は、人文科学、社会科学、自然科学については、広島師範学校の単位を認められて、受講しなくてもよかったのです。ただし、ドイツ語と公衆衛生学の受講が必要でありました。ドイツ語と英語は必修科目でした。ドイツ語については、安田教授でした。英語は、先ほども申したと思いますが、雑賀教授で、この先生が平和公園の墓碑銘、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と書かれた先生です。先ほども申しましたが、私は原爆手帳をもらっているために、死去したときは、この碑の過去帳に収まることになっています。
広島大学教育学部心理学科、大学院時代、修士・博士の課程では、次の先生に習いました。古賀行義先生です。旧制の東京帝国大学文学部心理学科卒業後、文学博士です。日本で最初に因子分析を広めた先生です。一般心理学や教育心理学などを担当しておられました。
次に、三好稔先生です。これは、旧制の広島文理科大学教育学科心理学専攻で教育心理学を担当しておられました。文学博士です。次に、高木貫一先生です。旧制の東京帝国大学文学部心理学科を卒業して、文学博士です。東大の航空研究所の所員をしておられました。広島文理科大学では知覚心理学を担当しておられました。
それから、兼子宙先生です。兼子先生は、旧制の東京帝国大学文学部心理学科の卒業で、社会心理学を担当しておられました。酒井行雄先生です。これは広島文理科大学教育学科心理学専攻卒で社会心理学を担当していました。
次に、これは重要な先生ですが、上代晃先生です。この上代晃先生は、当時の学習心理学の三大巨頭の一人で、一人が上代先生、一人が梅岡先生、もう一人は東大の八木先生です。この上代先生が、私を学問の道へ導いてくださった先生です。文学博士です。40歳で亡くなられました。
それから、古浦一郎先生です。広島文理科大学教育学科心理学専攻卒業後、文学博士です。発達心理学を担当しておられました。私の博士論文の主査でした。博士論文のタイトルは「弁別移行学習の発達的研究」です。当時、弁別学習は学習心理学の花形でした。
これが上代先生です。(上代先生の写真)
インA この人が上代先生ですか。ゲシュタルトで有名な方でしたね。
祐宗 ええ。当時は主としてシロネズミを使って研究していたのです。
インB これは上代先生とは違う写真ですね。
祐宗 そうです。これが酒井先生です。これが古浦先生です。これが三好先生です。これが楠弘ゆう先生(弘ゆうのゆうは、門構えの中に右)ですが、僕は習っていません。これが兼子先生です。
これは萩野源一先生です。広島大学幼児学専攻の修士課程、博士課程におられました。ちょうど僕はその当時、教授でした。この先生が、「新しく幼児学専攻を作りたいんだが、祐宗君、どうかね」とおっしゃってきました。僕は「分かりません」と言ったら、廊下を歩きながら皆に聞いても、どうもはっきりしないので「自分が決める」と言われて、幼児学というものを作りました。これは全国でも、今、広島に一つですね。
これは林重政先生で、私は個人的に、統計学のカイ二乗検定、t検定、F検定を勉強しました。これは広畑亘先生です。この先生は若くして、54、5歳の若さで、心筋梗塞で亡くなられました。
それから、山本多喜司先生です。教育学部心理学科卒業で文学博士ですが、人格テストを教わりました。今、横浜に住んでおられます。鶴見区です。時々、所沢の早稲田大学に行って、社会人に講義をしているという話がありました。この先生とよく飲んだものです。
その次は重要なことなのですが、私の友達で山内光哉、広大出身ですが、現在は九州大学の名誉教授です。この方と一緒に「Lindquist分散分析」というものを個人的に勉強しました。Lindquistです。これは、タイムの次元を含めた分散分析です。例えば、小学校の子供と中学校の子供とがどのように違うかということだけではなくて、小学校の子供では1学期はどうだったか、中学校の3学期ではどうだったかというようなタイムの要因ですね。それを勉強したのです。これはこの山内さんと一緒に独学でやりました。その実験で研究をしまして、これを『心理学研究』に載せたのは、おそらく私が最初です。
それから、私はフルブライトで、大学院博士課程の学生と同時に、大学院助手として選ばれて行きました。行き先は、アメリカのオハイオ州立大学のDelos・D・Wickensという先生でした。この先生は、最初、僕が部屋に行きましたら足を机の上に置いて、「君はフルブライトで来たんだね」「はい」と言ったら、「それにしては会話がだめだね」というような話をされました。
そして、日本銀行から来た磯部朝彦という先生と一緒に、当時、オハイオ州立大があったコロンバスという町に行きました。そのコロンバスに出て行ったらコロンバス・シチズンという、東京であれば『東京新聞』ですが、そのようなものに、昔、「サヨナラ」という映画があったのです。それは宝塚の女性とアメリカ人の男性の恋愛という映画です。それに磯部さんと二人でコメントしたわけです。
そのウィーケンス先生の下で、私は「精神電流の古典的条件づけ」の研究をしました。これは精神電流ですね。そこで、私は先生の助手として、学生のテストの採点をさせてもらったのです。「君は読めるんだね」ということでやったのです。そして、部分強化、partial reinforcementに対する古典的条件づけをやりました。それを京都大学の『PSYCHOLOGIA』というものに載せたことを覚えております。
インA はい。雑誌ですね。
祐宗 今から言うことはダブるかもしれませんが、「研究について選んだ理由と変遷」です。まず、広島大学の教育学部心理学科は、当時はシロネズミの動物実験をやっていたわけです。課題としては、消去と自発的回復、extinctionとspontaneous recoveryについて研究をしました。
インB それが『心理学研究』に書かれた、「シロネズミを用いた反応交替法による消去と自発的回復に関する実験」ですね。
祐宗 そうそう。そうです。
インA このネズミはラットですか。
祐宗 ラットです。マウスではありせん。大きい方です。それで、学部の卒論は英語で書きました。
インB そうですか。「心理学的力の方向の変化の基づくものとしての消去」が、日本語訳なわけですね。
インA これは英語なのですね。
祐宗 修士論文も研究領域は同じで、これは日本語で書きました。文学修士の学位も取得しました。
博士課程のときに、次のものを翻訳しました。これは重要なのですが、米国イェール大学のニール・ミラー先生と、ジョン・ドラード先生が書いた『Social learning and imitation』、これを『社会的学習と模倣』と翻訳いたしました。理想社です。理想社に連れていってもらったのは上代先生です。理想社の社長が「まねの心理学」にしなさいと言われたのですが、上代先生は「いやいや、元通りがいい」と言うので、『社会的学習と模倣』となりました。この本を、当時、広島大学の学長であった森戸先生に持っていきましたら、「学」という字の説明をされました。ですが、その意味ははっきり覚えていません。
インB なぜこれを翻訳されるようになったのですか。
祐宗 これは上代先生のお勧めです。上代先生は若くして、研究の先取りをする人でした。この本の翻訳は、山内光哉という九州大学名誉教授、それから細田和雅という私の広大の同期生の計3名で翻訳いたしました。
先ほど申しましたが、私はフルブライトで留学したのですが、博士課程学生、大学院助手として行ったのは昭和32年です。今、横浜につないである「氷川丸」で、アメリカのシアトルへ16日かかって行きました。そして、シアトルから山越え谷越えして、ずっとシカゴまで行って、シカゴで町を見ようと思って町へ出たのです。それで、もう時間が来たと思って帰ってみたら乗り遅れたのです。それは時間帯が違っていたのです。それで、真夜中のコロンバスに着いたら、助手や、広島大学で友人だった人たちやアメリカの人たちが迎えに出てくれていました。真夜中でした。
それで、私はぴょこんとお辞儀をしたのです。そうしたら、アメリカの人が「お辞儀する必要はない。まっすぐ立って、『初めまして』と言えばいいのだ」と言うのです。以後、偉い人の前でも、まっすぐに立っているのです。天皇とマッカーサーが写っている写真があるでしょう。どちらもまっすぐに立っているでしょう。マッカーサーは手を後ろにやっているでしょう。これはやはり、天皇よりも上だという意思表示なのです。そのようなことを知っております。
その次に、留学中に図形残効の研究をしました。そしてこれを、アメリカの『Journal of Experimental Psychology』に載せました。ロジャー・マイヤーズという人なのですが。
インB 「Local variations in the magnitude of a figural aftereffect」です。
祐宗 そうです。当時は、相良・大山という先生の図形残効の研究がアメリカでたくさん研究されて、有名だったのです。それで「お前とやろう」と言って、旧友のロジャー・マイヤーズと一緒に研究発表して、それがアメリカの実験心理学の雑誌に載っています。これは今、手元にありませんから、広島大学に寄贈しているかと思います。
それからアメリカ留学のあと、広島大学の教育学部の助手として採用されました。そして、日米共同研究というものが始まったのです。それは近親婚の研究です。原爆放射線研究所が比治山公園にあるのですが、そこに来ていたアメリカのニール博士という人です。現在、近親婚の研究は、アメリカで、1冊の本として英語で出版されております。『コンサンギュニティ』といいます。
インB この共同研究は、どのようなきっかけで始まったのですか。
祐宗 それはアメリカの方からの申し出です。それで日本側が受けて立ったわけですね。当時は、アメリカが強かったのです。
インB 留学されて戻ってきたばかりの先生に。
祐宗 そうそう。そうです。
その当時、広大の教育学部の教授だった三好稔先生から次のようなお言葉をいただいたわけです。それは「君は、これまで学習心理学の重要課題の研究をしてきたが、心理学の領域では、それだけではなくて、児童、青年、成人に関する研究が必要である」と。そして、広島市の宇品にあった県立広島女子短期大学、今の県立広島女子大学で「児童心理学で呼ばれているから、君、行かないか」ということになって、私はすぐ「はい」と言いまして、行ったわけです。そこで7年間、幼児心理学、児童心理学、そして一般心理学を自分で研究、勉強しながら教えたわけです。
これも重要なのですが、以前お世話になった川中先生という方が、すでにそこの教授でおられました。この先生のおかげで、恐らく私は採用されたのだと思います。その県立女子短期大学および広島女子大学の時代には、奇しくも習った三好先生のお嬢さんがいました。
インB 学生としてですか。
祐宗 ええ。それから、古浦先生の娘さんもおられました。それから、三好先生・上代先生の娘さんもおられました。奇しくもです。
それで、7年間が過ぎたときに、また三好先生から良い就職のお世話をいただいたのを覚えております。「この広島大学教育学部には附属幼年教育研究施設というのがあるから、君、来ないか」ということで、私は「はい」と言って、すぐそこに行ったわけです。これは現在も日本で唯一の研究機関です。この研究施設では、私は最初、幼児の数概念の研究、それから幼児の情緒、感情の研究をしました。これも冊子にまとめたわけですが、今どこにあるのか分かりません。
この頃、広島大学幼児学専攻、それから心理学専攻の教授として教えておりましたが、主に、社会的学習の領域で研究をしました。
インB 『心理学研究』に発表された、「幼児の観察学習におけるモデルおよび観察者の反応パタンの分析」ですね。
祐宗 ええ、そうです。研究結果を海外の学会で報告するため、南米とアフリカを除く多くの国で研究発表を行いました。特にポルトガルでやったり、イギリスでやったり、その他多くの国のおかげで、研究発表をすることができました。
それから次に、「レジリエンス検査」というもの出しております。立ち直りですね。これはカナダのDr. Chok Hiewという先生とともに、共著で発行しております。これは竹井機器工業株式会社から出しております。
次に、広島大学留学センター長をしたことがあります。これは日本の幼稚園と保育所に関する歴史的な事情、現状について研究をして、留学生を対象に、週に1回授業をいたしました。
ついで私は63歳で広島大学を定年退職して、先ほども言いましたが、西宮の武庫川女子大学にまいりました。それで、非常に給料が高かったので、あちらこちらに行くことができたわけです。観察学習やモデリングの研究をしておりました。これも海外の学会で発表することができました。
これは重要なのですが、私が広島大学教育学部心理学科3年生のとき、昭和28年に、古賀先生を実行委員長として、広大では初めて日本心理学会が開かれました。このときの下働きをしました。そのとき、戦時中に在米しておられて、戦後、教育使節団の一員として帰国された南博先生と望月先生の宿をお世話したのです。モデリングの先生で、バンデューラ先生は後に私の知己になりました。私の娘もバンデューラ先生のご自宅に泊めてもらったことがあります。
インB すごいですね。
祐宗 この先生には全国のあちらこちらで講演をしてもらいました。中でも、日本心理学会で講演してもらったのですが、そのときに私が紹介いたしました。
私は、今、日本心理学会認定心理士、審査委員、評議委員をしております。それから日本心理学会の名誉会員です。元、速水先生という方がいらしたのですが、学術奨励基金というものがありますが、それの管理者となりました。これは、東京国際大学の詫摩先生の次に私がなりました。
インA 速水先生とは、東大出身の速水先生ですか。速水滉先生ですね。
祐宗 そうです。詫摩先生が夜か昼かに来られて、「君、ひとつ、自分の後釜としてがんばってほしい」と言って、何か書類をもらったのです。
それから私は元・発達心理士です。会費を納めなかったので「元」です。それから元・学校心理士です。元・指導健康心理士です。どれも会費を納めなかったから、だめになったのです。会費を納めなかったのは体調がすぐれず、また引越しなどで手紙がわからなくなったからです。
それから、今、思い出すのですが、ニール・E・ミラー先生です。そのニールさんとも後に知己になりました。ソーシャルラーニング、社会的学習に新しく領域ができたのは、心理学者としてのニールと、社会学者としてのドラードが一緒になってできた賜物だと思っています。
それから、広島大学の大学院幼児学専攻に博士課程ができたわけですが、そのときの第1期生に、七木田さんといって、横浜国立大学を出て、現在は広島大学におります。この人が入りました。この七木田さんは、アメリカのオレゴン州立大学で修士号を取った人です。もう一人は湯澤さんといって、東京大学大学院文学修士課程を出た人です。
私は広島大学大学院のときに、観察学習研究会、弁別学習研究会というものを特別に設けて、毎晩勉強しておりました。
それから私は共著の筆頭者として、次の本を有斐閣から出しております。『思いやりの心を育てる』、それから『やりとげる力を育てる』を出しております。
学会の仕事ですが、『心理学研究』の審査員をしました。それから認定心理士の審査もしました。
インB 先生、ICPの国外連絡調整委員などをされていますね。
祐宗 はい。私は、ICPというもの、International Council of Psychologistsの役員として、祐宗・ベイン賞というものを出しました。今、後は誰かが継いでいると思います。
それから、著書は多くの本を出版しました。これは共著、分担、それから英語ではMigration、日本からアメリカへ行く、アメリカから日本へ来ること、一方的にはImmigration、その本も共著で何冊か英語で出しております。
以上で、何かご質問がありましたら、何でもいいです。
インA はい。では。どこから言いましょう。では、簡単なところからです。先生がお会いになられて、バンデューラとニール・ミラーは、個人的にどのような方でしたか。
祐宗 ニール・ミラーは、非常に何でも話をする人です。私はイギリスで会いました。バンデューラさんも気さくな人で、毎晩7時に夕食をして、9時まで執筆して非常に規則正しい人でした。日本料理が好きで、パロアルトのスタンフォード大学からサンフランシスコまで車でダーッと行って、そこでごちそうしてもらったことがあります。
ここに留学してもらったのは、大阪市立大学の教授をしている、後浜さんです。私の写真をどんどん撮ってくれました。先年、フルブライトの同窓会で、横浜の山下公園の氷川丸が見える所で、勲章をもらったときに会を開いてもらいました。この人たちは、僕が広島大学大学院で教えた学生でした。
インB せっかくフルブライトの話が出たので、どのような経緯でフルブライトで留学されることになったのかということと、なぜ、ウィケンソン先生のところに……。
祐宗 これは、上代先生のおかげです。上代先生はDuke大学のフルブライト招聘教授として行かれることになっていました。上代先生が私と一緒に行くことになっていたのです。しかし、胃がんになられて、それで、私は広島でお別れしたのですが、その時に、上代先生が「まあ、祐宗君先に行っとけや。後から行くから」と言われました。しかし、とうとう来られなかったのです。ですから、死に目にあっていません。すべて上代先生のおかげです。
インA 先生が卒業論文を書かれた頃に、先ほどネズミを使われていたというお話がありましたが、当時、もう広島では割と皆さん、ネズミを使っていましたか。
祐宗 当時は多少ありました。上代先生が、アメリカではこのような研究をしていると言われて、やってもらったのです。先ほどの上代先生の写真は、ネズミ小屋の前の写真なのです。
インA ああ、そうなのですね。
祐宗 ええ。ですから、私は、動物実験から人間研究まで、ほとんどをやったわけです。臨床についても、いくらかやりました。
インA ちょっと話が前後してしまうのですけれども、先ほどあった「祐宗・ベイン賞」は、どのような名前の組み合わせで決まったのでしょうか。お聞きしてよろしいでしょうか。
祐宗 それは、ベインさんが僕のICP(International Council Psychologists)という学会で知己だったのです。
インA ああ、そうなのですね。そちらのベインですか。では、古い方ではなく新しいベインの方ですね。なるほど。レジリエンスとつながるのですね。
祐宗 これは、心理検査「祐宗・Hiewレジリエンス心理検査」、これを今回マークシートにするらしいです。これは昔のものだと思います。
インA これは私も使ったことがあります。レジリエンスです。日本で一番早い頃ですね。
祐宗 そうです、そうです。恐らく最初だと思います。ですが、『心理学研究』には、時々、この領域の最近の研究が載っています。
インB レジリエンスの研究を始められたきっかけは、何かあるのですか。
祐宗 これは、ヒューさんが日本に来ていまして、僕と打ち合わせをして共同著作したのです。
インA Chok Hiewさんですね。
祐宗 今、カナダのフレデディクトンという町に住んでいます。ここにも何回か家内と行きました。彼はマレーシアのペナンの出身です。私は、マレーシアのペナンにも何回も行きました。いまだに、日本軍の侵略に対して反感を持っている人がいます。その反面、喜んでいる人もいます。といいますのは、独立したからです。民族意識を持って独立できたからです。
海外の留学生も、僕はだいぶ招聘しました。一番多いのが韓国です。それから台湾、中国、それから、ぼつぼつヨーロッパからです。僕は、ヨーロッパから来た人に、“foreign students”と言ったら、「違う」と。“international students”と言ってくれと言っていました。
インC 先生、ちょっとよろしいですか。
祐宗 はい。
インC 先生の『臨床教育学における……』を読ませていただいたのですけれども、先生が学部の頃に、大学生の頃に、進取気鋭の先生が臨床心理学を教えていたとありますが、これが山本多喜司先生なのですか。
祐宗 そうです。
インC どのような先生だったのですか。
祐宗 彼は奈良県の出身でした。昔、横山先生という方が日本心理学会長だったのです。その先生の娘さんと結婚して、今、一人お嬢さんがいて、日本経済新聞に勤めています。いや、懐かしいです。
インC 先生の留学中に、ロビンソンという先生が。
祐宗 ええ、カウンセリングの。
インC はい。それは、折衷カウンセリングか何かの人ですか。
祐宗 この先生は、僕の研究室に来て、「君は日本から来たんだね」とお尋ねになるので、私は「はい」と答えたら、日本でアイフェルというものがあったのですが、その参加者と文通しているので、ひとつこの英語を日本語に訳してくれと言われて、その仕事をバイトでしました。当時、1時間5ドルもらいました。当時、1ドルというと、ダウンタウンに出て、定食を食べてビールを1杯飲んで1ドルだったのです。その時代に1時間5ドルをもらいました。ロビンソンは、日本では非常に有名ですね。彼も寡黙な先生でした。
インC ロビンソン先生はその当時、いくつぐらいだったのですか。
祐宗 はっきり覚えていませんが、まだ40代かそこらではないでしょうか。そのウィーケンス先生も48歳でした。私が28歳でした。先生は、私を学内のファカルティ食堂、教員が行って食べる所に連れて行ってもらったことがあります。それから、スケートに連れていってもらったこともあります。それから、自宅に1回呼んでもらって、ごちそうになりました。アメリカでは、自宅に呼ばないと親友などと言わないのです。自宅に行かないと、いくらホテルでごちそうしても親友にはなれないのです。Intimate friendというのです。
インB 先生はいろいろな国際学会に行かれたとお話しいただきましたけれども、印象に残っている学会、場所などがありますか。
祐宗 それはメキシコシティであったときです。高い所です。それが一つ印象に残りました。下に下りて、アカプルコで闘牛を初めて見ました。いや、すごいです。最後は、馬に乗った人が最後にしとめるのです。とたんに、牛が死にます。そうしたら、子供何百人がバーッと出て行って、「ばんざい、ばんざい」、「ブラボー、ブラボー」と言います。
それからもう一つ、はっきりと覚えているのは、フィンランドのユヴァスキュラという所があります。そこに行ったときです。サウナも林の中です。そこで初めて会ったのは、今、武庫川女子大学にいる河合優年先生です。彼は僕の後任です。武庫川女子大学大学院の後任に、僕が選んだのです。彼は、なかなか最初は「うん」と言わなかったですが、最後は「うん」と言ってきてくれました。三重大学からです。
インA 奥様はいろいろな所へ一緒に行かれたりしたのですか。
祐宗 メキシコへは一緒に行っていないです。
奥様 祐宗・ベイン賞の第1回からです。
インA 第1回が2000年ですか。
祐宗 そうです。第1回は賞状を渡したからです。
インA ああ、そうでしたか。
奥様 1回、2回、3回、4回、5回まで、です。6回目から体調を崩しましたが、それまでは毎年行っていました。
インC 先生、臨床幼児学は、先生が。
祐宗 幼児心理学ね。
インC はい。先生が提唱された、先生が初めてなのですか。
祐宗 私と、当時学部長だった萩野源一という先生です。命名されたのは萩野先生です。廊下を歩いて、行き交う人にそれを聞いてもどうもはっきりしないので、最後には「自分で決めるぞ」と言って、「幼児学」というものを作られました。これも日本で、今、唯一無二のものです。
インC 発想としては、幼児の教育学と心理学を合わせてという、学際的な分野ですか。
祐宗 ええ、そうです。当時は、幼児の実践は多くなされたわけですが、研究機関としては初めてだったのです。
インC その拠点が、やはり広島大学ですか。
祐宗 広島大学教育学部附属幼年教育研究施設として作ったわけです。そのときに、三好先生が「帰ってこい」言われたので、「はい」と言って帰ってきたのです。ですから、上代先生と三好先生のおかげです。上代先生は、胃がんで亡くなられました。胃を切開したものの、もうだめだということでした。奥さんも後に胃がんで亡くなったのです。 それから僕の実家がこの前の大水で流されたのです。今、平地になっているそうです。
奥様 主人は実家の近くに建てた家を処分したのです。昨年の3月頃でしたか。
祐宗 去年の8月です。
奥様 いや、8月は実家が流されたといいますか、事故にあったのです。その前に省三の家を売ったのです。主人が病気をして、広島県立病院に4か月くらい入院しても埒が明かなくて、どうもパーキンソン病などいろいろで、最終的に日本一の医者に診せようと思って、とにかく東京へ東京へと来たのです。ちょっと話は戻りますけれども、そのようなわけで、お家にたくさん本があったのです。現在はそれを、七木田先生が祐宗の後任としているのですけれども、広大に「祐宗文庫」を作ると言って、多くの本を寄贈したのです。ですから、もし何か必要でしたら、七木田先生のところへ行ってごらんになっていただいてください。
祐宗 広島大学で幼児学専攻修士課程を最初に出した人は、今、千葉大学の先生の中澤潤さんです。彼は近く定年になるらしいです。ですから、ほとんど私の教え子たちは、大学の先生です。この付近では、共立女子大にもいます。それから、鎌倉女子大学にも、東北の山形大学にも。
インB 全国にいらっしゃるのですね。
祐宗 ええ。陳君という人は、北海道大学の教授でした。今、定年で辞めました。この正月の元旦に自宅にいましたら、覧君という台湾からの留学生がいて、今はニュージーランドにいます。彼がニュージーランドから電話をくれました。僕よりも日本語が上手です。
奥様 またちょっと戻りますけれども、自筆の論文など、全部、寄贈しました。もし、ごらんになりたければ、リストのコピーはあるのですけれども、今日は出しておかなかったのです。すぐに出せなかったのですけれども、何かいろいろありましたら、またいつでも。
インA ありがとうございます。
インB 1990年のICPで、国外連絡調整委員長をされていましたけれども、どのような仕事をされていたのですか。
祐宗 やはり「祐宗・ベイン賞」を作るような仕事だったと思います。
インB 若手研究者を育成するための下準備といいますか。
祐宗 ええ。賞金は少ないのですが、名誉の印です。
インA 話は変わりますが、私も昔、一時期、ラットですけれども、部分強化をやっていたことがあるのです。先生の頃の部分強化というと、誰がモデルだったのですか。ハンフリーなど、どのあたりですか。ちょっと私はもうかなり新しい……。
祐宗 上代先生の受け売りです。
インA そうですか。上代先生はそのような所も押さえていたわけですね。私はなんとなく、やはりレヴィンなどに詳しい方というイメージしかありませんでした。どのような感じの方だったのですか。あまり記録がありませんので。
祐宗 非常に潔癖症です。それで、一つのことについて、ずっと進む人です。酒も強かったです。その当時は、われわれもアメリカではハットを被っていました。上代先生もハットを被っていました。
インA 先生は割と早くから海外に行ってみようという思いがあったのですか。若い頃。
祐宗 それはあまりなかったです。上代先生が「アメリカの心理学は進んでいるぞ」というようなところから行くことを考えました。新制の広島大学では、心理学者として海外に行ったのは僕が最初だと思います。
インA はい、最初ですね。先ほど出た岩原信九郎先生も、フルブライトの1期で行っているのです。
祐宗 そうです。ミズーリ大学です。
インA はい、ミズーリ大学に。行ったときは、知覚で行っているのですけれども、向うから帰ってきたら、「動物と統計をやらなきゃだめだ」と。
祐宗 そうそう。
インA 先生も、実際にオハイオに行かれて、何か「あ、これは」と思われたことはありますか。
祐宗 やはり、道具的条件づけだけではなくて、古典的条件づけについても研究しなくてはいけないと思いました。広島では、古典的条件づけの「こ」の字もなかったです。パブロフということを言いながら、勉強する人はいなかったです。
インA そうですね。当時はそれこそ宮田先生の関学しかなかったですね。
祐宗 宮田洋ですか。宮田さんにも、1、2回、お会いしたような気がします。
インA はい。来週、話を聴きに行くそうです。そうですか。古典的条件けですね。
祐宗 それから、思い出しますが、留学する前にアメリカから手紙が来たのです。「あなたはベテランですか」と書いてありました。それで、上代先生が、「ああ、君はまだベテランとはいわない」と言いました。アメリカに行ってみたら、「ベテラン」とは帰還兵のことでした。帰還兵だったら、軍事訓練が課されるのです。アメリカで用いられている英語と、イギリスで用いられている英語は、非常に違うのです。こんなことも、行く前に上代先生から教わりました。「ユーアと言っちゃいかんよ。ヨアと言えよ」と。「ホッチキスと言っちゃいかんよ。ステープラと言え」と、これも教わりました。
インB そのようなところまで、しっかり指導を。
祐宗 ええ。イギリスではウエイでなくて、ウアイですね。イギリスでタクシーに乗って、“Which way?”というのです。何だろうと思うと、道のことです。どの道を行くのかと。
僕は、アメリカへ行くときに、日本でアメリカ2世の方から70ドルを日本円で交換したのです。ワージントンバンクと書いてあるから、オハイオからはるばるバスに乗って、ワージントンへ行って、下ろしてきて帰ってみたら、その銀行の支店はキャンパスの中にあったのです。そのようなこともありました。
それから、パリの北駅からドイツまで行ったことがあります。これも非常に思い出深いです。ドイツからパリへ帰ってくるときに、パリ行きはここの線だと書いてあるのです。そこで待っていましたら、いつまでたっても来ないのです。日本人でドイツに行っていた教え子が、「先生、早く向うへ行きなさい」「なぜ行くのか」「今、放送で向う側の線路だ」と言ったと。急いで行ったので乗れたのです。ドイツ語は、日本で単位は取ったが、さっぱり分かりませんでした。安田先生に教わったのですが。
フルブライトで行くときに、横浜で、私のおふくろは最後になると思ったのでしょう。一緒にいた父親に、お酒を買ってきなさいと。買いに行く時間がなかったので、持ってきたむすびを食べました。そのときに、「東京にも美人はいないね」と。というのは、東京には美人がいると思ったらしいです。
アメリカで記憶にあるのは、フロリダに行ったことです。そのときに、ホテルに泊まっていて、放送で「キューバに行きますよ」と言ったのです。僕はいつでも行かれると思って行かなかったのです。今思えば、行っておけばよかったです。
インA キューバ危機の前だったのですね。
祐宗 それからヨーロッパに行った頃は、まだソ連邦の時代で、ソ連の国の上は飛べないのです。それで、アンカレッジまで行って、それで北極を通って行きました。北極から見ると、雪の割れ目に青いものが、碁盤の目のように見えます。それを見ながら行ったのです。ヨーロッパのどこかの町で、これが最後だと思って料理屋に行ったのです。中曽根首相が食べたところだというので、行って食べました。そうしたら、腹が痛くなってね。翌日、北極回りで、飛行機の中で寝台車のようなものに乗せられて、ずっと帰ったことがあります。
インA あら、それは……。
祐宗 今はアンカレッジを通っていく飛行機はないようですね。
インA はい、今はないです。多分、ほとんどの人はもう全然知らないですね。いつも北極圏は、それほどきれいには見えないです。
祐宗 僕はほとんど夏に行きましたからね。
インA そうですか。ちょっといろいろ尽きないと思いますけれども、ありがとうございました。
(録音終了)
<謝辞>
原野さん(福島大学准教授)には和暦西暦対象表を送っていただき、たいへん助かりました。幼児心理学修了生であるたくさんの教え子たちが、かつて私がアメリカに留学した時に乗船した氷川丸が見えるホテルで祝賀会を開いてくれました。大元君(佐賀大学教授)にはそのときの写真をたくさん送ってもらいありがとうございました。
私は現在、緑区大島にある相模原ロイヤルケアセンターにおります。車椅子ですけれども、昔は、学生時代に北アルプスに登ったり、サッカーをしたり、それからスキーをしたりしたものです。今では、杖をついておよそ100mくらいは歩けます。
苗字は「ゆうそう」ではなく「すけむね」です。名前は「しょうぞう」ではなく「せいそう」です。「1日に3回ぐらいは反省せよ」と言って、母がつけてくれたということを後に聞きました。ですが、なかなか反省できません。
それから、今年、満86歳になります。私は広島出身で、広島大学を卒業して、最初は学習心理学を勉強しました。広島には、教育学・心理学を専門に研究する教育学部と、教員養成をする学校教育学部が別にあるわけです。これは全国でも珍しいと思います。
今、広島の平和公園には碑がありますね。この墓碑銘を書いたのは、私が広島大学で英語を教授してもらった先生です。雑賀先生です。この雜賀先生は、毎期のテストに、テキストの最初のページと最後のページと真ん中のページが出るのです。皆それを知っているものですから、勉強していって、皆「優」をもらったのです。
私は現在、原爆手帳をもらっているわけです。それで、医療費はただです。なぜもらったかといいますと、学生時代に、近くの山の上に勤労学徒動員で学校林の伐採に行っていました。8月6日の朝に、一応食事をして座っていましたら、南から飛行機が飛来して来たのです。それをはっきり見たのです。そうしたら、すぐにピカーと光って、ドンときのこ雲が上がったのです。
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 見られたのですか。
祐宗 ええ。それをはっきり見たのです。
ですが、お蔭様で今、元気なのです。中心部にいた人はほとんど死にましたが、生きている人がいました。ちょうどその時、電車に乗っていても元気な人もいます。別の電車に乗った人は全員死んでいます。そのような状況だったのです。私は、そこで命拾いを一つしたわけです。
また別の命拾いをしたのは、学生の頃、最初は広島師範学校でした。そのときに、もう学校では勉強はなくて、寮の中の農作業をしていました。そこにアメリカの機銃掃射、グラマンが来たのです。ちょうど100mぐらい離れた所へ、バンバンバンと撃ってきたのです。僕はそのときに命拾いをしました。それから、広島に1トン爆弾が落ちたのです。これも大きな音がしたのですが、僕は助かったのです。それからもう一つは、阪神大震災です。ちょうど広島に帰っていたのです。そうしたら、夜、家がギクッとしました。何だろうと思って、朝になって起きてテレビを見たら、神戸がやられていました。そのときでも命拾いをしたのです。
インB そのとき、ちょうど武庫川女子大学のお勤めのときですね。
祐宗 そうです、そうです。
それからもう一つ貴重なことは、日本の心理学の開祖、西周です。彼が生まれたのは津和野です。そこへ何回も行ったことがあります。そのうちの1回は、発達心理学で著名な柏木惠子先生をお連れしたことがあります。それを懐かしく思っています。
それから広大を定年後、武庫川女子大学に招聘されたのです。それは大学院臨床教育学専攻科を作るためです。初代研究科長をして、今、修士課程、博士課程がありますが、僕は何人か博士号を出しました。そのうちで覚えている一人は長谷範子さんで、四天王寺大学の教授をしております。それからもう一人は、藤原さんという人ですが、この人は最近、大阪市立大学の教授になったそうです。
それから次に、おかげさまで、武庫川女子大学では非常に高給をもらったのです。そのようなことで、南米とアフリカを除く多くの国々に行きました。その中でも、東西にドイツが分かれていたでしょう。そのときに、東ドイツのライプチヒの国際心理学会に行きました。そのときに一緒だったのが、今は亡くなられたと思いますが、波多野誼余夫氏も一緒でした。
日本人は全部一つのホテルに閉じ込められて、パスポートも閉じ込められて、そこから出られないようになりました。ですから、ライプチヒの町しか覚えておりません。ソ連兵がずっと歩いていました。それから、酒に酔ってうろうろしている人が非常に多かったです。後に、鉄のカーテンがとけて、私はもう一度行きましたが、今ではソニーセンターになっていました。
インA ソニーセンターですね。今、行かれたのは70年代ぐらいですか。
祐宗 いや、はっきり覚えておりません。72年には東京で、東京プリンスホテルで国際心理学会がありました。そこで僕は、シンポジウムのコメンテーターになりました。弁別学習です。
それから私は、先年、天皇陛下から瑞宝中綬章をもらいました。もしよかったら、見ていってください。
本論に入りますが、まず「心理学を学ぶ前。なぜ心理学を学ぼうと思ったか」というところです。今は国立ですが、当時は官立といいましたが、私はまず、官立の広島師範学校男子部本科を、昭和24年3月に卒業しました。そこで、川中勝教授から心理学を初めて学びました。この先生のおかげで、広島市立千田小学校に教員として勤務しました。当時、川中先生はそこの小学校の校長もなさっていて、30歳代後半でした。この小学校のすぐ隣には、今の国立、官立の広島文理科大学がありました。それから4年制の旧制広島高等師範学校がありました。そして、国立広島大学がありました。私は、川中先生のお勧めで、新制の国立広島大学教育学部心理学科に入学しました。
次に、「出身大学、師事した先生について。どこで誰に心理学を学んだか」というところです。まず、国立広島大学教育学部では、私は、人文科学、社会科学、自然科学については、広島師範学校の単位を認められて、受講しなくてもよかったのです。ただし、ドイツ語と公衆衛生学の受講が必要でありました。ドイツ語と英語は必修科目でした。ドイツ語については、安田教授でした。英語は、先ほども申したと思いますが、雑賀教授で、この先生が平和公園の墓碑銘、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と書かれた先生です。先ほども申しましたが、私は原爆手帳をもらっているために、死去したときは、この碑の過去帳に収まることになっています。
広島大学教育学部心理学科、大学院時代、修士・博士の課程では、次の先生に習いました。古賀行義先生です。旧制の東京帝国大学文学部心理学科卒業後、文学博士です。日本で最初に因子分析を広めた先生です。一般心理学や教育心理学などを担当しておられました。
次に、三好稔先生です。これは、旧制の広島文理科大学教育学科心理学専攻で教育心理学を担当しておられました。文学博士です。次に、高木貫一先生です。旧制の東京帝国大学文学部心理学科を卒業して、文学博士です。東大の航空研究所の所員をしておられました。広島文理科大学では知覚心理学を担当しておられました。
それから、兼子宙先生です。兼子先生は、旧制の東京帝国大学文学部心理学科の卒業で、社会心理学を担当しておられました。酒井行雄先生です。これは広島文理科大学教育学科心理学専攻卒で社会心理学を担当していました。
次に、これは重要な先生ですが、上代晃先生です。この上代晃先生は、当時の学習心理学の三大巨頭の一人で、一人が上代先生、一人が梅岡先生、もう一人は東大の八木先生です。この上代先生が、私を学問の道へ導いてくださった先生です。文学博士です。40歳で亡くなられました。
それから、古浦一郎先生です。広島文理科大学教育学科心理学専攻卒業後、文学博士です。発達心理学を担当しておられました。私の博士論文の主査でした。博士論文のタイトルは「弁別移行学習の発達的研究」です。当時、弁別学習は学習心理学の花形でした。
これが上代先生です。(上代先生の写真)
インA この人が上代先生ですか。ゲシュタルトで有名な方でしたね。
祐宗 ええ。当時は主としてシロネズミを使って研究していたのです。
インB これは上代先生とは違う写真ですね。
祐宗 そうです。これが酒井先生です。これが古浦先生です。これが三好先生です。これが楠弘ゆう先生(弘ゆうのゆうは、門構えの中に右)ですが、僕は習っていません。これが兼子先生です。
これは萩野源一先生です。広島大学幼児学専攻の修士課程、博士課程におられました。ちょうど僕はその当時、教授でした。この先生が、「新しく幼児学専攻を作りたいんだが、祐宗君、どうかね」とおっしゃってきました。僕は「分かりません」と言ったら、廊下を歩きながら皆に聞いても、どうもはっきりしないので「自分が決める」と言われて、幼児学というものを作りました。これは全国でも、今、広島に一つですね。
これは林重政先生で、私は個人的に、統計学のカイ二乗検定、t検定、F検定を勉強しました。これは広畑亘先生です。この先生は若くして、54、5歳の若さで、心筋梗塞で亡くなられました。
それから、山本多喜司先生です。教育学部心理学科卒業で文学博士ですが、人格テストを教わりました。今、横浜に住んでおられます。鶴見区です。時々、所沢の早稲田大学に行って、社会人に講義をしているという話がありました。この先生とよく飲んだものです。
その次は重要なことなのですが、私の友達で山内光哉、広大出身ですが、現在は九州大学の名誉教授です。この方と一緒に「Lindquist分散分析」というものを個人的に勉強しました。Lindquistです。これは、タイムの次元を含めた分散分析です。例えば、小学校の子供と中学校の子供とがどのように違うかということだけではなくて、小学校の子供では1学期はどうだったか、中学校の3学期ではどうだったかというようなタイムの要因ですね。それを勉強したのです。これはこの山内さんと一緒に独学でやりました。その実験で研究をしまして、これを『心理学研究』に載せたのは、おそらく私が最初です。
それから、私はフルブライトで、大学院博士課程の学生と同時に、大学院助手として選ばれて行きました。行き先は、アメリカのオハイオ州立大学のDelos・D・Wickensという先生でした。この先生は、最初、僕が部屋に行きましたら足を机の上に置いて、「君はフルブライトで来たんだね」「はい」と言ったら、「それにしては会話がだめだね」というような話をされました。
そして、日本銀行から来た磯部朝彦という先生と一緒に、当時、オハイオ州立大があったコロンバスという町に行きました。そのコロンバスに出て行ったらコロンバス・シチズンという、東京であれば『東京新聞』ですが、そのようなものに、昔、「サヨナラ」という映画があったのです。それは宝塚の女性とアメリカ人の男性の恋愛という映画です。それに磯部さんと二人でコメントしたわけです。
そのウィーケンス先生の下で、私は「精神電流の古典的条件づけ」の研究をしました。これは精神電流ですね。そこで、私は先生の助手として、学生のテストの採点をさせてもらったのです。「君は読めるんだね」ということでやったのです。そして、部分強化、partial reinforcementに対する古典的条件づけをやりました。それを京都大学の『PSYCHOLOGIA』というものに載せたことを覚えております。
インA はい。雑誌ですね。
祐宗 今から言うことはダブるかもしれませんが、「研究について選んだ理由と変遷」です。まず、広島大学の教育学部心理学科は、当時はシロネズミの動物実験をやっていたわけです。課題としては、消去と自発的回復、extinctionとspontaneous recoveryについて研究をしました。
インB それが『心理学研究』に書かれた、「シロネズミを用いた反応交替法による消去と自発的回復に関する実験」ですね。
祐宗 そうそう。そうです。
インA このネズミはラットですか。
祐宗 ラットです。マウスではありせん。大きい方です。それで、学部の卒論は英語で書きました。
インB そうですか。「心理学的力の方向の変化の基づくものとしての消去」が、日本語訳なわけですね。
インA これは英語なのですね。
祐宗 修士論文も研究領域は同じで、これは日本語で書きました。文学修士の学位も取得しました。
博士課程のときに、次のものを翻訳しました。これは重要なのですが、米国イェール大学のニール・ミラー先生と、ジョン・ドラード先生が書いた『Social learning and imitation』、これを『社会的学習と模倣』と翻訳いたしました。理想社です。理想社に連れていってもらったのは上代先生です。理想社の社長が「まねの心理学」にしなさいと言われたのですが、上代先生は「いやいや、元通りがいい」と言うので、『社会的学習と模倣』となりました。この本を、当時、広島大学の学長であった森戸先生に持っていきましたら、「学」という字の説明をされました。ですが、その意味ははっきり覚えていません。
インB なぜこれを翻訳されるようになったのですか。
祐宗 これは上代先生のお勧めです。上代先生は若くして、研究の先取りをする人でした。この本の翻訳は、山内光哉という九州大学名誉教授、それから細田和雅という私の広大の同期生の計3名で翻訳いたしました。
先ほど申しましたが、私はフルブライトで留学したのですが、博士課程学生、大学院助手として行ったのは昭和32年です。今、横浜につないである「氷川丸」で、アメリカのシアトルへ16日かかって行きました。そして、シアトルから山越え谷越えして、ずっとシカゴまで行って、シカゴで町を見ようと思って町へ出たのです。それで、もう時間が来たと思って帰ってみたら乗り遅れたのです。それは時間帯が違っていたのです。それで、真夜中のコロンバスに着いたら、助手や、広島大学で友人だった人たちやアメリカの人たちが迎えに出てくれていました。真夜中でした。
それで、私はぴょこんとお辞儀をしたのです。そうしたら、アメリカの人が「お辞儀する必要はない。まっすぐ立って、『初めまして』と言えばいいのだ」と言うのです。以後、偉い人の前でも、まっすぐに立っているのです。天皇とマッカーサーが写っている写真があるでしょう。どちらもまっすぐに立っているでしょう。マッカーサーは手を後ろにやっているでしょう。これはやはり、天皇よりも上だという意思表示なのです。そのようなことを知っております。
その次に、留学中に図形残効の研究をしました。そしてこれを、アメリカの『Journal of Experimental Psychology』に載せました。ロジャー・マイヤーズという人なのですが。
インB 「Local variations in the magnitude of a figural aftereffect」です。
祐宗 そうです。当時は、相良・大山という先生の図形残効の研究がアメリカでたくさん研究されて、有名だったのです。それで「お前とやろう」と言って、旧友のロジャー・マイヤーズと一緒に研究発表して、それがアメリカの実験心理学の雑誌に載っています。これは今、手元にありませんから、広島大学に寄贈しているかと思います。
それからアメリカ留学のあと、広島大学の教育学部の助手として採用されました。そして、日米共同研究というものが始まったのです。それは近親婚の研究です。原爆放射線研究所が比治山公園にあるのですが、そこに来ていたアメリカのニール博士という人です。現在、近親婚の研究は、アメリカで、1冊の本として英語で出版されております。『コンサンギュニティ』といいます。
インB この共同研究は、どのようなきっかけで始まったのですか。
祐宗 それはアメリカの方からの申し出です。それで日本側が受けて立ったわけですね。当時は、アメリカが強かったのです。
インB 留学されて戻ってきたばかりの先生に。
祐宗 そうそう。そうです。
その当時、広大の教育学部の教授だった三好稔先生から次のようなお言葉をいただいたわけです。それは「君は、これまで学習心理学の重要課題の研究をしてきたが、心理学の領域では、それだけではなくて、児童、青年、成人に関する研究が必要である」と。そして、広島市の宇品にあった県立広島女子短期大学、今の県立広島女子大学で「児童心理学で呼ばれているから、君、行かないか」ということになって、私はすぐ「はい」と言いまして、行ったわけです。そこで7年間、幼児心理学、児童心理学、そして一般心理学を自分で研究、勉強しながら教えたわけです。
これも重要なのですが、以前お世話になった川中先生という方が、すでにそこの教授でおられました。この先生のおかげで、恐らく私は採用されたのだと思います。その県立女子短期大学および広島女子大学の時代には、奇しくも習った三好先生のお嬢さんがいました。
インB 学生としてですか。
祐宗 ええ。それから、古浦先生の娘さんもおられました。それから、三好先生・上代先生の娘さんもおられました。奇しくもです。
それで、7年間が過ぎたときに、また三好先生から良い就職のお世話をいただいたのを覚えております。「この広島大学教育学部には附属幼年教育研究施設というのがあるから、君、来ないか」ということで、私は「はい」と言って、すぐそこに行ったわけです。これは現在も日本で唯一の研究機関です。この研究施設では、私は最初、幼児の数概念の研究、それから幼児の情緒、感情の研究をしました。これも冊子にまとめたわけですが、今どこにあるのか分かりません。
この頃、広島大学幼児学専攻、それから心理学専攻の教授として教えておりましたが、主に、社会的学習の領域で研究をしました。
インB 『心理学研究』に発表された、「幼児の観察学習におけるモデルおよび観察者の反応パタンの分析」ですね。
祐宗 ええ、そうです。研究結果を海外の学会で報告するため、南米とアフリカを除く多くの国で研究発表を行いました。特にポルトガルでやったり、イギリスでやったり、その他多くの国のおかげで、研究発表をすることができました。
それから次に、「レジリエンス検査」というもの出しております。立ち直りですね。これはカナダのDr. Chok Hiewという先生とともに、共著で発行しております。これは竹井機器工業株式会社から出しております。
次に、広島大学留学センター長をしたことがあります。これは日本の幼稚園と保育所に関する歴史的な事情、現状について研究をして、留学生を対象に、週に1回授業をいたしました。
ついで私は63歳で広島大学を定年退職して、先ほども言いましたが、西宮の武庫川女子大学にまいりました。それで、非常に給料が高かったので、あちらこちらに行くことができたわけです。観察学習やモデリングの研究をしておりました。これも海外の学会で発表することができました。
これは重要なのですが、私が広島大学教育学部心理学科3年生のとき、昭和28年に、古賀先生を実行委員長として、広大では初めて日本心理学会が開かれました。このときの下働きをしました。そのとき、戦時中に在米しておられて、戦後、教育使節団の一員として帰国された南博先生と望月先生の宿をお世話したのです。モデリングの先生で、バンデューラ先生は後に私の知己になりました。私の娘もバンデューラ先生のご自宅に泊めてもらったことがあります。
インB すごいですね。
祐宗 この先生には全国のあちらこちらで講演をしてもらいました。中でも、日本心理学会で講演してもらったのですが、そのときに私が紹介いたしました。
私は、今、日本心理学会認定心理士、審査委員、評議委員をしております。それから日本心理学会の名誉会員です。元、速水先生という方がいらしたのですが、学術奨励基金というものがありますが、それの管理者となりました。これは、東京国際大学の詫摩先生の次に私がなりました。
インA 速水先生とは、東大出身の速水先生ですか。速水滉先生ですね。
祐宗 そうです。詫摩先生が夜か昼かに来られて、「君、ひとつ、自分の後釜としてがんばってほしい」と言って、何か書類をもらったのです。
それから私は元・発達心理士です。会費を納めなかったので「元」です。それから元・学校心理士です。元・指導健康心理士です。どれも会費を納めなかったから、だめになったのです。会費を納めなかったのは体調がすぐれず、また引越しなどで手紙がわからなくなったからです。
それから、今、思い出すのですが、ニール・E・ミラー先生です。そのニールさんとも後に知己になりました。ソーシャルラーニング、社会的学習に新しく領域ができたのは、心理学者としてのニールと、社会学者としてのドラードが一緒になってできた賜物だと思っています。
それから、広島大学の大学院幼児学専攻に博士課程ができたわけですが、そのときの第1期生に、七木田さんといって、横浜国立大学を出て、現在は広島大学におります。この人が入りました。この七木田さんは、アメリカのオレゴン州立大学で修士号を取った人です。もう一人は湯澤さんといって、東京大学大学院文学修士課程を出た人です。
私は広島大学大学院のときに、観察学習研究会、弁別学習研究会というものを特別に設けて、毎晩勉強しておりました。
それから私は共著の筆頭者として、次の本を有斐閣から出しております。『思いやりの心を育てる』、それから『やりとげる力を育てる』を出しております。
学会の仕事ですが、『心理学研究』の審査員をしました。それから認定心理士の審査もしました。
インB 先生、ICPの国外連絡調整委員などをされていますね。
祐宗 はい。私は、ICPというもの、International Council of Psychologistsの役員として、祐宗・ベイン賞というものを出しました。今、後は誰かが継いでいると思います。
それから、著書は多くの本を出版しました。これは共著、分担、それから英語ではMigration、日本からアメリカへ行く、アメリカから日本へ来ること、一方的にはImmigration、その本も共著で何冊か英語で出しております。
以上で、何かご質問がありましたら、何でもいいです。
インA はい。では。どこから言いましょう。では、簡単なところからです。先生がお会いになられて、バンデューラとニール・ミラーは、個人的にどのような方でしたか。
祐宗 ニール・ミラーは、非常に何でも話をする人です。私はイギリスで会いました。バンデューラさんも気さくな人で、毎晩7時に夕食をして、9時まで執筆して非常に規則正しい人でした。日本料理が好きで、パロアルトのスタンフォード大学からサンフランシスコまで車でダーッと行って、そこでごちそうしてもらったことがあります。
ここに留学してもらったのは、大阪市立大学の教授をしている、後浜さんです。私の写真をどんどん撮ってくれました。先年、フルブライトの同窓会で、横浜の山下公園の氷川丸が見える所で、勲章をもらったときに会を開いてもらいました。この人たちは、僕が広島大学大学院で教えた学生でした。
インB せっかくフルブライトの話が出たので、どのような経緯でフルブライトで留学されることになったのかということと、なぜ、ウィケンソン先生のところに……。
祐宗 これは、上代先生のおかげです。上代先生はDuke大学のフルブライト招聘教授として行かれることになっていました。上代先生が私と一緒に行くことになっていたのです。しかし、胃がんになられて、それで、私は広島でお別れしたのですが、その時に、上代先生が「まあ、祐宗君先に行っとけや。後から行くから」と言われました。しかし、とうとう来られなかったのです。ですから、死に目にあっていません。すべて上代先生のおかげです。
インA 先生が卒業論文を書かれた頃に、先ほどネズミを使われていたというお話がありましたが、当時、もう広島では割と皆さん、ネズミを使っていましたか。
祐宗 当時は多少ありました。上代先生が、アメリカではこのような研究をしていると言われて、やってもらったのです。先ほどの上代先生の写真は、ネズミ小屋の前の写真なのです。
インA ああ、そうなのですね。
祐宗 ええ。ですから、私は、動物実験から人間研究まで、ほとんどをやったわけです。臨床についても、いくらかやりました。
インA ちょっと話が前後してしまうのですけれども、先ほどあった「祐宗・ベイン賞」は、どのような名前の組み合わせで決まったのでしょうか。お聞きしてよろしいでしょうか。
祐宗 それは、ベインさんが僕のICP(International Council Psychologists)という学会で知己だったのです。
インA ああ、そうなのですね。そちらのベインですか。では、古い方ではなく新しいベインの方ですね。なるほど。レジリエンスとつながるのですね。
祐宗 これは、心理検査「祐宗・Hiewレジリエンス心理検査」、これを今回マークシートにするらしいです。これは昔のものだと思います。
インA これは私も使ったことがあります。レジリエンスです。日本で一番早い頃ですね。
祐宗 そうです、そうです。恐らく最初だと思います。ですが、『心理学研究』には、時々、この領域の最近の研究が載っています。
インB レジリエンスの研究を始められたきっかけは、何かあるのですか。
祐宗 これは、ヒューさんが日本に来ていまして、僕と打ち合わせをして共同著作したのです。
インA Chok Hiewさんですね。
祐宗 今、カナダのフレデディクトンという町に住んでいます。ここにも何回か家内と行きました。彼はマレーシアのペナンの出身です。私は、マレーシアのペナンにも何回も行きました。いまだに、日本軍の侵略に対して反感を持っている人がいます。その反面、喜んでいる人もいます。といいますのは、独立したからです。民族意識を持って独立できたからです。
海外の留学生も、僕はだいぶ招聘しました。一番多いのが韓国です。それから台湾、中国、それから、ぼつぼつヨーロッパからです。僕は、ヨーロッパから来た人に、“foreign students”と言ったら、「違う」と。“international students”と言ってくれと言っていました。
インC 先生、ちょっとよろしいですか。
祐宗 はい。
インC 先生の『臨床教育学における……』を読ませていただいたのですけれども、先生が学部の頃に、大学生の頃に、進取気鋭の先生が臨床心理学を教えていたとありますが、これが山本多喜司先生なのですか。
祐宗 そうです。
インC どのような先生だったのですか。
祐宗 彼は奈良県の出身でした。昔、横山先生という方が日本心理学会長だったのです。その先生の娘さんと結婚して、今、一人お嬢さんがいて、日本経済新聞に勤めています。いや、懐かしいです。
インC 先生の留学中に、ロビンソンという先生が。
祐宗 ええ、カウンセリングの。
インC はい。それは、折衷カウンセリングか何かの人ですか。
祐宗 この先生は、僕の研究室に来て、「君は日本から来たんだね」とお尋ねになるので、私は「はい」と答えたら、日本でアイフェルというものがあったのですが、その参加者と文通しているので、ひとつこの英語を日本語に訳してくれと言われて、その仕事をバイトでしました。当時、1時間5ドルもらいました。当時、1ドルというと、ダウンタウンに出て、定食を食べてビールを1杯飲んで1ドルだったのです。その時代に1時間5ドルをもらいました。ロビンソンは、日本では非常に有名ですね。彼も寡黙な先生でした。
インC ロビンソン先生はその当時、いくつぐらいだったのですか。
祐宗 はっきり覚えていませんが、まだ40代かそこらではないでしょうか。そのウィーケンス先生も48歳でした。私が28歳でした。先生は、私を学内のファカルティ食堂、教員が行って食べる所に連れて行ってもらったことがあります。それから、スケートに連れていってもらったこともあります。それから、自宅に1回呼んでもらって、ごちそうになりました。アメリカでは、自宅に呼ばないと親友などと言わないのです。自宅に行かないと、いくらホテルでごちそうしても親友にはなれないのです。Intimate friendというのです。
インB 先生はいろいろな国際学会に行かれたとお話しいただきましたけれども、印象に残っている学会、場所などがありますか。
祐宗 それはメキシコシティであったときです。高い所です。それが一つ印象に残りました。下に下りて、アカプルコで闘牛を初めて見ました。いや、すごいです。最後は、馬に乗った人が最後にしとめるのです。とたんに、牛が死にます。そうしたら、子供何百人がバーッと出て行って、「ばんざい、ばんざい」、「ブラボー、ブラボー」と言います。
それからもう一つ、はっきりと覚えているのは、フィンランドのユヴァスキュラという所があります。そこに行ったときです。サウナも林の中です。そこで初めて会ったのは、今、武庫川女子大学にいる河合優年先生です。彼は僕の後任です。武庫川女子大学大学院の後任に、僕が選んだのです。彼は、なかなか最初は「うん」と言わなかったですが、最後は「うん」と言ってきてくれました。三重大学からです。
インA 奥様はいろいろな所へ一緒に行かれたりしたのですか。
祐宗 メキシコへは一緒に行っていないです。
奥様 祐宗・ベイン賞の第1回からです。
インA 第1回が2000年ですか。
祐宗 そうです。第1回は賞状を渡したからです。
インA ああ、そうでしたか。
奥様 1回、2回、3回、4回、5回まで、です。6回目から体調を崩しましたが、それまでは毎年行っていました。
インC 先生、臨床幼児学は、先生が。
祐宗 幼児心理学ね。
インC はい。先生が提唱された、先生が初めてなのですか。
祐宗 私と、当時学部長だった萩野源一という先生です。命名されたのは萩野先生です。廊下を歩いて、行き交う人にそれを聞いてもどうもはっきりしないので、最後には「自分で決めるぞ」と言って、「幼児学」というものを作られました。これも日本で、今、唯一無二のものです。
インC 発想としては、幼児の教育学と心理学を合わせてという、学際的な分野ですか。
祐宗 ええ、そうです。当時は、幼児の実践は多くなされたわけですが、研究機関としては初めてだったのです。
インC その拠点が、やはり広島大学ですか。
祐宗 広島大学教育学部附属幼年教育研究施設として作ったわけです。そのときに、三好先生が「帰ってこい」言われたので、「はい」と言って帰ってきたのです。ですから、上代先生と三好先生のおかげです。上代先生は、胃がんで亡くなられました。胃を切開したものの、もうだめだということでした。奥さんも後に胃がんで亡くなったのです。 それから僕の実家がこの前の大水で流されたのです。今、平地になっているそうです。
奥様 主人は実家の近くに建てた家を処分したのです。昨年の3月頃でしたか。
祐宗 去年の8月です。
奥様 いや、8月は実家が流されたといいますか、事故にあったのです。その前に省三の家を売ったのです。主人が病気をして、広島県立病院に4か月くらい入院しても埒が明かなくて、どうもパーキンソン病などいろいろで、最終的に日本一の医者に診せようと思って、とにかく東京へ東京へと来たのです。ちょっと話は戻りますけれども、そのようなわけで、お家にたくさん本があったのです。現在はそれを、七木田先生が祐宗の後任としているのですけれども、広大に「祐宗文庫」を作ると言って、多くの本を寄贈したのです。ですから、もし何か必要でしたら、七木田先生のところへ行ってごらんになっていただいてください。
祐宗 広島大学で幼児学専攻修士課程を最初に出した人は、今、千葉大学の先生の中澤潤さんです。彼は近く定年になるらしいです。ですから、ほとんど私の教え子たちは、大学の先生です。この付近では、共立女子大にもいます。それから、鎌倉女子大学にも、東北の山形大学にも。
インB 全国にいらっしゃるのですね。
祐宗 ええ。陳君という人は、北海道大学の教授でした。今、定年で辞めました。この正月の元旦に自宅にいましたら、覧君という台湾からの留学生がいて、今はニュージーランドにいます。彼がニュージーランドから電話をくれました。僕よりも日本語が上手です。
奥様 またちょっと戻りますけれども、自筆の論文など、全部、寄贈しました。もし、ごらんになりたければ、リストのコピーはあるのですけれども、今日は出しておかなかったのです。すぐに出せなかったのですけれども、何かいろいろありましたら、またいつでも。
インA ありがとうございます。
インB 1990年のICPで、国外連絡調整委員長をされていましたけれども、どのような仕事をされていたのですか。
祐宗 やはり「祐宗・ベイン賞」を作るような仕事だったと思います。
インB 若手研究者を育成するための下準備といいますか。
祐宗 ええ。賞金は少ないのですが、名誉の印です。
インA 話は変わりますが、私も昔、一時期、ラットですけれども、部分強化をやっていたことがあるのです。先生の頃の部分強化というと、誰がモデルだったのですか。ハンフリーなど、どのあたりですか。ちょっと私はもうかなり新しい……。
祐宗 上代先生の受け売りです。
インA そうですか。上代先生はそのような所も押さえていたわけですね。私はなんとなく、やはりレヴィンなどに詳しい方というイメージしかありませんでした。どのような感じの方だったのですか。あまり記録がありませんので。
祐宗 非常に潔癖症です。それで、一つのことについて、ずっと進む人です。酒も強かったです。その当時は、われわれもアメリカではハットを被っていました。上代先生もハットを被っていました。
インA 先生は割と早くから海外に行ってみようという思いがあったのですか。若い頃。
祐宗 それはあまりなかったです。上代先生が「アメリカの心理学は進んでいるぞ」というようなところから行くことを考えました。新制の広島大学では、心理学者として海外に行ったのは僕が最初だと思います。
インA はい、最初ですね。先ほど出た岩原信九郎先生も、フルブライトの1期で行っているのです。
祐宗 そうです。ミズーリ大学です。
インA はい、ミズーリ大学に。行ったときは、知覚で行っているのですけれども、向うから帰ってきたら、「動物と統計をやらなきゃだめだ」と。
祐宗 そうそう。
インA 先生も、実際にオハイオに行かれて、何か「あ、これは」と思われたことはありますか。
祐宗 やはり、道具的条件づけだけではなくて、古典的条件づけについても研究しなくてはいけないと思いました。広島では、古典的条件づけの「こ」の字もなかったです。パブロフということを言いながら、勉強する人はいなかったです。
インA そうですね。当時はそれこそ宮田先生の関学しかなかったですね。
祐宗 宮田洋ですか。宮田さんにも、1、2回、お会いしたような気がします。
インA はい。来週、話を聴きに行くそうです。そうですか。古典的条件けですね。
祐宗 それから、思い出しますが、留学する前にアメリカから手紙が来たのです。「あなたはベテランですか」と書いてありました。それで、上代先生が、「ああ、君はまだベテランとはいわない」と言いました。アメリカに行ってみたら、「ベテラン」とは帰還兵のことでした。帰還兵だったら、軍事訓練が課されるのです。アメリカで用いられている英語と、イギリスで用いられている英語は、非常に違うのです。こんなことも、行く前に上代先生から教わりました。「ユーアと言っちゃいかんよ。ヨアと言えよ」と。「ホッチキスと言っちゃいかんよ。ステープラと言え」と、これも教わりました。
インB そのようなところまで、しっかり指導を。
祐宗 ええ。イギリスではウエイでなくて、ウアイですね。イギリスでタクシーに乗って、“Which way?”というのです。何だろうと思うと、道のことです。どの道を行くのかと。
僕は、アメリカへ行くときに、日本でアメリカ2世の方から70ドルを日本円で交換したのです。ワージントンバンクと書いてあるから、オハイオからはるばるバスに乗って、ワージントンへ行って、下ろしてきて帰ってみたら、その銀行の支店はキャンパスの中にあったのです。そのようなこともありました。
それから、パリの北駅からドイツまで行ったことがあります。これも非常に思い出深いです。ドイツからパリへ帰ってくるときに、パリ行きはここの線だと書いてあるのです。そこで待っていましたら、いつまでたっても来ないのです。日本人でドイツに行っていた教え子が、「先生、早く向うへ行きなさい」「なぜ行くのか」「今、放送で向う側の線路だ」と言ったと。急いで行ったので乗れたのです。ドイツ語は、日本で単位は取ったが、さっぱり分かりませんでした。安田先生に教わったのですが。
フルブライトで行くときに、横浜で、私のおふくろは最後になると思ったのでしょう。一緒にいた父親に、お酒を買ってきなさいと。買いに行く時間がなかったので、持ってきたむすびを食べました。そのときに、「東京にも美人はいないね」と。というのは、東京には美人がいると思ったらしいです。
アメリカで記憶にあるのは、フロリダに行ったことです。そのときに、ホテルに泊まっていて、放送で「キューバに行きますよ」と言ったのです。僕はいつでも行かれると思って行かなかったのです。今思えば、行っておけばよかったです。
インA キューバ危機の前だったのですね。
祐宗 それからヨーロッパに行った頃は、まだソ連邦の時代で、ソ連の国の上は飛べないのです。それで、アンカレッジまで行って、それで北極を通って行きました。北極から見ると、雪の割れ目に青いものが、碁盤の目のように見えます。それを見ながら行ったのです。ヨーロッパのどこかの町で、これが最後だと思って料理屋に行ったのです。中曽根首相が食べたところだというので、行って食べました。そうしたら、腹が痛くなってね。翌日、北極回りで、飛行機の中で寝台車のようなものに乗せられて、ずっと帰ったことがあります。
インA あら、それは……。
祐宗 今はアンカレッジを通っていく飛行機はないようですね。
インA はい、今はないです。多分、ほとんどの人はもう全然知らないですね。いつも北極圏は、それほどきれいには見えないです。
祐宗 僕はほとんど夏に行きましたからね。
インA そうですか。ちょっといろいろ尽きないと思いますけれども、ありがとうございました。
(録音終了)
<謝辞>
原野さん(福島大学准教授)には和暦西暦対象表を送っていただき、たいへん助かりました。幼児心理学修了生であるたくさんの教え子たちが、かつて私がアメリカに留学した時に乗船した氷川丸が見えるホテルで祝賀会を開いてくれました。大元君(佐賀大学教授)にはそのときの写真をたくさん送ってもらいありがとうございました。