岡市 廣成先生
動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。
岡市 廣成先生の略歴
・同志社大学・ラット、条件づけ・海馬
・1969年同志社大学修士課程修了後、助手。1974年マクマスター大学にて在外研修。医学博士、博士(心理学)。博士(心理学)論文「海馬の心理学的機能の研究: 空間認知と場所学習」
・同志社大学での動物を用いた研究の歴史、そして、在外研究先のマクマスター大学での突然の研究テーマの出会いからライフワークになるまでのお話を伺うことができました。
日時:2018年2月23日(金)
場所:ニュー末広ビル貸会議室(京都府京都市)
インタビュアー:荒川 歩(武蔵野美術大学), 高砂 美樹(東京国際大学)
場所:ニュー末広ビル貸会議室(京都府京都市)
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 今回は、日本心理学会のオーラルヒストリーにご協力いただきまして、ありがとうございました。これから順番に伺っていこうと思いますが、先生はすでに他にもいろいろなところでお話しされています。例えば、『動物心理学研究』の中でもインタビューが掲載されています。また、『生理心理学と精神心理学』の中でも「海馬研究との遭遇」ということを書かれています。『同志社心理』でも、「80年にて花開く」と題して当時の状況も含め、書かれています。それらと重なっても結構ですので、ご自由にお話しいただければと思います。よろしくお願いします。
まずは、心理学を学ぶまでという話をお伺いできればと思います。
心理学を専攻するに至る経緯
岡市 私が大学に進学しようとしたときには、多くの大学で心理学は文学部の中の学科あるいは専攻であったわけです。それで、「文学部なんてのは、就職がないよ」と言われたものです。大体、文学部を最初の候補に考える人はよほど特異な人だと思われていました。私も文学部を選ぼうとは考えていませんでした。私は、「理系の学部に行ければいいな」と思っていました。
もう少し、話を若い頃に戻してみます。私は大阪府の枚方市というところに住んでおります。生まれたときは「枚方町」でした。小学校・中学校は公立に行きました。中学校を終わって高校を選ぶときに、「岡市は公立高校に行くもの」と家族も先生方もみんなが思っておりました。枚方市から選べる公立高校としては、府立高校が2校と、どういうわけか、大阪市立高校がありまして、その三つの中からどれかを選ぶというのが、当時の選択肢でありました。もちろん伝手などを頼って大阪市内にある有名高校に行く友だちもおりましたが、「住民票を移してまで行くというのは、やめとこう」と思っていましたが、しかし、先ほど言った三つの公立高校も、やめようと思っていました。では、どこが良いかとつらつら眺めるうちに、あまり枚方あたりからは行くもののいない同志社高校というのがあるのをみつけて、そこにしようと決めました。中学生の担任の教師にそう言うと、近くに同志社香里高校があるので、当然そこだと思われたようです。ところが、私は勝手に京都まで行って、同志社高校の願書をもらってきましたから、「えらい遠いところに希望したもんや」と驚かれました。
京都市の地図を見ると、同志社高校というのは現在の同志社大学の今出川キャンパスのすぐそばにある。そうであれば通えると思っていました。ところが、実際に現地を訪ねると、岩倉という比叡山の麓だということで、「これはえらいことや」と思いましたけれども、うまく通りまして同志社高校に行くことになりました。そこに入学して、毎日遠足のような通学をしました。京都の宝ヶ池というところを超えた、当時は本当に田舎でした。
同志社高校には京都の大体良いところの子どもが来ていましたから、そのようなところに入って学びましたけれども、やはり少し違和感がありました。つまり、多くの同級生たちは同志社中学から来るのです。外部から来るのは1割5分ぐらいだったでしょうか。ですから全体に、持ち上がりのような形で、中学の頃からの強いグループ意識のあるところに入っていったので、少し奥手の私には、当時は馴染むのにしんどかったのです。
3年になって、大学を当然、皆、考えます。多くの諸君は同志社大学には、希望どおりの学部ではない場合もありますけれども行けるということで、そこに行きました。どのぐらいの割合か、ちょっと覚えていませんけれども、ごく一部が同志社大学以外のところを受験する。私も、ここでもまた少し曲がっていて、最初は同志社大学はやめとこうと思っていました。それには、私は理学部に行こうと思っていたのに、同志社大学には理学部がなく、工学部しかなかったこともありました。それで、理学部がある国立大学を二つ受けて、見事に合格しませんでした。それで、もう1年はいいというので、京都の予備校に通いながら、理系の勉強をしました。
「そこでまた失敗すると、これは、かなわん」と思って、同志社も受験することにしました。ところが、同志社には理系がないものですから、理学部に近い名前はないかと探してみると「心理学やったら、理学に、言葉が近いやないか」ということで、何も内容は分からずに、「心理学を受ける」と言いました。とはいえ内心「文学部なんてのは、将来どうなるか分からんよ。食い上げだ」と思っていました。当時の同志社大学では、心理学は文学部文化学科心理学専攻だったのです。もう少し正確に言うと、教育学および心理学専攻です。専攻は運用上は分かれていましたけれども、調べてみると文部省的には一括りだったのです。
その年、結局合格したのが同志社大学であったということで、大学生活が始まります。
インA そのときに、最初に理学部に行こうと思われたということなのですけれども、なぜ理学部に興味を持たれたのですか。
岡市 物理をやりたいと思ったのです。生物ではなかったのです。ですから、心理学というものについての先行知識というのは、いわば、なしで選びました。
インA 理学部の中でも生物であれば、何かつながりがあるかと思いましたが、そのようなわけではなかったのですね。では、同志社大学の心理学専攻に入られて、そのときの大学の様子といいますか、心理学専攻の様子はどのようなものだったでしょうか。印象に残っていること。授業で印象に残ったことでもいいですし、当時の教員について印象に残ったことでも結構です。
入学当時の同志社大学の心理学専攻
岡市 当時の専攻の教員は5名でした。私が1年生に入ったときには、そのうち浜治世先生は、留学されていましたので、入学して心理学専攻の紹介のときには、4名の先生でした。学生の方は、私立大学の一つの専攻としては少なかったと思います。30名足らずで、浜先生が戻ってこられると、5名の教員で30名ということで、先生方からの指導は、非常に丁寧だったと思います。
私が1年生に入ったときの実験室などは、もう今は影も形もなくなっています。古い2階建ての建物で、そのうちの1階部分の一部が実験室です。それと渡り廊下で、アネックスといいますか、そこにネズミの飼育室兼実験室がありました。
インA そのときは、どなたが主にネズミの研究をやっていたのですか。
岡市 実際の実験的な研究はもうおやりになっていませんでしたけれども、私の恩師の松山義則先生が指導して、大学院の学生がやっていたということです。
インA では、学部の方はそのような動物実験の授業などはなかったのですか。
岡市 全くなかったです。
インA 他に何か、学部の頃によく記憶していることはありますか。
岡市 学部の頃の記憶していること。
心理学に興味があるなと思ったのは、2年生のときに心理学実験演習という、実際に実験をする授業においてです。この授業で、2年生のときに新しい先生が同志社に来られました。小嶋外弘先生です。心理学専攻の教員は6名になりました。たまたま実験演習の最初の担当が小嶋先生でした。小嶋先生が同志社に来られて初めての授業で、実験演習も初めてということで、「では、心理学の実験とはどのようなものか、実際に考えることから始めよう」ということで、小嶋先生の指導が始まったのです。
まず、心理学の研究をするために、一体心理学でどのような研究をしているのかを手短に知るためには、雑誌を読んでみようということで、『心理学研究』の中から興味のあるものを一つ選んでみて、追試できるかどうかを一緒に考えましょうということになりました。そのときにはもう浜先生も帰ってこられていたので、担当は6名になっていましたから、一つのグループが5人くらいだったのです。そのグループで考えて選んだのが、ギブソン効果の論文(池田尚子・小保内虎夫(1953)「圖形殘效の數量的分析(第1報告)」)です。これを一つ参考にやってみたいというと、「これだったら、君たちも自分たちでその装置を作ることからできるでしょう」ということで、竹ひごを揃えて、それに光を当てて、その曲がり具合を背景に映すというような装置を、われわれは自分たちで作ったのです。
それを使いながら実験演習をやりました。そして、結果をまとめて、これをどのように考えるのかということを小嶋先生をアドバイザーとしてまとめるというようなことをしたのが、心理学実験の最初です。「へえ、こんなことで心理学の研究というのが進むのか」ということを知ったのがこの実験でした。これがいわば出発ということになるかと思います。
当時、心理学の書物というのは、どちらかというと偉い先生方の本を読むことに、学生は興味があったのです。そのような実験に関わるような本を古本屋などで探して買い求めたりしました。同志社大学は松山先生が学習動機づけということを研究のテーマとしてやっておられて、それが学生にも伝わってきて、その領域には皆関心がありました。松山先生の動機づけの本をはじめ、学習心理学に関係する書物、関西学院大学の古武先生の『条件反射』なども求めて、学生間で読書会を開催したりして、そのように学部の学生の時代を過ごしました。
3年生の秋の11月頃に、卒業論文の研究と関わるゼミの選考というものがあります。これは、その6名の担当教員のどの先生のゼミに入るかという希望を出すわけです。私は、松山先生のところで研究をしたいということで出し、その希望どおりになりました。
ゼミに入ったばかりの頃はそれほど焦点を定めて勉強していたわけでもないのですが、松山先生から、「岡市君、学習の領域の中で、動機づけと遂行の関係というものを測定できるような実験をしたらどうかね」と、「一体どうしたら動機づけを高められるか。一つは、筋肉緊張という、興奮してくると筋緊張ということが生じるのではないか。それを実験的に操作してみたらどうか」という話をいただき、それで、筋緊張と課題遂行の関係を調べてみようということで、4年生のときに実験をして、それをまとめて卒業論文にしたということです。
だから、そのときには生理心理学的な話は全くなく、握力計を改造して、それを握らせて筋緊張を起こしながら、数列の足し算や、記憶などをさせるようなことをやったわけなのです。
インA この『心理学研究』に最初に多分書かれている、「筋肉緊張が精神作業に及ぼす効果」というのが卒論ですか。それはまた修士に入られてからの研究ですか。
岡市 卒業研究がもとです。
修士課程入学までの経緯
岡市 しかしその前に、66年に卒業した私は金融関係に就職したのですが、その年の12月に「どうしても大学院に戻りたい」と松山先生に泣きついたのです。「そんなこと考えたらだめよ。就職ないよ」と言われたけれども、「まあ、それはそれでまた考えます」と言って、「そしたら、もうしょうがない」ということで、67年に修士課程に入学したのです。そのときに、同時に、日本心理学会と、それから行動科学学会の前身の異常行動研究会に入っています。関西心理学会にはその次の年に入っています。日本動物心理学会への入会は、ずいぶん後、カナダへの留学から帰った後になります。
私は、卒業論文と同じ、筋肉緊張と課題遂行の関係を調べる研究を大学院の修士課程でもやっており、修士論文も、その研究をまとめたものです。ところで、大学院に入ってすぐに松山先生の指導で、この卒業論文の実験の内容をまとめることになりました。これを『心理学研究』に投稿したところ、うまく掲載してもらったというのが先ほどの論文です。実は、これがもとで後でラッキーなことが起きます。修士課程修了と同時の助手への採用です。この採用は、どなたかの先生の後というわけではないのですが、どういうわけか心理学専攻の教員枠が1人増えたのです。それに推薦してもらって、うまく採用されることになりました。教員になってから考えてみると、この論文があったことが良かったのかなと思いました。非常に幸運な出発であったと、私はありがたく感謝しています。
助手時代
インA 助手になられてすぐに松山先生の、『行動病理学ハンドブック』で「学習性動因」というタイトルで一章書かれていますね。
岡市 そのことですが、動機づけというお話に関係があるということで、「そのテーマを執筆するように」ということを言っていただきました。修士を出たのが69年なのですが、この年は日本の大学が大変なときだったのです。同志社大学でも秋頃から全学封鎖になって、授業は全くできなくなりました。新米の助手にとっては居所もないような。
インA 学生だとまた違うのでしょうが、助手だと大変だったでしょうね。学生紛争が終わってからはいかがでしたか?
岡市 実験室が移動しました。実験室は本当に、たびたび移動しているのですが、その理由の一つは何かというと、学生数が倍増してくることにあります。倍増して、60名を超え、その後さらに1学年が80名ぐらいまでになってくるのです。今までの実験室では実験ができないということで、少しでもスペースを確保するために学内をあちらこちらに動き回ります。
たびたび、専攻の教員一同で、まず文学部長に、狭隘さを解消するための実験室の拡張というものを願い出る。それから、教員の増員も願い出るということを何度もやりました。私はその頃は、ずっと長い間、下っ端でしたから、私が旗を振るわけでは全くないのですが、ずっと継続して関係する仕事をやっておりました。
インB 当時、筋緊張のセッティングというのは、実験の器材も含めて、先生はどなたかに指導を受けておられたのですか。それとも、ご自身で……
岡市 自身ですね。外国の研究者では、筋緊張といいますか、人間のそのような実験的動機づけで、マルモー(Malmo, R.)という人がいて、その人のレビューなどを見て、どのようなことをしているかを参考にしたと思います。
インB 先生ご自身は、例えば、先生は多分、牧野順四郎先生と二つ違うぐらいだと思うのですが、昔はラジオ小僧という感じではなかったですか。
岡市 むしろ、木工細工をするのに近い感じでした。松山先生のゼミの4年生たちで、私がやっているような領域のことをやりたいという学生と装置を一緒に考えたりして、大体は、あまり費用も掛からない手作りの実験をしていたのが、当時だったと思います。
同志社大学におけるラットの研究の変遷
インA そのとき、先ほどの松山先生がラットの実験の授業が修士課程には少し何かあったとお話をされていたように思いますが、そのときにも先生は、特に関心を持たれることはなかったのですか?
岡市 ネズミの飼育は学部1年生の終わりのときに、実は松山先生は、「これ以上飼えない」という決断をされて、そのときにいなくなります。だから、私も含めほとんどの学生はネズミの実験などは知らないのです。
インA それが復活するのは、先生が研究をされたからですか。
岡市 そうではないです。困ったな。それは、実は私の家内になる笠野洋子が、「どうしてもネズミで実験をやりたい」と言って、彼女は心理学専攻の主任(「主任」という言葉は公式にはなかったのですけれども、)に相当する立場にあった遠藤汪吉先生のゼミだったのです。「どうしてもネズミで研究をやりたい」と遠藤先生に言ったら、遠藤先生が、「松山先生に相談しなさい」と言われて、松山先生のところに行ったら、「しょうがないなあ」ということで、飼うことになったのです。
その当時、家内は家内ではなかったですけれども、卒論のためにネズミの実験を始めた。だから、1968年だと思います。
インA そこからは絶えず。
岡市 そこからはネズミの飼育が絶えず続いています。ところが、69年がやっかいでした。このときにネズミを学外に移動させています。松山先生のご自宅の庭に小屋を作ったのかな。つまり、学生運動をしている学生は学内を全部封鎖しました。ついには、ネズミの飼育といっても、「だめだ」というように通告してきたのです。それで飼育室を移動させたということで続いたわけです。
その間、やはり動物をやりたいという学生がいて、何をしたかというと、ゴキブリの実験をしています。それから、ニワトリを飼ってインプリンティングの実験……と大変なことでした。実験室一つを飼育小屋として、実験者はずっと観察しているというようなことをしていました。
インA しかし、先生としては直接、動物実験には全く関わっていらっしゃらなかったのですか。
岡市 関わっていませんね。関わっていないけれども、私は助手から専任講師で一番下だったから、「実験の面倒は見ろ」ということになっていたから、そのような意味では、関与はしていました。
マクマスター大学での在外研究
インA なるほど。そうだったのですね。その後の大きな転機が、在外研究としてカナダのマクマスター大学へのご留学かと思いますが……。
岡市 はい。1972年にICP(国際心理学会議)が東京で行われ、そこに多くの研究者が来られました。松山先生の恩師のN・E・ミラー先生がICPのメインの方には登壇されていました。私は発表などというのは考えたこともなかったのだけれども、当時所属していた異常行動研究会のシンポジウムに、マクマスター大学のブラック(Black, A. H.)先生が呼ばれてやって来られた。
ちょうどその頃、活発だった異常行動研究会では、自律神経系の条件づけの話が非常に話題になってきており、ブラックは、その条件づけの脳内の仕組みを研究していた。ブラックの編集した本の、Classical Conditioning ⅠもIIも出ていて、これも非常によく読んだ本です。そのようなものを参考にしながら、私も筋緊張だけではなくて、そのような条件づけの方にももう一つの柱を見つけようと思って、実験をやり出していたという頃だったのです。
インA 74年に鈴木直人先生と書かれた、「陽性・陰性強化子によるGSRの道具的条件づけ」ですね。
岡市 そうです。それで、このような研究をしたいということで、松山先生を通じてブラック先生に打診してもらったら、「いいでしょう」ということで、2年後の1974年にカナダへの留学が実現するのです。だから、そのときには、ネズミで実験をするとは、まだ私は思っていなかったわけです。こちらは、むしろ学習理論の中の話で、学習がどのように成立するのかという脳内の仕組みを研究してみたいと考えていましたので、それを研究していたブラックの方にはできれば、そのような研究をしたいという希望は伝えてあったのです。
そして、1974年9月、トロントとナイアガラの滝のちょうど中間くらいのところにあるハミルトンという街にいきました。非常にきれいな街だと思って、街の人に言ったら、「ハミルトンは鉄鋼の街だ。カナダではきれいではない」と言われた。
大学から10分ぐらい、バスで行くのですけれども、そこの街のアパートに住んで、1週間ほどたって慣れた頃にブラックの研究室に行きました。次に訪れたときはラボのミーティングの最中でした。ポスドクや院生たちが囲む中で、「ヒロが何をするかということを考えたけれども、脳内の条件づけの話は、もうちょっと出発が遅い。今は海馬だ」とブラック先生に言われました。当時、私は海馬というのは知りませんでした。海馬の研究をするのは、全く初めてだから、「えらいことやなあ」と思ったけれども、嫌とは言えないので、「それじゃあ、やってみます」ということになりました。
「ヒロは、大学では生理心理についてはほとんど未経験だけれども、行動の実験をしているから、生理学の方の話を学べば、これはすぐにいけるだろう」ということで、ポスドクのアンチェルに、「アンチェル、君、ヒロの指導係だ」ということで、生理学の話および手術のやり方を、一から教えてくれることになりました。
インB 先生の身分は何でいかれたのですか。
岡市 研究員です。
インA しかし、修士号をとられていますね。・
岡市 研究員で行ったけれども、2年目は、「やっぱり、ここでも修士で勉強しなさい」ということで、マスターコースに入学しました。
インA だから、75年に入学されたということですね。
岡市 1年間。だから、カナダでの大学院の授業も知っているのです。
インB 当時はハトなど、いろいろいたのですね。
岡市 いました。私が行った頃は、ジェンキンス(Jenkins, H. M.)が学部長でした。オムニバスの授業で、6人ぐらいの教員が3コマぐらいを担当して、いろいろな領域を講義していく。講義と、読める量ではない分量の「本を読んでこい」といわれました。その中で、ジェンキンスはハトを持ってきて話をしてくれた。面白く話をしてくれたようだけれども、あまり分からなかった。読む本を指定して、というような形でした。
インB 手術はすぐにできるようになりましたか。
岡市 最初はおおいに苦労しました。大体、それまでネズミには触っておらず、自分の研究として触るのはそれが初めてでしたから。デビットカフ(David Kopf®)の固定装置にネズミの頭を固定するのだけれども、なかなかうまくいきませんでしたね。
インB 行ってから、マスターのときには、ひたすら海馬の損傷などをしていたのですか。
岡市 海馬ばかりです。損傷です。
インB 海馬も広いですから、結局。
岡市 向こうでやっていたのは、海馬采と脳弓を大きく損傷するというような形の損傷だった。
インB 一応、電気凝固で損傷しますか、それとも。
岡市 電気凝固ではないです、物理的に。物理的に切断するのです。
インB 摘出ですか。アブレーションで。
岡市 アブレーションではないです。オキーフ(O’Keefe, J.)たちがやったやり方に従いました。具体的には、2mm弱の間隔で並行して1本の軸に取り付けた、2本の細いナイフを左の側頭部に開けた穴から挿入し、ナイフをとじることによって損傷しました。
インB はい、分かりました。
岡市 これはオキーフたちの実験で、円形走路の実験です。
マクマスター大学からの帰国後の日本でのラット研究の開始
インA それから、このご留学で研究内容が変わられ、修士論文を書かれて帰国されるわけですが、帰国されると、すぐにラット研究のラボを作られたのですか?
岡市 これがなかなかやっかいで、お金がかかるのです。デビットカフというのがアメリカの会社なので、そこの装置を輸入するのですから高いのです。
インA では、器材を揃えて……。
岡市 そのようなことになります。そして、部屋も要る。当時の心理学専攻は、実験室も研究費も十分ではない中で、よく我慢して認めてくださったと思います、その狭い実験室のスペースの中で。76年に帰ってくるわけです。そして、同志社の中でも、「部屋を使っていいよ」「ネズミももうちょっと飼っていいよ」ということになって、最小限の実験や手術の装置も揃えるということになります。そして、そのような実験に興味を持った学生諸君も出てきたということです。
インA 78年には、日本語でいくつも論文を発表され、また「Punishment of runway behavior in rats with fornical lesions」も発表されていますね。
岡市 これは修士論文の実験をまとめたものです。
インA なるほど。これは修士論文ですね。それ以降は一貫して、海馬と記憶ということですね。
岡市 そうですね。帰国した翌年の77年の日本心理学会には、発表はしなかったのですが行きました。その頃東京で日本心理学会があると、虎ノ門の国立教育会館が多かったので、多分そこだったと思うのですけれども、そこで「生理心理学の領域における今日的課題」というシンポジウムがありました。企画・司会が岩原信九郎先生でしたが、病気でこのときには来られなかった。
インB 岩原先生の亡くなる直前ですね。
岡市 シンポジストが、二木先生、岩崎先生、柿木先生、中村先生、討論者が、梅本先生、永村先生。岩原先生が司会ということで、私はどのようなことをされるのかと非常に興味を持っていました。また、私自身はそれまで日本の動物関係の方、生理心理の方とは全く関係がなかったので、ほとんど分からないけれども、話題としてこのようなものが出たから、できれば質問をしようと思って行きました。
そして、岩崎さんは、海馬系と海馬の機能としてのinhibitionの仮説を中心に話されたので、私は、「新しい流れとして空間の機能というものがあるけれども、それについてはどう考えてられますか」というようなことを質問したと思います。
当時私はカナダから帰ってすぐでしたし、岩崎さんは私のことなどご存じなかった。でもそれを出発として、岩崎さんとは非常に学問的な交流が深まりました。これが出発です。
インB お2人ともカナダに行かれましたから、その共通点は、あります。
岡市 だから、筑波大学といいますか東京教育大学の流れからすると、研究面での交流は、岩崎さんが最初です。動物心理学会のことなどから言うと、牧野さんにいろいろとお世話になりました。お2人には、非常にお世話になりました。
インB オキーフさんの方は、マクマスターと何かつながりがあったのですか。
岡市 研究のつながりは、ブラックとオキーフは強いです。
インB 先生の書かれたもの以外では、われわれは(オキーフの共著者だったNadelの名が)「ネイデル」なのか「ナデール」なのか、それが分からない。先生は、「ナデール」と書かれていますね。そのように、多分、向こうの人は呼んでいたということですね。これは大事な証言だと、いつも思います。
岡市 私は海馬については全く知らなくて、このテーマを与えられてやり始めた。それが1974年から76年ですけれども、1977年にブラック、ナデール、オキーフの3名でPsychological Bulletinにレビューを書いています。そのレビューと同じような内容を含み、もちろん大きく発展させた著書「The Hippocampus as a cognitive map」が1978年にオキーフとナデールによって発表されます。
この本の最初の献辞のところで、トールマンとヘッブとブラックにこの本を捧げています。当時、私はそのようなことは何も知らなかったからだめでしたが、知っていれば、もっと交流ができたかもしれず、振り返ってみて残念です。
2014年、J. オキーフ、M.モーセル、E.モーセルの3名が、「脳内の空間認知システムを構成する細胞の発見」によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞したことを知った時は、本当に驚きました。オキーフとJ.ドストロフスキィが1971年に報告した、ユニット活動記録実験による場所細胞の発見以来、私の研究の中心テーマとして見据えてきた研究がノーベル賞を受賞したのですから、研究の意義が評価された思いを抱きました。
ワシントン&リー大学での在外研究
インA そして、81年には再び、今度はアメリカの方に在外研究のために行かれるということなのですけれども、これには何か、きっかけや目標などはあったのでしょうか。
岡市 偶然が作用することが多いのです。マクマスターに行ったのは、こちらから、「行きたい」と言って、これは自分ではっきりとした向こうで研究したいという意図で行きました。また、これは同志社の給料で行きました。だから、特別の研究費というものではなく、日本で住んでいる分のお金をカナダに移し替えたというだけです。それでも研究費は皆、ブラックの方で持ってくれましたので全く不自由なく研究生活を送れました。だから、行くという気持ちだけで行けたと思います。
2回目の方は、前の留学から非常に期間が短いのです。同志社には海外留学制度というものが教員にはあって、毎年、各学部に1人か2人の割り当てがある。ところが、その申込期限にも、文学部の方から応募者がなかった。再募集をしてもなかった。それが掲示されていて、それを浜先生がぱっと目に留めて、「あなた、こんなものがあるわよ。行きなさい」と。「帰ってきて、まだそんなにたたないんですけど」と言うと、「いいわよ」ということでいくことになりました。
突然の話でしたので、「どこに行くかもまだ分からないんですけど」と言うと、浜先生はロックフェラー大学に客員教授で行っておられたので、「私の行ってたミラーのところに行くと書いといたらいいわよ」などと言われるので同志社大学への書類にはそれを書いて出しておき、いくつかの大学に打診してみました。そうすると、いくつかの大学からOKがあったのですけれども、その中で、こぢんまりとして私が落ち着きやすいということで、バージニア州にあるワシントン&リー大学のL・E・ジュラード(Jarrard)教授のところに行こうと決めました。
実はジョンズ・ホプキンスのオールトン(Olton, D. S.)にも出したのですが、オールトンは、「いや、うちはちょっと私自身は無理なので、L・E・ジェラードは非常に脳海馬の研究に精通してるから」という推薦もあって、最終的に決めたのです。だから、ジュラードの論文は読んでいたけれども、それほど中心ではありませんでした。
ジュラード自身は、薬物による脳内損傷では非常に高度なテクニックを有していて、行ってみたら非常に親切に、「研究を共同でやろう」と言ってくれたので、もう行ってすぐに実験を始めました。それは放射状迷路の実験を彼もやっていて、「この研究をやろう」と言うので、一緒にやりました。
そこには1年間いました。バージニア州のレキシントンという、非常にこぢんまりした大学街です。ちょうど隣にバージニアの陸軍士官学校があって、大学とカレッジが二つ並んでいる、本当に小さな街でした。老人は、よその夫人に道で会うと帽子を上げて会釈をされる。だから、家内と歩いていると、しばしば挨拶をされました。古き良き伝統がうまく保たれているところで、良い経験をしました。
インA そこでの共同研究の成果がBehavioral and Neural Biologyに1982年に出された「Scopolamine impairs performance of a place and cue task in rats」ですか。
岡市 はい。それから、84年のBehavioral Neuroscienceに掲載の論文もそうです。この1年間でやった実験は、二つ。
インB 当時の向こうの放射状迷路は、箱迷路だったのですか。材質は何だったのですか。
岡市 材質を吟味していませんが、ほとんど普通の板です。木製の高架式迷路です。
インB そうすると、臭いが染みついていそうな感じになるのでしょうか。
岡市 走路自体は木の板ですが、手掛は走路とちょうど同じ幅の板に、例えばメッシュを貼ったりトタンを貼ったりクロスを貼ったりしていました。だから、板をはめ込むだけだから、自由にランダムに手がかりの位置を取り換えることができました。餌を用いたので、毎試行、そのネズミが1試行終わった後に、迷路の床を拭く。グルグルと回って、そして次の試行に備えるという、実験者は目の回るような忙しさだったのです。
インA ワシントン&リー大学では水迷路の実験方法を習得されたのですか。
岡市 習得といいますか、1981年にモリス(Morris, R. G. M.)が水迷路を発表するのです。これを使って、その次の年にモリスたちの有名な研究がNatureに発表されます。水迷路というのはこれをきっかけに、非常に広く活用されるようになります。
私がまだバージニアに行っているときにシュラードが、「面白い迷路が発表されたよ。やってみるか」というので、「やってみよう」と言ったのです。日本に帰る2か月ぐらい前でした。大体、プールを用意するのがまず大変でしたが、何とか用意して、論文どおりにミルクを混ぜて設定しました。ところがこれは大変です。これは一晩たったら、すえたような臭いがするのです。だから、排水が十分できないと実験どころではありませんでした。
そこで何を使ったかというと、下剤として使われる水酸化マグネシウムです。レキシントンにそれほどたくさんの薬屋はないのだけれども、それをあちこちでたくさん買って歩いたので、店の人からは「これ、何にするんや」と聞かれました。ネズミはそれを飲まなかったから何ともなかったけれども、水を白濁させるということは、そのような物を使ってやってみました。
やってみるとモリスのようなデータが出たわけではないのですが、実際にやってみて「ああ、こんなふうにネズミが動いて台に乗るわ」ということを確認して、「日本に帰ったら、またやってみるよ」というようなことでした。
なお、この水迷路は、同志社ではその後、墨汁を使うことにしました。一つは、ウィスター系のラットはシロネズミなので、墨汁の中で非常にくっきりと浮かび上がって分かりやすい。しかも、それほど黒くならない。しかしズキンネズミなどを使うと、元々頭が黒いから、ちょっとやりにくかったかもしれないけれども、幸い使っていたのがずっとウィスターだったから、これはよかったと思います。
インB その墨汁は、先生たちが考えられたのですか。
岡市 そうです。
インA 先生は、その墨汁で水迷路や、放射状迷路の代わりに、格子迷路も開発されていますが、これはどのような経緯で作られたのですか。
岡市 ネズミの空間的な行動を解析するために、ラットが今どこにいるのかということを認知しているということを、そのように判断できる行動を実験的に取り出せないかということで、縦4本・横4本の走路を格子状に組み合わせた畳2畳ほどの大きさの高架式の迷路を作って、その迷路の中のどのポイントに自分がいるかということをラットが認識していると、行動測定上、判断できるようなものを作りたいと思ったのです。
その迷路には各走路にドアがあって、そのドアには通過できるドアと通過できないドアがあるけれども、外見上は全く変わらない。そのドアは自由に置き換えることができるということで、臭い刺激をコントロールしながら、どの位置にあるドアは開かないということを認識できるかどうかを調べようという実験を、大島裕子さんという大学院の学生とずっと一緒にやりました。これはなかなか長くかかりましたけれども、実験としてはうまく、当初の目的を達成できたと思っています。
インA これは他に何かアイデアの基(もと)があったのですか。
岡市 そこにこのようなドアをつけたり、コースを判断できるかどうかはオリジナルだと思います。
四隅に出発箱兼目標箱となる木の箱があり、試行ごとにラットの入った出発箱以外の3つの箱のどれかの箱の上のランプが点灯し、目標箱の目印としました。海馬の空間認知の仮説からすると、海馬損傷ラットも目印は分かり目印の方には行くと考えられます。目印の方には行くけれども、どのルートを通って行くかということを、きちんと認識できるかどうかを検討するのが目的です。コントロ―ルのラットは閉じたドアを避けてうまくいくわけだけれども、海馬損傷をすると途端にだめになる。全くだめになるのではなくて、目標の光目印に向かって走るということはできるのですが、閉じたドアのところに行くと、鼻をぶつけて戻ってきて、別のルートをたどるということを繰り返します。
2つの博士論文の提出
インA ワシントン&リー大学での研究を終えて帰国後87年に京都府立医科大学で医学博士をとられますね。これは何か理由があったのですか。どうして京都府立医科大学に?
岡市 それは、その頃、文学部の中で文学博士というのは非常に出しにくいということで、文学博士を出すぐらい時間をかけていると「いつになるか、ちょっと、自分も見当つかん」と松山先生も考えられて、京都府立医大とは大学としても近い関係にあって、そちらに頼もうかということになりました。後に京都府立医大の学長もやられた井端泰彦先生のところにお願いしてみたら、「この研究内容だったら、実験室の方に来ていろいろしてくれたら、考えることができるやろう」というようなことでした。いわば論文博士、すでに出している論文を審査対象にするということでOKをもらいました。
インA これは何かやはり博士号という話で、取った方がいいだろうという雰囲気があったのですね。
岡市 いや、「もう取った方が良いだろう」というように、専攻の教員の間では、できるだけ博士号をということだったけれども、日本の大学全体の中で文学博士というのは出にくい博士の一つだったのです。同志社の研究室を動かしていく上でも、教員は博士号を持っていた方がいいだろうということがあったと思います。そしてしばらくして、「やっぱり心理学の博士もあった方がいい」ということで、博士(心理学)を同志社大学で取りました。
インA それが94年のことですね。
岡市 この頃から、私は大学院の学生諸君には博士号を取れるような仕組みを作らなければいけないということで、文学部の中ではだいぶ、「そういうふうにしましょう」と言って回ったことがあると思います。そのような意味で、文学部には1学科と10専攻がありましたが、心理学専攻は、その中でも一番早く、博士号を出しやすい環境を整えることができたと思います。
インA ありがとうございます。あとは学会や国際学会などでの思い出、あるいは学会の役員としての思い出で、何かありますか。
動物心理学会での編集担当理事としての特集号担当
岡市 学会の役員は、日本心理学会理事もずいぶん選んでいただいて、やらせてもらいました。委員会としては、最初からではなかったけれども、少し遅れて認定委員をやりました。それから、編集委員。心理学ワールド、これはあるとき、「委員長をせよ」と言われて委員長もしました。それから、常務理事をやっていたときに、ついでにといいますか、倫理委員会委員長というものもやったことがあります。
学会では、動物心理学会の編集担当理事をやったときが一番、仕事としてはしんどかったです。何かと言うと、私の前の編集担当理事が牧野さんでした。牧野さんの終わりの頃に、編集委員のメンバーであった霊長研の方が意見を上げて、「動物心理学研究を活性化しなければいけない」といわれました。ちょうど50巻の記念になるということで、そのちょうどその節目のときに編集担当が代わりました。50巻を出すのが私の仕事になったのです。今まで動物心理学研究は少ししか論文が集まらなかったのに、若手を掘り出して論文を集めようというのですから「ほんとに、それ、やるの」と思いました。
私はその話があるということを知って、編集担当の理事になったものだから、これはまあ一つ、霊長研に行って、編集委員の松沢さんと友永さんに話をしてこようと思って、ちょうどアイの話も盛んだった頃だから、アイにも会いに行ってこようと思って行きました。そして、どのようなお考えかということを編集担当として聞いて、「そしたら、こういう方針いきましょう」ということになった。
それで、このような企画をするということを、次の理事長になられた牧野さんの話と私の話とを巻頭に掲げて、この50巻1号を作成しました。集まったのが23論文です。
インA すごいですね。
岡市 そして、意見論文がそれに加わったということで、これを編集しているときは、毎日、大学に行くと、私のメールボックスに、投稿の原稿が届いており、その審査に関わる仕事の処理をしてから同志社の仕事をするという日が続きました。
仕事として一番繁忙を極めたときですけれども、いろいろなものに目を通す必要があったのですから面白かったですね。でも、それからまた、動物心理学研究には投稿論文はたくさん集まらなくなりました。当時は、この後、すっからかんになって、誰も投稿しないのではないかと心配したのを覚えています。
国際学会と海馬研究会
それからもう一つ、学会というと、1990年の国際応用心理学会です。これもあまり、応用心理学会は、私の領域からいうと関係なかったのですけれども、大阪大学の糸魚川先生が財務担当の委員をされていて、実際に学会当日などの金庫番を誰かがやらなければいけないということで、「おまえが」ということになりました。それで、宝ヶ池のプリンスホテルに7日か8日間、ずっと泊まり込んだことが記憶にあります。
それから、2000年の国際心理学会でストックホルムに行きました。その頃、慶應大学の渡辺さんと私は共同研究をいくつかしていて、ストックホルムのこの学会で、シンポジウムを2人で企画したという思い出があります。
このほかに、私自身としては研究会が面白くて、海馬研究会というものを1984年に作りました。
インA では、2度目のご留学から帰って、少ししてからですね。
岡市 当時、神戸大学に所属しておられた杉岡さんが、まだ関西学院におられた大木さんと一緒に京都にやって来て、「岡市さん、海馬の研究会やろう」と言って、それがカモハチという飲み屋で3人で話をして、「ほんなら、やろう」ということになって始めたのが、84年3月です。
インA 参加者何人ぐらいですか。
岡市 このときは9名だった。私が辞めるときに、123回。
インA すごいですね。
岡市 しかし、やっている間にずいぶん研究会の性質も変わって、初めは参加者が実際に自分の研究を発表するということで、いわば、たたき合いのような研究会だったのです。だんだん、若い諸君の発表をたたくというようになってきて、そのような意味では、だいぶ性格が変わっていったと思います。
インA 30年ぐらいで120回ですから、年4回ぐらいですね。
岡市 4、5回ですね。
インA すごいですね。では、そろそろながくなってしまいましたので、終わりにしたいと思います。貴重なお話を本当にありがとうございました。
まずは、心理学を学ぶまでという話をお伺いできればと思います。
心理学を専攻するに至る経緯
岡市 私が大学に進学しようとしたときには、多くの大学で心理学は文学部の中の学科あるいは専攻であったわけです。それで、「文学部なんてのは、就職がないよ」と言われたものです。大体、文学部を最初の候補に考える人はよほど特異な人だと思われていました。私も文学部を選ぼうとは考えていませんでした。私は、「理系の学部に行ければいいな」と思っていました。
もう少し、話を若い頃に戻してみます。私は大阪府の枚方市というところに住んでおります。生まれたときは「枚方町」でした。小学校・中学校は公立に行きました。中学校を終わって高校を選ぶときに、「岡市は公立高校に行くもの」と家族も先生方もみんなが思っておりました。枚方市から選べる公立高校としては、府立高校が2校と、どういうわけか、大阪市立高校がありまして、その三つの中からどれかを選ぶというのが、当時の選択肢でありました。もちろん伝手などを頼って大阪市内にある有名高校に行く友だちもおりましたが、「住民票を移してまで行くというのは、やめとこう」と思っていましたが、しかし、先ほど言った三つの公立高校も、やめようと思っていました。では、どこが良いかとつらつら眺めるうちに、あまり枚方あたりからは行くもののいない同志社高校というのがあるのをみつけて、そこにしようと決めました。中学生の担任の教師にそう言うと、近くに同志社香里高校があるので、当然そこだと思われたようです。ところが、私は勝手に京都まで行って、同志社高校の願書をもらってきましたから、「えらい遠いところに希望したもんや」と驚かれました。
京都市の地図を見ると、同志社高校というのは現在の同志社大学の今出川キャンパスのすぐそばにある。そうであれば通えると思っていました。ところが、実際に現地を訪ねると、岩倉という比叡山の麓だということで、「これはえらいことや」と思いましたけれども、うまく通りまして同志社高校に行くことになりました。そこに入学して、毎日遠足のような通学をしました。京都の宝ヶ池というところを超えた、当時は本当に田舎でした。
同志社高校には京都の大体良いところの子どもが来ていましたから、そのようなところに入って学びましたけれども、やはり少し違和感がありました。つまり、多くの同級生たちは同志社中学から来るのです。外部から来るのは1割5分ぐらいだったでしょうか。ですから全体に、持ち上がりのような形で、中学の頃からの強いグループ意識のあるところに入っていったので、少し奥手の私には、当時は馴染むのにしんどかったのです。
3年になって、大学を当然、皆、考えます。多くの諸君は同志社大学には、希望どおりの学部ではない場合もありますけれども行けるということで、そこに行きました。どのぐらいの割合か、ちょっと覚えていませんけれども、ごく一部が同志社大学以外のところを受験する。私も、ここでもまた少し曲がっていて、最初は同志社大学はやめとこうと思っていました。それには、私は理学部に行こうと思っていたのに、同志社大学には理学部がなく、工学部しかなかったこともありました。それで、理学部がある国立大学を二つ受けて、見事に合格しませんでした。それで、もう1年はいいというので、京都の予備校に通いながら、理系の勉強をしました。
「そこでまた失敗すると、これは、かなわん」と思って、同志社も受験することにしました。ところが、同志社には理系がないものですから、理学部に近い名前はないかと探してみると「心理学やったら、理学に、言葉が近いやないか」ということで、何も内容は分からずに、「心理学を受ける」と言いました。とはいえ内心「文学部なんてのは、将来どうなるか分からんよ。食い上げだ」と思っていました。当時の同志社大学では、心理学は文学部文化学科心理学専攻だったのです。もう少し正確に言うと、教育学および心理学専攻です。専攻は運用上は分かれていましたけれども、調べてみると文部省的には一括りだったのです。
その年、結局合格したのが同志社大学であったということで、大学生活が始まります。
インA そのときに、最初に理学部に行こうと思われたということなのですけれども、なぜ理学部に興味を持たれたのですか。
岡市 物理をやりたいと思ったのです。生物ではなかったのです。ですから、心理学というものについての先行知識というのは、いわば、なしで選びました。
インA 理学部の中でも生物であれば、何かつながりがあるかと思いましたが、そのようなわけではなかったのですね。では、同志社大学の心理学専攻に入られて、そのときの大学の様子といいますか、心理学専攻の様子はどのようなものだったでしょうか。印象に残っていること。授業で印象に残ったことでもいいですし、当時の教員について印象に残ったことでも結構です。
入学当時の同志社大学の心理学専攻
岡市 当時の専攻の教員は5名でした。私が1年生に入ったときには、そのうち浜治世先生は、留学されていましたので、入学して心理学専攻の紹介のときには、4名の先生でした。学生の方は、私立大学の一つの専攻としては少なかったと思います。30名足らずで、浜先生が戻ってこられると、5名の教員で30名ということで、先生方からの指導は、非常に丁寧だったと思います。
私が1年生に入ったときの実験室などは、もう今は影も形もなくなっています。古い2階建ての建物で、そのうちの1階部分の一部が実験室です。それと渡り廊下で、アネックスといいますか、そこにネズミの飼育室兼実験室がありました。
インA そのときは、どなたが主にネズミの研究をやっていたのですか。
岡市 実際の実験的な研究はもうおやりになっていませんでしたけれども、私の恩師の松山義則先生が指導して、大学院の学生がやっていたということです。
インA では、学部の方はそのような動物実験の授業などはなかったのですか。
岡市 全くなかったです。
インA 他に何か、学部の頃によく記憶していることはありますか。
岡市 学部の頃の記憶していること。
心理学に興味があるなと思ったのは、2年生のときに心理学実験演習という、実際に実験をする授業においてです。この授業で、2年生のときに新しい先生が同志社に来られました。小嶋外弘先生です。心理学専攻の教員は6名になりました。たまたま実験演習の最初の担当が小嶋先生でした。小嶋先生が同志社に来られて初めての授業で、実験演習も初めてということで、「では、心理学の実験とはどのようなものか、実際に考えることから始めよう」ということで、小嶋先生の指導が始まったのです。
まず、心理学の研究をするために、一体心理学でどのような研究をしているのかを手短に知るためには、雑誌を読んでみようということで、『心理学研究』の中から興味のあるものを一つ選んでみて、追試できるかどうかを一緒に考えましょうということになりました。そのときにはもう浜先生も帰ってこられていたので、担当は6名になっていましたから、一つのグループが5人くらいだったのです。そのグループで考えて選んだのが、ギブソン効果の論文(池田尚子・小保内虎夫(1953)「圖形殘效の數量的分析(第1報告)」)です。これを一つ参考にやってみたいというと、「これだったら、君たちも自分たちでその装置を作ることからできるでしょう」ということで、竹ひごを揃えて、それに光を当てて、その曲がり具合を背景に映すというような装置を、われわれは自分たちで作ったのです。
それを使いながら実験演習をやりました。そして、結果をまとめて、これをどのように考えるのかということを小嶋先生をアドバイザーとしてまとめるというようなことをしたのが、心理学実験の最初です。「へえ、こんなことで心理学の研究というのが進むのか」ということを知ったのがこの実験でした。これがいわば出発ということになるかと思います。
当時、心理学の書物というのは、どちらかというと偉い先生方の本を読むことに、学生は興味があったのです。そのような実験に関わるような本を古本屋などで探して買い求めたりしました。同志社大学は松山先生が学習動機づけということを研究のテーマとしてやっておられて、それが学生にも伝わってきて、その領域には皆関心がありました。松山先生の動機づけの本をはじめ、学習心理学に関係する書物、関西学院大学の古武先生の『条件反射』なども求めて、学生間で読書会を開催したりして、そのように学部の学生の時代を過ごしました。
3年生の秋の11月頃に、卒業論文の研究と関わるゼミの選考というものがあります。これは、その6名の担当教員のどの先生のゼミに入るかという希望を出すわけです。私は、松山先生のところで研究をしたいということで出し、その希望どおりになりました。
ゼミに入ったばかりの頃はそれほど焦点を定めて勉強していたわけでもないのですが、松山先生から、「岡市君、学習の領域の中で、動機づけと遂行の関係というものを測定できるような実験をしたらどうかね」と、「一体どうしたら動機づけを高められるか。一つは、筋肉緊張という、興奮してくると筋緊張ということが生じるのではないか。それを実験的に操作してみたらどうか」という話をいただき、それで、筋緊張と課題遂行の関係を調べてみようということで、4年生のときに実験をして、それをまとめて卒業論文にしたということです。
だから、そのときには生理心理学的な話は全くなく、握力計を改造して、それを握らせて筋緊張を起こしながら、数列の足し算や、記憶などをさせるようなことをやったわけなのです。
インA この『心理学研究』に最初に多分書かれている、「筋肉緊張が精神作業に及ぼす効果」というのが卒論ですか。それはまた修士に入られてからの研究ですか。
岡市 卒業研究がもとです。
修士課程入学までの経緯
岡市 しかしその前に、66年に卒業した私は金融関係に就職したのですが、その年の12月に「どうしても大学院に戻りたい」と松山先生に泣きついたのです。「そんなこと考えたらだめよ。就職ないよ」と言われたけれども、「まあ、それはそれでまた考えます」と言って、「そしたら、もうしょうがない」ということで、67年に修士課程に入学したのです。そのときに、同時に、日本心理学会と、それから行動科学学会の前身の異常行動研究会に入っています。関西心理学会にはその次の年に入っています。日本動物心理学会への入会は、ずいぶん後、カナダへの留学から帰った後になります。
私は、卒業論文と同じ、筋肉緊張と課題遂行の関係を調べる研究を大学院の修士課程でもやっており、修士論文も、その研究をまとめたものです。ところで、大学院に入ってすぐに松山先生の指導で、この卒業論文の実験の内容をまとめることになりました。これを『心理学研究』に投稿したところ、うまく掲載してもらったというのが先ほどの論文です。実は、これがもとで後でラッキーなことが起きます。修士課程修了と同時の助手への採用です。この採用は、どなたかの先生の後というわけではないのですが、どういうわけか心理学専攻の教員枠が1人増えたのです。それに推薦してもらって、うまく採用されることになりました。教員になってから考えてみると、この論文があったことが良かったのかなと思いました。非常に幸運な出発であったと、私はありがたく感謝しています。
助手時代
インA 助手になられてすぐに松山先生の、『行動病理学ハンドブック』で「学習性動因」というタイトルで一章書かれていますね。
岡市 そのことですが、動機づけというお話に関係があるということで、「そのテーマを執筆するように」ということを言っていただきました。修士を出たのが69年なのですが、この年は日本の大学が大変なときだったのです。同志社大学でも秋頃から全学封鎖になって、授業は全くできなくなりました。新米の助手にとっては居所もないような。
インA 学生だとまた違うのでしょうが、助手だと大変だったでしょうね。学生紛争が終わってからはいかがでしたか?
岡市 実験室が移動しました。実験室は本当に、たびたび移動しているのですが、その理由の一つは何かというと、学生数が倍増してくることにあります。倍増して、60名を超え、その後さらに1学年が80名ぐらいまでになってくるのです。今までの実験室では実験ができないということで、少しでもスペースを確保するために学内をあちらこちらに動き回ります。
たびたび、専攻の教員一同で、まず文学部長に、狭隘さを解消するための実験室の拡張というものを願い出る。それから、教員の増員も願い出るということを何度もやりました。私はその頃は、ずっと長い間、下っ端でしたから、私が旗を振るわけでは全くないのですが、ずっと継続して関係する仕事をやっておりました。
インB 当時、筋緊張のセッティングというのは、実験の器材も含めて、先生はどなたかに指導を受けておられたのですか。それとも、ご自身で……
岡市 自身ですね。外国の研究者では、筋緊張といいますか、人間のそのような実験的動機づけで、マルモー(Malmo, R.)という人がいて、その人のレビューなどを見て、どのようなことをしているかを参考にしたと思います。
インB 先生ご自身は、例えば、先生は多分、牧野順四郎先生と二つ違うぐらいだと思うのですが、昔はラジオ小僧という感じではなかったですか。
岡市 むしろ、木工細工をするのに近い感じでした。松山先生のゼミの4年生たちで、私がやっているような領域のことをやりたいという学生と装置を一緒に考えたりして、大体は、あまり費用も掛からない手作りの実験をしていたのが、当時だったと思います。
同志社大学におけるラットの研究の変遷
インA そのとき、先ほどの松山先生がラットの実験の授業が修士課程には少し何かあったとお話をされていたように思いますが、そのときにも先生は、特に関心を持たれることはなかったのですか?
岡市 ネズミの飼育は学部1年生の終わりのときに、実は松山先生は、「これ以上飼えない」という決断をされて、そのときにいなくなります。だから、私も含めほとんどの学生はネズミの実験などは知らないのです。
インA それが復活するのは、先生が研究をされたからですか。
岡市 そうではないです。困ったな。それは、実は私の家内になる笠野洋子が、「どうしてもネズミで実験をやりたい」と言って、彼女は心理学専攻の主任(「主任」という言葉は公式にはなかったのですけれども、)に相当する立場にあった遠藤汪吉先生のゼミだったのです。「どうしてもネズミで研究をやりたい」と遠藤先生に言ったら、遠藤先生が、「松山先生に相談しなさい」と言われて、松山先生のところに行ったら、「しょうがないなあ」ということで、飼うことになったのです。
その当時、家内は家内ではなかったですけれども、卒論のためにネズミの実験を始めた。だから、1968年だと思います。
インA そこからは絶えず。
岡市 そこからはネズミの飼育が絶えず続いています。ところが、69年がやっかいでした。このときにネズミを学外に移動させています。松山先生のご自宅の庭に小屋を作ったのかな。つまり、学生運動をしている学生は学内を全部封鎖しました。ついには、ネズミの飼育といっても、「だめだ」というように通告してきたのです。それで飼育室を移動させたということで続いたわけです。
その間、やはり動物をやりたいという学生がいて、何をしたかというと、ゴキブリの実験をしています。それから、ニワトリを飼ってインプリンティングの実験……と大変なことでした。実験室一つを飼育小屋として、実験者はずっと観察しているというようなことをしていました。
インA しかし、先生としては直接、動物実験には全く関わっていらっしゃらなかったのですか。
岡市 関わっていませんね。関わっていないけれども、私は助手から専任講師で一番下だったから、「実験の面倒は見ろ」ということになっていたから、そのような意味では、関与はしていました。
マクマスター大学での在外研究
インA なるほど。そうだったのですね。その後の大きな転機が、在外研究としてカナダのマクマスター大学へのご留学かと思いますが……。
岡市 はい。1972年にICP(国際心理学会議)が東京で行われ、そこに多くの研究者が来られました。松山先生の恩師のN・E・ミラー先生がICPのメインの方には登壇されていました。私は発表などというのは考えたこともなかったのだけれども、当時所属していた異常行動研究会のシンポジウムに、マクマスター大学のブラック(Black, A. H.)先生が呼ばれてやって来られた。
ちょうどその頃、活発だった異常行動研究会では、自律神経系の条件づけの話が非常に話題になってきており、ブラックは、その条件づけの脳内の仕組みを研究していた。ブラックの編集した本の、Classical Conditioning ⅠもIIも出ていて、これも非常によく読んだ本です。そのようなものを参考にしながら、私も筋緊張だけではなくて、そのような条件づけの方にももう一つの柱を見つけようと思って、実験をやり出していたという頃だったのです。
インA 74年に鈴木直人先生と書かれた、「陽性・陰性強化子によるGSRの道具的条件づけ」ですね。
岡市 そうです。それで、このような研究をしたいということで、松山先生を通じてブラック先生に打診してもらったら、「いいでしょう」ということで、2年後の1974年にカナダへの留学が実現するのです。だから、そのときには、ネズミで実験をするとは、まだ私は思っていなかったわけです。こちらは、むしろ学習理論の中の話で、学習がどのように成立するのかという脳内の仕組みを研究してみたいと考えていましたので、それを研究していたブラックの方にはできれば、そのような研究をしたいという希望は伝えてあったのです。
そして、1974年9月、トロントとナイアガラの滝のちょうど中間くらいのところにあるハミルトンという街にいきました。非常にきれいな街だと思って、街の人に言ったら、「ハミルトンは鉄鋼の街だ。カナダではきれいではない」と言われた。
大学から10分ぐらい、バスで行くのですけれども、そこの街のアパートに住んで、1週間ほどたって慣れた頃にブラックの研究室に行きました。次に訪れたときはラボのミーティングの最中でした。ポスドクや院生たちが囲む中で、「ヒロが何をするかということを考えたけれども、脳内の条件づけの話は、もうちょっと出発が遅い。今は海馬だ」とブラック先生に言われました。当時、私は海馬というのは知りませんでした。海馬の研究をするのは、全く初めてだから、「えらいことやなあ」と思ったけれども、嫌とは言えないので、「それじゃあ、やってみます」ということになりました。
「ヒロは、大学では生理心理についてはほとんど未経験だけれども、行動の実験をしているから、生理学の方の話を学べば、これはすぐにいけるだろう」ということで、ポスドクのアンチェルに、「アンチェル、君、ヒロの指導係だ」ということで、生理学の話および手術のやり方を、一から教えてくれることになりました。
インB 先生の身分は何でいかれたのですか。
岡市 研究員です。
インA しかし、修士号をとられていますね。・
岡市 研究員で行ったけれども、2年目は、「やっぱり、ここでも修士で勉強しなさい」ということで、マスターコースに入学しました。
インA だから、75年に入学されたということですね。
岡市 1年間。だから、カナダでの大学院の授業も知っているのです。
インB 当時はハトなど、いろいろいたのですね。
岡市 いました。私が行った頃は、ジェンキンス(Jenkins, H. M.)が学部長でした。オムニバスの授業で、6人ぐらいの教員が3コマぐらいを担当して、いろいろな領域を講義していく。講義と、読める量ではない分量の「本を読んでこい」といわれました。その中で、ジェンキンスはハトを持ってきて話をしてくれた。面白く話をしてくれたようだけれども、あまり分からなかった。読む本を指定して、というような形でした。
インB 手術はすぐにできるようになりましたか。
岡市 最初はおおいに苦労しました。大体、それまでネズミには触っておらず、自分の研究として触るのはそれが初めてでしたから。デビットカフ(David Kopf®)の固定装置にネズミの頭を固定するのだけれども、なかなかうまくいきませんでしたね。
インB 行ってから、マスターのときには、ひたすら海馬の損傷などをしていたのですか。
岡市 海馬ばかりです。損傷です。
インB 海馬も広いですから、結局。
岡市 向こうでやっていたのは、海馬采と脳弓を大きく損傷するというような形の損傷だった。
インB 一応、電気凝固で損傷しますか、それとも。
岡市 電気凝固ではないです、物理的に。物理的に切断するのです。
インB 摘出ですか。アブレーションで。
岡市 アブレーションではないです。オキーフ(O’Keefe, J.)たちがやったやり方に従いました。具体的には、2mm弱の間隔で並行して1本の軸に取り付けた、2本の細いナイフを左の側頭部に開けた穴から挿入し、ナイフをとじることによって損傷しました。
インB はい、分かりました。
岡市 これはオキーフたちの実験で、円形走路の実験です。
マクマスター大学からの帰国後の日本でのラット研究の開始
インA それから、このご留学で研究内容が変わられ、修士論文を書かれて帰国されるわけですが、帰国されると、すぐにラット研究のラボを作られたのですか?
岡市 これがなかなかやっかいで、お金がかかるのです。デビットカフというのがアメリカの会社なので、そこの装置を輸入するのですから高いのです。
インA では、器材を揃えて……。
岡市 そのようなことになります。そして、部屋も要る。当時の心理学専攻は、実験室も研究費も十分ではない中で、よく我慢して認めてくださったと思います、その狭い実験室のスペースの中で。76年に帰ってくるわけです。そして、同志社の中でも、「部屋を使っていいよ」「ネズミももうちょっと飼っていいよ」ということになって、最小限の実験や手術の装置も揃えるということになります。そして、そのような実験に興味を持った学生諸君も出てきたということです。
インA 78年には、日本語でいくつも論文を発表され、また「Punishment of runway behavior in rats with fornical lesions」も発表されていますね。
岡市 これは修士論文の実験をまとめたものです。
インA なるほど。これは修士論文ですね。それ以降は一貫して、海馬と記憶ということですね。
岡市 そうですね。帰国した翌年の77年の日本心理学会には、発表はしなかったのですが行きました。その頃東京で日本心理学会があると、虎ノ門の国立教育会館が多かったので、多分そこだったと思うのですけれども、そこで「生理心理学の領域における今日的課題」というシンポジウムがありました。企画・司会が岩原信九郎先生でしたが、病気でこのときには来られなかった。
インB 岩原先生の亡くなる直前ですね。
岡市 シンポジストが、二木先生、岩崎先生、柿木先生、中村先生、討論者が、梅本先生、永村先生。岩原先生が司会ということで、私はどのようなことをされるのかと非常に興味を持っていました。また、私自身はそれまで日本の動物関係の方、生理心理の方とは全く関係がなかったので、ほとんど分からないけれども、話題としてこのようなものが出たから、できれば質問をしようと思って行きました。
そして、岩崎さんは、海馬系と海馬の機能としてのinhibitionの仮説を中心に話されたので、私は、「新しい流れとして空間の機能というものがあるけれども、それについてはどう考えてられますか」というようなことを質問したと思います。
当時私はカナダから帰ってすぐでしたし、岩崎さんは私のことなどご存じなかった。でもそれを出発として、岩崎さんとは非常に学問的な交流が深まりました。これが出発です。
インB お2人ともカナダに行かれましたから、その共通点は、あります。
岡市 だから、筑波大学といいますか東京教育大学の流れからすると、研究面での交流は、岩崎さんが最初です。動物心理学会のことなどから言うと、牧野さんにいろいろとお世話になりました。お2人には、非常にお世話になりました。
インB オキーフさんの方は、マクマスターと何かつながりがあったのですか。
岡市 研究のつながりは、ブラックとオキーフは強いです。
インB 先生の書かれたもの以外では、われわれは(オキーフの共著者だったNadelの名が)「ネイデル」なのか「ナデール」なのか、それが分からない。先生は、「ナデール」と書かれていますね。そのように、多分、向こうの人は呼んでいたということですね。これは大事な証言だと、いつも思います。
岡市 私は海馬については全く知らなくて、このテーマを与えられてやり始めた。それが1974年から76年ですけれども、1977年にブラック、ナデール、オキーフの3名でPsychological Bulletinにレビューを書いています。そのレビューと同じような内容を含み、もちろん大きく発展させた著書「The Hippocampus as a cognitive map」が1978年にオキーフとナデールによって発表されます。
この本の最初の献辞のところで、トールマンとヘッブとブラックにこの本を捧げています。当時、私はそのようなことは何も知らなかったからだめでしたが、知っていれば、もっと交流ができたかもしれず、振り返ってみて残念です。
2014年、J. オキーフ、M.モーセル、E.モーセルの3名が、「脳内の空間認知システムを構成する細胞の発見」によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞したことを知った時は、本当に驚きました。オキーフとJ.ドストロフスキィが1971年に報告した、ユニット活動記録実験による場所細胞の発見以来、私の研究の中心テーマとして見据えてきた研究がノーベル賞を受賞したのですから、研究の意義が評価された思いを抱きました。
ワシントン&リー大学での在外研究
インA そして、81年には再び、今度はアメリカの方に在外研究のために行かれるということなのですけれども、これには何か、きっかけや目標などはあったのでしょうか。
岡市 偶然が作用することが多いのです。マクマスターに行ったのは、こちらから、「行きたい」と言って、これは自分ではっきりとした向こうで研究したいという意図で行きました。また、これは同志社の給料で行きました。だから、特別の研究費というものではなく、日本で住んでいる分のお金をカナダに移し替えたというだけです。それでも研究費は皆、ブラックの方で持ってくれましたので全く不自由なく研究生活を送れました。だから、行くという気持ちだけで行けたと思います。
2回目の方は、前の留学から非常に期間が短いのです。同志社には海外留学制度というものが教員にはあって、毎年、各学部に1人か2人の割り当てがある。ところが、その申込期限にも、文学部の方から応募者がなかった。再募集をしてもなかった。それが掲示されていて、それを浜先生がぱっと目に留めて、「あなた、こんなものがあるわよ。行きなさい」と。「帰ってきて、まだそんなにたたないんですけど」と言うと、「いいわよ」ということでいくことになりました。
突然の話でしたので、「どこに行くかもまだ分からないんですけど」と言うと、浜先生はロックフェラー大学に客員教授で行っておられたので、「私の行ってたミラーのところに行くと書いといたらいいわよ」などと言われるので同志社大学への書類にはそれを書いて出しておき、いくつかの大学に打診してみました。そうすると、いくつかの大学からOKがあったのですけれども、その中で、こぢんまりとして私が落ち着きやすいということで、バージニア州にあるワシントン&リー大学のL・E・ジュラード(Jarrard)教授のところに行こうと決めました。
実はジョンズ・ホプキンスのオールトン(Olton, D. S.)にも出したのですが、オールトンは、「いや、うちはちょっと私自身は無理なので、L・E・ジェラードは非常に脳海馬の研究に精通してるから」という推薦もあって、最終的に決めたのです。だから、ジュラードの論文は読んでいたけれども、それほど中心ではありませんでした。
ジュラード自身は、薬物による脳内損傷では非常に高度なテクニックを有していて、行ってみたら非常に親切に、「研究を共同でやろう」と言ってくれたので、もう行ってすぐに実験を始めました。それは放射状迷路の実験を彼もやっていて、「この研究をやろう」と言うので、一緒にやりました。
そこには1年間いました。バージニア州のレキシントンという、非常にこぢんまりした大学街です。ちょうど隣にバージニアの陸軍士官学校があって、大学とカレッジが二つ並んでいる、本当に小さな街でした。老人は、よその夫人に道で会うと帽子を上げて会釈をされる。だから、家内と歩いていると、しばしば挨拶をされました。古き良き伝統がうまく保たれているところで、良い経験をしました。
インA そこでの共同研究の成果がBehavioral and Neural Biologyに1982年に出された「Scopolamine impairs performance of a place and cue task in rats」ですか。
岡市 はい。それから、84年のBehavioral Neuroscienceに掲載の論文もそうです。この1年間でやった実験は、二つ。
インB 当時の向こうの放射状迷路は、箱迷路だったのですか。材質は何だったのですか。
岡市 材質を吟味していませんが、ほとんど普通の板です。木製の高架式迷路です。
インB そうすると、臭いが染みついていそうな感じになるのでしょうか。
岡市 走路自体は木の板ですが、手掛は走路とちょうど同じ幅の板に、例えばメッシュを貼ったりトタンを貼ったりクロスを貼ったりしていました。だから、板をはめ込むだけだから、自由にランダムに手がかりの位置を取り換えることができました。餌を用いたので、毎試行、そのネズミが1試行終わった後に、迷路の床を拭く。グルグルと回って、そして次の試行に備えるという、実験者は目の回るような忙しさだったのです。
インA ワシントン&リー大学では水迷路の実験方法を習得されたのですか。
岡市 習得といいますか、1981年にモリス(Morris, R. G. M.)が水迷路を発表するのです。これを使って、その次の年にモリスたちの有名な研究がNatureに発表されます。水迷路というのはこれをきっかけに、非常に広く活用されるようになります。
私がまだバージニアに行っているときにシュラードが、「面白い迷路が発表されたよ。やってみるか」というので、「やってみよう」と言ったのです。日本に帰る2か月ぐらい前でした。大体、プールを用意するのがまず大変でしたが、何とか用意して、論文どおりにミルクを混ぜて設定しました。ところがこれは大変です。これは一晩たったら、すえたような臭いがするのです。だから、排水が十分できないと実験どころではありませんでした。
そこで何を使ったかというと、下剤として使われる水酸化マグネシウムです。レキシントンにそれほどたくさんの薬屋はないのだけれども、それをあちこちでたくさん買って歩いたので、店の人からは「これ、何にするんや」と聞かれました。ネズミはそれを飲まなかったから何ともなかったけれども、水を白濁させるということは、そのような物を使ってやってみました。
やってみるとモリスのようなデータが出たわけではないのですが、実際にやってみて「ああ、こんなふうにネズミが動いて台に乗るわ」ということを確認して、「日本に帰ったら、またやってみるよ」というようなことでした。
なお、この水迷路は、同志社ではその後、墨汁を使うことにしました。一つは、ウィスター系のラットはシロネズミなので、墨汁の中で非常にくっきりと浮かび上がって分かりやすい。しかも、それほど黒くならない。しかしズキンネズミなどを使うと、元々頭が黒いから、ちょっとやりにくかったかもしれないけれども、幸い使っていたのがずっとウィスターだったから、これはよかったと思います。
インB その墨汁は、先生たちが考えられたのですか。
岡市 そうです。
インA 先生は、その墨汁で水迷路や、放射状迷路の代わりに、格子迷路も開発されていますが、これはどのような経緯で作られたのですか。
岡市 ネズミの空間的な行動を解析するために、ラットが今どこにいるのかということを認知しているということを、そのように判断できる行動を実験的に取り出せないかということで、縦4本・横4本の走路を格子状に組み合わせた畳2畳ほどの大きさの高架式の迷路を作って、その迷路の中のどのポイントに自分がいるかということをラットが認識していると、行動測定上、判断できるようなものを作りたいと思ったのです。
その迷路には各走路にドアがあって、そのドアには通過できるドアと通過できないドアがあるけれども、外見上は全く変わらない。そのドアは自由に置き換えることができるということで、臭い刺激をコントロールしながら、どの位置にあるドアは開かないということを認識できるかどうかを調べようという実験を、大島裕子さんという大学院の学生とずっと一緒にやりました。これはなかなか長くかかりましたけれども、実験としてはうまく、当初の目的を達成できたと思っています。
インA これは他に何かアイデアの基(もと)があったのですか。
岡市 そこにこのようなドアをつけたり、コースを判断できるかどうかはオリジナルだと思います。
四隅に出発箱兼目標箱となる木の箱があり、試行ごとにラットの入った出発箱以外の3つの箱のどれかの箱の上のランプが点灯し、目標箱の目印としました。海馬の空間認知の仮説からすると、海馬損傷ラットも目印は分かり目印の方には行くと考えられます。目印の方には行くけれども、どのルートを通って行くかということを、きちんと認識できるかどうかを検討するのが目的です。コントロ―ルのラットは閉じたドアを避けてうまくいくわけだけれども、海馬損傷をすると途端にだめになる。全くだめになるのではなくて、目標の光目印に向かって走るということはできるのですが、閉じたドアのところに行くと、鼻をぶつけて戻ってきて、別のルートをたどるということを繰り返します。
2つの博士論文の提出
インA ワシントン&リー大学での研究を終えて帰国後87年に京都府立医科大学で医学博士をとられますね。これは何か理由があったのですか。どうして京都府立医科大学に?
岡市 それは、その頃、文学部の中で文学博士というのは非常に出しにくいということで、文学博士を出すぐらい時間をかけていると「いつになるか、ちょっと、自分も見当つかん」と松山先生も考えられて、京都府立医大とは大学としても近い関係にあって、そちらに頼もうかということになりました。後に京都府立医大の学長もやられた井端泰彦先生のところにお願いしてみたら、「この研究内容だったら、実験室の方に来ていろいろしてくれたら、考えることができるやろう」というようなことでした。いわば論文博士、すでに出している論文を審査対象にするということでOKをもらいました。
インA これは何かやはり博士号という話で、取った方がいいだろうという雰囲気があったのですね。
岡市 いや、「もう取った方が良いだろう」というように、専攻の教員の間では、できるだけ博士号をということだったけれども、日本の大学全体の中で文学博士というのは出にくい博士の一つだったのです。同志社の研究室を動かしていく上でも、教員は博士号を持っていた方がいいだろうということがあったと思います。そしてしばらくして、「やっぱり心理学の博士もあった方がいい」ということで、博士(心理学)を同志社大学で取りました。
インA それが94年のことですね。
岡市 この頃から、私は大学院の学生諸君には博士号を取れるような仕組みを作らなければいけないということで、文学部の中ではだいぶ、「そういうふうにしましょう」と言って回ったことがあると思います。そのような意味で、文学部には1学科と10専攻がありましたが、心理学専攻は、その中でも一番早く、博士号を出しやすい環境を整えることができたと思います。
インA ありがとうございます。あとは学会や国際学会などでの思い出、あるいは学会の役員としての思い出で、何かありますか。
動物心理学会での編集担当理事としての特集号担当
岡市 学会の役員は、日本心理学会理事もずいぶん選んでいただいて、やらせてもらいました。委員会としては、最初からではなかったけれども、少し遅れて認定委員をやりました。それから、編集委員。心理学ワールド、これはあるとき、「委員長をせよ」と言われて委員長もしました。それから、常務理事をやっていたときに、ついでにといいますか、倫理委員会委員長というものもやったことがあります。
学会では、動物心理学会の編集担当理事をやったときが一番、仕事としてはしんどかったです。何かと言うと、私の前の編集担当理事が牧野さんでした。牧野さんの終わりの頃に、編集委員のメンバーであった霊長研の方が意見を上げて、「動物心理学研究を活性化しなければいけない」といわれました。ちょうど50巻の記念になるということで、そのちょうどその節目のときに編集担当が代わりました。50巻を出すのが私の仕事になったのです。今まで動物心理学研究は少ししか論文が集まらなかったのに、若手を掘り出して論文を集めようというのですから「ほんとに、それ、やるの」と思いました。
私はその話があるということを知って、編集担当の理事になったものだから、これはまあ一つ、霊長研に行って、編集委員の松沢さんと友永さんに話をしてこようと思って、ちょうどアイの話も盛んだった頃だから、アイにも会いに行ってこようと思って行きました。そして、どのようなお考えかということを編集担当として聞いて、「そしたら、こういう方針いきましょう」ということになった。
それで、このような企画をするということを、次の理事長になられた牧野さんの話と私の話とを巻頭に掲げて、この50巻1号を作成しました。集まったのが23論文です。
インA すごいですね。
岡市 そして、意見論文がそれに加わったということで、これを編集しているときは、毎日、大学に行くと、私のメールボックスに、投稿の原稿が届いており、その審査に関わる仕事の処理をしてから同志社の仕事をするという日が続きました。
仕事として一番繁忙を極めたときですけれども、いろいろなものに目を通す必要があったのですから面白かったですね。でも、それからまた、動物心理学研究には投稿論文はたくさん集まらなくなりました。当時は、この後、すっからかんになって、誰も投稿しないのではないかと心配したのを覚えています。
国際学会と海馬研究会
それからもう一つ、学会というと、1990年の国際応用心理学会です。これもあまり、応用心理学会は、私の領域からいうと関係なかったのですけれども、大阪大学の糸魚川先生が財務担当の委員をされていて、実際に学会当日などの金庫番を誰かがやらなければいけないということで、「おまえが」ということになりました。それで、宝ヶ池のプリンスホテルに7日か8日間、ずっと泊まり込んだことが記憶にあります。
それから、2000年の国際心理学会でストックホルムに行きました。その頃、慶應大学の渡辺さんと私は共同研究をいくつかしていて、ストックホルムのこの学会で、シンポジウムを2人で企画したという思い出があります。
このほかに、私自身としては研究会が面白くて、海馬研究会というものを1984年に作りました。
インA では、2度目のご留学から帰って、少ししてからですね。
岡市 当時、神戸大学に所属しておられた杉岡さんが、まだ関西学院におられた大木さんと一緒に京都にやって来て、「岡市さん、海馬の研究会やろう」と言って、それがカモハチという飲み屋で3人で話をして、「ほんなら、やろう」ということになって始めたのが、84年3月です。
インA 参加者何人ぐらいですか。
岡市 このときは9名だった。私が辞めるときに、123回。
インA すごいですね。
岡市 しかし、やっている間にずいぶん研究会の性質も変わって、初めは参加者が実際に自分の研究を発表するということで、いわば、たたき合いのような研究会だったのです。だんだん、若い諸君の発表をたたくというようになってきて、そのような意味では、だいぶ性格が変わっていったと思います。
インA 30年ぐらいで120回ですから、年4回ぐらいですね。
岡市 4、5回ですね。
インA すごいですね。では、そろそろながくなってしまいましたので、終わりにしたいと思います。貴重なお話を本当にありがとうございました。