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大村 政男先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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大村 政男先生の略歴

キーワード・紹介
・学徒動員・招集と終戦、渡辺徹先生、古本屋での古川竹二の血液型論文との出会い、顕現性不安尺度、少年鑑別所、T字型の板での学会発表、CIE図書館、『さいころじすと』、資格制度
・1948年日本大学卒業後、少年鑑別所勤務を経て、1995年日本大学定年退職 博士論文「顕在性不安の構造に関する研究」
・大村先生のお話を聞いていると、戦後間もない大学での心理学の教育の不安定さと柔軟性、そして、手作りの学会の様子がいきいきと伝わってきました。

日時:2014年3月27日(木)
場所:日本心理学会事務局
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 先生、今日はどうぞよろしくお願いします。資料をいただいていますので、順番に伺っていこうと思いますが、まず、日本大学の心理学に入られたわけですけども、どういうきっかけで、日本大学の心理学に行こうと思われたんでしょうか。

大村 私は、付属の日大二中から日本大学の予科文科に入ったんです。当時、中学校は5年制ですからね。そこを出て、それが昭和18年です。予科文科っていっても、戦争中ですけど、みんな、遊んでばかりいたもんですから、予科文科と言わないで、ヨタブンって言われていたんです。戦争が始まったのが昭和16年、私が中学3年のときでした。それで、その頃の教育は、もう「アメリカなんか、へっちゃらだ」というんで、「何だ、アメ公は」なんて言ってましたね。「アメリカ人は背が高いから潜水艦には乗れないんだ」とか、私、完全に勝つと思っていましたね。特に真珠湾の大勝利があったもんですから、「アメリカなんかへっちゃらだ」なんて思っていました。そのうちに、だんだんだんだん雲行きが怪しくなってきたんですね。
 昭和19年かな、19年に、学徒動員で府中の日本製鋼武蔵製作所という工場に通っていました。中河原というところに寮があって、そこに予科文科の2年生の連中が寮生活をして、そこから徒歩で分倍河原を経て府中の工場に通っていたわけですよ。その頃、B29がやって来たんですけど、うちの工場なんか爆撃されないんですよ。まあ、飛行機は造っていませんから。高射砲は造っていたんですが。
 それで、昭和20年の3月の10日に学徒動員が解除になったんですが、私は寮生活が懐かしいので、そこに泊まっていたわけですよ。その時に、寮から友達を連れて東京の実家に帰った男たちがいて、それで、その夜の東京大空襲で死んじゃったんですよ。運ですね。かなり前から、誰だったかな、勢いのいい男性の歌手が、「ズンドコ節」というのを歌ってますよね。「ここで別れちゃ何とかで」って。あれなんか、その頃流行していたんですよ。

インA 氷川きよしさんですね。

大村 ええ。「ここで別れちゃ未練が残る。せめて府中の駅までも」ってね。「ズンドコ、ズンドコ」なんて、やってましたよ。
 その3月の10日動員解除式のときに紙が配られてきて、どこの学部に行きたいんだって。予科ですから、その上に専門の学部があるわけです。学部は、そのときに3年制だったんですね。予科もほんとは3年制なんですけれども、戦争中で2年に短縮されていました。そこで、「どの学部に行きたいんだ?」というわけですね。私は国文学が好きだったんで、中学校の先生にも親しい人がいたので、「国文学にしようかな」って言ったら、友達が「心理学をやっていると、将来、技術将校になれて、死ななくて済むぞ」っていうわけで、そこで、技術将校を目指して、心理学専攻、のちの心理学科ですが、そこを選んだんです。

インA 予科の頃には、心理学の授業っていうのはなかった?

大村 あったんです。けれども、別に興味はなかったですね。渡邊徹先生や、長谷川貢先生がいらっしゃって、訳の分かんないことをしゃべっているから、興味はなかったですね。それよりも、国文学なんかが素敵でしたね。『万葉集』なんていうのは、ほんとに素敵だなあ、なんて思って。
 3月10日以降の空襲の時には、まだ杉並の自宅にいて、東の空が真っ赤になるのを見ていました。「ああ、すげえなあ」なんて思っていました。しかしとうとう召集令状が来て、5月の13日に千葉県習志野の戦車隊に入隊したんですよ。そうしたら、上の人に呼ばれて、「おまえは心理学やったそうだけども、人の心が分かるか」なんて言われました。私は、「はい、分かりません」なんて応えましたよ。
 それから1週間習志野にいて、アメリカ軍が相模湾に上陸したらっていうんで、厚木の海軍飛行場のそばに移動したわけです。みんな農家に分宿するわけです。農家に分宿して、戦車を隠す穴とか、陣地の穴とか。それから、松の根っこから取る油をガソリンにまぜるといいとかいうんで、松の根っこを掘ったりなんかしていました。松根油なんです。ところが、ふだん履く靴がないんです。そこでわらじを各自で作ったんです。農家の人に習って、わらじを作ったんですよ。正規の皮靴は、アメリカ軍が上陸したときに履くんだって言うんですよ。「これじゃあもうだめだ」と思いましたね。
 8月の15日でした。玉音放送がありました。あの時は何が何だか分かんなかったですね、農家の庭に集まってラジオを聴いたんですけど、ガーガー、ピーピーで、何も分かんないんです。中隊長が、「陛下が、ソ連と戦えとおっしゃったんだ」と言うんで、それからまた猛訓練が始まったんです。そうしたら、その日の夕方に、厚木の海軍飛行隊が騒動を起こしたんです。しかも、対空砲火を一気に打ち上げたんですね。敵機は来ていないのに、景気づけですね。まさに火柱ですよ。今度は厚木の飛行隊の連中が数台のトラックでビラを撒きに来たりなんかして、それで、「一緒に戦おう」ってわけです。とんでもない、えらいことになってしまうんですね。そのうちに、その連中が鎮静化して、私たちは、茅ヶ崎かな、なんかまで歩いて移動して、そこで、汽車に乗って東京駅に向かうわけです。ところが、来る列車、来る列車、みんな、海軍兵でいっぱいなんです。それで、陸軍兵は乗っけてくれないんです。「おまえたち、船舶兵か」って言うんです。船舶兵っていうのがあったんです。それで、「戦車兵です」なんて言うと、乗っけてくんないんです。それで、いくつかの列車を待っていて、そのうちに、上の人が軍刀を抜いて、窓を壊して、それで、私たちから入れっていうわけです。それで、車内に突入したんです。みんな目が光っていて、ぎらぎらしていて、怖かったですよ。
 それで、東京駅に着いたら、今度は陸軍兵と海軍兵とが線路をはさんで睨み合っているんです。東京駅は爆撃されて、天井は崩れているし、棄てられた缶詰は腐臭をはなっているし、すごい光景でした。それから、吉祥寺まで移動してきて、そこのある学校に宿泊して、1週間ぐらいして解散になったんです。

インA では、しばらくは、大学に行く感じではなかったんですね。

大村 ええ。それで、大学へ戻ったときは、いつだったか忘れましたけど、とにかく平和な時代が訪れたわけです。

インA そこでは、心理学の授業とかというのは、どういう形のものだったんですかね。

大村 心理学の授業は、そのときにあったのは、あったといっても、1週間にほんの僅かでしたね。
渡邊徹先生という方は、その頃、脚を怪我されていて、研究室の奥の方のベッドで寝ていらっしゃいました。上級の学生から枕元に行って、私たちなんて入ったばかりですから、後ろの方で、蚊の鳴くような「心理学概論」を聴いていたわけです。
 それから1年か2年かして、卒業論文に何をしようかと思ったんですよ。それで、そのときに、神田の焼け残った古本屋で、『心理学研究』の、何冊かの合本を発見したんですね。あれは何年だったかな。たしか1927年の合本でした。それに、古川竹二っていう人の、血液型と気質の論文が載っていたわけ。それで、私はA型だから、A型のところを見たわけです。ぴったりなんですね、もう。あの時は、これはすばらしいと。これこそ科学だと。それで、血液型を卒業論文にしようと思ったんです。しかし、卒業論文は、上の先生から与えられたテーマか、または許可されたテーマで作成するならわしになっていたんです。私は、渡邊先生から「おまえ、これをやれ」と。私は、「あー、血液型やりたいなあ」と思っていたんですよ。渡邊先生も、戦争中に古川竹二さんたちを研究室に呼んで、話を聴いたことがあるんですね。そのことはずっとあとで知りました。血液型の話はとうとう出さずじまいで終わりました。
 血液型の次に、アメリカ兵がたくさん来ているから、アメリカ国民性の研究を質問紙を使ってやったらおもしろいだろうと思ったんですよ。そしたら、もちろんそれもできなくて。それで、渡邊先生は、adjustmentの研究をやれっていうので、それで、neurotic tendencyですか、neurotic tendencyの研究が適していると思って、その研究をやったわけです。それで、それが卒業論文になったわけです。

インA 「人格の適応性に関する研究」ですね。

大村 そうです。人格の適応性に関する研究っていうやつですね。

インA 現在の『教育心理学研究』が始まる前の「教育心理学研究」1-2(1949-50)にその一部を発表されたものですね。

大村 はい。それで、もちろんそのneurotic tendencyの他にself-sufficiencyとself-confidenceの2件の尺度も入れて、結局、それを卒業論文にしたわけです。

インA なるほど。その後、ご就職されるんですね、一度。

大村 はい。それで、大学院に1年間いたんです。

インA あ、そうですか。

大村 その頃の大学院は旧制の大学院で、何年いてもいいんです。波多野勤子さんは、とうとう学位を取るまで在学していらっしゃいました。学位論文を出されたんですが、渡邊先生は仕事がのろいものだから、渡邊先生と秘書の二人を連れて、別荘へ行き、そこで数日間泊まり込みで講評を書いてもらったんです。波多野勤子さんのご夫君の完治先生も、日大で学位を取られている。それから牛島義友先生も、日大で学位を取られました。
 話は横道にそれましたが、私は結局、1年間大学院にいて、「これじゃあしょうがないなあ」と思って、就職口を探したら、東京少年鑑別所。法務府、現在の法務省ですね、そこで募集があるっていうんですね。その頃は、公務員試験なんかないんですよ。それで、植松正っていう法務府関係で有名な先生がいらっしゃって、その先生に頼んだわけですよ。そしたら、「おまえは、行くと言ったら必ず、他からどんな話が来ても、行くな?」っておっしゃるから、「はい」と。それで、鑑別所に勤めるようになったんです。その頃は、鑑別所と観護所とが分かれていたんですが同じ敷地にあったんです。それも、ありがたいことに、杉並区なんですね。私の家のそばなんです。だから、そこに決めたわけです。それで、決めた翌日かな、研究室に行ったら、渡邊先生が「この頃、おまえの動きが変だなと思っていた」とおっしゃるんです。私が鑑別所のことをお話ししたら、先生は「助手にならんか」っておっしゃるんですよ。そのときは驚きました。でも、植松先生に「うん」と言ったんだからっていうんで、とうとう助手にならずに鑑別所に勤めたわけです。
 そのときに所長室でタイプをたたいていたのが、今の女房なんですね。しかし、少し働き過ぎてしまって、肺結核になってしまったんですね。それで、とうとう鑑別所を辞めて、なんと、研究室に戻ったんですよ。変な話で、病人が戻ったんですよね。それで、渡邊先生に「よろしくお願いします」と言ったら、「よく帰ってきたなあ」なんておっしゃってね。それでもまあ、とにかく、元の鞘に収まったんです。
 それで、研究室にもどったときが日本心理学会の大会が、日大で開催される1年前(昭和26年)だったと思います。たしか第16回だと思います。

インA はい。そうですね。

大村 それで、そのときの赤沈ですね、現在はまったくやっていませんけども、赤血球沈降速度っていうんですが、ひどかったんです。そうしたら、渡邊先生は、変な本を持ち出してくるんです。『How to read face』っていう本で、結核患者の顔とか、いろんな病気の人の顔、特に目が写っているんですね。それで、私の目を見て、「大丈夫だ」って言うんですね。それで、第16回大会のときのアシスタントをやったわけです。大変でした。それから会期中に渡邊先生が「最近本邦心理文化史談会」という座談会を開きました。とにかく、当時は、今のように、コンピュータなんてメカはありっこないから、T字形の板に発表のデータを書いた大きな紙を貼って、それでやったわけですね。マジックインクなんかないでしょ。ないもんだから、墨汁で書くわけですね。準備室で、筆に墨汁をつけて書いてそれで発表する人が多いんです。発表中に、墨汁が垂れてくるんですね。乾いてないから。すると、「あ、垂れてきました」なんて言って指で止める人もいて、なかなかすごい。随分長い間、そのT字型の器具が使われていましたね。

インB 1950年ぐらいの、昭和25年ぐらいの発表は、そんな感じだったんですかね。

大村 ああ、そうでしたね。ほんとに、もうね。それから、北海道大学で結城錦一先生が大会を開いた時には、謄写版で刷った資料を発表者から集めて、それを綴じて論文集にして会員に販売したことがありました。

インA 今の発表論文集の前身ですか?

大村 そうです。それでその発表大会が終わって、北海道の1周旅行なんていうのがあったんです。それが、北海道を東から回るグループと、西から回るグループとがありました、なんと、ある休憩所に行ったら、「日本神理学会御休息所」って書いてあるんですね。驚きました。それを「違っている」って言ったら、店の人が大急ぎで片づけたんですよ。そうしたら、大阪大学の橘覚勝という老年期研究で有名な先生が、わざわざ片づけたやつを出してきて記念撮影をしました。あの時は、青函連絡船で渡って、4発のプロペラ機で帰ってきたんです。大変な時代ですよ。

インA そうなんですか。学会と言えば、先生が在学中に、応用心理学会の第1回があったんですね。

大村 在学中にありました。

インA その時のことは、何か覚えていらっしゃいますか。

大村 はい。応用心理学会が、日本心理学会よりもちょっと早く、昭和21年3月17日に復興第1回大会を開催したんですね。大会の受付は、私が1人でやっていたんです。1人で十分だった時代だったんですよ。
 受付で、厚い本の背表紙に金文字で著者の名前がある先生にじかに接して感激しましたね。あ、この先生が、今、行った方が、あの先生で。本当にあの時は感激しましたね。
 この頃の人は本の著者に会っても感激しないと思いますけども、その頃は、牛島義友先生とか、青木誠四郎先生とか、そういう先生方の本がよく読まれていましたよ。

インA なるほど。すいません、話が前後してしまって。

大村 いえいえ。

インA 先生、日大に戻られてから、『保安衛生』などで、保安大学校(現:防衛大学校)での研究をたくさん発表されています。それは何か理由があるんですか。

大村 はい。心理学出の大先輩で、近喰秀大(こんじきひでお)という精神科医がいました。その近喰秀大という人が、陸上自衛隊幕僚監部のお医者さんのトップにいたんです。その人がのちに保安大学校の衛生課長になり、その人に誘われて、陸上自衛隊員や保安大学校の学生についての研究をしました。あのときはおもしろかったです。自衛隊についてのデータなんて貴重ですよね。

インA そうですね。テーマとしては不安について、その辺、おそらく、卒論からの続きで・・・。

大村 そうです。卒論がneurotic tendencyですから、anxietyと関係あるから、不安の研究をやっていたわけです。

インA その頃から、植松先生の記念論文集でお書きになっているご論文もそうですが、パーソナリティの研究の問題点、たとえば因子分析などの問題点について、初期の頃から関心を持っておられますね。

大村 はい、好きでした。でも、コンピュータを自分では操作できないんですよ。

インA ああ。この辺の資料はすごいですね。そうですか。ICPの際もされて、その異常性の、先生の場合は、臨床の方も、かなりされていますね。

大村 好きだったんです。私たちが臨床心理学を教わったのは、南博先生なんです。南博先生は臨床家じゃないんですけども、南先生に連れられて、何人かで国府台病院に行って、それで、いろんな症例やなんかを見せてもらいました。たしかその頃、のちに日大医学部精神科の主任になる井村恒郎先生も、国府台病院に関係があったと思います。

インA そういういろんなことをされつつも、教育心理学研究の編集もされてますね。

大村 はい。していました。

インA もう少ししてから顕現性不安尺度の方に重心を置かれて、それが博士論文の方につながっていかれるということですね。

大村 はい。J.A.TaylorさんのManifest Anxiety Scale(MAS)っていうのがはやったんですね。ええ。なぜはやったかっていうと、日本人は不安だからっていうのはどうか分かりませんけど、『J. of Abnormal and Social Psychology』に、なんと全文が載ってたんですね。尺度の全文が論文中に出ているのは珍しいことです。もちろん、このManifest Anxiety Scaleは、実際はBiographical Inventoryという大型の質問紙のアイテムのなかに入っていて、その正体が分からないようにしてあるんですけども、生のままの尺度が彼女の論文の中に載っていたんです。それで、はやったんですね。私もそれに食いついたと言ってはおかしいんですけども、それが、学位論文の基になったわけです。

インA 日本に紹介したのは、大村先生が大きいですね。

大村 それで、6か月間の休暇をもらって渡米した時に、テキサスのオースティンにあるテキサス大学に出かけてテイラーさんにお会いしてきました。その頃彼女はアイオワ大学時代の指導教授でのちに夫君になったK.W.Spenceと死別し、J.T.Spenceと名乗っていました。

インA 47歳のときですかね。昭和47年。

大村 ええ。最初は、富士短期大学の修学旅行の連中と一緒に、ヨーロッパ各国をバスで周遊して、ロンドンで彼らと別れたんです。それで、テイラーさんとお会いする予定が、なんと、ずっと後になってしまったんですね。とうとうロンドンの近郊の下宿で3か月ぐらい逗留しなければならなくなりました。
 5月に入ってからニューヨークへ飛んで、ニューヨークから北へ上って、広島大学の山本多喜司先生のいらっしゃるウースターのクラーク大学へ行ったんです。クラーク大学に行ったら、クラーク大学でPh.D.を取った人の写真がずらっと掲示してあるんですね。山本先生の岳父に当たる慶応義塾大学の横山松三郎先生の写真も見ることができました。山本先生は、そこでラットを被験体にして、アンカーポイントについての面白い研究をしていました。地元の新聞がそのことを報道していました。

大村 ラットがどういう行動をするかっていうんで。それで、おもしろいことに、ラットがちょろちょろ歩いて行って、そこに彼が見慣れているものがあると、そこがアンカー・ポイントになって、今度はそこを中心にして歩き回る。だから、ちょうど人間とおんなじなんですね。友達の家に行ったり、下宿に行ったりして、その周りを見て、なんていうのとおんなじ、全く、ラットの行動と。私はクラーク大学からニューヨークにもどり、そこからワシントンに出かけてAPAの本部を訪問、そしてテキサス大学のテイラーさんにお会いするためにオースティンに飛びました。
 テキサス大学での仕事を終えて、ロスにまいりました。カリフォルニア大学に、知り合いがいたんです。アラン・L.ライブという社会心理学者です。その人の奥さんが日本人なんです。心理出の女性の知り合いだったからちょうどよかったんですね。
 私はカリフォルニア大学でMASについての多くの資料を集めて、帰国の途につくことになります。
 ちょうどそのころ、ハワイのホノルルで、アメリカ心理学会があったんですね。それが第何回の心理学会かは忘れましたけども、アメリカ心理学会があって、そこに出席したんです(インタビュアー注:第32回大会)。そうしたら、会場にほとんど人影がないんです、日本と同じなんですね。シンポジウムなんか、シンポジストだけなんです。みんな、遊びに行ってしまっているんですね。あんなところでやれば、どうしてもそうなりますよね。で、私も十分に遊んで帰国しました。

インA そうなんですか。その後、いろんな学会の要職に就かれて、それこそ資格認定委員長とか、学会のあり方検討委員会などをされています。そこで何か考えられたこととかございましたら・・・。

大村 いやあ、一番大変なのは、臨床心理士の問題が起きたときですね。結局、東京周辺でやったのは、児玉省っていう方が旗振りで、あの方が英語ぺらぺらで、シカゴ大学かな、出たのは。戦後の心理学界で大活躍した人です。その人を中心に相当な長年月をついやして、臨床心理士という資格を作り上げようとしたんですね。
 しかし、国府台の臨床心理学会の改革派の人たちの反論というか妨害というか、要するに、質問に応えられないんですね。「誰が試験問題を出すんだ、どうして審査するんだ」って。non-directiveの場合には、どういうテープが出せるのかなどです。なるほど、ほんとですよね。non-directiveの場合は、テープはね、結局はなにもないよね。カウンセラーのテープはないものね。それで、結局約10年かかった作業も水泡に帰してしまうんですね。あのときにもっときちんとやっていればよかったんだけども、できてなかったんですね。
 そのころ、日本心理学会の方で改革運動が起きるんですね。その改革運動が起きる前かな、教育心理学会の方から呼びかけがあって、日本心理学諸学会間連絡会っていうのができるんですよ。しかし、この連絡会が論争の渦で、どうして心理学者って協調性がないのか、協調性を教えているくせに。もう、けんかなんですよね。一番すごいのが、国府台の臨床心理学会の改革派から来ている委員と他の委員との対立です。血相を変えて、会場を出てしまう人もいましたよ。さすがに殴り合いまではないけども、とにかく、多くの学会の委員と国府台の臨床心理学会改革派の委員とは肌が合わなかったですね。

インB 国府台の、臨床心理のグループは、どんなメンバーがいらしたんですか。

大村 それが思い出せないんですよ。だけども、とにかく、しょっちゅう、会のあるごとに激論なんですね。

インB 大学に属していた研究者ではない方なんですかね。

大村 国府台の病院に属していたようですね。

インB 属していた、現場の臨床家のような方ですかね。

大村 ええ、そうです。臨床家ですね。どこかの大学の非常勤をやっていた人もいるかもしれませんが。
連絡会ができて、そこで、『さいころじすと』という雑誌を作ることになりました。これは南博先生が名付け親で、APAでもそういうのがあるんです。APAでは就職活動にも使っていたんです。どこどこで、どんな人を募集しているとかですね。
 しかし、『さいころじすと』はそんなに頻繁に出せないんですよ。お金がないんです。日本心理学会でも分担金が大変なんですよ。日本心理学会だけでも18万4,954円なんていうお金を出さなきゃならないんです。それでは、臨床心理学会、つまり国府台の連中はお金を出したかっていうと出さないんです。「私たちは、別な方法で配るから」って、出さないんですよ。とにかく、郵送料は会員数によって割り当てられますからね。いつの間にかに、『さいころじすと』の発行が中絶してしまうんですね。
 連絡会がごたごたごたごたしている最中に、日本心理学会の5人の理事から先に触れた改革論が出てくるわけですね。ちょうど相良先生が理事長で、それで、すごく大変な問題だから連絡会で考えろってぽんと渡されるわけですよ。そうすると、連絡会も大変ですよね。すったもんだで、また激論になって。それでも、とにかく、連合体案とか何とかいうのができあがるわけですね。
 戦後、いろんな学会が雨後のたけのこのように結成されてくるわけですけれども、それが、結局、アメリカのAPAのようにしなきゃいかんということはないんじゃないかと私は思うんですよ。「グーテン・ゲシュタルト」という言葉がありますけど、わが国としては、まさに「良い形態」なんですよね。それで、学会を作るには人が必要だし、事務局も必要だし、それから雑誌も出さなきゃなんないし。そう言えば、潰れるものは、潰れていきますよね。これはしょうがないよ。
 それで、Associationでなくても、Association systemでなくても構わないんじゃないのか。私は,先にお話ししたようにAPAの本部に行ってみたんですよ。大きなもんでね、もう、あれは何だろうと。もちろん、中に入って見たわけではありません。だから、他の施設の一部かもしれませんけども、デパートみたいな建物でした。建物の中を見てくればよかったと後悔していますよ。そうすれば、多くのJournalの編集局が、あるに相違ないですよね。

インA なるほど。でも、日本の学会の形はAPAとは違うものがいいのではないかというのが先生のご意見ですか。

大村 構わないのではないのかと思うんですよ。自然の成り行きですよ。

インA アメリカと日本では事情が違いますからね。

大村 話は全く違いますが、戦後わりに早い時期にアメリカの図書館が日比谷公園にできたときは、驚きましたよ。

インA その話をぜひ教えていただきたいんですけど。

大村 アメリカ占領軍の総司令部(GHQ)の民間情報局、Civil Information Education、CIEの図書館と呼ばれていました。InformationのnとEducationのeをリエゾンさせて、シーアイニーって発音するのが当時の知識人なんですよ。
 その2階に心理学の本がたくさんありましてね、もう。そのときの驚きったら、なかったですね。新しいテクニカル・タームも見いだされました。motivationとか、frustrationとか、sour grapes rationalizationとか、sweet lemons rationalizationとか、hospitalismだとか。hospitalismを「病院病」なんて訳した人もいましたね。それからアメリカのテストが入ってきて、Strong Vocational Interest Testを、誰かが「強力興味検査」って訳していました。

インA Strongっていう名前を形容詞に。

大村 そうです。その頃、学会でテストについての発表があると、発表会場の出口でもう多くの出版社の人たちが待っているんですよ。それで、発表者をつかまえて出版しようとするんですね。もう、新しいテストの取り合いですよね。

インB すごいですね。

大村 とにかく、アメリカの心理学のすごさっていうのを見せつけられましたね。ただ、アメリカのある心理学者が講演した時に、日本の心理学者が質問して、応えられなくて、うろうろしたことがありましたよ。だから、「うーん、大したことないのかなあ」なんてね、思ったこともありました。
 それから、ある日本人が英語で講演したんですよね。そうしたら、外国人が、隣の日本人に、「今、あの人、何語で話しているんですか?」と聞いたそうですから、その人は下手だったのかな。でも、児玉省先生とか、南博先生だとか、そういう方はあちら仕込みですからね、受けてすごかったですよ、受けて。

インB 先生は、臨床心理学の現場、臨床の場みたいなものはお持ちだったんでしょうか。

大村 鑑別所で持っていただけなんです。

インB どんなお仕事を?

大村 所長が精神科医なんですよ。それから、次長も精神科医ですよね。それで、鑑別所で話しているテクニカル・タームがドイツ語ですよね。さあ、大変。ドイツ語だから。つごうのいいことにドイツ語はローマ字的だから、帰宅して、辞書を引いて「あ、こんなことを言っていたんだ」なんていうことを覚えています。私は大学や大学院で個別式知能検査も内田クレペリン精神検査などもやっていましたから。所長が、「大村さん、テストできますか」なんて言われ、ムカつきましたね。そこで、「できますよ」って応えました。そしたらとんでもないんです。できないんですね。相手が非行少年だからです。ああ、大変でした。

インB どんな苦労をなさったんですか。

大村 ロールシャッハ・テストも少しはやりましたけれども、とにかく、相手をテストの場面に入れるのが大変なんですね。

インB おとなしく従ってくれない。

大村 おとなしくしてないんですね。その代わり、変なことを知っているやつがいてね、厚紙のカード48枚で花札を作った少年がいましたよ。花札をきれいに。うん。びっくりしてしまって。私が、その少年を鑑別して、知能も高く、作業曲線にも問題がなかったので、在宅保護可能という鑑別結果報告書を書いたわけです。その証明書みたいなものが、家庭裁判所に提出されるわけですよ。家庭裁判所は、一般的に、鑑別所の意見には従わないんですよ。ところが、そのときに限って、従ったんですよ。そうしたら、その少年が、なんと、数ヶ月後に殺人事件を起こしたんです。
 そうしたら、少年たちの日常生活を見ている教官たちが、「あの子、見たことあるな」なんて言ったら、「前に、来たことあるぞ」ということになったんですよ。だから、「あ、まずいなあ」と思ったんですよ。入所した少年の記録がたくさん倉庫に入っているんです。それを調べはじめたんですよ。誰が鑑別したんだ、どういう鑑別をしたんだっていうことになります。そして結局、私の鑑別に落ち度があったことになり所長からきつく注意されましたよ。

インA 当時は、心理学を出てから、そうやって鑑別所とかで働くって、結構あったんですか。

大村 あったんです。それは、良い就職口でした。戦前は労働省だけなんですけども。

インA 現在の厚労省ですかね。

大村 厚労省ですか。法務府、現在の法務省ですね。随分ありがたい就職口でした。ええ。法務府技官。現在の法務技官ですよ。私の上に、早稲田の心理学を出た人が2人いました。

インB お名前分かります?

大村 佐伯克さんという人と、服部清さんという人です。この服部清さんという人は、後で福井大学を経て早稲田大学に戻ってしまうんです。佐伯さんは気はあったんですが戻れなかったんです。法務省の参事官で定年を迎えました。「俺は、3時間しか働かねえぞ」なんていってね、笑っていました。

インB 先生は、鑑別所を辞められて、大学に戻られた後は、じゃあ、臨床の場というものは持っていらっしゃらなかった?

大村 持っていないんですけども、なんと、持たされた科目が、臨床心理学。ですから、それで、替わりたいと言って、のちに人格心理学に替えてもらったんです。自衛隊の研究も、前に話にでた近喰さんという人のお手伝いでやっていたんですね。自衛隊員の性格検査とか、自衛隊の看護学校の生徒の性格検査とか、いろいろなことをやりました。

インA そうなんですか。ではもう少し後ですかね、血液型と性格の研究がやっとできるようになったのは・・・。

大村 ええ。血液型と性格の研究には驚きました。古川竹二さんの論文を見て、こんなすばらしい研究はないと。それで、もちろん渡邊先生が亡くなってから手をつけたんですけども、今でも魅力がありますね。

インA この本を拝読すると、お弟子さんというか、学生さんが最初やられたのがきっかけだというふうに。

大村 そうなんです。ある女子学生が、卒論に血液型とパーソナリティの研究をしたいって言って、ほうぼうの先生のところを回ったら、そんなばかばかしいものは指導できないと断わられてしまいました。最後に私の所に来たんです。私も最初断わったんです。そんなものに手をつけたらば、それこそ経歴を汚すのではないかと。そうしたらその女子学生が、どうしてもと言うんです。それで、「じゃあ、仕方がない、やろう」と言って、やったら、私のほうにも火がついてしまったんですね。もう、おもしろいです。とにかく、「ある」っていうことはまだ言えないけど、「ない」という断言ができないんですよね。

インA 最近は、県民性の研究もね。

大村 ええ。あれは、渡邊先生の影響です。渡邊先生は、『人國記』という古典の研究をなさっていたんですね。『人國記』というのは、ニンコッキとも読むんですけども、室町時代に最初の本ができて、それから、次にできたのが、元禄時代です。赤穂浪士の吉良邸討ち入りのちょっと前に出版されたんですね。
 ところが、室町時代に出た本が随分誤伝されていて、北条時頼、最明寺入道時頼が書いたといわれていたんですね。どうしてかというと、時頼が、日本中ほうぼう回って歩いたんですね。有名な『鉢の木』という謡曲があります。そんなことがあったんで、北条時頼が書いたんだといわれていたんですね。ところが、渡邊先生は、そうじゃないんだと。ずっと、書物中に書いてある土地の名前や事柄を調べてみると、もっと遅いんだと。室町時代だと。私たち(大村・浮谷秀一・藤田主一)もそれを継承しているわけです。

インA うん、なるほど。渡邊先生が応用心理学会の第1回で発表されたのも、中国の国民性の研究みたいな内容だったかもしれませんね、たしか。

大村 はい。渡邊先生は、風土と民族性っていうのが好きだったんですね。渡邊先生も、国文学が好きなんですね。それで、そういう研究を随分発表されています。日本の各地の風俗を描いた昔の歌集(『山家鳥虫歌』)の研究です。

インA そうですか。当時、日本大学に、他にどんな心理学者の先生がいらっしゃっていましたか、先生が学生の頃。

大村 「心理学統計法」の田中寛一先生っていう方。この方は、『田中びねー知能検査』を作った方です。田中寛一先生は、片仮名論者なんです。片仮名の文章の中に、「ビネー」を、片仮名で入れたら、figureにならないじゃないですか。田中先生は『田中びねー知能検査』や偏差値というのを作られました。しかし耳が非常に遠い方で、「先生、聞こえません」っていうのが聞こえなくってこまりましたよ。
 それから、「器械実験」の千葉大学の盛永四郎先生、「実験心理学」の東京文理科大学の小保内虎夫先生、裁判心理学の植松正先生。それから、渡邊先生の直弟子の長谷川貢先生の「検査実習」ですね。

インA 他の大学との交流はありましたか。

大村 ありました。昭和23年6月6日、東京女子大学で学生心理学会というのが開催されました。あと1回どっかであって、それで潰れてしまいました。そういう交流ですね。

インA それはどういうものなんですか。

大村 結局、学生の心理学発表会なんです。ええ。学部や、大学院の学生たちのミニ研究発表会です。

インA そうなんですか。ほかに学部の授業で何か印象に残っていることはありますか。

大村 そうそう、盛永先生の「器械実験」のときは実験がおもしろかった。煤紙を作るのに樟脳を燃やして煤を作るんですね。今はそんなことはしませんけどね。

インA 記録紙のあれですね。

大村 そうです、記録紙の。

インA はい。そうですか。うんうん。

インB 細かいとこ聞いてもいいですか。すいません。ちょっと伺いたいんですけども、ベルヴュー法のところ。

大村 はい、ベルヴュー法ですね。

インB 先生からいただいた資料では、最初に手をつけたのは南博先生だったけども、それが中止になってしまうという経緯があって、文献を見ていたら不思議に思ったので、お伺いできたらと。

大村 昭和23年頃入ってきた本で、ラパポートかな。彼の本の中で、ウエックスラーのベルヴュー法を使ったサヴテストのプロフィールで、性格異常や精神疾患の診断ができる、という記述があって、それで、南先生も「これはおもしろい」というので、ラパポートの本を中心に、大学院の授業があったんです。
それで、出版しようかという話になって、一度、道具はできたんです。

インB あ、日本で作ったんですか。

大村 作ったんです。それで、標準化はしてないけど、作って。そしたら、児玉省先生が向こうに行って、ウエックスラーと会った時に、まったくの雑談で、「君のテストがね、日本でこうだよ」と話したら、ウエックスラーがびっくり仰天したんですね。許可を与えてないっていうんで。それで、中止になってしまったんです。その後かなりたって日本で、WISCや、WAISが誕生してきたんですね。

インB じゃ、許可を取らないままに、南先生は道具を作って実施されようとしたんですか。

大村 はい、そうです。道具はどこで作ったか忘れましたけど、私、見たことがあります。うん。ボール紙の箱に入っていました。

インB どこかで保存されているんでしょうかね。

大村 あるかもしれませんよ。私は見ていますから。

インB あー。ものすごいですね。

大村 それで、手の形態の原型は、私の左手の形で作ったんです。覚えがあります。それで、知能検査のサヴテストのプロフィールによって性格などが分かるというので、今度は、日本では、A式ができる人とB式ができる人では違うんじゃないかっていうんで、ちょっと流行ったことがありました。学会発表でも。そうしたら、結局、何も出てこない。

インB それは、いろんな大学でそういう研究がなされていたんですか、A式とB式で性格などが違うっていう。

大村 そんなことが流行ったんですね。そして,いつの間にか消えてしまいました。だから、ラパポートの研究も、ほんとはうまくいっていたのかなあ。

インB アメリカの、そういえば、CIEの図書館の本というのは、どこにいったんでしょうか。

大村 あれからどこに行ったんでしょうね。どこに行ったんでしょう、あれは。

インB そのCIEの図書館というのは、造られた後の建物はどうなったのかも気になるんですけど。

大村 そうなんですよ。日比谷公園内にプレハブで建って、大阪にもできたっていう話があるんですけども。

インB 国会図書館とは違いますよね。

大村 違うんです。それで、私、その図書館に行って、G.W.オルポートの1937年の『Personality : A Psychological Interpretation』ですか、それを発見しまして、渡邊先生に、「Personalityのdefinitionがありました」と言って筆記したものをお渡ししました。そうしたら、渡邊先生がとっても喜んでくれたのを覚えています。

インB 良い本をいろいろと選んで入れていた感じですね。

大村 ええ。それから、普通のペーパーバックスの本で、水色の表紙で、心理学の本がたくさんありました。それで、誰かが、「これは、アメリカの兵士が、輸送船の中で読んだのだよ」って。「うそだろう。輸送船の中で、こんな本を読める余裕があったのかなあ。あったとすりゃ、すげえなあ」と。そこに、いろんなテクニカル・タームが出ていました。motivationなんていうのは、わが国では「動機付与」なんて訳されていましたね。「動機づけ」になったでしょ、今はね、もう。

インA そうですね。その図書館は、そこで見ることができて、借り出しはできないような形だったのでしょうか?

大村 できないんです。できなくて、写し取るより手がないんですね。それから、三脚を立てて写真を撮っている人がいましたけども、ごく少数です。フィルムがないんです、ライカ判の。

インB 戦後の、物がない時代ですよね。

大村 もちろんコピー機なんてないんですよ。だから、筆写してくるわけですね。そうすると、読み直せばよいのに、1行抜かしたら大変じゃないですか。訳せやしない。

インA では、そこにいろんな心理学者が出入りしていたんですか。

大村 うん。大勢出入りしていました。それから、フリーマンが団長かな、アメリカの教育使節団が、来日した時には、会場はもう、熱気にあふれていましたね。私なんかも聴きに行きましたけども、ほんとにすごかったんです。その頃は、一種のhunger driveですね。うん。なんていう時代でしょうね。すごい時代ですよ。

インA 知識に対する欲求。

大村 ええ。知識に対する欲求っていうのはね。ええ。
 それから、日本応用心理学会が雑誌を出したんです。『人間科学』という雑誌が出ましたが、意外にも、3号でだめになり、季刊になってから一冊出て廃刊になりました。それとは対照的に、早稲田大学の本明寛先生だったかな、その人が中心になって『文化人の科学』っていう雑誌を出した。これがばか売れしたんですね。創刊号の表紙は、たしか山下清さんの絵で。それで、その雑誌を出した人が、1軒、家を建てたなんていううわさも流れてね。すごくおもしろい雑誌でした、『文化人の科学』っていうのは。
 それから、京都大学の佐藤幸治先生が、『Psychologia』っていう雑誌を出しました。このサヴタイトルが『An International Journal of Psychology in the Orient』っていう雑誌です。これにも書かせてもらいました。ところが、佐藤先生が、日本で第24回の国際心理学会ICPが開催される直前に亡くなってしまうんですね。

インA 20回ですね。先生は、国際応用心理学会IAAPを日本でする時に、準備のための小委員会の委員をされていますね。

大村 それが、国際応用心理学会を日本でとなったときに、応用心理学会が主となってやるべきだという人がいました。ところが、応用心理学会にそれだけのパワーがないんですよ。
で、結局、日本心理学会にお願いするということになって、そうなったわけですけどね。

インA 国際大会は大変ですよね。

大村 とにかく、学会に力がないんですよ、それだけの。国際性もないのか。

インA それで、それぐらいですか。こちらで用意してきたのは、それでだいぶ伺ったんですけど、先生の方から、実はこれが重要だとか、これをぜひ、というのがありましたら。

大村 はい。私は、心理学における資格の問題だと思うんですよ、大変なのは。これからどうなるのかと。一体、「臨床心理士」というのは、大学院まで指定されて、それも、学部で何やっていてもいいんですよ。ほんとに昭和44年の9月に、児玉先生たちが失敗したんですね、東京の連中が。やっぱし、「謀は密なるをもってよしとなす」んですよ、ほんとに。しょっちゅう、会議、会議で、長年月をついやして、結局だめになってしまうんですね。それよりも、ぱっと勢いでやって、桶狭間の戦いみたいにやってしまうんですね。大したものだと思いますよ。

インB ぱっと資格ができたという感じだったんでしょうか。

大村 そんな感じですね。昭和29年7月に端を発した「心理技術者の資格問題」が11月には軌道に乗り、児玉省先生が中心になって協議を重ね、名称を「臨床心理士」とし、申し込み期間を昭和44年12月1日~31日と決めながら問題山積で瓦解してしまうんです。東京の連中は無策だったんですね。

関西の戦略はうまい。それだけの知恵が、関東になかったんですね、児玉先生たちの方に。それで、「どうするんだ、どうするんだ」と詰め寄られ、「誰が問題を出し、誰が審査するんだ」なんて言われ、おどおどしてしまって、結局はだめになってしまうんですね。驚くべき話ですよ。
 それからもうひとつは、一体、心理学で推計学を用いているけれども、それでいいんだろうか。私が推計学の講義を最初に聴いたのは、慶応義塾大学の印東太郎先生でした。慶応義塾大学で公開講座があって、すばらしいと思いました。その頃に、増山元三郎さんの本も出ていたんですね。だって、5%の危険率で有意差があるなんて言ったって、2つの集団の得点分布のポリゴンを描いてみるとすごいオーバーラップがあって、そんなこと言えるのかどうか。大丈夫かな。実際、それで、とにかく、「科学」っていうのは、「個人」じゃないから、いいのかなあ、なんて、しょっちゅう思っているんです、それを。学会でもちょっと書いたこともありますけど、誰も何とも言ってくれない。

インA いろいろなところで、先生は、心理学の方法論についても書いておられますよね。

大村 ええ。「なんか、おかしいんじゃないか、おかしいんじゃないか」って言っているんですけども、だめですね。しかし、ほんとにおかしい。
 ゾンディー・テストって、テストがありますね。
私が指導する学生が言うには「私は新宿2丁目の酒屋でアルバイトをしています。それで、卒業論文は、その新宿2丁目の酒屋のそばに変な店があるでしょ。あそこら辺でテストをしたいと思います」と言うんです。だから、「どんなテストをやるんだ?」と聞いたら、「questionnaireで聞いて歩く」って言うから、「やめろ」って言ったんです。ちょうど私が『ゾンディー・テスト』を持っていたんです。それで「これでやれ」って言ったんですね。そうしたら、おもしろい結果が出たんです。

インB どんな結果だったんですか。

大村 要するに、同性愛者は、サディストの写真が嫌いなんです。ホモの写真が好きなんです。推計学ではまだ何とも言ってないんですけど、それには触れないことにしているんですけども、とにかくおもしろかったです。私もそういう人たちに会ってみようかなと思うけれど、怖いから行かないです。
 だけど、ほんとに、ゾンディー・テストっておもしろいですね。うん。考え方がね。

インA インタビュワーの鈴木先生は、いろんな心理検査の歴史的な研究をされています。

大村 ああ、そうですか。
 MMPIなんていうのは、もう時代遅れかなあ。YGなんかも、もう時代遅れかなあ。じゃあ、何が残るんだ。箱庭なんかも、父親がいる所を、戦車で取り囲んだりなんかして、「これは、父親に対する反抗だ」なんて、そんなことでいいのかなあ、なんて思って。でも、はやばやと臨床心理学から鞍替えして、人格心理学っていうのを持たせてもらって、それで定年を迎えました。

インA なるほど。はい。ありがとうございます。
 最後に、先生から、今後の心理学を目指す、あるいは、今の心理学の若い人たちに対して、何かメッセージがあれば。

大村 難しいなあ。みんな心理臨床をやりたがっているからなあ。うん。「医者になりたかったけれどなれなかったんで、心理臨床をやるのかなあ」なんて思ったこともあるんですよね。大丈夫かなあ。ほんとに、うちじゃ、うちの孫が、小さい頃、心理士の女性に診てもらったことあるんですよ。そうしたら、×××症候群だなんて言われました。しかし、小学校の高学年になったら普通の子どもになってしまいました。下に妹が生まれたんで一時的に不適応を起こしたんでしょうか。だから、心理士って大丈夫かなあ、ほんとに職業として成り立つのかなあと、非常に心配なんです。
 私も日心や応心の心理士のお免状を持っていますけども、ここでぱっと、「田中びねーを、やってみろ」って言われたって、かなり練習しないとできないですよね。

インA 最後に、すいません、聞き忘れたんですけど、大学生、先生が学生だった頃に、実験演習の授業とかもあったんですか。

大村 ええ。私たちの学生時代は、器械実験はありました。今はないようですね。
例えば視野計なんていうのは、私たちの時代には、こういう湾曲したのがあって、いろんなものが視野の上下左右を動いてきて、どこで見えてくるかを報告するんです。それから、瞬間露出器ですね。瞬間露出器なんていうのは、ギロチンみたいな器具で、瞬間的にパッと刺激が見えるんですね。今は違いますね。

インA パソコンでやってしまいますからね。

大村 パソコンでやってしまうんですか。それから、さっきもお話ししたように、樟脳を燃やして。

インA ああ。記録紙を作る。

大村 それで、カイモグラフ。だから、今の人たちは、心理学実験っていうのは、まったく違うスタイルでやっているんですね。

インA 動物実験とかは、学習とかの実験はなかったでしょうか?

大村 私は、一度、動物に凝ったことがあるんです。

インA ああ、そうなんですか。

大村 というのは、被験者を集めるのは大変でしょ。動物だったらいいっていうんで、シロネズミのマウスの方ですけど。

インA ラットではなくて。

大村 ラットではなくて。ラットは大きいでしょ。

インA はい。

大村 マウスでやったことあります。

インA いつぐらいの頃ですか、それは。

大村 いつ頃でしたっけね。助教授(現在の准教授)時代かな。発表したことはないと思いますけども。
 古賀行義先生を中心とした科研費のグループで、母子関係のことをやっているときに、マウスを使って。なんと、マウスの場合には、大変なんですね。夏休みにも行って、餌をやったり、ケイジを掃除しなきゃならないんですね。
 だから、女房と一緒に大学まで行って、掃除したりなんかしたことがありますよ。で、餌をやってね。餌をやらないと、共食いしてしまうんですよ、

インA あ、そうなんですか。そういう実験室もあったんですか、文理の中に。

大村 造ってもらったんですね。化学科と共同使用で。

インA あ、そうなんですか。

大村 動物実験室を。それで、スキナーボックスの実験を見ようじゃないかと。ほんとに、ネズミがバーを押すかどうか。一晩中、学生たちと一緒に隠れて見ていましたよ。ところが押さない。

インA ああ。自然には押さない。

大村 押さない。だからあれは、一体どういうときに押すんだろう。バーを押して、餌がころころと出てくるなんて。それで、ネズミが学習するなんて。何だろう、あれって。みんな、夜、学校に泊まるのが楽しみなんですよ。それで、何晩か泊まってね。結局、押さなかった。

インA ああ。

大村 うん。ハンガーであっても、押さない。だから、講義のときに、あんなこと(スキナーボックスの実験のこと)を実際に見たかのようにしゃべっていていいのかなと思いましたね。うん。不思議でした。

インA なるほど。当時、シェイピングとかの手法が入ってなかったんですね。

大村 うん、ほんとですね。なんでだろう、ほんとに。

インA そうですか。やっぱり、学校によっても、実験演習の内容は違うんですね。

大村 違うようです。

インA なるほど。何か、そういうテキストとかはあったんですか、実験演習の。特にそういうのは。

大村 私が学生時代には実験の手引きというようなものはありました。

インA あ、そうですか。

大村 植松正という方が、昭和の初期の助手時代に東大に行って、そこの実験手引っていうのをもらってきて、それで、日大でもそれを使っていたんです。

インA ああ、そうなんですか。

大村 ええ。実験の手引みたいなの。

インA なるほど。すごい。ああ。ありがとうございます。

大村 いやあ、ほんとに大変ですね。いや、おもしろいですね、昔のことっていうのは。

インA そうですね。おもしろいです、とても、伺っていて。

大村 そうですか。

インA うん。

大村 よかったですかね、こんなことで。

インA 大変ありがとうございました、いろいろ。

インB ありがとうございます。

大村 どうも。

(録音終了)
インタビュアー:荒川歩(武蔵野美術大学)、鈴木朋子(横浜国立大学)
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