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成瀬 悟策先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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成瀬 悟策先生の略歴

・催眠、イメージ、動作法、ロバート・ホート、やすらぎ荘
・1950年東京文理科大学心理学科卒業。ニューヨーク大学客員助教授、九州大学教育学部教授、九州女子大学学長を歴任。博士論文「催眠と睡眠の関係についての生理学的研究」
・学生時代に中村古峡の催眠に魅了され、慶応精神科医局に通い勉強し、異常心理学の研究と実践を行なわれた話、ニューヨークで臨床催眠のライセンスを取得した当時、アメリカはイメージ研究が復活した時代であった話、脳性麻痺の方への動作法を行った「やすらぎ荘」で多くの臨床家を育てたお話は、戦後の臨床心理学の黎明期の様子が見えてきました。

日時:2014年10月30日(木)13時―
場所:成瀬先生ご自宅にて
インタビュアー(以下、「イン」と略)B では、よろしくお願いします。
 まず、心理学を学ぶまでの学生時代のお話も含めて。

成瀬 もうちょっと前の話は、だめ?

インB はい。大丈夫です。ぜひ、お願いします。

成瀬 私、軍隊から帰ってきたときに、戦争に負けてしまったでしょ。そのときに、座間という飛行場が、マッカーサーが降りた飛行場なのですよ。あの辺に陸軍士官学校というものがありましてね、そこにいたのですよ。それで、負けてしまいましたから、長野の方へ疎開しましてね。「いかに生きるべきか」と、皆で、もう10日ぐらいディスカッションして、それで、もう、皆、だいぶ古い話ですけれども、「国のために死ぬつもりでいたのが生き返ったから、このような時期に何とか役に立たなければいけない」と。「どのように役に立つことができるか」ということを、皆で話し合って、毎日やっていたのですよ。
 そのときに、僕が一番気になったことが日本の教育。インドや東南アジアの国々は、ほとんど、植民地では愚民政策を、愚かな民の政策をとったということで。ちょうど、その満州国というものができて。古い話でしょう。やはり、あれも、五族共和っていいながら、日本では愚民政策をとったのではないかと。だから、「アメリカが入ってきたときに、日本に対して愚民政策をとるであろう」と、そのように考えたわけですね。

インA なるほど。

成瀬 それで、「では、もう教育しか、われわれは、防ぐ方法はない」ということで、私は、その時分は東京高等師範学校というものがありまして、これが「教育の総本山だ」と言われていたらしいので、「では、俺は、そこへ行きましょう」と思って、東京高等師範学校へ入ったのです。
スライドで、2年生に入りましてね。1年……、2年あったのかな。その間に、例えば依田新先生が、高等師範にひょろひょろで出てきましたよ。牢屋(ろうや)から出てきたばかり。あの頃は、牢屋に捕まっていたんですね。それで、ひょろひょろで、「大変だったろうな」と思っていましたけれども。依田先生が講義されたものは、ゲシュタルト心理学だけでした。
 そのようなことがあって、さて、私は、文科第一部というところ、「高等師範の建制順がトップの部だから、いいのではないか」と思って、そこへ入ったのです。そうしたら、そこは、戦後、哲学が大はやりでして、それで新しい哲学の本ができると、朝早く買いに行くのです。そうすると、岩波の会社を二周りぐらい回って順番に買っているのです。

インA 行列ができているわけですね。

成瀬 そのような時代だったのです。それで、『懺悔道としての哲学』などがあって。その頃は、哲学が一番もてたのではないですか、文科系は。それから、倫理があって、教育学があって。私どもの行くところは、それに心理学と、四つだったのです。皆が行くところは。
 戦争に負けたら、先生が学生の前でいっぺんに考え方を変えたんですが、その先生が、「君、形而下学はやめたまえ」と言うのです。僕は、「心理学がいいのではないか」と思っていたのですが。そうしたら、「君、形而上学をやりたまえ」と言うのです。その頃は、「何何したまえ」と、まだ明治時代の言葉が残っていたのです。
 それで、急に心理学をやる気になって。その頃は、全然、心理学は流行りませんでしたから。文科第一部の中で、僕は途中から入りましたから、できる人は皆、哲学科や倫理に入っている。それで、僕は、「何か、哲学というものは科学から見ると無駄なことをしているのではないか」という気があって。しかも、戦争で負けて、がらりと考え方が変わりましたね。
それで、あのようなことを言う人は、もう、全然信用していないわけです。

インA またいつ変わるか分からない。

成瀬 哲学や何かなど。今まで話していた人が、目の前で転びましたからね。皆。

インA なるほど。

成瀬 だから、「哲学は役に立たない」ということで心理学へ入ったのです。本当は、試験がやさしかったから入ったのです。あまり流行らなかったから。
 それが、心理学をやり始めたきっかけ。

インA その当時は、どのような心理学がありましたか。

成瀬 その頃は……。東京文理科大学というところへ入ったのです。今は、なくなってしまいましたけれども。そこでは、ほとんど知覚でした。ゲシュタルトが大体知覚でしたし、ほとんどが知覚で、アメリカの心理学というものは、何となく、まだ僕が入った頃は、ばかにしている雰囲気でした。

インA そうなのですね。

インB 東京高等師範学校を修了された後に、東京文理科大学の方に? 

成瀬 そうです、そうしたら、そこでは、小保内虎夫という先生が、ちょうど僕たちと一緒の年に文理科大学へ入ってこられて。その前は昔の東京高等学校の教授でした。

インA 一高ですかね。

成瀬 ええ。いいえ。一高の他に国立で東京高等学校というのがあった。そこの教授から移ってこられて、それで新しい心理学科へ行ったら、もう知覚ばかりなんですよ。一番知覚が中心でしたね。その頃に、東大では大山君などがそうでした。でも、きちんと知覚をやった人は、あのクラスで大山君だけだったのではないでしょうか。
 だから、文理大の方が知覚は多かった。卒業しまして。それで、「もう知覚は飽きたね」ということで、学生に入ったときに催眠術を(見て)覚えましてね。

インA その(成瀬先生が催眠術を覚えるきっかけとなった)催眠術は、誰がされたんでしょうか。

成瀬 日本応用心理学会で、それの2回目ぐらいの年次大会のときに、中村古峡先生が特別講演でやってみせられて。「どうせインチキだろう」と思って、真ん中の一番前の前列、かぶりつきで見ていたのです。1年生のときに。そうしたら、「どう見ても、これは本物らしいね」と思って、それが病みつきで。
ちょうどその頃に、新制中学が出発したばかりで。中学校の先生が足りないということで、中学校の講師に行っていたのです。それで、中学校で腕を磨いて、手当たり次第に催眠術をかけていったのです。

インB 今だったら大変なことになりそうですね。

成瀬 ええ、今だったら大変ですよ。その頃は、やはり乱世ですから。先生も足りないのです。小学校の先生で、そのまま中学校に上がった先生が多かったので。それで、(催眠術を)随分やりました。だから、子供たちは、子供同士で催眠術ごっこをやったりしていました。

インA へえ。そうなのですか。

成瀬 その頃、臨床心理はありませんから。「異常心理学をやりたい」と思って、慶應の精神科へ入れてもらって。そこで数年間やりました。

インA それは、文理科大にいらっしゃる間に? 

成瀬 ええ。助手をしながら。内緒で行っているわけですよ。

インA なるほど。

成瀬 それで、特に、精神分析に古沢平作という先生がいて。この先生しか教える人はいないということで、古沢先生のところへ毎週行くのです。これも、大学に言うと、「ああいうものは、科学ではない」ということで叱られるから、内緒で行っていました。2年ぐらい行って。結局、大学の助手を12年やりました。それで、次に九州大学へ来ました。

インB 慶應大学の医学部には、どのような形で入られていたのですか。

成瀬 「医局へ入れてもらいたい」ということで、そこの助教授の先生が「よろしい」と。本当は、医局員ということで認めてもらわなければいけないのですけれども、あまり公式にいくと大学の方から叱られるから。医局へは普通に、もうそちらにばかり行っていたのですが。

インB 『インタビュー臨床心理士』の本で少し拝見したのですけれども、塩入円祐先生はどういった方だったのでしょうか。

成瀬 塩入円祐さんというかたは、その頃、助教授で。教授の先生がいなかったのです。
体が弱くて。助教授の先生の塩入さんが、非常に心理学に関心を持たれていて、好意的だったのです。それで「勉強したい」と言ったら、「じゃあ、うちへいらっしゃい」ということで。一緒にいろいろ面白いケースをみたりしているうちに、臨床心理学という、clinicalpsychologyという本が出たり。お話をお聞きになったかもしれませんが、その頃は、外国の本は読めないのです。それで、CIEという、アメリカの図書館(CIE図書館)が日東紅茶のビルの中にありまして。そこでしか、もう、読めないのです。いつも行くと、窓口で、大抵、誰がよく勉強しているかなど、よく分かりましたよ。

インA リストがあるわけですね。

成瀬 そうなのです。それから、本を見ると、誰が借りたかも分かるから。

インA なるほど。そこには、心理学の本も入っていたのですか。

成瀬 たくさん入っていました。その頃、たくさん入っているものは、ほとんど精神分析ばかり。ちょうどその頃に、フロイトがアメリカで講演したことがきっかけで、アメリカで精神分析が全盛時代に上がってくる途中だったのです。だから、ほとんど精神分析の本だった。そこの中で、clinicalpsychologyというものがあって、それを初めて見付けたから、慶應の医局にいる心理学、早稲田から相場均という人と、それから、慶應から、秋山誠一郎との3人だけだったのです。
それで、「臨床心理というものは、アメリカにはあるらしいけれども、日本では、もう成り立たないね」という。
 日本では、お金を払って相談するという習慣は、当時はなかった、考えられなかった。「だから、日本では成り立たないよね」というようなことでやっていたわけです。

インA はい。

成瀬 そのうちに、私の方は、催眠術をやるということが割合有名になって、宮城音弥という先生、ご存じですか?

インA はい。

成瀬 宮城さんの子分のようになりまして。それから、『頭の体操』。

インA 多湖(たご)輝(あきら)さんですね。

成瀬 多湖君と、僕と、もう1人、原野広太郎という人ですが。大体3人が子分のようになって。宮城さんが何かやろうというと、そこへ皆で行って、それで「今度は、テレビでこれをやろう」などと。ちょうどテレビができた頃ですから。全部、宮城さんが案を出すのです。「今度は催眠術をやろう」、「春先になったから、眠りの話をやろう」、「新興宗教を見に行こう」など。そのようなことを、いつもテレビでやっていました。
 そうしたら、若い連中が心配して、「こんなことをやってたら、成瀬さん、だめになっちゃう」ということで。それで、何か、だいぶ心配してくれました。

インA 宮城先生と出会ったのは、どこですか。

成瀬 宮城さんは、講師で大学へ来ていたのです。

インA そうなのですか。

成瀬 やはり、気に入ったのですね。両方で気に入ったのではないですか。それで、宮城さんが新しいうちを建てたから、皆、そこへ集まっては、「何か面白いことをやろう」と。そちらばかりやっていたのです。

インB それも成瀬先生が助手の時代でしょうか? 

成瀬 助手の時代。そうなのです。12年もやっていますから。もう、本当にいいかげんでした。

インA でも、助手の時に医学博士も取られているのですね? 

成瀬 そうなのです。

インA はい。博士は、慶應ではなくて、新潟で取られているのですね。

成瀬 それは、ちょっと、あまり人様には言えないのですけれども。東京歯科大学というものが、水道橋にありますね。あちらが大学院をもっていて。私は、東京歯科大学の大学院の卒業生なのですよ。それで学位は新潟大学新潟医科大学という、ダブっているような名前のところです。新潟医科大学の精神科を世話する人が、歯科大学の先生だったのです。
「いらっしゃい」ということで。その頃に、催眠中の睡眠の脳波と普通の睡眠中の脳波を取って比較したものが学位論文で、新潟医科大学でいただきました。それが、助手の5、6年目くらい。もう、その頃から飽きてしまっていましたから、助手は。

インB 結構いろいろな大学の医学部を渡り歩いていらしたのですね。

成瀬 そうなのです。だから、新潟大学も詳しいですよ。あちらまで、東京から行くのに8時間かかりました。今、3時間ほどでいくのではないか。2時間か3時間。

インA そうですね。

成瀬 夜出て朝着くのです。

インB 通いで行っていらしたのですか。

成瀬 いや。何度も行きました。だって、その頃は、心理学では文学博士ですが、なかなか容易には学位は出さないのですよ。

インA では、当時は、助手のお仕事は、それほど拘束されなかったのですか。

成瀬 したのでしょうけれども、やらなかったのではないか。

インB 周りに助手は何名ほどいらしたのでしょう? 

成瀬 3人。

インB 先生と一緒の頃助手だった先生は、何というかたですか。

成瀬 永沢幸七さん。もう亡くなりましたけれども。この方は、東北弁丸出しの人でしたけれども。こちらへ来てから、彼が「学位を取りたい」と言うから、審査会に出したら、皆から怒られて。
 それから、須藤容二という人がいて。これは、もう秀才でした。僕より1年下で。この方は、知覚のS効果でよい仕事をしていましたが、途中で病気になって、亡くなったと思います。

インB 助手の先生は、講義もされていたのですか。

成瀬 僕は、していたのです。ほかの人は、助手ですから、やりません。新制の大学になって東京教育大学と名称が代わりまして、その1回目から5回目くらいまでの連中は、僕のことを小保内虎夫だと思っていたのです。というのは、小保内先生は、「君、今度、僕の講義をしてくれたまえ」と言うのです。

インA 代わりに。

成瀬 そう。それで仕方がないから、いろいろな話を。催眠術をやってみせたり、指導をしたり。そのようなことをやっていました。

インB 助手の間ずっと、そのような仕事もされていたのですか。

成瀬 ええ。したり、しなかったり。教育大の、新制だから、だいぶ後ですから、僕が助手で、冷やかしたり脅かしたりしていた連中です。牧野君が、新制の3回目か4回目くらいではないですか。それから、筑波にずっといた、一番古い人は、ネズミをやっていた藤田君。もう、これも古いから、僕より5、6歳下ですけれども。牧野君は、教育心理学会の、何か、常任理事ぐらいやっていたのではないか。その後、彼は理事長をやっていた人なんですが。

インB 話がちょっとそれて恐縮なのですけれども、東京国際大学の高砂先生から、「先生にぜひ質問してほしい」と言われていることがありまして。『インタビュー臨床心理士』、安齊先生などが編集された、あちらの本では、「成瀬先生が牧野先生を、その助手の時代に教えられた」というように。

成瀬 その連中は、僕が小保内先生の講義の時間に、やっているわけです。だから、新制の1回生、5回生ほどの連中は、皆、僕の、そのような意味では、講義を受けているのです。でも、きちんとした指導ということは、やったことはありません。だから、牧野君は、ずっとたって教育心理学会の常任理事会へ僕が出るようになってから……。

インA 再会されたということですね。

成瀬 牧野君という人は気が付いたのですが、彼を指導したことはありません。ただ、新制の学生ですから、大学院で教育心理学専攻の学生は全員、マスターに入ったら教育相談部に出なさい」という、制度にしてもらったのです。それだから、そこへは出入りしていたのではないでしょうか。

インB なるほど。分かりました。

成瀬 田中寛一先生が、田中ビネー式知能検査をちょうど作られた直後なので。それでもう、私の本務の教育相談部では、その知能検査ばかりやっていたのです。

インB 成瀬先生は、教育相談部の助手のような形だったのですか。

成瀬 両方。僕は、教育相談部の方も、文理科大学・教育大学の方もやっている。それから、あとの2人は、そのような相談は関係なしに、きちんと大学助手をやっています。
そこの教育相談部というところは、元々は、就職できないやつらがごろごろいて。そのたまり場所がないではないか。元々は、そのような人のために、田中先生が作られたのです。

インB 本当ですか。

成瀬 だけれども、後から考えてみると、ほとんど教育相談部にいた人が偉くなりましたね。

インB ほかに、どのような方がいらっしゃいましたか。教育相談部は。

成瀬 僕の時分には、友田不二男さんは知っていますか?

インB はい。

成瀬 友田さんが、僕の前任者なのです。友田さんの後任で僕が入ったのです、私の後任は内山喜久雄さんなどです。それから、先ほどの、原野広太朗という人は、とてもできたのです。一緒だったのですけれども。できたのですけれども、ご存じかどうか知りませんけれども、東京文理大派と東京教育大派に分かれて争いがあったのです。それで、原野広太郎は文理大派に。文理大派は東京文理大ですから、研究を中心にするわけです。それから、東京教育大は、高等師範がそのまま上がって東京体育大学と一緒になって教育大になるわけです。朝日が文理大を推す。それから、毎日新聞が教育大を推す。

インB 新聞社まで。

成瀬 それから、自民党が教育大を推す。社会党は、今よりもっと力が強かったのですが。社会党は文理大を推して、「東京文理大と一橋大学、それから、東京工業大学、東京医科歯科大学とを併せて、新しい東大のような総合大学を作ろう」と。この人たち、やはり、東大に残れなかった先生方なのでしょうね。そのような案があって。そちらを推す人と、二つに分かれたのです。それで、東京音楽学校と、東京、今、東京芸術大学? 芸術大学は教育大と組んでいるわけです。東京音楽大学校は、朝日、文理大と組む。そのような、大ごとの時代があった。
 そのときに、原野広太郎は文理大についたのです。ところが、文理大は歴史が古いけれども、東京教育大は、今の東京高等師範から、お茶ノ水の昌平黌……東大の赤門と並ぶぐらいの。

インB お茶の水女子大学ではなく?

成瀬 いや。お茶ノ水の駅のところに、古い、昌平黌という幕府の学問所があるのです。

インA はい。

成瀬 今の東大になったものと、それから、お茶ノ水のところにある昌平黌の二つが幕府の御用学問所で。それが東京髙師、東京教育大に変わったのですから、先輩がたくさんいるわけです。それで、政治力もあるから、結局文理大派は負けてしまったのです。

インB それほど大変な戦いだったのですね。

成瀬 ええ。そのような大変なときに、どちらにつくかということで。原野広太郎は文理大の方についたので、教育大になったときに干されてしまった。それで、あまりよそに出ないままになってしまったのではないのでしょうか。
 長島貞夫さんはご存じですか。そのような時代に文理大派の長嶋さんは埼玉大学へ移った。どちらへ着くかについて学生が相談に来るから、「どちらへつこうか」と。「どちらにもつくな」など助言していました。

インA 巻き込まれて、明暗が分かれてしまうわけですね。

成瀬 そうなのです。それで、結局、僕に分かったことは、そういう学内紛争のとき、大学の先生が学生を利用するのですね。だから、大学紛争は、ほとんど先生が起こしているのです。それに乗る学生がいるわけです。その人たちが、結局、就職ができなくて、どうかなってしまったりしたのです。最後の大きな大学紛争でも、そうでしたし。もう、それ以前も皆、先生が学生を使って、先生は表面に出ないのです。皆、そうでしたよ。

インA そうなのですか。

成瀬 それで、「催眠術を一つの学会にしよう」ということで。学会というものは、その頃、日本心理学会の他に、日本応用心理学会というものがあって。この二つだけだったのです。それで、新しい学会を作るなどということは、若造が作ったら、まず干されてしまうという時代ですね。
 ところが、「学会を作りたい」と言ったら、小保内先生が「いいよ、やりたまえ」と言うのです。それで、先生も自分で入っていただいて、宮城さんも会員に入ってくれて。だから、あまり、あちらこちらからいじめられないで済みました。

インB 催眠学会ができたのは、いつ頃なのでしょうか。

成瀬 この間、60回というものをやったから。60年前でしょうね。教育心理学会は、その後、できたのです。

インB 催眠は、どこでされていたのですか。相談部の方で? 

成瀬 そう。相談はね。催眠は中学でやるでしょう。それから、こちらへ戻ってきてからは、池袋西口の辺りに中学がありまして。そこでも実験をやっていたのです。それで、おかしいことは、最初の心理学研究は知覚の実験をやったのですが、その後、催眠術でイメージをやったのです。そうしたら、速水賞はご存じですか。

インB はい。

成瀬 速水賞の第1回を、もらったのです。それが、イメージというものは、戦前は何か割合、東北大学の、ちょっと見ただけで、いつまでも、こう、残っているイメージがありますね。そのような、直観像の研究があったのです。ところが、だんだん、行動主義が入ってきて、それで何だか、「催眠術もはっきりしないし、イメージというものは、なおはっきりしないし。こんなものは科学にならないよ」というような雰囲気のときに。速水賞というものは、速水さんという人が、韓国の京城大学教授で5,000円を出したのだそうです。それで、1年に1000円ずつ出すと。それを、ずっと毎年、編集委員会で選挙をするのだけれども、いつも票が散ってしまって、だめだった。その年は、たまたま、二山に分かれたそうなのです。一つが僕の方で。もう一つは、東大の梅岡義貴さん。その先生は、僕よりズッと上で、北大にいて、金魚かフナがどのように泳ぐかということをやった先生。その先生が助教授でそれをやって、後に東大の教授で長くいた。その先生が行動主義で。その二つが、第1回の速水賞だったのです。その後、速水賞は3名の受賞者で終わりました。

インA 候補?。両方とも。はい。

成瀬 うん。2人とも受賞しました。イメージのような、催眠術でしょう。それでよく通ったな、と思うのですが。
一つは、あちらは、もうアメリカ風の。それで、こちらは古臭いわけです。そうしたら、どうも、その編集委員が……、昔は、論文の投稿は編集委員を通じてしか出せなかったのです。ところが、小保内先生は、ご自分の名前をいつもつけられるのです。それで、嫌だから、本当は内緒で出したいのですけれども、それは受け付けられないわけですね。それで、「おかしいのではないか」ということで、ある時期に文句を言い出して、学会で話題にして、それで今のような形、自由な投稿ができるようになったのですが。大変苦労しましたから、僕は、学生に「共著は絶対にやるな」という主義なのです。
 ところが、そのとき投票した先生のほとんどが、明治時代に催眠術を取り入れた福来友吉という東大の先生のお弟子さんだったのです。それで、非常に僕に好意的だったらしい。

インA ええ。

成瀬 それが、大学を卒業した2年目。それで、1,000円は、今では想像がつかないでしょうけれども。僕の田舎のうちが焼けまして、それで、うちを1軒建てたのです。それが200円でした。

インA すごい額ですね。

成瀬 このうちの二階がないよりは、もう少し広かったのですけれども、200円でした。ところが、もらったときは、1,000円などというものは、本当に今の1,000円ぐらいの価値しかなかった。だから、昔の先生は偉かったのではないですか。

インA そうですね。

成瀬 僕が7、8年助手をしていたときに、小保内先生の給料をもらいにいったのです。そうしたら、18万円でした。僕のそのときの給料が1万8,000円でした。

インA 10倍。

成瀬 そう、今、助手が20万ぐらいでしょう? か、25万ぐらい。

インA 25万ぐらい。はい。

成瀬 でしょう。それで、教授が10倍もらったら大変なものですね。昔は、そのぐらい偉かったのです。

インA そうですか。すごい。
 ところで、ニューヨークなどに行かれたことは、何かきっかけがあったのでしょうか? 

成瀬 それは、その時分は、もう、催眠術のいろいろな英文の論文を書いていましたから、向こうから誘われて、「第1回の国際催眠会議をやるから、シンポジストとして出てこい」ということで。それで行ったのです。それも、助手は正式には出張できなかったそうです。それで、「講師なら行ける」と。でも、特別に「出ていっていいよ」ということで、向こうに行かせてもらって。
 だから、まだ古い昔式ですから、英語など全然話せないし。読むことは読めますけれども。読んだり書いたりはできるけれども。それで、まるで通じなかったのではないでしょうか。

インB もう飛行機で行かれた時代ですね? 

成瀬 ええ、飛行機で。その頃、羽田を出る時間が……。今、東南アジアから日本へ来るときに、真夜中の1時か2時なのです。それと同じで、東京からアメリカへ行く便が、大体夜の1時前後なのです、夜の。それを、皆が見送りに来てくれるのです。そのような時代。提灯や旗は持ってこないけれども。そのような時代でした。

インB 1ドル360円の時代ですか? 

成瀬 360円の時代。それで、「200ドルしか持っていってはいけない」という時代だから。

インB 制限があるのですね、昔は。あちらに結構長くいらしたのですか。

成瀬 ええ。割合知っている人たちがいましたから。ニューヨーク・ユニバーシティは、州立ではなく私立のものが、ニューヨークのマンハッタンの中にあるのです。そこの教授と割合に親しくしていたので。「会議の後、こちらに講師としていらっしゃい」ということで、お世話になりました。

インB 何というかたですか。

成瀬 Robert Holtという教授でした。その人は、メニンガーファウンデーションにいて、それから、大学はニューヨーク・ユニバーシティへ移った人で。だから、精神分析の臨床はかなりできる人だったのです。

インB 医者ではなく、サイコロジストですか。

成瀬 医者ではなくて、サイコロジスト。

インB そちらのもとに行かれたということですか。

成瀬 ええ。「頼みますよ」ということで。それで行って。そうしたら、あまり話せないから、大学の進学を目指す附設で勉強する若者たちのクラスがあるのです、英語の。「そこへ行ってこい」ということで、そこへ入れてもらって。午前中そこにいて、午後から大学院研究室の方に行く、というようなことをやっていました。

インB ニューヨークでは、どのような研究をされていたのですか。

成瀬 その先生が、行動主義がアメリカに出てきたときに、イメージの研究が、それまで割合行われていたものが、「これは科学的ではない」ということで潰されていたのです。それが、1961年に、ロバートホート(Robert Holt)教授、この人が、新しい「もう、拘束からイメージは解放されるべきだ」という。イメージの研究を。「行動主義に抑えられていては、だめだよ」ということでアメリカンサイコロジスト誌に出した。それからですよ、アメリカでイメージが非常に盛んになったの。

インB アメリカでも、被験者といいますか、クライアントといいますか、取ったりされていたのですか。

成瀬 丁度アメリカ心理学会で、臨床心理他2専門のディプロマ制度が作られた時期で、同時に催眠実験・臨床催眠学会でも実験催眠と臨床催眠という2つのディプロマが制定されたので、私もそこから臨床催眠のディプロマを頂きました。同じ時にスタンフォードのHilgard教授は実験催眠を得てから、後に臨床催眠のディプロマをもらったと喜んでいました。それとは、また、全然別に。ある大学の先生をしていたようですけれども。本当は、自営のクリニシアンで、マンハッタンの中にクリニックを持っていて、それで、「ここへおいで」ということで、そちらのクリニックで学んだり遊んだりしていました。

インB それでは、ニューヨークでも成瀬先生は、催眠を使ったり、イメージを使ったりして臨床をされたのでしょうか。 

成瀬 いや。催眠だけではなくて。その頃、「精神分析を、とにかく、もうちょっと学びたい」という気もありましたから、いろいろやりました。催眠術を本気でやったのは、カリフォルニアのスタンフォード大学に帰ってきてから、ヒルガード教授という人がいた大学でやりました。そこにはしばらくいて、催眠の研究所がありましたから。そこでは、僕が日本でやった速水賞の催眠術の実験をやったりしました。

インB この辺りですね。『インタビュー臨床心理士』には、「ヒルガードはエクスペリメンタルヒプノーシスのライセンスしか持っていなかった」とありますが。先生が先にクリニカルの方を取られた、という。

成瀬 僕がクリニカルヒプノーシスというディプロマを持っていて、羨ましそうでした。

インB それは、ニューヨークで取られたものですね? 

成瀬 そう。ヒルガードの奥さんは医者でしたから、はじめからクリニカルヒプノーシスを持っていましたけれども。その後、きちんとクリニカルヒプノーシスのディプロマをヒルガードも取ったという話でした。

インB ちなみに、先生の実践されている催眠は自分で体得されたのですか。ニューヨークで誰かから学ばれてもいたのでしょうか。

成瀬 それは、中学生相手に。僕は、我が国で割合「催眠術をやる」ということで有名だったのです。文理大にいるときに、助手で。それで、いろいろな人が来るのです。新興宗教で、いろいろな人がいたり。もう、いろいろな問題を持つ人が僕のところへ来て。中にはマニアがいまして、腕試しにくる人もいるのですよ。それで覚えたのです。結局、臨床というものは、やはり腕前ですものね。

インB 確かにそうですね。先生の催眠は、技術をどこかで見聞きしながら経験にされていくのかと思ったら、むしろ、そうではなく、実地の中で培われたものなのですね。

成瀬 そうなのです。だから、僕は、東京にいる時分には、新興宗教の非常に流行る時期が2回ほどあって。僕は行ったことはないのですけれども、そのような信者の人も来るのです。それで、ある若い青年が、「拝んでもらいました」と言うので、「どんなことをやるの?」と言ったら、「こう、こう、こうだ」と言うから、「あ、そのぐらいなら、俺もできるよ」ということで。神前がここにあります。こちらの方に入り口があって、「そこで座って、念じている」と言うのです。それで、「はっと気がついたら、神様の前で、ふっと目が覚めた」と言うから、「あ、そのぐらいのことなら、俺もやってみせるよ」ということで。暗示というよりもむしろサイコドラマ風に場面を設定して、神前と同じことを進めます。そうしたら、その子は、もう拝んでいるうちに、ドンドンからだを動かし始め、体中こうやっているうちに、とても真冬の寒いときでしたが、汗びっしょりになって。それで、こう、はいずりまわるのです。はいずりまわったり、立って歩いたりするうちに、いつの間にか神様の前に行って、それで拝んで、ハーッと大きい息をすると、はっと目が覚めて。「どうだった?」と。「うん。前に拝んでもらったのと同じいい気分になりました」と言うのです。そのような人が、いろいろ来るのです。

インB すごい。医学部でもあまり出会わないような方がいらしたんですね。

成瀬 慶応の医学部なんかでは、催眠、心理療法は、これ、ムンテラという。ムントテラピーね。インチキ療法ですね。「このケースは、ムンテラ。成瀬先生回し」と、僕のところに廻されて来るのです。でも、面白いケースがたくさんありましたよ、慶應では。

インB そうでしょうね。

成瀬 あちらへも、いろいろ来る。僕のところへも、いろいろ来ますけれども。過去を全部忘れた人など。それから、塩入先生と一緒に診たのですが、あの頃、ある時期、逆行性(ギャクコウセイ)健忘症が流行ったのです。だから私はきちんとしたオーソドックスな日本心理学会の先生方とは、だいぶ違います。違うでしょう? 

インB 確かに。
 成瀬先生は、はじめ催眠をされていて、その後、イメージ療法をされていますが、イメージ療法はどういった経緯ではじまったのでしょうか。

成瀬 それは、古沢平作先生のところへ精神分析の練習に行ったときに。自由連想ですから、自然にこう、何か言葉が浮かんでくるのですが、僕はイメージがたくさん出るのです。色つきで、形のない色が、こう、出たり。そのようなイメージが、よく出たのです。それで、「それを実験にしよう」ということで、「あまり自然ではない、きちんとした条件を設定してやろう」ということで、それが、しばらく、10年ほど、そのイメージの実験が続いたのです。それで、psychological abstractというものが、各国の一応のレベルのものの要約が載るわけですね。それを15年ぐらいずっと調べてみても、イメージというものは一つもなかったのです。「こんなことをやっていたって、これは、やはり心理学者にはなれない」ということで、やめかけた頃に、先ほどの、ロバートホート教授のイメージ復活の論文が出まして。それで、卋界的に皆がやり出したのです。その頃には、僕のエンジンが冷えてしまっていましたから。それで、もう、全然だめ。

インB 時代を先取りしすぎたのでしょうか。

成瀬 いや。1人きりでは、やはり不安で独立独歩はできないですね。

インB その後に、動作法を始められたのですね。 

成瀬 脳性麻痺をやったのです。脳性麻痺は、生まれた前後に、酸素がうまく脳に行かないので、脳の細胞が死ぬのですね。その死んだ細胞というものは、絶対にもう生き返らないのです。脳の細胞は特に。「だから、その細胞と関係ある手足は、もう動かないのだ。もう諦めなさい」ということが、その頃の整形外科の考え方だったのです。
 ところが、僕、早稲田で催眠術を大学院で指導したことがありまして。そうしたら、その内の1人が脳性麻痺の施設に専任で入って、「催眠術でやれば動くんじゃないかと思う」と言うから、「そんなら、とにかくやってごらん」ということで。やったら動くようになったのです、腕が。それで、これほど面白いことはないから。それ以来、医学に対する、挑戦もずっとしているのです、僕は。だって、「もう動かない」と言って、脳がやられているのに、僕たちの訓練で動くようになるのです。「なぜ動くようになるか」、非常に面白いではないですか。それで、それを今もやっているのです。これも、三・四十年やっているのですが。もちろん今では催眠なしでやっているんですが。
 動かない手足が動くようになるわけです。それをキャンプで1週間やるのですが、「親は必ずついてきなさい」と言うわけです。それで、親は何もすることないから、朝、ミーティングをやる。1時間ほど。1時間半ほどかな。僕が担当。そのときに、「脳性麻痺の、この動かないものを、まねしなさい」と、お母さんにまねをさせるのです。肩がかちんかちんなのです、子供が。それで、お母さんも、かちんかちんになっているのです。子供は、こう、ぎゅーっと動かすと、若いから動き出すのです。そうすると、もう、きちんと動くようになるのです。それで、お母さん方の固いものを柔らかにすると、「肩こりが取れました」と言うのです。30人ぐらいのお母さんがたです。皆、割合、肩こりが多いのです。それで、肩こりが治る。治せるようになったのです。
 子供を抱っこするときふつうには腰が痛くなるじゃないですか。「腰が痛い」と言うから、見ると、お母さんがたの腰が、ぐにゃりと反っているのです。これを真っすぐにするように練習すると、腰痛が治るのです。そのようなことが、あちらこちら、膝や背中などの痛い人など。子供のお母さんになると、皆、あちらこちら痛いではないですか。それが治せるようになったのです。それが元の経験なのです。
 結局、それと同じことを、ノイローゼなり、この頃、うつの患者が来るではないですか。患者というものは、話したいですね。いろいろ話を聞いてもらいたいのです。ところが、いつまでたっても、同じことばかり言っているのです。それで、体を見ると、肩が凝っていたり腰が痛い、膝が動かないなど。そのような人が多いのです。それを治しているうちに、もう「うつ」ではなくなってしまう人が多いのです。「それでは、これを心理療法にしよう」ということになったものが、僕の言っている動作療法なのです。

インB 動作法は、朝日新聞社の学術奨励賞を受賞されていますね。

成瀬 それは、催眠術で脳性麻痺の訓練をする。

インB ああ、動作法の前の話なのですね。

成瀬 そうなのです。動作法ができる前に。あれは、心理では僕が初めてだったらしいのです。その賞は、心理で、あちらこちらから上がってくると、意見を聞いた心理学者の先生方によって皆潰されてしまうのだそうです。

インA 候補に挙がっても途中で。

成瀬 そうなのです。それで、聞いてみると、きちんとしたテーマですよ。ライバルが、たくさんいるではないですか。そこへ聞きにいくわけです。「専門の人だから」ということで、ライバルのところへ聞きにいくわけです。そうすると、「あれは、だめだよ」という話になって没になってしまう。僕のは、催眠術で脳性麻痺の訓練ですから、一緒にやっている人はいないのです。珍しく心理でけちをつける人がいなかった、ということですよ。

インB 話が少し戻ってしまいますが、助手時代に成瀬先生が催眠研究会をされていたということを、成瀬先生の退官記念の本で読みました。

成瀬 それは、学生。大学院に入ってくる、学部でも、教育相談部で、一緒に勉強しに来るやつがいるではないですか。その人たちが、「ちょっと、外国文献を読んでくれ」などと言うから。それで、数人で研究会をやっていたのです。それが非常に、何か、皆、偉くなってから、「あれが役に立った」と言う人が多いですね。

インB 本には何回も、その催眠研究会が出ていました。

成瀬 それは、皆、あの頃に催眠研究会で、催眠術に限らず何でもやる。「何でも論文持ってこい」ということで。

インB なるほど。論文指導、研究指導も。

成瀬 だから、実験の人もいるし、臨床の人も来て、勉強しました、一緒に。

インB なるほど。ありがとうございます。

成瀬 だから、そのようなことを言う連中、ひとしきり。もう、皆、その人たちは超髙令者になってしまいましたから、言う人はいなくなりましたけれども。

インB 助手の後に九州大学に異動されたのですね。

成瀬 いや。アメリカに行っていたでしょう。アメリカに1年ほどいて。いるうちに、九州へ流されてしまったのです。

インA 何か話があったのですか。「ぜひ来てほしい」など。

成瀬 いや。僕は、あまり話は聞いていないのです。で、「もう成瀬は、いいかげんに出そう」という話になったのではないでしょうか。東京教育大の助手を、とにかく12年やったのですから。その間に、文理大の助手から教育大の助手に移ったりしたのです。

インA その教育大の先生の方から、「九大、決まったから」という形でお話があった。

成瀬 そうなのです。それで、帰ってきたら、もう僕の席はないのです。それで、仕方がないから。僕の後は、群馬大学の教授をしていた、臨床関係では、その後、行動療法を一生懸命にやった、内山喜久雄さんが後任で入ったのです。僕よりずっと上の年令の人なのですが。

インA そうですか。九大には、お知り合いの先生などはいらっしゃったのでしょうか。 

成瀬 九大には、たくさんいたのです。精神科など、医学部に、たくさんいたのです。池見酉次郎さん、前田重治、池田数好さんなど。
 だから、九大へ来たら、心理の方へは、あまり行かないのです。久留米大の精神科や九大の精神科などに、いつも遊びにいって。それから、どこかの精神病院へ行くなど、そのようなことをやっていました。

インB 九大に移られても、臨床の場所は、病院で持っていらしたのですか。

成瀬 いや。病院は、僕は行くのですけれども、病院で勤めたことはないのです。でも、旧帝大で言うと、慶應も含めて心理療法に関心があるところは、どこもなかった。九大だけ。九大は、森田療法が中心だったようです。

インB そうなのですか。

成瀬 よそは、全然だめ。そのような意味では、九大へ、僕は、来てよかった
 だから、割合に、そのような関係で病院の院長先生方に集まってもらって、いろいろ、「臨床心理を、どのように持っていったらいいか」など、割合好意的に助言をしてもらったりしていました。だから、(学生が)大学院へ来て(臨床の訓練を)やったら、皆、もう、それぞれの病院へ行って稼がせてもらったから。1961年頃の話で、「これ、催眠術ができるから専門家だよ」と言って入れるのです。1日行って、当時2万円ぐらい稼いできました。だから、いいほうですね。

インB では、先生のお弟子さんでマスターに入っている人は、皆、病院に行って臨床をやりながら、研究もされながら。

成瀬 そうなのです。それから、今、脳性麻痺は、やすらぎ荘という、あゆみの箱が作ったビルがありまして。それで、そこも、われわれだけで使えるもので、そこで旗揚げしたら、県と市が、「年間200万円ずつ出しましょう」という話になって。北九州も出してくれることになって。だから、年間600万ぐらいもらっていましたから、割合、そこに学生を入れて、それで謝金を出したりしていました。
 だから、僕のところの大学院・学部の学生連中は全員、脳性麻痺の訓練や研究をやらされていたのです。

インB 経験も積みながら、きちんとお給料もいただきながら、研究もできるなど、夢のような話ですけれども。

成瀬 割合に、臨床心理学会の、この間まで4期ほど理事長をやっていた鶴光代など。それから、ご存じではないかもしれないけれども、田嶌誠一など。その連中は皆、やすらぎ荘で育ったのです。それで、良かったことは、大学紛争があるではないですか。大学は閉鎖しているわけです。僕は、学生というものは、サボれるから喜んでいるかと思うと、そうではないのです。何か、心理学の勉強をやりたいのです。だから、ちょっと志のある者は皆……。

インA やすらぎ荘へ行って学んだんですね。

成瀬 その、やすらぎ荘は山のてっぺんにあるのですが、そこへ来るのです。朝7時に起きて夜10時まで、ぶっ続けでずっと訓練キャンプですから、訓練をやったり、どこかへ出かけたり、食事も全部、子供の世話をしたり。非常にハードなのですが、そこへ出ている人たちは、大体、ちょっと活動家風の人が多かったです。

インA やすらぎ荘では一緒にしてやっているのに大学紛争では反対側にいる。やりにくいですね。

成瀬 僕は、紛争のおかげで、学生が皆、来てくれたのだと。そうでなければ、大体、脳性麻痺など、触るだけでも気色の悪いという人がたくさんいた時代です。国際障害者年で変わりましたけれども。それを、1週間、1人の子供を持たせられるのです。そうすると、「隣の子は寝たきりで来たのに、立って歩けるようになった」というような人がいるかと思うと、「自分のところは、あまり変化がない」など、そのような訓練者がいるわけです、そうすると、もう、訓練をするほうがノイローゼ気味になったり。1週間、大変なのです。
 それで、子供の方も、お母さんの方も、「あの先生が、いい」、「あの先生は痛いことをする」と、分かっているわけですね。もう、いつも来るから。何年も来るわけですから。1年に3回ほどやるのですから。キャンプの開会式で、トレーニーとトレーナーの組み合わせを発表するのです。そうすると、お母さんも子供も、「当たり」、「はずれ」などとやっているのです。

インB 受け持つ学生も本当に鍛えられますね、そのようなことだと。

成瀬 それを、「はずれ」と言われたことを承知で訓練するのですから、大変厳しいわけですね。それにも耐えてやってくれた連中は、後で聞いてみると、皆、それぞれに活動家なのです。

インB そこを耐えられたら後は何とでもなる感じの、すごい体験だったのですね。

成瀬 だから、大変だったけれども結構面白かったのではないでしょうか。学生の、1年が終わって2年になるときに、初めて、その学生たちへ参加を働きかけるのです。そうすると、連中はまだ子供でしょう。子供と言ったら悪いですけれども。それが、自分で受け持った子が、自分の訓練で今まで動かなかった手や足が動くようになるのですね。だから、とても感動して臨床に、興味を持つように。皆、臨床(家)になりました。

インB そうですね。「実験やりたい」と思って大学へ入っても、大学紛争で行けなくて、そこに行って、1週間体験したら、臨床家になって帰られますね。確かに。

成瀬 だから、法学部や医学部からも。経済など。大体、経済学部は遊んでいますものね。それで、よく、皆、来てくれました。
面白いことは、西日本新聞という新聞社があるではないですか。社長が、僕と親しかったのです。それで、そこのやすらぎ荘の理事長をしているわけです。それで、法科を出ている学生でも、やすらぎ荘に入り浸っている人がいまして。「おまえ、勉強いつするんだ?」と言ったら、「そんなの、してません」と言った。その人が、西日本新聞社を受けて。それで、「学生時代に何をやっていた」と言われて、研究の話ではなくて、「やすらぎ荘へ行っておりました」と行ったら、社長にいっぺんに気に入られてしまって。それで採用してもらって、今は割合偉い役になっています。

インB すごい縁ですね。

成瀬 そうなのです。

インA 1週間、そのようにつき合って暮らす、いろいろな能力があれば、社会に出ても、いろいろな役に立つでしょうし。

成瀬 ええ。だから、元々能力はあったのでしょうけれども、やはり、「あそこで鍛えられたことは、すごくよかった」ということはよく言いますね。

インA そうですね。

インB あと学会のお話をうかがいたいのですが。学会における仕事で何か覚えていらっしゃること、印象深いことがありましたら。

成瀬 日本心理学会の?そういえば国際賞の功労賞(第1回)(2006)というのを頂きましたよ。きっと国際イメージ学会を主催したという功労があったのでしょうね。それ以外にはありません。

インB 日本心理学会も、おうかがいしたいと思いますし、他の学会でも多くご活躍なので、それも併せてうかがいたいと思います。

成瀬 催眠の学会を作ったり、それから、今の心理臨床学会を作った。あれは、3人ばかりで作ったのですが。河合君は、まだ若くて。名古屋大学に村上英治という人がいました。それから、大塚義孝君と。このような連中と一緒に作ったのです。日本臨床心理学会は、先ほど言った古い方の臨床関係の連中で作った学会がありまして、これが数年続いたのです。
それが潰れたのです。本当は潰れていないのですけれども。それで、十二・三年、「きちんとした臨床心理をやろう」という人たちにとっては、空白が続いたのです。僕は、そのときに、潰れたときの常任理事だった。理事長は戸川行男さんで。
 そこがもめたわけは、「臨床心理士という資格を作ろう」という話になって、それがきっかけで、「誰が、その資格を与えるか? 適任者がいるのか?」という問題から。結局、社会活動をやっている連中が多かったのですが。それで、たまたま、その前も、名古屋、それから九大で学会の大会をやったのですが、途中で、もう、もめて、もめて。それで、もう、やれなくなってしまったのです。僕が大会委員長をやったときは、3日間、朝からぶっ続けで、いろいろ、つるし上げられていたのです。

インB 学会員からですか。

成瀬 学会員から。それも、臨床心理の話ではなくて。その資格や、何かいろいろな。結局、後で聞いてみると、中国の百花斉放百家争鳴という……、あったでしょう。あれに刺激されて、「あのようなことを日本でやろう」ということがあったらしいのですが。
 それで、結局、あまりつるし上げられるので、常任理事会だけではなくて理事会が雲散霧消してしまったのです。
 結局、学会は潰れたことになった。本当は、今ぐらい大人なら、選挙をもう1度やり直して、それで役員を決めれば、それで済んだことなのですけれども、皆、逃げてしまって出てこなかったのです。それだから、結局、「造反連中に潰された」と言っているのですけれども、本当は、自分たちで逃げて潰したのです。だから、今も、学術会議の登録名簿の中には、日本臨床心理学会もあるし、日本心理臨床学会もあるのです。
 それで、12年たって、何とか自分たちで「もっと臨床心理、きちんとやる会を作りたいね」ということで、その3人が中心で作ったものが、臨床心理学会を引っ繰り返して心理臨床学会にしたという、そのようないきさつです。それが、今年で33年ぐらい続いています。

インB どんどん大きくなっていますね。心理臨床の方も。

成瀬 そうなのです。それは、日本心理学会より大きいですね。
日本心理学会では、やはり、小保内先生が、教育心理学でさえも、「ああいうものは学問じゃないんだ」と。だって、教育大学ではないですか。しかも、高等師範学校から教育の総本山と言われていたのに、東京文理科大学へ行ったら、「教育心理なんていうのは、あれは科学じゃないよ」というぐらいでしたから、まして、日本心理学会では、「実験以外には、もう認めない」という雰囲気が、ずっとあったのです。それだから、臨床でどれだけ面白いケースでも、ほとんど投稿して載ることがなかったのです。それが一番不満で、結局、教育心理学会もできたし、それから催眠の学会もできたし、その次辺りに心理臨床学会を作った、そのようないきさつなのです。だけれども、この頃は、もう、日本心理学会、非常にやわらかくなったのではないですか。

インB そうですね。「実験ばかり」という感じからは、少し違うような気もします。

成瀬 そうなのです。ところが、臨床のものも載ってはいるのですけれども、「評価できているのかな?」という気はするのです。
 あれは、理事をやっているときかな。僕が提案しまして。「今、たくさん学会ができていて、あれに全部入っている人は、もう、会費だけで大事だ。だから、整理しなければならない。まず、最初に僕が整理するとすれば日本心理学会だな」という話をしたのです。

インB それは、日心の理事で? 

成瀬 日本心理学会の理事会で。大阪教育大の学長をやっていた田中敏隆さんが理事長になったでしょう。その頃は、春木豊君が常任理事の責任者のようなことをやっていたね。田中さんは僕の大学の1年先輩ですから。非常に親しい人です。それで、彼が理事長になったから、僕が提案して、「日本心理学会一つにしなさい」と。だから、学会員のというものは全員日本心理学会の会員で、それで分科会があって。分科会は二つか三つは入れる、と。それに、臨床は臨床部会、教育は教育部会というものを作ればいいので、そのような形。
 そうしたら、皆、賛成したはずなのです、理事会は。今度は、心理臨床学会の方は臨床心理士の資格の認定機関を作ったのです。あのときは、「マスターを出ないとだめ」ということにしたのだったかな。ちょっと、細かいことは忘れてしまいましたけれども。それで、早稲田の本明さんが大反対をして。本明さんの次の田中さんが事故で死んでしまったのですが、自動車事故か何かで。それで、今の大塚君の提案に対して、「彼を糾弾しよう、糾弾の会を開こう」ということなって。それで、日本心理学会で、そのような会を開くということにしたというので、春木君の家に電話をして、「そんなことやったって、もう無駄だから、けんかの形はしなさんな」ということにしたのですが。そのときに、僕が、全体の日本心理学会1本を作ったとき、「それぞれの小さな学会は皆一つにまとまるのだから、そのようなものを、今のところ仕方がないから、連合会という名前にしたらどうか」と。それが、今でもあるのではないですか。

インB あります。

成瀬 心理学諸学会連合。本当は、それは枠を外して、日本心理学会一本にして。その分科会は、幾らでも作っていいのだから。そうすると、「日本心理学会としての情報と、それから分科会の情報とは受け取れるようにしましょう」ということにしたのですけれども、結局、それが変な形になって。それで、臨床心理士の認定協会と連合会との対立のようになってしまったのです。それで、形が変わってしまったのです。あのときに、僕は、「そこを1本にしたらいいのに」と今でも思うのですけれども。

インB どなたか反対なさったかたが、いらしたのですか。

成瀬 皆、反対でした。内輪の話をすれば、そのとき、田中さんに「じゃあ、あなた、こういうふうにやらなくちゃ、だめだよ」という提案をしていて、彼は乗ったのです。乗って一緒に提案をしていたのですけれども、今のように臨床心理の資格認定協会との対立で、結局、一つに作るより前に、何か、その敵対関係の方に使われてしまったのではないですか。その後、僕は理事になっていませんから分かりませんけれども。

インA そうなのですか。

成瀬 今、もう、あのようにばらばらになってしまったから、大変ですね。

インB 現在、日心と日心臨と両方に入っている会員があまりいないという話です。

成瀬 だから、臨床心理の関係者で日本心理学会の会員になっているという人は、もう年寄りだけです。若い人は、全く入っていません。

インB 少ないですね。本当に少ないと思います。

成瀬 そうなのです。だから、結局、臨床心理の人は、「実験屋さんから厳しく見られる」ということは口実であって、本当は、とてもいいかげんなのです。それで、臨床心理のマスターを各大学に作りましたね。

インB 指定校制度ですね。

成瀬 悪いけれども、きちんとした臨床、今の教授クラスよりもう少し古いぐらいの人は、臨床経験がほとんどない人が多いのです。しかも、実験が嫌いな人が多いから。だから、臨床の中で実験的な考え方が、ほとんど入っていないのです。だから、もう少し実験の人も入れるような。臨床の中で条件を決めればいいのですから。そのようなことができるとすれば、全体の、やはり1本の日本心理学会が要るのではないでしょうか。でないと、全く日本心理学会に関心ないですもの、今の若い臨床心理の人たちは。それが圧倒的に、2万5,000ぐらいいるのですから。
僕が提案したことが、どこかで、ぐちゃぐちゃになってしまったのです。

インA もったいない。

インB 本当に残念だと思います。実験も臨床も両方されている最後の世代に、先生が、なってしまっているのでしょうね。

成瀬 僕よりもっと若い世代の人から、もっと「一つになろう」という提案が出てこないといけないのではないか、と思うのです。
 実験をやっている人は、「臨床には無関係だよ」という気が。それなのに、時々、臨床的な発言をしたりするのです。「心理屋だ」ということで。そのようなトンチンカンなことをやっている人もいるのですが。だから、それなら、もう少し臨床も聞く。それから、臨床の人も実験など、きちんと、やることはやれる、と。だから、僕のところの卒業生は、全部、ドクターコースの卒業は実験をやらないと通らない。そして日心研誌に単著2本載れば即学位を出すことにしていました。

インA なるほど。

成瀬 だから、脳性麻痺の訓練は、皆で、もう、毎年もやらされるのですけれども、実験は別にやる、という。だから、日本心理学会、今度の国家資格で、鶴さんが非常に頑張っているのですが。あちらの中でも、この国家資格に反対しているグループがあるのですね。

インB ありますね。

成瀬 大塚君のところも反対しているのですが、あれは別として。だから、あれは、学会の中の問題ではなくて、例えば、「精神科は賛成するかしないか」ではないですか。それで、精神病院協会会長などという人がいて、これまた、納得させるのに大変だったのです。それから、日本医師会も問題ですね。そのときに、心理屋は、やはり医者の分を食うのですから。それが、よくまとめてくれたと思うのですけれども。この機会に、もう、一つにすることができれば。僕は、やはり、今でも1本に部会を作るということに、もう固執しているのですけれども。なかなか難しい。だから、今度の国家資格がチャンスかなと思ったのですが。それで、四十何学会が、一応、反対はしていない形になっていますね。「あそこまで行けば、やれやれだな」とは言っていたのですけれども。
大塚君は、非常に慎重にやる人だったのですよ。心理臨床学会を一緒に作ったときも、非常に役に立って、頑張ってもらったのですけれども、やはり、あれほど大きい仕事を。仕事はした人ですから。何か意地になってしまったようですね。試験のやり方などは、大きな仕事ですから。あれを立てて、それをどのように変えていくかという話をしたらいいではないか、ということですけれども。大塚君当人には分かっているのに、絶対反対ですものね。

インB 残念です。ところで、成瀬先生は日心側の理事もされていらっしゃいましたね? 

成瀬 はい。

インB そちらは、どのようなお仕事があったのでしょうか。

成瀬 九大で日本心理学会大会を主催した以外には日心の仕事として特にやったことは、ありません。理事会に行って、何か話すだけ。

インB でも、「一つにしましょう」という発言をしてくださったのですね。

成瀬 僕は仕事をしたと思うけれども、皆が潰してしまったから、これで終わりなのです。もう少し前は、僕、催眠の学会をやっていた頃に、やはり、「臨床の国家資格を作ろう」と言って。それで、日本女子大に児玉省という先生がいて、僕のところへ、「日本応用心理学会に、催眠の学会を部会にするから、入ってくれませんか」と来たのですね。僕は、やはり、資格を早く作る必要があると思ったから、「入ってもいいよ」と言っていたのですが、催眠の学会の理事会で相談したら、医者が多かったから、「そんな、心理学に取られちゃ困る」と大反対で。それで、その前後に「日本催眠医学心理学会」という名前に変えてしまったのです。その案は、もうパーになってしまいました。
 仕事らしい仕事というものは、今の国家資格を作るための委員会が、もう、早くにできまして。先ほどの60年の、催眠の学会が60回ですから。それより前から、もう「国家資格を作ろう」という話があって。そのときに、少しは仕事をした、と。あとは、もう、そのような細かい仕事の責任者になったことはありません。何か仕事をやったことがあるかな。日本心理学会の年次大会に助手長?として2回も(文理大・東京教育大で)大会・総会をやったぐらいで。他には何か印象に残っていません。

インB どうもありがとうございました。

インA ありがとうございました。

(録音終了)
インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)
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