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長嶋 紀一先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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長嶋 紀一先生の略歴

・老年心理学・日本大学・浴風会病院・小保内虎夫・橘覚勝・認知症
・1969年日本大学大学院博士課程退学。亜細亜大学専任講師を経て1975年日本大学文学部助教授。2011年日本大学名誉教授
・大学院生のときから浴風会病院の研究嘱託として老年期心理学の研究を行い、老年期の心理や認知機能に関する論文を多数発表しています。現在もさまざまな老人施設のスーパーバイザーとして活躍されており、2018年には日本老年臨床心理学会の初代理事長に就任されました。

日時:2018年3月22日(木)
場所:日本心理学会事務局

インタビュアー(以下、「イン」と略)B 今日はよろしくお願いします。まず先生が心理学を学ばれた動機などをお話いただけますか。


長嶋 特にないのですけれども、それこそ文化果てる地で育ったものですから、だいたい大学に行こうなんて夢にも思ってなかったんですね。高校2年か3年のときに、東京から法務省の技官か何かの体験をした方が、確か1年ぐらいしかおいでにならなかったのですけれども、赴任されて心理学の話をなさったのです。それがきっかけかもしれません。いわゆる少年院の話とか刑務所での話でした。心理職という言葉は覚えていないのですが、そういうところで仕事をしているというお話がありました。社会科の何か一部の科目を担当なさっていたのです。名前も何ももう覚えていないのですが、心理学というのは新しい学問だということを知りました。何しろ大学進学なんて考えていませんでしたものですから。それでもそれが頭にあって、どうしようかなと思って、もう時期が遅れてしまって受験勉強も何もやっていなかったのですけれども、じゃあ心理学をやってみるかということで、心理学が何かも知らずに飛び込んだというのが経緯です。


インB それで日大に進学されたのですか。


長嶋 ええ。結局、日大ぐらいしか残っていなかったのです。もう3月の半ばを過ぎていたはずです。受けたら偶然受かったというか、まったくもう偶然の重なりみたいなものです。


インB 2次募集みたいな、そんな感じでしたか。


長嶋 それよくも覚えていないですね。2次募集だったかもしれません。


インB 高校のほうは、先生は栃木県出身でしたよね。


長嶋 栃木県の元女学校です。昭和22年に学制改革で、6・3・3・4制ができたときに高等学校になりました。11期生だったのは覚えていますけれども。変な話ですけれども、女子のトイレには行ったことがないのですけれども立派らしいです。男子のトイレは飯場のトイレみたいでした。何となくそんなことを覚えています。今ではすっかり、コンクリートで建て直しましたが、昔は木造で、それこそ輪王寺というお寺があったり東照宮があったりしますので、お寺や神社のような立派な玄関でしたけれどもね。


インA 何という高校ですか。


長嶋 日光高校です。その当時は、栃木県立日光高等学校です。


インB 本当に日光の真ん中に、観光地の中にあったのですね。


長嶋 ええ、日光は企業城下町で、父親が古河電工にいまして、足尾銅山の銅を製錬する会社でした。古河コンツェルンの一部です。そこで産まれ育って高校までいました。


インB そうでしたか。高校を出られて、日大に入られたときの様子とかはどうでしたか。


長嶋 ただもう受かったので、しょうがなくて行ったみたいなものです。ただですね、振り返ってみますと、心理学概説という授業がありまして4単位か8単位だった覚えがあります。東北大学からいらした千葉胤成先生でした。2年間、ほとんどがっちり眠っていましたけれども。何か「花伝書」を下敷きにして講義なさっていた覚えがあります。


インB 世阿弥の「風姿花伝」ですか?


長嶋 はい、世阿弥です。 そういう話を東北大学の方がたにしますと、「俺もそうだった」とか言って、それで仲良くなって今でもお付き合いしている方がいます。


インB 花伝書と心理学が何か結び付いたのですか?


長嶋:そうらしいですね。もうまったく覚えていませんが、ちょっととんでもないところに来ちゃったなと思いました。


インB 他にどんな先生がいらっしゃいましたか。


長嶋 そうですね。2年生になりまして、いわゆる今の基礎実験ですね。それで、どうにかいろいろな心理学の実験を1.5コマ分で1年間がっちり受けて、それから並行して脳波をやはり1.5コマで1年間受けて、それでだいぶ元気になりました。そのときに教育心理学と同時に、心理学統計法を受講しました。その心理学統計法の先生が古賀行義先生で、広島大学の心理学科を作った先生だと聞かされました。これは面白かったです。何か統計法じゃない、推計学の話までしてあまり計算しないのです。でも面白かったです。古賀先生には、博士課程を終わるまでいろいろな意味でお世話になりました。
同時にそのときに、実験心理学という講座があって小保内虎夫先生の担当でした。その後、今でいう博士後期課程の3年生12月まで小保内先生の指導を受けていました。昔は博士課程といいましたけれども、3年生の12月に小保内虎夫先生がお亡くなりになってしまったので路頭に迷いましたけれども、ずっと基礎系の感覚、知覚、認知の領域をやっていたのです。
小保内先生とはずいぶんあっちこっち旅行もしましたし、学会にもいろいろ連れていってもらってお世話になりました。ただ残念ながら、後期3年生の12月だったのですが、小保内先生と一緒にある大学に行くはずだったのです。名前は出さないほうがいいと思いますけれども、今でもちゃんとあります。けれども小保内先生がお亡くなりになられて、その話も終わりでした。ちょうど当時は学園紛争の時期でした。70年安保の前の年ですから、69年3月でいちおう課程修了でした。脳波はずいぶん面白くて一生懸命やっていました。あっちこっちの病院に行きました。当時は読める人があまりいなかったのです。アルバイトをしていました。


インB 日大では脳波の実習が充実していてびっちり1年間あったのですね。


長嶋 ええ、1.5コマ分ですから。90分足す45分で1年間やって。結構、印象には残っています。そのときまだお若かったのですけれども、そのときの先生が山岡淳先生でした。山岡先生がまだお若いころで、結構あっちこっちお手伝いをさせてもらいました。
それと同時に小保内先生のところにはいろいろなところからオファーがあって、電通とか、それから立川に今でもあると思いますけれども、航空医学実験隊からお金をもらってきたり、あるいは警察庁が当時は九段にあって、今は埼玉県のほうに移った科学警察研究所の交通安全対策室のお金をもらってきたりしたものですから、いろいろな実験をやりました。
東名高速ができたころ事故が多いので、なぜ事故が起こるのかという実験をさせられました。奥日光の山岳有料道路、金精道路というのですけれども、当時はそれができる前にどのくらいのスピードを出したら事故が起こるかなどという実験もしました。それは面白かったです。本当にこういう話しすると誰も信用しませんけれども、何台も車を潰しました。私は測定するほうですが、車を運転してぶつけるほうには、日本大学の生産工学部の自動車工学の先生や院生が何人も来ました。道路がオープンする前ですから、1966年の夏でした。今はもう普通の生活道路になっていますけれども、今でも冬には風や地形の関係で6~7メートルの雪が積もることがあります。


インA 当時から学際的で産学連携の研究をされていたということですね。


長嶋 今になってみますとそうですかね。当時は何も知らずにやっていました。もっと面白かったのは、今の交通標識があるじゃないですか。これも小保内先生が頼まれました。当時は昔の日本の交通標識だったのです。それを国際標識にするかどうかでずいぶんもめて、国際標識のほうがいいということを証明しろというので、夜中に村山貯水池に行って、実験をしました。湖の下の道路には街路灯がなかったのです。真っ暗でしたので、そこで朝方まで実験を何日もやりました。それこそ、そのときは60年安保闘争の真っ最中でした。まだ1年生だったのですが、当時は自衛隊で使っていたハンディトーキーを使って交通標識の見え方の実験をしました。夜が明けて日が出ると、警察庁の警視正の方が朝飯を持って、そのハンディトーキーを取りに来られました。それでこの実験をまとめて、新しいその今の国際標識になったということです。何も知らなくて入学したばかりでしたので、けっこう刺激的でした。


インA バラエティーに富んでいますね、その世阿弥から交通標識まで。


長嶋 結局、日大というのはご存じのように、私学でいちばん先にできたといいますけれども、東北大学と同じような時期にできたらしいのですけれども、教授陣は寄せ集めですよね。優秀な先生は松本亦太郎先生とか、田中寛一先生とかいっぱいいましたが、私はもう知らない代です。だからどう言ったらいいのでしょう、私なんか、小保内先生につきましたので、私の先輩もみんな小保内先生の兄弟弟子として教わっているのです。だから、日大出身の人たちにはあまりお世話になっていない、そういう強みがあったのでしょうね。


インB 当時は安保の時期で学生紛争とかもけっこう影響ありましたか。


長嶋 ありました。同級生なんかも、私もそうですがデモに行って、それこそ国会議事堂の前で樺さんが亡くなったとき、あの近くにいました。こちらは見学ですけれども、それでも行くと、ズボンの裾なんかが催涙弾でぼろぼろになっているんです。


インB 日大というと学生運動が相当に盛んでしたよね。


長嶋 それは70年安保です。日大全共闘です。始まったのは、その前の年ですから1969年です。文理学部もロックアウトされて、教員や事務員も構内に入れませんでした。心理学科ではネズミを飼っていましたので、餌やりに何人かが交代で行っていました。ネズミと言うと、日大全共闘の学生もどうぞと言って通してくれる。ネズミが死んじゃうとか何か言って通してもらっていました。今はもう心理学科はネズミを放棄して、化学学科のほうに全部渡しているかな。


インB 先生の卒業論文のテーマは何でしたか。


長嶋 卒業論文は、確か「時間錯誤」でした。小保内先生の指導で同時比較と継時比較の実験をしました。大学院に入った1年目に日本心理学会で発表ができたのです。そのときは、たくさんの人からいろいろな質問を受けて立ち往生しました。今になってみると、偉い先生というか有名な先生が大勢おいでになっていました。親切からでしょうけれども質問してくれて、私も一生懸命に答えたけれども、なかなかフィットしないみたいでした。でも、それから後は非常に仲良くしてもらいましたけれども。


インB 青山学院の日本心理学会ですか。


長嶋 そうです、はい。だから1965年でしょうか(日本心理学会第29回大会、青山学院大学)。小保内先生も会場においででしたが、一言も発言されずに腕を組んで目をつぶっておいででした。助けてくれればいいのにと思いましたが。


インB 修士論文はどうでしたか。


長嶋 修士論文は光滲(こうしん)現象でした。光滲というのは、例えば夜空に星が見えるでしょう。強く光る星(明るい星)と光らない星(暗い星)がありますけれども、ほとんど同じように見えますでしょう。遠くになると、その光の輝きによって遠近が違って見えるようになるのです。この実験は暗室において、その光の強弱によって強い光の方が拡がって見える(大きく見える)という現象を測定しました。


インB どちらかというと視覚心理学の領域ですね。道路標識も視覚心理学の実験でもありますよね。


長嶋 小保内先生にだまされたというか、尻をたたかれて一生懸命やったものです。ロールシャッハだってそうじゃないですか。いわゆる、カラーフォームの実験もやりました。あれは卒論で高齢者を対象に実験をしてもらいました。形で判断するか、色で判断するかということを測定したものです。ちゃんと答えが出ました。


インB 心理学というのは、当時はどんな感じだったのですか。何か臨床とかはあまり盛んでなかったのでしょうか。


長嶋 いや、ぼちぼち盛んになっていました。むしろ、就職口はそれしかなかったんじゃないですか。もう今は消えてしまいましたけれども、職業指導という教員資格、教員免許証があったのです。今でいうスクールカウンセラーですかね。進路指導とか保健室のカウンセリングとか確かいっていました。それが非常に盛んで、みんな取得していたみたいです。私は取りませんでしたけれども、多分。私は、英語か何かの免許を取っておいたほうがいいとか、アルバイトにいいぞと言われてだまされて英語の免許証を取ったけれども、全然やったことがない。今から考えると、本当にばかばかしい。たくさん単位を取らされて。


インB 少年院に就職するとかは、入学してからは考えなかったのですか。


長嶋 全然考えなかった。だから航空医学実験隊でジェット機のコックピット、座るところにメーターがいっぱいあるじゃないですか。どういうふうな配置にしたら一番見やすいかという実験をやっていました。今でいうNASAで行われている実験なんかもやっていました。日本で初めて遠心力で無重力になる機械があって、それに乗せてもらったりして遊んでいました。
航空医学実験隊から誘われたこともありました。ちょうどそのころは博士課程に入る年で、ある老人病院の医局に行ってくれと言われたのです。前任者がちょうど博士課程を終えて助手に着任の予定でした。その人は臨床家です。私はぜんぜん関係ないので勘弁してほしいと言ったけれども、どうしても行く人がいないので1年でいいから行けと言われてしょうがなくて泣く泣く行ったのです。それと、その今の航空医学実験隊の誘いとがあって、けっこう面白かったのです。
今もそうですが、当時は老年期のことを誰もやっていなかったものですから。それで多分、小保内先生の同級生で、橘覚勝先生という方がおいでになって、松本亦太郎先生のお弟子さんらしいのですけれども、日本では割と最初に本格的に高齢者の研究を始めた方なのです。1925年から太平洋戦争が始まる少し前くらいまで、浴風会で嘱託として高齢者の研究をやられていたわけです。橘先生にも会う機会があって、いろいろな情報をいただきました。当時の浴風会病院には東大の神経内科とか老年病学科からの研修生が大勢来ていたのです。偉い先生方もおいでになっていて、航空医学実験隊に誘われているけれどどうしようか迷っていますと言ったら、行かないほうがいいと言われました。それで、貧乏暮らしを覚悟で航空医学実験隊を断って老人をやることになってしまいました。1年間の約束で行ったのですが、研究嘱託ですから臨床の仕事はあまりしなくて遊んでいてもよかったのです。21年間お世話になりました。そこで結構くだらない論文を書いたものですから、珍しかったのでしょうね。そこに、初代の院長先生で尼子富士郎先生という方がいらっしゃいました。
この方はなかなかの人物で、何も教えてもらった覚えはないのですけれども、話し相手になっていました。いちばん先に言われたことは、本当に心理学はまだ若い学問で、言葉の定義がまだできていないねと言われて、えっと思ったのですけれども。それで聞かれるたびに分からないときはちょっと来週までというので、調べてきてお答えして、そんなふうな育てられ方をして、今になってみると、人を育てることが非常に上手な方だったみたいです。とにかく学会発表をすると、あんまりこんなことを言っていいかどうか、赤坂とかあの辺の料亭にみんなを招待してくれて、ごちそうしてくれます。だから、おいしいものを食べたくて勉強したみたい。いや、みんなそうなのです。
尼子富士郎先生は、日本で初めて東大で老年病学の講義をした方ですけれども、ただ東大では尼子先生の年齢がだいぶいっていたので教授には迎えられなくて、長崎大学の方で話があったようですけれども、それはお断りして最後まで浴風会病院の院長で定年を迎えられました。ユーモアもあり高潔で立派な方です。そんなことで、間違ったかどうかは分かりませんけれども高齢者をやることになりました。
本当に、当時は文献等が何もなかったですものね。橘先生が誠信書房から『老年学』を上梓されました。あれは橘先生の博士論文をちょっと手直ししたみたいです。博士論文そのままかな。いずれにしても、浴風会での調査・研究をまとめられたものです。それでどういう訳か、橘先生がくれたのです。君、ちょっと読んでみてと、若いころ書いたやつだとおっしゃいました。昭和10年、浴風会の10周年記念にその橘先生の研究が載っています。その後、1950年代に大阪大学に学位論文として提出して、1971年にそれを誠信書房から『老年学』というような見出しで、その問題と考察ということで出しました。71年というと、だいぶたってからですね。このころには、私は老年学関係の学会の理事になっていましたから、確か1973年のことです。


インB まだお若い年齢ですよね。


長嶋 そうですね。32歳でした。いろいろこの当時は忙しかったです。いろいろやらされていて。


インB 先生は浴風会の紀要にかなり執筆されていますよね。


長嶋 ええ、しょうがなくて。研究嘱託ですから。遊んでいるから、それくらい出さないと、いちおう少しは嘱託料をもらっていましたので。


インA ちょっと調べたのですが、浴風会病院はずいぶん古い歴史を持っています。


長嶋 そうです。大正12年の関東大震災の後に天皇の御下賜金で。当時、内務省の管轄ですよね。今の厚生労働省です。だから当時は厚生省から、私も高齢者研究に関して研究費をもらっていました。どういったらいいでしょう、浴風会にいちおう研究嘱託としての籍がありました。週に1~2回しか行っていませんでしたが。


インB その中で、心理測定とかされていたのですね。


長嶋 ええ、高齢者を対象にしていました。例えば何ていうのですか、高齢者を対象とした知能検査が出る前ですけれども、知能検査や人格検査などを施行してもほとんど使いものにならないのです。時間を倍にしてやったこともあるのですけれども駄目です。


インB できないという感じですか。


長嶋 どう言ったらいいのでしょう、心理検査はインストラクションがどのくらい理解できているか、100パーセントインプットされているという前提で測定するでしょう。そういうことは無理じゃないですか。耳も遠いし、眼もうすく、注意の集中とか持続とか分散とかがうまくできにくいものですから。そんなことも、どこかの論文に書いていますけれども。なかなか大変でした。いちばん簡単にできたのが、東大の脳研究所で作った集団式のノンバーバルの言葉を使わない集団用の知能検査でした。あれを個人用にして使ったのです。大きく拡大して。それだと案外正確にできました。これも確か、論文にしてあると思いますけれども。


インA まだこのころは、長谷川式とかはあまり知られていなかったですよね。


長嶋 まだできていない。あれは1973年ぐらいですかね。


インA 長谷川式が発表されたかどうかというくらいの頃ですね。


長嶋 ほとんど同じ時期に、私も作っているのです。長谷川式は薬屋さんが印刷してただで病院などにばらまきました。私のほうは影が薄くなってしまいまして。まあ同じようなものですから、いいのですけれども。ただあれもやはり、あまり簡単に使ってもらっては困るのです。何ていうのですか、心理学測定法の中のテスト法をきちっと学んだ人でないと、面白半分にテレビなんかでよくやっていますけれども、とんでもない話でしょう。しかも、認知症関係のこともいろいろやらされているのですが、医師が本当に初めてやるようなやり方でやっていることもあって、検査本来の意図した結果が出にくくなるのではないでしょうか。その辺のところは、あんまりいろいろ角が立つから、難しいですけれども。


インB 博士課程を出られた後に、亜細亜大学に就職されましたよね。


長嶋 ええ、それは70年安保で就職口がない頃です。私の学年も、誰も大学には助手として残れなかったのです。それで、それぞれあっちこっち探していて、名前は出しませんけれども、北海道のある大学で開設する学科がありまして、判を押したのですけれども1日も行きませんでした。2年生の配当科目でしたが、2年目には向こうでも学園紛争が起こって、何かなし崩しに採用中止になりました。
そんなことになることが分かっていたものですから、たまたま亜細亜大学の図書館学の教授の方が、私のところの教育学関係の非常勤講師でお見えになっていて、何かそんな話が出たらしくて、長嶋というのがいるからというので呼ばれて伺ったところ、ぜひ面接に行ってくれと言うのです。で、一応、駄目でもともとと思って行ってみたのです。そうしたら何か専任講師がどうのこうのという話だったのですが、助手だったら採るということですので、じゃあ結構ですと帰ろうとしたのです。そうしたら、ちょっと待って、何か論文はありますかって言われたので、そのときに何編か持って行っていたものですからお見せしましたら、その場で専任講師に決まったのです。ずいぶん、悩みました。もうこれで亜細亜大学に行きっぱなしで終わりだなと思って。で、結局、教職課程を作りたいということだったのです。その仕事もやってくれるかと、ああいいですよっていうことで、授業は2コマでした。それでちゃんと給料もらえて、これは良かったですね。2コマですから1日で済んでしまうのですが、2日来ますとか言って、それですぐ日大の非常勤講師で基礎実験をやってくれとか何やってくれとか演習やってくれというので、日大では5コマか6コマやっていました。そのうちに帰ってこいという話が出てきて、でも3年じゃ帰れませんよ。5年いさせてくれと言って5年いて帰ったのです。


インB その間にも浴風会のほうにも行かれていたのですか?


長嶋 ずっと行っていました。週に1~2回です。日大へ帰ってきたらなおさら行きやすくなりまして、大学に行く途中ですから、環八の外側ですから。そう、病院を建て直すというので、ちょうどご存じかどうか、美濃部亮吉さんという経済学者、法政大学の教授で、有名な美濃部達吉さんの息子さんです。あの人が知事だったのです。それで老人総合研究所を造りたいというので、尼子先生のところに見えていて、ちょうど私が呼ばれて、いろいろ相談を受けて、それから準備委員会の委員になって板橋にある老人総合研究所、今は名前が変わっていますけれども、それを創設することになりました。心理学研究部門を私がほとんど作ったのです。まだ31歳になったころです。大変だったのです。偉い先生ばっかりで。でも幸い、それらの先生方に教えてもらっていなかったもので、上下関係もパワハラもなかったですから。


インB 師弟関係がなかったわけですね。


長嶋:なかったです。初めは医学研究所にしたかったようですけれども、老人問題は医学だけじゃ解決できませんよとか言って、社会科学も入れてもらったのです。 当時、国際老年学会では医学よりも社会科学の方が部門が多かったのです。それは雑誌で読んで知っていましたから。何か本当に、アウトサイダーみたいなことをずっとやってきたものですから。


インB まだそのころは老年研究をやっている人は少なかったのではないでしょうか。


長嶋 誰もやっていませんでした。亜細亜大学の教養部の中に、小さなゼミを作ったらどうかということで、そこで選択科目として3つ目の講座に長嶋ゼミというのをやっていました。それが最初ですかね。日大に帰ってからも、すぐには作れなかったのです。1975年に帰りましたけれども、当時の発達心理学はだいたい22~23歳ぐらいまでしかやっていなかったですよね。せいぜい20歳前後までした。その後の成人期以降は何もないのです。アメリカの心理学のデータというのは、ほとんどが大学生のデータでしょう。それ以外は何もないのです。そういった事実を言ったりして、とにかくエイジングという言葉とデベロップメントという言葉は同じ意味なのだと。いわゆる、受精から死に至るまでの変化を見るのだということで、いろいろなところで話をしていたら発達心理学の学会ができて、その中にじゃあ老年期までということで、最初から入っていたのですが、やはり誰もあまりいないです。最近、少しあるのかしら。そこもですから、何年かいていろいろなシンポジウムや何かやらされましたけれども、忙しくなったので退会しましたけれども。とにかく今は日本老年学会の中にいろいろな学会ができて、今7つあるのですけれども、下部学会が、そこの仕事もやっていたものですから。


インA 少しお話が戻りますが、先生の博士論文の研究は。


長嶋:私は小保内先生が亡くなられたので、もう。誰にも出すところがなかったので。


インA ああ、もったいない。失礼しました。


長嶋 いや、別に怠けていたわけでもないのですけれども、だいぶ勧められたのですけれども。老年期の記憶のデータをいっぱい持っていて、だいぶ勧められたのですけれども、やはりいろいろありまして、本当に親切に言ってくれた方はいたのですけれども、どうも気が進まなくて。やはり鍛えていただいたのは小保内先生ですし、まあいいかというので、なくてもそんなに不自由しませんでしたし。ほとんど、例えば科学研究費なんかを請求するのは、みんな私が書いていましたから、小保内先生の名前で。それから亜細亜大学に行っても、私の名前では取れないと思ったので、日大に残っている誰か先生に名前を貸してらって書いて出せばだいたい通っていました。あとは厚生労働省からたくさんもらっていました。いろいろなファンドも、黙っていても届けてくれましたので。
やはり、ファンドはありがたかったです。浴風会というのは、社会福祉法人なのです。そこに研究費を、実践的研究ということでもらってくれないかみたいな、変な言い方ですけれども。いや何かもう、本当に分からないのですけれども、よくもらっていました。ですから、文部科学省関係の例の科学研究費よりも、むしろ厚生労働省の総合科学研究費の研究費はもらっていました。退職する前の9年間ぐらいは、厚生省科学研究費の長寿というのがあるのですが、その審査員をずっとやっていまして、あれはなかなか面白かったです。


インB ああ、すごいですね、そういうのって。


長嶋 私も何回か、その委員になる前には4,000~5,000万はもらっていましたかね、3年間で。そうすると電話がかかってきて、事前審査委員になってくれと言うので、いやまだ若くてなんて言ったら、いやどうしてもなってくれと言うのでしぶしぶ承諾したら、次の日に電話がかかってきて、今もらっている、そのときは5,000万ぐらいもらっていた、その主任研究員にはなれませんと。ひどいでしょう。そういう話って。どうしてくれるんだと言ったら、メンバーの中に日大の助教授がいて、今は教授になっていますけれども、その人を主任研究員にしてもいいかと言ったらいいと言うんです。私の名前は消して、それであとの2年間やってもらったのです。
そのぐらいの融通をするくらいは。だって大事な研究です。国の施策に意見を言う研究ですから。2012年の調査で13年に発表になった、認知症の人が462万人、それから予備軍が400万なんていうのは、そのお金でやったものです。厚生労働省発表といいますけれども、何のことはない。調べればすぐに分かりますけれども。その研究費を、その審査して出したのは事前審査委員会のメンバーの一人でした。


インB 日大では先生、いろいろなことを教えていらしたと思いますが、心理学が昔と比べると変わっていったなということは何かありますか。雰囲気とか、研究自体とか。


長嶋 そうですね。ううん、どういったらいいんだろう。私は5年間、外に出ていて帰りまして、そのときにやはりどうしても、いろいろな大学の偉い先生が来て育ててもらったのです。日本大学文理学部心理学科というのは変わらなくて、外からおいでになった先生方がみんな育ててくれたわけです。もちろん、中の人も教授になっていますけれども。それはおかしいんじゃないかというので、助手からみんな上がっていたわけでしょう。よく分かりませんけれども。だから助手は任期2年、2期の4年とか、任期3年、2期の6年とかありますけれども、私が日大に帰って間もなく研究室会議で、いったん外へ出しましょうと決めてもらいました。今でもそうなっています。


インB 外に出すのですか。


長嶋 それで業績を上げたら、空きがあったら帰ってくるということです。でも公認心理師の国資格ができましたので、今後は変わるかもしれませんね。いい方向に変わるのではないですか。心理学の国資格については、私が常務理事をやっていたころはずいぶん厚生労働省に、当時は厚生省だったのですけれども、行って実状を聞くと心理学の国家資格には厚生省の人はみんなすごく好意的だったのです。要はそれこそ、いろいろな心理学会がいっぱいできて、みんな資格を勝手に出していましたので駄目だったのでしょうね。心理の人たちはよく勉強するのに気の毒だって、ずいぶん同情されて。それから当時は市川にあった精神衛生研究所、今は小平にありますでしょう。歴代の所長を何人も知っていていろいろな話を、当時、理事長だった東洋先生にも一緒に行ってもらったのですけれどもね。結局は、心理学ワールドが一つにならないと難しいということでした。


インB 先生が老人の研究を始められたころから見ると、今は老年期の研究もずいぶん活発になっているように思えるのですが、そうでもないですか。


長嶋 いやいや、まずだって大学院にそういうコースとか講座がありますか。


インB 桜美林大学はどうですか。


長嶋 桜美林は老年学という大きなのがありますから。あそこは公衆衛生の柴田博先生という人が中心になって作って、日本ジェロントロジー学会にもだいぶ誘われたけど断りました。今は何人か早稲田系の人とかが頑張っています。あそこは老年学、ジェロントロジーですからジェロサイコロジーじゃないのです。だから中では心理学はもうほんの一部です。あとは他の領域の人です。でもあそこはキリスト教系の大学ですから、できたんじゃないかと思います。でも頑張ってはいますけれども、やはり公衆衛生学と建築学というのはなかなかのものです。


インA なぜ、高齢者の心理学がはやらないのでしょうね。


長嶋 恐らく、ほっぽっておいてもどうにかなるからじゃないですか。先がないし、ということを言う人もいます。


インA なるほど。


長嶋 いや、本当は知らないです。あんまり言うととんでもないこと言い出しますしね。実は2018年3月11日に、日本で初めて老年心理学関係の学会を立ち上げたのです。日本老年しかも臨床を付けたのです。公認心理師が国家資格化されたので、日本老年臨床心理学会を設立したということで学会設立の趣旨を呼び掛けたら、80人ぐらい全国から参加したみたいです。最初だけ、私がいちおう理事長になったみたいですけれどもね。基礎の人間ですから遠慮したかったのですが。


インB 名前は臨床ですよね。


長嶋 ああ、やはり公認心理師の主な人たちはやはり臨床でしょう。医療と教育と法曹界もありますし、産業界もありますけれども、やはり臨床がいわゆる医療がいちばんじゃないですか、きっと狙いとしては。何しろ、高卒6年ですから、医師と同じでしょう。
学歴としては歯科医師と薬剤師も一部、全部じゃないですけれども、あれでもやはり病院に行っていれば分かりますように、医者以外はみんなサーバントです。私は臨床をやっていなかったから、あまり手を出さなかったから、しょうがなくてそれじゃいってみるかぐらいでオーダーがあった場合に行って、やっていたのですけれども。面接も面談ぐらいはやりましたけれども、それでも研究職にいましたから、医局の中にいまして、みんなあっちこっちの全国の大学から研修に来ますから。私の名札なんか週に一遍か二遍しか行かないのに、名札も院長の次に私の名前がぶら下がっていたのです。15年も過ぎると、だいぶ煙たかったかもしれません。別に、いばっていたわけではないですけど。本当にもう淡々といろんな実験をやったり、調査をしたりしていましたから。


インA 話が戻っちゃうかもしれませんけれども、浴風会の病院の研究という立場は先生しかいらっしゃらなかったんですか。


長嶋 医師以外では、心理学出身の研究嘱託は私だけでした。


インA 実験心理学出身で研究をされていて、他はまあ臨床しながらの医者が何人も医局にいらしたのですね。


長嶋 そうです。そういう人たちは、いちおう身内の人もたくさんいますけれども、中心は東大の神経内科なのです。ところが、その後、老年病学科が各大学にもできて、そこからも何人か来ましたけれども、今はもう東京都の老人総合研究所(現在は地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター研究所)の附属病院のほうに行っているようです。


インA そうですね。今だとその老人の研究所のほうが、有名な気がします。


長嶋 それはそうです。私が忙しくて行けなくなって、それで終わりです。あそこではずいぶん修論とか卒業論文とかを書かせましたから。


インA 記憶とかそういった面でのデータの宝庫ですよね。


長嶋 はい。だから認知症なんかは、もう昭和41年に行きましたから、そのときからずっと私が松沢病院と共同でやっていましたから。松沢病院にいた方が東大の精神科の教授で行きましたし。東大の医学部の病院のようですし。まあ。ロボトミーがちょっと問題になってしまって大騒ぎしたけれども、70年には。


インA 何か心理の立場で医者の中に入るって、さっき先生もサーバントっておっしゃっていましたけれども、結構やりにくかったりする気がします。


長嶋 全然やりにくいところはなかったです。研究者ですから。病院臨床に手を貸したくらいですから。かつて、今でもそうですけれども、臨床医は研究費を取れなかったのです。科学研究費は研究職じゃないと。だから身分としては、研究者のほうが上らしいです。心理臨床じゃなくて、研究を主体にしていくことにされたものですから、だいぶそれは楽だったです。みんな親切にいろいろ教えてくれましたし。それにしても本当に残念に思うのは、なぜ心理学の臨床系の人たちは基礎をきちっとやっていないのだろうと思って。だから変な話ですけれども、私は頼まれてある医学系の大学にずいぶん人を紹介しました。私のところに来ますから。臨床やっている人は知りませんから。みんな私のところで卒論を書いた卒業生を送るのです。一応、行った先では臨床ですよね。しかも資格なんかいらないと精神科の主任教授は言うのです。何ができればいいですかと聞いたら、心理テストができて研究ができればそれで十分だと。みんな、そこに行って、後に教授になった卒業生が何人もいます。でもなぜちゃんとやれるかっていうと、だいたいは精神科とか小児科ですけれども、精神科ではそれは心理職ですけれども研究はできるわけです。心理学研究法にのっとって、きちっと調査とか実験ができるわけです。ほとんどデータの解析結果などを解説してあげているんじゃないかな。


インA 医学部だと、やはり医学の臨床教育が中心という印象があります。


長嶋 それは何とも言えません。そういう意味では、やはりお金にならないことをこつこつやるというのはなかなか貧乏に耐えられないと駄目です。そういう意味では浴風会で経験したことは、今になってみるとたいへん貴重です。学会が近付くと、いちおうエントリーして学会予行を医局でやらされるのです。予行演習です。そうすると、ありとあらゆるところから質問が出て立ち往生するぐらい質問を受けるのです。それなので本番はもう楽なものです。それ以上の質問は出ないのですから。それで鍛えられます。東大からも偉い先生が来て質問するのです。なかなか最初は大変だったのですが、だんだん慣れてきて、しかも本当に育てるための質問なのです。よく後になって考えると、意地悪じゃなくて気付かせてくれる質問でした。そういう経験というのは、あそこで初めてしました。だから、若い人に対してはそうしなくちゃいけないのだとよく思います。できているかどうかは、分かりませんけれども。


インB 鍛えられていきますよね、そういう経験を通して。


長嶋 それこそ善意でいろいろ言ってくれるのです。気付かされるというか、ああ、そうかとこちらが。そういう意味では立派な方々だったんじゃないかなと思って。だから、そうですね。高血圧の薬、血圧降下剤の臨床研究をやるので、ぜひグループに入ってくれなんて誘いがあっちこっちから来ます。それから心房細動の研究などをやっているので、ぜひお願いしますと誘いが来ます。でも、きちっと研究計画が立てられるということで、それで例えば循環器の心臓の専門医でもパソコンの画像だけを見ていて、患者さんの顔を見ない専門医が多いというのです。だからどうしたらきちんと患者と会話ができるか、マニュアルを作ってくれとか、いろいろ来ました。面白いです。本当に困っているんですよね。頭をぜんぜん使わずに、コンピュータで出てくる結果だけを見てやってしまう。だからそういう意味では、遠距離あるいは遠隔診断のほうがむしろ安全かもしれません。直接に顔を見なくて画像で診断します。ちょっとこれは冗談ですよ。そういう僻地なんかは非常にそれが役に立っていますけれども。それはもう東京でもよい意味で多いです。診察室に来てもらって聞かなくて済みますから。端末を用意して、こうやってほとんどただみたいに使えるシステムがあるそうです。私も今、頼まれてある小さな新しい型の地域密着型の特別養護老人ホームという29床の個室だけの施設に関係しています。


インB そこでは、どのようなことをされているのですか。


長嶋 結局、地域密着型の施設なので住まいの近くにありますので、身近な人の1日の面会というか、出入する人数が多いです。29床ですけれども、だいたい1日平均12~13組の面会があります。心身ともに相当に重症の人も入居しています。詳しい理論はまだ十分に立てられませんけれども、少なくとも、手のかかる認知症状の重い人がいると、家庭が崩壊してしまいます。そこを見越して、どんな重症の人も入居してもらうようにしています。ちゃんと街の中にあります。それにちゃんと入居の順番は相談して決めるわけです。いろいろ点数化して、社会的に有名な人の家族も入居しています。名前を出せばすぐ分かる人のお母さんなんかも入居しています。たまたまその市に住んでいるものですから、そういう方も、本当に助かっていると話しています。だからしょっちゅう見えます。もう夜でもいいですと、夜中でもいいから来てくださいと言うことにしているのです。面会やお見舞いは朝9時から夕方5時までなんてけちなこと言わずに、24時間いいです、来てくださいと。個室ですからすっと入って、夜警の人はいちおう勤務していますけれども、そこの会社が非常に面白くて「高齢社」といいます。社員は株式会社「高齢社」の社員です。そこから交代で4~5人来てもらっているんじゃないかな。たくさん稼ぎたくないわけです。年金生活ですから、あんまり稼いじゃうと年金を減らされちゃうから。社長も社員もなかなかの人物です。皆さん、それぞれ礼儀正しいですし。お金が欲しいだけじゃなくて、やはり一種の社会貢献も含めて本当によくやってくれます。


インB 先生は臨床的なことについても、ケースワークという形でされていて『季刊老人福祉』にも連載されていましたね。


長嶋 はい、今でも特別養護老人ホームのサービス提供者会議にスーパーバイザーとして11カ所くらいに行っています。これは、介護保険がらみです。介護保険が始まる2年前から厚生省の研究費で、これは全国社会福祉協議会でお金をもらってきて、介護保険をどう展開するかというケアマネジャーの養成なども含めて、いわゆるケアプランの立て方の研究をやらされていたのです。中心になっていた人は社会福祉の人ですけれども、あとは私とか精神科の医師とかリハビリテーションの専門医とかがメンバーでした。さらに5~6年前から、ある施設で介護保険ができるということは分かっていたものですから、ケアプランの作成をやっていたのです。
サービス提供者会議というのですけれども、ケアプランを立てていました。そんなことで、私は何の資格もないのですけれども、資格がなくてよければ行きますと言って。けっこう面白いです。きちっとアセスメントというか、このときにやはり医学のほうでは神経心理学的検査といいますけれども、何のことはない知能検査です。そういった高齢者にできるようなものを、どうして開発しないのかということです。改訂長谷川式簡易知能検査(HDS-R)というのは、日大心理学科の卒業生が標準化したものです(加藤伸司:東北福祉大学教授、認知症介護研究・研修仙台センター長)。HDS-RはQ & Aですが、Q & Aだけでは駄目です。やはり観察をもっときちっとできないと。やはり自然観察というか、例えば1分間でも2分間でも対象者を見ていてチェックしていくみたいな。ちょっと訓練すれば可能です。そういうことでできた検査もあるのです。大阪大学で開発したNMスケール(N式老年者用精神状態尺度)というレーティングスケールがそれです。世界的に使われているMMSE(mini mental state examination)との相関係数は.93くらいだったと思います。やはりこれから、こういうことを臨床の人たちと基礎の人たちとがもっと一緒に力を合わせて開発していくと、公認心理師もきっと発展するのではないかと思いますけれども。ただ、こつこつと何年も前にできた知能検査をやっているんじゃ話にならないです。


インA なるほど。これから作っていく。


長嶋 WAISを作った児玉省先生に頼まれて、65歳以上の高齢者にも適用可能なWAISを作ったほうがいいよというので、被験者をずいぶん紹介しました。そのときに先生に申し上げたのです。もうサブジェクト(被験者)じゃなくて、パーティシパント(研究協力者、あるいは研究参加者)だと。そういうつもりで改訂版をお願いしますと申し上げました。そんな話をしました。それから間もなく先生はお亡くなりになりましたが、先生は蔵書を全部日大に寄付してくださいました。
国際会議にも一緒に何回か参加したときには、先生は英語がご堪能でしたので、シンポジウムの座長をお願いしたことがあります。たとえば高齢者に適用できる知能テストをこれから開発するというので、第11回の国際老年学会が東京で開催されたときに頼んでシンポジウムの座長を務めていただきました。そういう意味では、本当に偶然なのですけれども。


インB 先生にお伺いしたいのは、学会との関わりというところもありまして、倫理問題の取り組みとかもされていましたが、お聞かせいただけないでしょうか。


長嶋 財務担当の常任理事や倫理委員会の委員長のときですかね。


インB 何年くらいのことですか?


長嶋 1998年です。そのころ、理事長が東洋先生の時代です。倫理委員会の委員長をだれもやらなくて、これが確か常設なのです。それで東先生から委員長をやってくれないかと依頼されたので、いいのかなと条件を付けたのです。結局、東先生にははっきり言ったんです。偉くてもう功なり名を遂げた先生は私の範疇じゃないので、若い人、これからの人を委員に選ばしてもらっていいかと。そういう人を紹介してもらって、それが許されるのであれば引き受けましょうと条件を付けさせていただきました。若い人にいっぱい集まってもらって倫理綱領を作りました。今でも使っているのかな。その後、具体的な本が出ましたけれども、アメリカ心理学会のものを参考にしたものです。あの前の段階です。あれは私が委員長のときに作ったのかな。そこに初めて注釈付きで、participantという言葉を入れたんです。


インA その頃は被験者から変わった時代ですね。


長嶋 あれは案外、皆さん知らなかったのです。だいぶ昔ですよね。


インB 98年ぐらいだったら、subjectがまだ主流でしたよね。


長嶋 そうです。だから、だいぶ偉い先生から恨まれましたけれども。


インB 恨まれたというのは。


長嶋 いやいや、若い人しか集めなくて、どうして俺たちに声を掛けないんだと。東理事長との約束で、それで引き受けたわけですから。本当に当時の名簿を見れば分かると思いますけれども、本当に皆さんよく勉強してくださって。今、振り返ってみますと、私自身がいちばん勉強をさせてもらったように思います。若い人のほうがいいです。それと、そのころ学会費値上げの問題というのは知っていますか。


インA 上がりましたね、そういえばお金。


長嶋 あれは、私が財務委員長だったときに、日本心理学会で認定心理士の資格を出したじゃないですか。あのお金を当てにしちゃ駄目だと考え、8,000円だった学会費をいろいろ計算して、思い切って11,000円に値上げしてもらいました。当時、その金額にすれば少なくとも10年はもつよという心積もりで値上げをしました。みんなからずいぶんいじめられました。でも、もう10年たったでしょう。また認定心理士会も日本心理学会のほうで運営することになったでしょう。だから良かったんだと思うのですけれども。


インA 値上げをする事務担当者が矢面に立つでしょう。


長嶋 やはりみんなから集める会費ですから。例えば、会員の方々に配る雑誌と印刷費や送料などを計算すると安いものです。というふうに、私が説明させてもらったのですけれども。会員じゃなくて買ったらいくらになるか、計算してごらんなさいとか言って。でもあれは、今でも本当に怖かった。東先生が割と楽観していて、大丈夫だよとか言っても根拠がなくて。


インB 8,000円から11,000円だと、けっこうな値上げですよね。


長嶋 当時としては高いです。3割以上ですものね。10年先まで上げなくて済むよといって。10年どころじゃないでしょう。もう20年近くたつじゃないですか。11,000円は決して高くはないのです。しかも学生割引もちゃんとやっていますし、ご夫婦で入っている場合も割引しているのでしょう。何か話があっちこっちに飛んでいますね。


インB 先生にいろいろとお話を伺いましたけれども、今、心理学界に期待することとかありますか。


長嶋 なかなか難しいとは思うんですけれども、例の『心理学ワールド』という雑誌があるでしょう。あれなんかもちゃんと編集の人たちが考えてやってくれているんですけれども、うん、どういったらいいんだろう。ううん、難しいですね。会員誌だとは思うんだけれども、いわゆるそのもうちょっと幅を広げてもいいような気もします。内容、あんまり固くなくて、特集は特集でいいんですけれども、連絡ノートみたいな形なんかが入ってくると。恐らくこれから4月以降ですか、公認心理師の第1回目の試験は。


インB はい。9月です。


長嶋 9月ですか。じゃあまだだいぶありますね。それが済むと、やはりその人たち、あまりたくさん受けられないんでしょう。講習を受けているんでしょう、これから。今やっているのかな、もう。


インB 今やっている最中です。


長嶋 うん。あれもいろいろあって、ちょっと言えないこともいっぱいあるんですけれども。本当に、あれがいい形でこう展開してその人たちの一つの何ていうのかな、公認心理師にかぎらないですけれども、そういったその枠もきちっと設けて、横の連絡、いわゆる基礎から応用までの連絡がきちっとできるような内容が、今でもやっているんでしょうけれども。やはりどうしても、基礎中心だと思っていますから。だいぶ臨床の人たちも、論文が載っていますけれども、やはり圧倒的に基礎が多いでしょう。だから、臨床の論文も書きやすくする。あるいは場合によっては、2つに分けてもいいですし。


インB 2つというのは。


長嶋 『心理学研究』を基礎系と応用系とに分けます。いや、例えばです。多分、分けなくてもいいよという人が多いと思いますけれども。実は私、先ほど老年学会と言いましたけれども、日本老年社会科学という領域があって、社会学とか社会福祉が中心になるのですが、1959年にできた学会です。日本老年学会がその前の年にできて、日本老年医学会と一緒にできたのです。今、7学会が入っているんですけれどもね。そこで、日本老年社会科学という学会ですけれども、そこで学会誌を出したときに、やはり投稿を募るために審査の仕方、それからどういう形で審査が進むかということ、それをきちっと編集委員長の立場で書いて出しました。ずいぶん投稿が増えたんです、一時。ただやはり学際的な学会、総合科学ですから、学際的な集まりですから、通りやすい論文とそうでない論文とがどうもあるらしくて、なかなか難しいんです。で、心理学関係の人が入っている割合は、恐らく全体の13%くらいか14%くらいです。いちばん多いのはやはり社会福祉ですよね。半分くらいは社会福祉です。だから、なかなかその基準が難しい。日本心理学会もそうでしょう。基礎系から応用系まで非常に幅が広いので。やはり書きやすいものとそうでないものがあるので。そういった配慮もしておかないと、応用系の人が大学院を修了するとすぐ辞めちゃう(退会する)みたいな傾向があるんじゃないですか。会員の人数がさっぱり増えませんでしょう。
それは、やはり入っていっても論文の投稿ができないからですよね。これからどうなるかよく分かりませんけれどもね。やはりこういう心理職の国家資格がいちおう動き出して、その人たちが心理学会の中で活躍してもらえるような下地をちゃんと用意しておく必要があるんじゃないでしょうか。


インB 公認心理師の資格ができたので、基礎と臨床とが今よりも少しはつながりそうな感じはしますよね。


長嶋 やはりアメリカ心理学会が発展したのは、幅広くみんなが活躍できるようにしたからです。APAからも“Psychology and Aging"という雑誌が出ました。あれはすごかったです。
先ほどちょっと言いましたように、ジェロサイコロジーなんていう言葉を初めて使ったのは1975年ですか。確か“Annual Review of Psychology”で初めて使った言葉だったのではないでしょうか。なかなか言葉としては定着するのが難しいです。ですから、今ちょっと老年の研究は下火らしいです。老年期だけ独立しているはずはなくて、やはりずっとそのシャーロット・ビューラーなんかの発達の研究で、産まれてからずっと老年期まで、そういった研究方法の大切さをもう一度考え直しましょうという話が出ているらしいです。G. A. ビューラーも有名ですけれども、奥さんのほうが最近は有名になっちゃっています。心理学の課題としての人間の生涯みたいな研究です。スタンレー・ホールの『老年期』という著書なんかも、また再評価されているみたいですね。いずれにしても、これからの話なので、まだ間に合うのです。やはり、パースペクティブに将来を見越して、どういう方向に引っ張るかじゃなくて、どういう方向に若い人たちはいくんだろうということ。どっちへ行ってもいいわけです。それがその選択的に進む方向が、勇気を持って進めるような道を用意しておいたほうがいいと思います。


インB ちょうど時間になりました。今日は貴重なお話をたくさん聞かせていただきましてありがとうございました。


長嶋 こちらこそありがとうございました。

インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学),小泉晋一(共栄大学)
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