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宮田 洋先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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    宮田 洋先生

宮田 洋先生の略歴

・関西学院大学・条件づけ・パヴロフ・フラストレーション・バイオフィードバック
・1958年関西学院大学博士課程修了。1964年ネンツキー実験生物学研究所で在外研修。1998年関西学院大学定年退職。博士論文『條件反射における個人差の研究』
・学生の頃の今田恵先生との思い出や、動物実験の様子や工夫、宿舎や通信手段などのインフラが十分でなかったころの学会大会運営での苦労などから、今とは外形的には少し違う心理学が見えてきました。

日時:2015年3月2日(月)
場所:関西学院大学
インタビュアー(以下、「イン」と略)A 本日はお忙しい中、ありがとうございます。今日は日本心理学会教育研究部会の歴史小委員会のインタビューと言うことで順にお話しを伺っていきます。最初は、心理学を学ぶに至る経緯についてです。先生は、今ほど心理学が有名ではなかった時期から心理学に取り組んでいらっしゃったと思うのですけれども、なぜ先生は心理学を学んだのかというお話までを頂ければと思います。

宮田 はい。私が心理学を学ぼう、心理学を専攻しようと決心した背景には、私自身の個人的な生い立ちの要因が大きくあります。私は1929年に今の大阪府堺市の浜寺公園で生まれ、父は産婦人科の2代目の開業医でした。母方の祖父も2代目の医者で、大阪大学医学部の教員をしていました。そして、親せきにも医者が多く、いわゆる医学的な家系の中に生まれたことになります。
私の家には診察室、手術室、薬局があり、入院部屋が四つありました。その隅で私たち家族が生活していたわけです。したがって、小さいときから、病院の中で大きくなってきたような感じがします。
 例えば、父は産婦人科でありましたから手術があります。その頃は、堺市近辺で手術室を持っている開業医は私の父、私のところだけだったのです。手術があるときには私は、コッホの釜という大きな消毒釜の中に、手術に使う脱脂綿、ガーゼを入れて、ガスで釜を焚いて水蒸気で蒸して消毒します。これをするのが私の役割でした。消毒ができると、釜の上についている笛がピーッと音を出すので、じっとそれを待っていました。看護師さんは2人いましたが、手術が始まると私の母親も看護師さんも、全員手術室に入るので、私は診察室の薬局受付に座って留守番をしていました。このように、私は小さいときから、いわゆる医者の家でずっと大きくなってきた人間です。
 だから、私も、もちろん医学部を受けようと思ったわけですね。その頃、医学部に行くには旧制の中学校から旧制の高等学校の理系の乙を受けて、それから大学の医学部に進むわけです。私もその理乙を受けたのですが、試験に落ちて2年浪人しました。
 そうしますと、中学校の英語の先生が、「宮田君はもう2年頑張って、両親に医者になろうという義理を尽くしました。あなたが一番強いのは何かというと英語だから、これから海外との貿易が盛んになるので、あなたひとつ経済学を勉強して、その英語を使って海外で仕事をしてみたらどうですか。そのためには、英語を非常に重視して教育している関西学院大学(以降、関学と略します)の経済学部を受けてみたらどうでしょうか」と忠告されました。私はそれでは関学を受けようと決心し、合格しました。
 ところが、入学して経済学の講義、たとえば簿記や会計、銀行論、景気変動論といったものを聴いたのですが、私は医者の家で育った人間ですから全然分かりませんでした。例えば、「棚卸し」といえば何を棚から下ろすのか、「倉敷料」とは何のことやら、さっぱり理解できません。そして、困ったなと思い3年生になるときに、私は関学をやめて、やはり医学部に行き直そうと思いだしました。
私が関学に入るときの保証人が、当時大阪大学医学部の部長で生化学の教授であり、後に和歌山医科大学の初代学長になられた古武弥四郎教授でした。この古武先生は、私の母方の祖父が大阪大学医学部にいるときの親友だったので、保証人になっていただいたのです。その弥四郎先生に、「また、医学部に行き直したいと思うので、どうでしょうか」と言いましたら、先生はじっとお考えになって、「宮田君、わしの息子の古武弥正というのが、あなたの大学の文学部心理学科で条件反射を中心にして面白い研究をやっているから、一度訪ねてみたらどうか」とおっしゃいました。
 そこで、2年生の最後の頃、12月ぐらいに、文学部心理学の研究室を訪れました。そして、実験室に入って驚いたのが、クレゾールのにおいがプーンとするわけです。私は医者の家の出で、小さいときからクレゾールのにおいの中で生きていたので、よく知ったにおいです。なぜこんなにおいがするのかおかしいなと思ったら、当時の講師であった新浜邦夫先生がシロネズミの皮質切除の手術をされていました。おそらく、迷路学習でもさせて、その学習が皮質のどこでコントロールされているかを検討するために、皮質の切除をしてその効果を調べる実験をなさっていたのだと思います。
 それで、本当に文学部の心理学の研究室でこのようなことをするのかと驚いて、隣の実験室に行けば、今度はそこでは瞳孔反射の測定、皮膚電気反射の測定、瞬きの測定がありました。そして、多河慶一先生が脳波計を自分でお作りになっていましたし、古武弥正先生は唾液の条件反射の研究をされていました。私は、唾液の条件反射の実験室の中を見ていてとても驚きました。といいますのは、まさに医学部の脳神経生理学の研究室の雰囲気と同じでした。ボーっとしていたら飼育ケージの中にいるシロネズミが、これは冗談ですが、実際そうです。私の方を向いて、おいで、おいで、の手招きをするのです。「こちらへ来なさい、来なさい」と言っているのではないかと思って、そのときに経済学部から心理学科に編入しようと決心しました。編入試験を受けるために、当時、心理学研究室の長老であった今田恵先生がお書きになった岩波から出ている「心理学」を一生懸命読みました。このようにして1951年に経済学部から文学部の心理学科に3年生として転部編入したわけです。それから心理学の勉強を始めることになりました。
だから、大きな理由は、医学部への進学が挫折してどうしようかなと思っているときに、心理学研究室の条件反射の研究、あるいはシロネズミの実験に出合い、そして、「ああ、これは面白い」と思ったことが大きなきっかけです。だから、医者になり損なったために心理学の勉強ができたといえると思います。そして、弥四郎先生のご三男の古武弥正先生が、私の恩師になるわけです。

インA なるほど。巡り合わせて心理学に出会われたわけですね。ありがとうございました。
 では、引き続きまして、すでにお名前が何人か出ていらっしゃいましたけれども、その当時の関学の先生方の印象や、学んだこと、授業の様子など、印象に残っていることがありましたら教えていただけますか。

宮田 はい。それでは、主に学部でどのような講義を、どの先生から私は受けたかを中心にお話ししていきたいと思います。
 まず、3年生に編入しましたから、3年、4年の2年間の間に、専門科目の講義を聴いて勉強し、また同時に実験実習も受けなければならなくて大変でした。まず、心理学史、これは非常に難しかったです。いわゆるP. W. Bridgmanの操作主義に関する講義、それから、今度は、 E. Brunswickの"The conceptual framework of psychology"をテキストとして、今田恵先生から、心理学の研究対象が変わるにつれて研究方法がどのように変わっていったかという講義をしていただきました。これは非常にいい勉強になりました。
 心理学概論では、古武弥正先生が、言うまでもなく、条件づけと学習による行動変容、それに関する理論の講義がありました。いわゆるJ. B. Watson、E. L. Thorndike、C. L. Hull、B. F. Skinner、O. H. Mowrerと、アメリカで活躍したBehavioristの紹介が続きました。
 そして、実験心理学、実験実習では、関学の心理学研究室は調査研究よりも実験が中心だということを非常にたたき込まれました。講師の新浜邦夫先生から実験実習を受けました。当時の1時間目は、他の大学では9時からのところ、関学は8時半から始まりました。その1時間目と2時間目に実験実習があって、8時半のベルと同時に教室の鍵がかかってしまうのです。3回遅刻したら出席簿から名前が削られます。ということは留年になるわけです。
 その背景には古武先生が、「10時に実験するということは毎日10時、1分でも前後したらいけません。10時は10時」というように時間厳守ということをおっしゃいました。そのようなところから、まず8時半前から実験室に入り込んで、この実験実習を受け、その報告書を提出しました。1回、2回と書き直しばかりです。私は報告書を英語で書いて出したら、書き直しなしに1回で受け取っていただきました。
 少し脱線になりますが、私自身が助手になりこの実験実習を持ったときに、学生に自慢たらしく、「私は学生のときに実験実習の報告書は英語で書いた」と言いますと、1人の学生が少しニヤっとして、次の週に持って来た報告書はドイツ語でした。だから、実験実習でいろいろなことを学び、そして、同級生とも仲良くなった懐かしい講義・実習でした。
 さて、私が学生時代に受けた授業にもどります、次は性格心理学です。この授業では、今田先生がG. Allportの"The nature of personality"をお使いになり、性格理論の説明をされました。
 それから、外書講読は実験論文、例えばJournal of Experimental Psychologyに載っている実験論文を読む練習がありました。石原岩太郎先生に、主に記憶と言語学習に関する実験論文をどのように読んでいくかという、いわゆる外国実験論文の読み方を、ここで仕込んでいただきました。
 そして、4年のときに、古武先生のゼミを取りました。卒論はすべて実験でありましたから、卒業実験のテーマの紹介、なぜそれを選んだか、その背景にどのような理由があるのか、それに関する文献、そして方法、手続きを紹介しました。そして、実験結果が出たら結果をそこで紹介していきます。そのような卒業実験を中心にしたゼミでありました。
 そして、その当時は、電子コピー機というようなものはなかったわけですから、ゼミ発表の資料はガリ版刷りでした。謄写版で刷って、そして配りました。大学院の頃になって、いわゆる湿式コピー、つまり乾燥ではなくてコピー溶液の中を通して出て来るコピー機が研究室に入りました。その機械でコピーすると、出来上がったら湿って濡れているのです。そのような湿った資料を古武先生にお配りすると、「これは今さっきコピーをしたものですか、そのような発表を私は聞く気はしません」とおっしゃいます。つまり、そのゼミの前日までに準備してコピーした乾いたものでないといけませんでした。このようなところで、研究の段取りをいかにしていくかということをよく訓練されました。
 以上は、関学の文学部心理学科の専任教員の講義でありましたが、それ以外に非常勤講師としてお見えになったのが、まず応用心理学では、神戸大学から増田幸一先生、それから、社会心理学では京大から、その頃はまだお若く、助手か講師ぐらいであった末永俊郎先生がお見えになりました。精神医学あるいは大学院の臨床心理学特講は大阪大学医学部精神科の堀見太郎先生が直々お見えになりました。特に精神医学では、週1度の講義の他に、近くの池田市の石橋に大阪大学医学部の分院があり、そこに行きました。朝の8時半からの医局のカンファレンスに出席し、9時からの堀見先生の診察を、先生の後ろに白衣を着て、12時まで立ったまま、ずっと見せていただきました。その際、先生の後ろには、私たち以外に医局の若い方々も並んで、先生が診察なさるのを見学することができました。今はそのようなことは許されないと思うのですが、これが非常にいい勉強になりました。
 そのあとに、堀見先生は当時行われていた集団療法、つまりクライエントがグループで、お互いに自分の悩み・症状を言い合ってディスカッションするのですが、そのディスカッションの中に私たちも入って、そこで、その集団療法の経験をすることができました。
 次に、生理学は同じく大阪大学の生理学教室から吉井直三郎先生がお見えになりました。先生は心理学の、特に条件づけの問題に対しても詳しく、ご自分もそのような研究をなさっておられました。先生が私たちの目の前でカエルの解剖をして、内臓のいろいろな機能がいかに働いているかというデモンストレーションをしていただきました。
余談ですが、ある日、吉井先生が持って来られたケージに入っているカエルが蓋を開けると同時に逃げ出して、授業を聴いていた学生数十人で教室の中をそのカエルを追い掛けて捕えるのが大変でした。また私たちの研究室でシロネズミも飼っていましたら、シロネズミが飼育ケージから逃げ出して、文学部の事務室に入り込んで、女性の事務員の方の机の中に巣を作ったりして、そのネズミを捕まえるのにも、いろいろ苦労した記憶があります。
 次に心理統計でありますが、心理統計で私たちが非常に幸運だったのは、あの岩原信九郎先生に、アメリカからお帰りになって奈良女子大学の講師に就任された年から関学で、心理統計の講義をしていただいたことです。したがって、信九郎先生の講義を初めて聴いたのは奈良女子大学の学生ですが、その学生以外では、関学の私たちが最初だったと思います。岩原先生は動物実験、ネズミの実験もお好きだったものですから、よく私たちの研究室にお見えになりました。
 次に、発達心理学は神戸大学の岡本重雄先生、実験心理学は東京都立大の和田陽平先生、知覚心理学は名古屋大学の横瀬善正先生に講義していただきました。横瀬善正先生からは、知覚の場理論の実験を暗室の中で実際に実験装置を作りながら教えていただきました。
 このような講義を受ける以外に、学部生のときから将来大学院に行きたい学生は、当時の実験室に入って雑用のお手伝いをすることができました。その代わり、そこに自分の机を置いていただけました。私はどうしようかなと思っていましたら、古武先生が、「宮田君、お前は医者になろうとしていた。そしたら、動物実験をやりなさい。臨床心理学の基礎になるような動物の異常行動に関する実験をしてみたらどうですか。これを読んでみなさい」と言われて、当時、McGraw-Hillから出たN. R. F. Maierの『Frustration』と題する1冊の本をくださいました。その中のいわゆる異常固執反応、abnormal fixationの実験をまずやってみろとおっしゃいまして、そこで新浜先生が指導されている動物実験室に入りました。
 そして、そこでやったことは、当時150匹ぐらいいたシロネズミの世話です。糞掃除と餌やりです。当時は、今のような固形飼料は売っていなかったので、精米するときに砕けた、売り物にならない砕米を、兵庫県庁の許可をもらって、お米屋さんから売ってもらって、それを炊きました。そして今度は八百屋さんで野菜のくずをもらい、それを混ぜ、餌箱に一つずつ入れてネズミにやりました。150匹です。これは私の記憶では2時間から3時間かかりました。
動物実験室に入って間もなく、新浜先生がサルの実験をなさいました。私はサルの面倒も見ることになりました。サルはオーストラリアから来たサルで寒がりでした。冬の間は、毎日夕方に湯たんぽを入れるためにわざわざ研究室までやって来ました。本当に365日、休みなしに動物実験室に入り込んで動物の世話をしました。
 その一方で、古武先生が私に与えられたfrustrationによる異常固執反応の実験をしました。K. S. Lashleyの弁別跳躍装置を用いて、白丸カード、黒丸カードの弁別学習をします。この学習ができてから、その弁別の手掛かりを急になくしてしまいます。例えば黒丸に跳んでも駄目、白丸でも駄目なときがあります。このように手掛かりがなくなるということは、いわゆる目標を得る手掛かりがない事態です。ネズミはカードに向って跳ぶのを嫌がると、後ろから圧搾空気で跳躍を強制するわけです。これは、ネガティブな場面に対して無理やりに強制されて反応しないといけないという、Maierの定義したfrustration状況になります。そこでどのような反応が起こるかといいますと、非常に面白いことに、例えば右のカードに跳び出したら、もう最後まで右ばかり跳ぶわけです。今、仮に左側のカードの奥に餌を見せておくと、ネズミはその方をじっと見て跳ぼうとするけれども、跳ぶと右に行ってしまうというように、右に跳ぶ反応が固執してしまいます。それを修正するのが非常に難しいのです。いわゆる、餌が見えている方に跳ぶように手でもって誘導しても難しいのです。そのときに、その動物の体をなぜて、温かい手で温めながらそっと正しい餌のある方に跳ぶように仕向けます。それをMaierは、ガイダンスと呼んだわけです。 そのような、いわゆる訓練をしてやると、その餌のある方に跳べるようになってくるわけですが、このような実験をやりました。
 そこで新浜先生、古武先生から、いかに動物の行動を考えていったらいいかということを教えていただきました。そして、その頃、新浜先生の研究室では、輪読会でHullの『Principles of behavior』、E. R. Hilgard and D. G. Marquisの『Conditioning and learning』を読み、経済学部から入って来た私は、このような専門書を読む手ほどきを受けました、新浜先生から一語、一語の意味を教えていただいて、そして、条件づけに関する知識を獲得しました。本当に大変でした。
 このHilgard and Marquisの『Conditioning and learning』ですが、これは1940年に出版されています。しかしながら、1946年にHilgardが、お友達でした古武先生にこの本を送って来られました。おそらく日本にあった唯一の本だったと思います。
 このように、学部から大学院にかけての4年間は、動物のところで新浜先生の指導を受けたのですが、後期課程に入るときに、古武先生が、「お前は今日からわたしの実験室でヒトの条件反射、唾液の条件反射の実験を手伝ってくれ。できたら、お前がそれを引き継いでくれたらいい」と言われ、古武先生のヒトの唾液条件反射の実験室に移ったわけです。
そこで、実験をするとき、学生の実験参加者の口を開けて、私が口の中に手を入れて、口腔内の耳下腺の開口部に、唾液を測定する器具を付けました。すると、実験に参加していた学生がじろっと私の顔を見て、「宮田さんは昨日までネズミの糞掃除をやっていた、その手で、今度は私の口の中ですか」というのです。確かにそうです。
 そのように最初の間は少し嫌われたのですが、動物から今度はヒトの実験に移り、そして、そこで嘱託助手の多河先生から、生理指標をいかに記録していくかということを教わりました。

インA はい。ありがとうございます。
 では、そのfrustrationが卒業論文のテーマですか。

宮田 卒業論文のテーマは、「シロネズミの異常固執反応について」です。

インA ありがとうございます。
 それで博士課程の前期課程も終わられて、すぐに助手になられたのですね。

宮田 はい。後期課程に入ると同時に、専任助手になりました。古武先生は、お父様の古武弥四郎先生が医学部生化学の研究室をどのように動かすかということを小さいときから見ておられました。そこで医学部と同じようになさったのでしょうね。助手というものは研究室の番頭だと思え、掃除からやってくれとそうおっしゃいました。したがって、私は毎日8時頃に研究室に入り、まず研究室を掃除しました。労務のおじさんに掃除してもらったらいけませんと注意されましたので、私自身が掃除し、研究室の前に水をまきました。1時間目に今田先生の講義があるときには、当時は暖房などは教室になかったので小さな火鉢を用意しました。火鉢用の炭火を作るために七輪で炭をおこし、それを火鉢に入れて今田先生の机の下に火鉢を置きました。今田先生は、「宮田君、ありがとう、温いね」とよくおっしゃいました。
 そのようにして専任助手になったときは、古武先生、今田先生のかばん持ちから、今田先生や古武先生が、「今日はこのような弁当を食べたい」と言われたら、それを食堂で買い、お盆にのせて布巾を掛けて、個人研究室までもってきました。本当に仕えるわけです。これはいい訓練で、ものすごくいい勉強になりました。
 特に今田先生の講義では、講義録を取るために、先生を個研までお迎えに行って、先生のかばんを持ち、そして教室まで入り、一番前で先生の講義を全部筆記しました。黒板をお使いになったら、その黒板にお書きになった文字をそっと行って消し、いつも黒板を自由に使えるようにしました。時には、今田先生が、「その言葉は後でまた触れるから、残しておいてください」とおっしゃいました。どの言葉を消して、どの言葉をとっておくかを考えることは、非常にいい勉強になりましたね。
 そのような助手を4年して、講師になったわけです。私自身、どうして心理学を学んだかといいますと、一番生きた経験は実験室の中に入って、そこで実際に実験の手伝いする、あるいは実験をさせてもらうなかで、本に書かれていた一つの現象を目の前で見ていくわけです。戦前すでに東大で梅岡義貴先生がお作りになっているのですが、新浜先生が関学でスキナーボックスを戦後初めて日本でお作りになったそのスキナーボックスがあったわけです。北大から、九大から、先生方が大学院生とともに、「スキナー箱というものを見せてください」と、いってよくお見えになりました。そのスキナーボックスも、バーを押したときに与える餌の錠剤も全部手作りで、錠剤機を製薬会社から寄付してもらって、その錠剤機で、メリケン粉とハッタイ粉などを混ぜて私が錠剤を作ったことも懐かしい思い出です。

インA ありがとうございます。

インB すみません。先生が卒論を書いて学部に在学していた頃は、心理学の学生は何人ぐらいいましたか。

宮田 学生は私のクラスで15人だったと思います。15人のうち、5人が女子です。そして面白いのは、年齢の幅が、20歳ぐらいあったのではないでしょうか。といいますのは、軍隊帰りの人、予科練帰りの人、あるいは他の大学を卒業してから関学の心理の3年に来た方などがいました、だから、年齢幅が非常にあったのです。

インA 先生以外の方というのは、それぞれ大学を出られたら就職される方が多かったのですか。

宮田 ええ。そのうち大学関係に就職したのが5人ぐらいおります。あと、研究所や教育センターなどに就職してました。

インA なるほど、心理学関係が多いのですね。ありがとうございました。あと、ラットの餌にも歴史があるわけですね。最初の、ご飯を炊いて手作りの時期から、錠剤機でメリケン粉を固める時代に・・と。

宮田 固形食が販売されるようになったのは、随分後からです。スキナーボックスでポンと押したらコロコロッと落ちてくる錠剤は、本当に製薬会社から寄付してもらった錠剤機で作って、それを板の上に並べて、陽のあたるところで干すわけです。そしたら、スズメが食べに来るので、その前に座ってそれの番をしているわけです。周りの学生が、「宮田、お前、研究している、研究していると言って何をしている?」と笑いながら尋ねてきました。
 それから、サルも大変でした。その頃、京大にサルが1匹いたのです。私のところにいるサルは、古武先生が、「買って来い」と言われるから、動物園で聞いたら、「今は売っていません」といわれました。どうしようかなと思ったら、学生が、「神戸のセンター街の散髪屋さんの前にサルがつながれてるよ」と言うのです。昔、散髪屋さんの店の前には、客寄せのためにオウムやサルなどを置いていました。そこにサルがいると言うから行って、分けてもらうよう頼みました。すると「分けてもいいです」との返事でした。「このサルはどうしたのですか」と聞きましたら、「実はこれはオーストラリアからの船が着いたときの船員が、船の中で飼っていたサルを持ち出した密輸のサルです」とのことでした。それは幾らだったか忘れましたが、古武先生の科学研究費で買って、阪急電車に乗せて連れて来たのです。
 スキナーボックスではネズミがレバーを押したら餌が出るでしょう?サルの場合は、たとえば1キロの力でT字型のバーをサルが引っ張れば餌を与えるようにします。その餌をやるのは装置の後ろに私がいて、そこについているスケールを見て、サルがグーッと引っ張って力の強さが正しかったら、ジャガイモを切ったものを報酬としてコロ、コロ、コロと管を通して落して与えるわけです。
 だから、実験装置は全部手作りです。装置作りが一番楽しかったです。当時の実験の機械は竹井機器、島津製作所が作っていましたが、関学の研究室には近寄りませんでした。みんな非常に器用に実験装置を作っていましたから。

宮田 脳波はね、実際に物指しで波の高さ、振幅を計っていったのです。1発ずつ、1発ずつです。その高さをミリ単位で一人が口で言って、もう一人がそれを筆記していきます。それから、10ずつタイガー計算器にかけて平均を出すのです。これは人海作戦です。


インA ありがとうございました。では、これまで多くのご研究をされてきましたが、その経緯などについてご教示いただけますでしょうか?

宮田 はい。分かりました。
 私自身の約45年にわたる研究ですが、大きく分けると、まず動物を用いた研究とヒトを対象にした研究の二つに分けることができます。
 動物実験の方ですが、これは先ほど申しましたように、まず、シロネズミの、欲求不満に基づく固執反応の研究、それから、大学院では有害刺激が与えられるような嫌悪事態で発生する恐怖、あるいは間もなく電撃が与えられるのではなかろうかという不安に基づく逃避・回避反応の研究です。後者は、そのような事態で、電撃が与えられる信号として丸い円を見せたのです。丸い円を提示しておいて、床から電撃を与えます。その電撃から逃げると逃避反応、電撃が与えられる前に隣の部屋に逃げ込むと回避反応になるわけです。そのような事態で、その有害刺激の信号である円の刺激般化を調べました。これは、いわゆる信号刺激の般化勾配を調べるもので、少しでも円に似ているようなものが出たら、ネズミはすぐ逃げたり回避したりします。これは、分かりやすく言うと、「君子危うきに近寄らず」で、有害刺激が与えられる信号に少しでも似ているような、類似したものが提示されたら、逃避・回避反応がもろに起こります。このように般化の勾配が非常に緩いということは、刺激般化の幅が広いのではなかろうかという仮説で実験をして、これを「心理学研究」に投稿しました。審査は小保内虎夫先生で、その審査に合格して掲載されたのが、私の最初の「心理学研究」の研究論文でした。

インA 「逃避および回避反応に於ける刺戟汎化」という論文ですね。

宮田 このように異常反応、あるいは不安事態に起こる反応は、その生体の情動性が大きく関係するだろうということで、その次に、私はシロネズミのemotionality、つまり動物の情動性について研究しました。シロネズミを観察していますと、電気刺激が与えられるブザーが鳴ったりすると、目がぐーっと飛び出てくる。これは、眼底血圧が上がっているのです。それから、失禁したり、糞をするネズミもいます。そのような情動性に着目し、ネズミの情動性が高いか低いかを調べるために、オープンフィールド、例えば2m×2mぐらいの正方形の広い広場の箱を作って、その中にネズミを置くと、隅の方でじっとしているネズミもいるかと思うと、うろうろとあちらこちら歩くネズミもいます。また、ネズミは、まず、そこでおしっこをあちらこちらでする、それから糞をする、その糞の数、それから排尿を何回したか、2m×2mの正方形の箱に線を引っ張っておいて、どのぐらい歩いて移動したかという移動量を測ります。今度は高架走路、高さ1m50㎝ぐらいのところに幅3センチぐらいの棒を2mほど付けて、そのこちら側にネズミを置いて、向こうの端に餌を置きますと、割合シューッと速く餌のところまで行くネズミと、怖がって糞をし、そして排尿してなかなか前に進めないネズミがいます。そのような反応の違いからネズミの情動性の高低を調べ、情動性の高いシロネズミがどのぐらい異常的な行動を起こすかについて、聴源発作を使って調べました。ヒトの場合でも、すりガラスを爪でこすってキキーッという音がすると、身ぶるいが起こるように、ネズミも非常に周波数の高い音を聞かせると発作が起こります。これはaudiogenic seizure、日本語では聴覚に原因、つまり源を持っている発作ということで聴源発作と呼ばれています。そのような聴源発作のかかりやすさとemotionalityの高低との関係を調べました。
その研究は教育大で日本心理学会があったときに発表いたしました。思い出すのは、生理部門で発表したのですが、生理の部門以外の会場は、いわゆる掲示用紙に墨汁で目的、方法、結果などを書いて、その掲示用紙をT字型のフレームに付けて、学生がこうして持ってみんなに見せるというものでした。生理部門だけはみんなスライドを使って発表できました。「スライドとはかっこいいですね、スライドですか」と言われました。しかし、発表の部屋は、暗室にしたものですから、中は蒸し風呂のようになって暑かった記憶があります。
 以上は、シロネズミが主な対象の実験です。だから、シロネズミで、欲求不満に基づく固執反応、それから恐怖不安に基づく逃避・回避反応、事態における刺激般化、それから、情動性と異常行動の誘発の関係について研究をしました。
 その次に、これは私が講師から助教授になる頃なのですが、イヌの実験をする機会を持ちました。といいますのは、古武先生が、日本の条件反射、古典的条件づけはみんなPavlovian、Pavlov流の考え方だ。「ポーランドにJ. Konorskiといって、ワルシャワですごい実験室を持っている生理学者がいる。このKonorskiはI. P. Pavlovのところで研究をして、Pavlovと意見が合わないので、喧嘩して別れて、そして、ワルシャワで研究している。宮田君、一度、Pavlovの研究を批判したKonorskiのところに行って勉強してこい」と言われました。そしてポーランドに2年留学したわけです。当時、社会主義のポーランドに入るということは非常に難しかったのですが、ユネスコの中にIBROと略される、International Brain Research Organization(国際脳研究機構)があり、その機構に交換留学の制度がありました。私がポーランドに行けば、ポーランドから1人日本に来て研究できるという制度です。これを用いて、ポーランドに行こうとしたら、うまく事が進んで、Konorskiも、「どうぞワルシャワに来てください」ということで、Konorskiのところに行くことができました。
 Konorski自身は生理学者です。ワルシャワにNencki実験生物学研究所があり、その中の神経生理学の教室を指導されていました。1924年頃に、2年間Pavlovのところに行って条件反射を研究しています。Konorskiが生まれたのが1903年、亡くなったのが1973年ですから、1924年といえば、21歳です。だから、Konorskiは医学部を出て間もなくしてから、Pavlovの研究所に行っているわけです。
 そして、Konorskiが医学部に行っているときから研究したのは、イヌの運動反応の条件づけです。例えばイヌの前にこのようなペダルを置いて、イヌがペダルをガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャと5回押えると餌で強化します。餌をもらうためにはイヌはペダルを5回押さないといけない。これはオペラント条件づけ、道具的条件づけと言われているものです。そのような研究と、いわゆる自律系の唾液条件反射の研究などを組み合わせて脳の働きを研究しようとKonorskiは考えてPavlovのところへ行ったのです。
 しかし、Pavlovはご存じのように唾液の分泌、唾液の条件反射から脳の働きを考え、運動系は大嫌いだったのです。Konorskiはそこで、「それは間違っている。われわれ生体は動くのだ。だから、運動系の条件反応と自律神経系の条件反射の両方を統合して、そこから脳の働きを考えるべきだ」とPavlovに主張しました。Pavlovとの議論の結果、Konorskiの考えは批判されました。Pavlovからみると、運動系の反応はどうしても擬人的な解釈が入ります。イヌが喜んでいるから尾を振っているとか、悲しそうに体を動かしているとか、だから、Pavlovの考えは、運動系をデータとしては用いるな、データとしては自律反応である耳下腺、唾液分泌だけでものを言おうということでした。
 そこで、Konorskiは失望して、ワルシャワに帰り、実験生物学研究所の中に立派な脳神経生理学の研究室を設けました。私はそこに2年間行きまして、私自身、いわゆるイヌの耳下腺瘻、唾液瘻の手術、それから、小胃法を作る胃の手術から全部そこで学び、そして、Konorskiが考えている運動系の条件づけと組み合わせて2年間研究をしました。これはいい経験でした。
 この研究所内では英語が通じたのですが、いったん外に出るとポーランド語ですし、その実験を手伝ってくれる実験助手は主にポーランド語しかしゃべりませんでした。そこで、苦労しながらも2年いろいろ研究して、そして、海外の雑誌にそこでした実験を二つ投稿して発表いたしました。
 どのような実験をしたかといいますと、まず1匹のイヌに、ブザーを鳴らして餌を与え、古典的条件づけを行ないます。これを繰り返していますと、ブザーが鳴っただけで唾液が出ます。この際、多くのイヌは実験台の上に乗るとブザーをじっと見て、ブザーが鳴るのを待っているわけです。面白いですよ。ブザーを鳴らすのを遅らせると、ウーッと吠えます。このようなことはPavlovの実験には書いていません。でも、実際やってみると、ブザーをじっと見ていて、ブザーが鳴る時間に近づくと、尾をチュッ、チュッと振ってみたりしますし、それでも鳴らなかったらウーッと吠えるイヌもいます。
 このような訓練をしておいて、今度は目の前に、ペダルを置いて、イヌの脚を持ってペダルを押すと、ブーッとブザーが鳴って餌が出るようにします。そうすると、イヌは、これを押したらブザーがなり、餌が食べられるので、そこへ来たらすぐにレバーを押します。これは、ブザーを引き出すための手段、道具になっているわけですから、道具的条件づけです。そしてバー押し反応をしたらブザーが鳴って唾液が出ます。ここは古典的条件づけになります。
 そうすると、今度はメトロノームが鳴ったときに限って、バーを押したらブザーが鳴って餌が出るようにします。メトロノームは、働け、バーを押せ信号になっているわけです。メトロノームがバー押し反応を引き出す道具的条件刺激になっています。ペダルを押すと、今度は古典的条件づけの餌の信号であるブザーが鳴って餌が出ます。
 私の実験では、メトロノームが鳴るとバーを12回押させるのです。12回押すとブザーがなり8秒たって餌が出てくるわけです。そのように1匹のイヌで前半に道具的条件づけを行い、その道具的条件づけで古典的条件刺激を引き出すわけです。すると、古典的条件刺激が鳴ると唾液が出て、ここで古典的条件反射が起こります。
 だから、1匹のイヌに、前半は道具的条件づけ、後半にいわゆる古典的条件づけが、Konorskiの表現では、end to endに結び付いているわけです。
 そのようなイヌに飢餓動因を強めてみたり、あるいは実験する前にもう食べないところまで食べさせて、満腹の状態にしておいて実験をしてみます。いろいろな操作を加えてイヌの生理反応、心拍、唾液、それから深部脳波で海馬θ波を記録するわけです。そのような実験をずっと2年やって、そして帰国しました。
 しかし、そのイヌの実験をしているときに、非常に驚いたことは、日本の心理学の教科書には、必ず古典的条件づけで、Pavlovの条件反射の挿絵があり、その下に例えば、「ブザーを鳴らして餌を与える。これを繰り返していると、ブザーが鳴ると餌をやらなくても唾液が出る。これが条件反射です。そして、ブザーが鳴って餌をやらなかったら、その条件反射は消えていく。これを消去という」と5行ぐらいで書かれています。
これはもう全国の心理学の先生はそのように講義をなさっているのです。私は実際にやってみると、唾液は出ますけれども、まず以下のような運動が生じます。あるイヌは、じっとしていてブザーが鳴ったらワンワン、ウー、と前肢を交互にこまかく動かします。あるイヌはブザーが鳴ったら餌の出るところまで口を近づけて餌の出るのを待ってます。条件刺激であるブザーに対してこのような運動反応が起こるわけです。これについてはテキストには一切書かれていません。
 それから、消去に入ると、ウー、ウーと怒るイヌがいます。なぜブザーが鳴っているのに餌はないのかと吠えるイヌもいますが、うなだれてじっとしているイヌもいます。うなだれるイヌは、あくびをして寝てしまいますね。これでPavlovは睡眠研究を始めたわけです。そのぐらい行動的な変化が出るわけです。でも、Pavlovは「条件反射学」の中にもいっさいこのようなことは書いていません。なぜなら、運動には擬人的な解釈や、心理的な解釈が入ってしまうからです。唾液分泌の変化からのみ大脳半球の働きを考えたのです。でも、この運動反応は非常に重要です。だから、このPavlovのイヌの条件反射は、表現を変えるとemotional conditioning、情動の条件づけです。なぜなら餌による、快の条件づけです。これはG. A. Kimbleが言っている通りです。消去では、A. Amselが言うところの欲求不満が起こり、心拍が上がり、唾液反射はぐーっと抑えられます。
 実際に、イヌの実験をしてみて、このような経験を通して、これはやはり実際にやってみないと分からないことなのだなと思いました。昔、福井大で1人、K. H. Bykovの内臓の条件づけの実験をなさった方がおられますが、いわゆる唾液瘻を作ってPavlovの唾液条件反射の実験を実際にやったのは私だけだと思っています。
 さて、今度はヒトの実験であります。古武先生の、ヒトの唾液の条件反射の実験室で、私が助手になった前後から始めた研究テーマは、興奮過程と抑制過程の相互誘導の問題です。興奮が起こると、その周りに抑制過程が自発的に誘導されて起こってくる、それから、抑制を起こすとその周りに興奮過程が誘導されてくるという誘導現象であります。その実験をして、日本心理学会でも何回か発表いたしました。
 次いで、当時は血管運動反射と言いましたが、脈波を用いて、個人差の研究を始めました。300人ぐらいのヒトに同じ条件で分化条件づけを行ない、そこに見られる個人差に対して、イヌでPavlovが展開した神経の型理論を適用して考えてみました。これが私の学位論文にもなっています。タイトルは「血管運動反射による条件反射形成に見られる個人差とPavlovの神経の型理論」です。
 このような研究をやっているときに、ソビエトから、ある1冊のロシア語の本が古武先生に送られてきました。私は、その前から神戸外大のロシア語学科に行ってロシア語の勉強を2年ほどしていました。古武先生が「宮田君、これロシア語、これ一体何の本でしょうか」と私に尋ねられました。調べてみると有名なE. N. Sokolovの『知覚と条件反射』でした。古武先生はびっくりされました。
 条件反射でパーソナリティは説明できるのですが、どうしてもうまく説明できないのが、知覚の問題です。なぜ送ってきたのかと思って、そこに書かれたサインを見ると、「わが尊敬する古武教授へ」というロシア語が書かれていました。「なぜ送ってきたか調べなさい」と言われたので、本の中を見ますと、私たちの瞳孔反射の条件づけの研究が引用されていました。「先生、私たちの研究を引用していますよ」と言いますと、古武先生は「宮田君、褒めているのか批判しているのか読みなさい」と言うのです。だから、該当する部分を読むと、これは優れた方法だと我々の方法を褒めていました。古武先生にこのことを伝えると、「そうか、でも、どのような本なのか、お前が読んで説明しなさい」と宿題をもらいました。
 さて、かなりの厚さのロシア語の本です。まず目次から読んでいって、そこで、Pavlovが「定位反射」と名付けた反射についての説明がありました。これは他にいろいろな表現、詮索反射、探求反射、「これは何だ反射」があります。この定位反射というものは、「条件反射学」にも書かれているように、メトロノームが鳴ってイヌが唾液の分泌をする条件反射がついているときに、女性研究員のヘアピンが下にパンと落ちると、イヌがハッと落ちたヘアピンの方を見て、鼻をひくひくさせて、目を向け、耳をピッと動かします。それと同時に、出ていた条件唾液反射がピシャッと止まるわけです。これが定位反射によって起こるところの外抑制です。つまり、生体は新奇な不意打ち刺激に対しておや何だと定位反射を出して、そのときに生じている反応を全部止めて、それが何であるかということを見極めようとするわけです。これは非常に重要な注意の基礎になっている定位反射です。
 したがって、ここからは私の考え方ですが、人間の脳は新奇刺激、不意打ち刺激には非常に弱いわけです。例えば、ピアノを演奏しているときに、何かふっと知らない人が入ってきて「おやっ」と思うと、どれほど練習していてもとちってしまうことがあります。車の運転では、新奇刺激に注意を向けたときに事故が起こります。ヒューマンエラーの原因として新奇刺激、すなわちノイズが入って来たときに定位反射が起こって、そのときにやっている反応が抑制されてしまうことがあります。しかし、その新奇刺激を何回も与えていると、すぐ慣れの現象が起こります。私は、この定位反射と慣れの問題を幾つかの論文に書きました。日本心理学会でも発表し、私が日本の心理学、あるいは生理心理学の領域に貢献した一つは、この定位反射を紹介したことです。
 その定位反射を紹介している頃に、今度は自律反応、唾液反射の道具的条件づけができないだろうかと考えました。イヌの唾液を計っていて、餌もやらないのに唾液が偶然でることがあります。私たちの口の中の唾液も、いわゆる食物を食べていなくても少しずつ出ているので、口の中は渇いてはいないのです。それと同じでイヌの場合にも少しずつ唾液が出ています。その唾液分泌を計っていて、少し唾液量が増えれば餌をやります。また、唾液が出て来たら餌をやるというのをくりかえします。イヌの方は、唾液が出たら餌をもらえるわけです。ということは道具的条件づけです。唾液分泌という自律系の反応が起これば、餌をやって強化することによって唾液反射の道具的条件づけができないだろうかという実験です。
 これは、N. E. Millerがイヌに対して行って成功しています。
 そこで、自律反応の道具的条件づけから自律反応のバイオフィードバック研究をしました。普段、ヒトは、自律反応を自分の意志でコントロールできません。例えば、ヒトは前額の筋の緊張を自分で緩めることができませんが、その前額の筋の緊張を筋電図で測定しながら、緊張の程度を色のついた光刺激の変化でそのヒトに見せます。そして「あなたの前額の筋の緊張は、ほら見てごらんなさい、赤い色になっているでしょう。この前額の筋の緊張が緩んでくると赤がだんだんブルーに変わって緑に変わってくるから、なるべく赤を緑に変えるようにやってごらんなさい」と教示して、そのヒトが普段自分でコントロールできない自律系の反応を分かりやすい情報にして目の前に提示すると、そのヒトはそれを見ながら、どうしたらその前額の筋が緩むだろうかと自分で努力します。このように、有意的にコントロールできないものを、バイオフィードバックループ、すなわちその生体の生理的状況を分かりやすい情報にして見せて、変化させるように努力させることによって、自律反応の有意統制、意志によるコントロールができるのではなかろうかというのがバイオフィードバック研究です。
 私は、東京大学の精神科の石川中先生、それから、上智大学の平井久先生とともにこのバイオフィードバックの学会を作りました。なお、私の関わった学会の創設という点で言えば、他に、1983年に設立した日本生理心理学会もあります。これは、当時は生理心理・精神生理懇話会であったものを私が委員長となってつくったものです。そのときに、原一雄先生も金子隆芳先生も委員になってくださっていました。
 それから、比較的長く研究したのが、生物リズムと睡眠の研究です。夜の10時半から7時間の終夜睡眠の間、脳波、筋活動、眼球運動、呼吸を記録します。これは、実験室に慣らしていく必要がありますから、少なくとも手続き的には3日間実験室に慣らして、4日目から本当のデータを取り出しました。
 ですから、大体1週間から10日がかりの実験で、毎晩徹夜しました。その睡眠実験の中で、睡眠学会で発表して私が非常に評価されたものは、目の不自由な視覚障害者の睡眠特性です。なぜそのような研究をするチャンスがあったかといいますと、私のゼミから十数名、日本ライトハウスに視覚障害者の生活訓練の指導者として就職しています。そのような関係から、そこの寄宿舎に入っておられる視覚障害者の訓練生の協力を得まして、一人一人の部屋の隣の部屋を空けていただいて、そこに脳波計を持ち込みました。そして、その視覚障害者の方の了解を得て、睡眠脳波を約10日にわたって20名近く一晩中記録したわけです。
 なぜそのような実験をしたかといいますと、そのライトハウスに時々行って、視覚障害者の方に会っていると、「先生、どうもお昼の間が眠い、そして、寝付きもあまりいいことがない。睡眠も浅いし、目もよく覚める。私たちの睡眠はやはりこうなのでしょうか」と言われ、視覚障害者の睡眠がどうだろうかということで調べてみたら、なるほど入眠潜時が比較的長く、なかなか寝付けない。しかも、寝つけたら、今度は睡眠が浅く、中途覚醒が多い。そのような視覚障害者の睡眠の特性が明らかになって、これを睡眠学会で発表したら、皆さんが、「宮田さん、貴重なデータだから大切にしてください」とおっしゃってくださいました。
 また、睡眠研究でも、夢を見て、寝付きが悪い。これには何か性格的なものが引っ掛かっているのではないだろうかということで、タイプA尺度を日本で最初に私たちが作りました。タイプAの方の睡眠夢を分析しました。
 それから、眠気尺度も作りました。この眠気尺度はアメリカ、あるいは日本でも精神科領域で評価されました。関西学院Sleepiness Scaleで、KSSと名付けたのですが、アメリカでは、「宮田さん、そこにIを入れてKISS scaleにした方が面白いよ」というような冗談をおっしゃる研究者もありました。
 そして眠気に関して、この眠気が発生することによって産業場面では事故が起こります。例えば車や電車の運転中です。その眠気の探知に何かいい方法がないかということで、瞬きの研究も相当やりました。覚醒しているときは、パシッ、パシッ、と大きな瞬きが起こりますが、眠くなってくると、まず小さな瞬きが、さざ波のように起こります。そして、少ししたら、ドヨーンと、大きな瞬きが起こります。これは、瞬きを測定しながら、同時にその実験参加者に、「もし眠くなってきたらベルを押してください、あるいは口頭で言ってください」とお願いしておいて。眠気を感じた前後の瞬きを比較分析していると分かったことです。
 そこで、瞬きを探知する方法として、眼鏡のフレームに瞼周辺の磁場の変化をチェックするセンサーをつけ、小さな磁石を、瞼につけます。そうすると瞬きをするとセンサーが磁場の変化を捕まえて瞬きの波形が書けるわけです。
 車を運転するときにこれをかけていて、眠気を帯びている瞬きが出てきたら、ビーと大きな音を鳴らして運転しているヒトを起こしたらいいわけですね。

インA 三菱電機の方とされていた研究ですね。

宮田 そうです。三菱電機との共同研究です。その次に、いわゆる瞬目と色々な心理的な事象との研究、例えば、非言語的なコミュニケーションとの関係などを調べました。瞬き、目の動きも表情の一つですから、いろいろな心理状態で瞬きがどのように変わるかという研究もいたしました。

インA 大森先生とされていましたね。

宮田 そうです。そして、次に、虚偽検出、うそ発見です。私のゼミの卒業生が、全国の科学捜査研究所のうち10ほどのところに、いわゆる虚偽検出のポリグラフ技官として活躍しています。そして、みんな素晴らしい虚偽検出の成績を挙げて、世界でも、日本の警察の虚偽検出のレベルは世界一と認められています。そこで、あるときには、アメリカの国防省の中にあるポリグラフ研究所の所長であるW. J. Yankee博士が、なぜ関学出身者が虚偽検出の優れた技量・知識を持っているのか、どのような訓練を大学で受けているのかに関心を持って、この研究室を見に来られたことがありました。
 そこで、私たちの生理学実験室を見せて、「脳波やいろいろな生理指標を記録して数量化していく方法を2年生の実験実習から教えている」と言うと、そのYankee先生は、「なるほど分かりました。アメリカではそのような教育は学部ではしていません。」と言って感心して帰られました。
 そして、私のゼミの院生と一緒に、ジェンダーの問題を扱って、男らしさ、女らしさによって生理反応が違うのかというような研究も後半7、8年続けてやりました。
 現在は何をしているかと言いますと、Pavlovの生涯と研究について調べています。Pavlovについては、慶応におられた林髞先生が、Pavlovの原著をロシア語から日本語に直された「条件反射学」が主な書物です。Pavlovのいろいろな研究のエピソードなどは、本当に限られたロシア語が読める生理学の先生方の研究誌に少し載っているぐらいです。
 そこで私は、まず、Pavlovのノーベル賞について調べました。Pavlov は1904年にノーベル生理学医学賞を取りました。このノーベル賞は1900年からあったのですが、Pavlovは毎年候補にあがりながら受賞から落ちていました。1900年、1901年、1902年、1903年と連続して受賞者に選ばれず、1904年にやっと受賞者に決定しました。
 Pavlovはご存じのように、胃の消化活動を小胃法によって研究しました。そしてこの研究に対してノーベル賞が贈られたのです。
 Pavlovは3冊の書物を書いています。そのうちの一冊が消化活動に関する書物、あとの二冊がイヌの条件反射による脳の働きに関するものです。この消化器系の研究についての紹介が日本ではほとんどないので、私はロシア語のPavlovの書物の目次を全部日本に紹介しました。そして、紹介すると同時に、Pavlovがノーベル賞に4年連続して落ちた理由は一体どのようなところにあったのかというようなことも調べました。これは日本生理心理学会の研究誌である、『生理心理学と精神生理学』に投稿して載っております。その次に、Pavlovの生涯と研究に関する年表は、みんな20項目か30項目ぐらいしかないのを、私は詳しく50項目ぐらい、それも世界の政治状況、当時のロシア、後のソビエトの政治状況、それから、世界の生理学の研究、世界の心理学と日本の心理学の研究を対応させて年譜を作りました。これも、日本生理心理学会の研究誌に投稿して載っています。
 そのようなところから、私の研究をずっと振り返ってみて、私の研究の強いところはどのようなところかといいますと、いろいろな種の動物を用いて実験をしたところです。ヒトもやってみました。動物はネズミ、マウス、イヌ、ヤギもやりました。そしてヒトの場合には、幼児から、成人、そして高齢者の協力も得ました。
幼児の定位反射の実験では、お母さんが膝の上に子どもを乗せておいて、目の前に小さい窓が10ぐらいある装置をおきます。そしてピーッと鳴ったら、どこかの窓が開いてお人形などが見えるようにしておきます。そうしていると、幼児は、試行間隔の間にどこの窓が開くかなというようにキョロキョロするようになってきます。そしてピーッと鳴ったら、今度はこちらかなというように見当をつけて見るようになります。そのときに眼球運動と頭の運動を記録した研究があります。
 それから、高齢者は70代の方に協力いただいて、ここの睡眠の実験室で寝ていただきました。睡眠実験は大変です。まず寝る場所に慣れてもらわないと駄目でしょう。
 睡眠学会で、「宮田さんのところは実験への参加者がたくさんおられるのはなぜですか」といわれたことがあります。私は講義のときに、「睡眠実験に協力してほしい」と学生に言うわけです。「協力していただいたら、朝ご飯付きです。それから、一晩寝ていただいて、3、000円の謝礼を出しますから」と言いましたら、大学の近くに下宿している学生がみんな来てくれました。
 寝相の研究をする場合があります。その場合は寝相をビデオで撮るので、実験参加者の許可を得て、トレパンをはいて寝てもらってビデオで寝相を撮ります。7時間睡眠ですと、7時間分、どちらを向いているのかデータに起こすのです。これは大変でした。
 睡眠実験で、睡眠を誘発するのに一番効いたのは何かといいますと、においや、色、音楽の効果は今ひとつでしたが、寝る時間の30分前に按摩をしてもらうというのが一番効きました。
 それに気付いたきっかけは、ある学生のお父さんが按摩師で、その学生も按摩が上手というので、私も一度してもらったのがきっかけでした。

インA なるほど。ありがとうございます。今度、最後の学会での仕事についてですが・・・。

宮田 はい。
 それでは、今度は、学会での仕事についてお話しいたしますが、特に日本心理学会です。私のおります関西学院大学では大会を3回開催しました。第15回が1951年、第26回が1962年、第61回が1997年で、特に1951年の第15回の大会は、大会委員長が今田先生で、戦後初めて東京以外の地方で開催された学会でした。つまり1945年の終戦から2年後の47年に東京大学で戦後初めて第11回がありました。その次に12回が仙台に行って東北大学で、それから13回が慶應義塾大学、14回が早稲田大学というように関東で学会があって、初めて兵庫県西宮市の関西学院大学で、この第15回があったわけです。
 その当時の大会の会費は200円、懇親会も200円でした。まだ米の配給制度がありまして、東京から、例えば大阪に来るには、特急つばめに乗っても8時間かかった頃です。
 この大会では約340近い発表があり、特徴は、今まで東京で行われた学会では発表会場が4室で、1日に一部屋ずつで発表が行われていったのですが、関学では、アメリカの心理学会と同じように7室設けて、同時進行で学会の発表をしたのです。しかし、これでは聴きたいけれども聴けない発表があるのではないかと会員から相当叱られました。
 もう一つの特徴は、アメリカの心理学会に出席された今田恵先生、高木貞二先生、増田幸一先生、横山松三郎先生、古賀行義先生に、アメリカの心理学について講演をしていただきました。
 これは、私がちょうど学部3年生に経済学部から心理学科に移ってきたときに行われた学会で、学生のお手伝いとして、発表会場に入って時間係、それから、掲示用紙をT字様のフレームに貼って発表者の横に立っている役などのお手伝いをしながら、いろいろ発表を聴かせていただきました。このときの発表時間が15分、20分、25分の3種類あってどれを選んでもいいのですが、20分の方が多かったです。質問時間はどれも3分ですから、20分の方は17分目に止めないといけません。だから、20分の発表をなさる方が17分になってきたときに、時間係は、発表をやめるようにベルをリン、リン、リンと鳴らします。私が時間係をしているときに、驚いたのが、17分のベルを鳴らしてもまだ発表されるので、ベルを鳴らしていたら、「分かってるよ。うるさい」と言って白墨をパッと投げつけた先生がおられました。怖かったです。

宮田 また、一番困ったことは宿舎の問題です。当時は、大阪には新大阪ホテルが一つ、神戸にはオリエンタルホテルが一つあっただけで、十分なホテル数がありませんでした。そこで関学の先生方、古武先生、今田先生のお宅に泊まられた会員の方も何人かあります。しかし、助かったのは、西宮には甲子園球場があり、高校野球に出場するチームが泊る旅館があるわけです。雑魚寝になってしまいますが、そのようなところを紹介してお泊まりいただきました。そのような思い出があります。
 もう一つ、ちょうどこのときに、南博先生が、いわゆる“エロ文学”の普及について―“チャタレー夫人の恋人”の場合というタイトルで学会発表をされ、新聞記者が大勢会場に入って来たことを覚えています。
 1962年が日本心理学会第26回、関学では2回目の開催です。2回目は、同じく今田先生が大会委員長でした。このときの特徴は、約500近い個人発表とシンポジウム、この2本立てで実施したことです。特別講演などはいっさいなく、発表とシンポジウムだけです。そのシンポジウムは、 12ある発表部門のいわゆる長老にシンポジウムをしていただくというものでした。例えば、生理は、東北大学の生理学の教授であった本川弘一先生、東京慈恵会医科大学の古閑義之先生、早稲田大学の新美良純先生、それから、大阪大学の吉井直三郎先生などでした。学習は、東京大学の八木先生、東京女子大学の白井常先生、それから、京都大学の梅本堯夫先生、慶応義塾大学の小川隆先生でした。このように経験豊かな先生方に、その各部門の問題をシンポジウム形式で論議していただきました。
 この1962年の第2回目の時、私は講師で、設営、進行を担当しました。今でしたら携帯電話でスタッフや大会の委員とすぐに連絡できますが、その頃はいわゆる携帯電話機、ウオーキートーキーが関学の学生部に1台あっただけでした。そこで、そのウオーキートーキーを借りて、大会本部に親機を置き、子機の方を私が持って各会場を回って、現状報告の連絡をしました。
 この頃も、まだ宿舎の確保が非常に大変でした。そこで、西宮に近いところにある大きなお寺の中にあるお座敷で、雑魚寝でお泊まりいただいたりしました。ところが、あとからそのお寺の住職さんが「夜中遅くに帰って来ます。誰を連れてくるか分かりません。誰か分からないような人を連れて入ってくる者もいます」と愚知をこぼしておられました。だから地方の場合には、いわゆる宿舎が、当時は、まだ少なかったわけです。
 最後の第61回は1997年、95年の阪神淡路大震災の2年後に、私自身が大会委員長として、「歴史を学び、明日を思う」を基調テーマに3日にわたって開きました。その大会では特別ゲストとしてアメリカ心理学会の次期会長にも指定されていたM. E. P. Seligmanに来ていただき、「楽天的な説明スタイル」という講演をしていただきました。Seligmanはこの特別講演以外に、いろいろなワークショップや口頭発表などにもどんどん出掛けて、腕まくりして発表者とディスカッションなさいました。
 このときに、3日間にわたりnoon lectureとして毎日お昼の1時間、学会の長老である、南博先生、波多野完二先生、それから、関学の石原岩太郎先生に、「わが人生、わが心理学」というテーマでお話ししていただこうと計画しましたが、残念なことに、南先生も波多野先生もご高齢で体調が悪く、東京から出て来るのは大変なのでということで、原稿だけ送っていただき、そして、代読をした記憶を持っています。
 この関学での3回目の大会ですが、学会のプログラムの発送などをしてくださる学会事務センターの職員の方に褒めてもらったことがあります。それは、それまではどこの大学でも、開催第1日目の前日には、教員、手伝う学生・院生がみんな徹夜をして、第1日目の朝を迎えていたようです。関学では、前日の夕方6時頃に準備完了して、全員帰宅し、第1日目の朝、受け付け開始の2時間前に集まりました。「これは初めてだ」と事務センターの方が驚かれました。
 しかし、問題もありました。台風です。その第1日目の前日、夜中から台風が来ました。私は寝ずにずっと台風情報を見ていたのですが、夕方から夜中に、台風が九州と四国の間の豊後水道を北上して、広島辺りから、大阪の方に向かってクルージングをするように瀬戸内海を東に向かって進み出したのです。これが12時、1時頃です。これが来たら学会は中止だと覚悟していましたら、幸いなるかな、岡山あたりで方向を北に変えて日本海に抜けました。結局、第1日目の受け付けが始まる頃は、とてもいいお天気だったのです。
 そして、大会の進行などに約50名の院生と研究員が働いてくれました。彼らが将校で、学部生が兵隊さんです。学会が始まったら、研究室の教員は、私も今田寛先生も誰も一言も口出しをしませんでした。それが成功したのでしょう。3日間の学会、褒めてもらったのはこの方法のおかげです。もう一つ褒めていただいたのは、発表会場の全室に冷房が入って、非常に気持ちがよかったというところでした。
 しかしながら、実際にお世話をして困るのは、発表論文集でも、締め切り2ヶ月たっても原稿を送らない方がシンポジウムのパネリストで3名おられたことです。そのシンポジウムのオーガナイザーにお願いして、やっと印刷に間に合う程度でした。それから、ワークショップのときに、予めおっしゃっていないのに、当日になって、「プロジェクターが欲しい」、「録音機が欲しい」、あるいは、「このような録音したものを再生したいからこのような器具が欲しい」というように申し出られる方が、何とまた横柄なすごい勢いで、「持って来い」とおっしゃるのです。後でそのような方々を調べてみると、自分が所属している大学で、いまだかつて学会を開催した経験をお持ちでない方が多かったです。学会開催の経験のある方はみんな、「ご苦労さんです」、「お手伝いしましょうか」とおっしゃる方が多いぐらいです。そのような中でいきなり、「あれをしろ」「これをしろ」とおっしゃる若い方に少々面くらいました。
 それから困ったのは、1951年の学会の時です、お見えになった方が、「今、夜行で着いたからどこかで歯を磨いて顔を洗って、少しひと寝入りしたい、寝るところはないか」とおっしゃいました。それだけは用意できないですね。
 また、私は、1972年に東京でありました国際心理学会議第20回の大会で、アメリカのA. H. Blackのオペラント条件反応に随伴して生じる自律神経系あるいは中枢神経系の問題についてのロングシンポジウムで、3人の代表質問者の一人に選ばれました。あとの2人は、アメリカのネズミの脳の自己刺激の実験をしたJ. Oldsです。それから、もう1人はJ. I. Lacey、情報を受け入れようか拒否しようかで生理反応、特に心拍率の変動に違いがあるということを発見したLaceyでした。これは非常に光栄でした。

宮田 そして国際心理学会のあと、京都観光の案内役を、私と同志社大学の浜治世先生、それから、京都大学の坂野登先生でしました。二条城、金閣寺、銀閣寺、知恩院、苔寺をご案内しましたら、日本のsimplicityを非常に評価なさって、「すごい。日本の文化はすごい」と言われる方がいる一方で、「石庭などはただ石と松で何もないではないか」と不満を言われ、「次、お寺へ行きますか」と尋ねると、「No more shrines and temples」と、文句を言われた方がありました。しかし、浜先生、坂野さんと一生懸命ご案内した記憶があります。その中に、ポーランドからお見えになった方も2人おられました。
 このような学会で、現在の学会と比較して私が思うのは、昔の学会は、いわゆるこぢんまりしていました。そして、発表者同士がいろいろ議論をして、その日の晩に飲みながら話し合い、そのときに、その先生の教室の院生、学生、他の研究員との交流があり、そのような交流を通して、また将来、仲良く研究の交換をしていくという風土があったことです。私の場合には、まず早稲田大学の新美良純先生の研究室と非常に仲良くし、1年に一度お互いに研究会をいたしました。
 それからもう一つは、京都大学の坂野先生のグループと、秋に京都に行けば、春は関学にということで、お互いに交換・交流して、大学院生が中心になって発表しました。こちら関学にお見えになった場合には、すぐそこに森林公園がありますから、そこに行ってバーベキューをしました。京都に行ったら、苧阪良二先生のお寺の本堂で懇親会がありました。そして、いろいろ情報交換して、人とのそのようなコミュニケーションができたのが非常に楽しかったです。今の日本心理学会は多様化しすぎて、ワークショップがずらっと並んで、そして、いわゆる人とのつながりというものができません。そのようなところが少し残念だと思っています。
 最後に、私自身が反省していることは、古典的条件づけの古武先生の研究以来、私がやった研究は、いわゆる学習による行動の変容を説明していく演繹原理を打ち立てるための実験だったのです。それに意味があったのですが、その他は何か現象だけの分析に終わったのではないでしょうか。こうやったら生理反応がこうなったというだけで、その背景に何があったのかということを、心理学者としてもう一歩奥に突っ込んで言うべきであったのではなかろうかと反省しています。
 今の若い人の研究を見ていると、非常に多いのが、事象関連電位でこうやったらこうなったという現象分析に終わって、その先が見えていません。"And so what?"そこで一体何なのかという、もう一歩突っ込んだところでの思索が必要です。だから、私は、哲学する必要があるのではないかということを、今回のオーラルヒストリーの結論にしておきます。

インA ありがとうございました。まとめていただいたので、追加で質問するのも失礼ではありますが、1つお聞きしたいとおもいます。先生は、1993年に北米Pavlov学会の会長をなさっていましたね。そのお話をぜひ。

宮田 Pavlov学会というものは、1955年にJohns Hopkins大学のW. H. Gantt、そしてあのB. F. Skinnerも協力してできた学会で、私も会員だったのです。北米で開かれたこの学会に出席したとき、みんなが、「一度日本に行ってみたい。宮田さん、あなたが日本で学会の委員長になって開いてください」ということで、私が引き受けて日本でしようとしたのですが、日本のホテルは高かったのです。アメリカのホテルで開催すると、委員が泊まる部屋や発表会場は、すべてcomplimentary serviceで無料なのです。なぜならアメリカでは学会に家族を連れてきますから、今仮に50の発表があって50人のサイエンティストがそこに来ても、その家族が来て泊まりますから、プールを使い、食堂を使うことになります。だから、採算がとれるので、発表会場のマイクにいたるまで全部ただです。けれども、日本ではマイク1本にいたるまで料金を取られるわけです。
このように非常に高いので、「日本は高いです」と言ったら、「ハワイでやったらどうか」といってきました。それで、私は北米でいろいろなところを探しました。落ち着いたのは、Los Angelesのウエストウッドプラザホテル、そこで開くことに決めました。そして、ソビエトからも1人お見えになったり、日本からも何人かが参加しました。

インB ありがとうございます。
 先生、いろいろお話をお伺いしたのですけれども、今田恵先生は、先生から見て、性格などはどのような感じの方だったのですか。

宮田 今田恵先生ですか。今田先生は、ここのまず神学部を卒業されて、だから、牧師の資格をお持ちなのです。そして、心理学を勉強したいということで東京大学へ行かれました。同級生に慶応義塾大学の心理学研究室をお作りになった横山松三郎先生がおられたと思います。
 今田先生は、お子さんも多く、ゆったりとした先生です。そして、この部屋が今田先生の個人研究室で、ここにあるのが今田先生がお見えになったときにお買いになった原書です。私たち学生と、将棋をしたり、腕相撲をしたり、脚相撲をしたりされました。
 それから、有馬に別荘をお持ちになっていました。そこによく泊まりがけで行って、勉強会をしました。しかし、クリスチャンでおられましたから、お酒はお飲みになられません。煙草も吸われません。だから、お正月に今田先生のところに年賀にお参りしても、みんなお宅にあがる前に外で煙草を吸って、それからあがりました。今田先生は、文学部長から、学長になられ、ここの理事長にもなられました。しかし、私たちの言うことをよく聞いて、一緒に卓球をしたり、バトミントンをしたりして、家族的なところがありました。

インB 今田先生の心理学史などを読んで、どのような方かなと思ったのですけれども。この関西学院大学は、やはり今田先生のこの遺志のようなものを引き継いで今でもあるというイメージがあります。この関西学院のカラーはどのようなものでしょうか?

宮田 さあ、カラーということは、私は中にいるものだから、逆に分からないのですけれども、面白い表現があるのです。今田先生も、そうだなとおっしゃっていたのですが、特に古武先生がおっしゃったことでね、「関西学院大学の研究室は小倉屋の塩昆布だ」とこうおっしゃるわけです。

インA どのような意味ですか。

宮田 ということは、大阪に地方からお見えになったら、みんな大阪の小倉屋に行って塩昆布をお土産に買って持って帰られます。だから、小倉屋というと塩昆布、塩昆布というと、もうその頃は全国的に、大阪小倉屋が美味しいとなっていました。
 「関学の心理はね、この小倉屋の塩昆布なのだ」とおっしゃるわけです。ということは、小倉屋ではアップルパイ、ドーナツは売ってない、塩昆布しかない。そのように関学の心理は条件づけと学習、それしかないということです。その背景にW. Jamesの考え方があり、今田先生が思想的に、理論的に基礎をつくられ、その上に条件づけの3本の柱が立っています。1本は、記憶と言語に関する柱、真ん中が道具的条件づけを中心とした動物実験の柱、一番こちら側に、ヒトの条件反射の研究の柱がたっているのです。この3本柱で研究室の屋根を支えて、“のれん”にはConditioning and Learningと大きく書かれています。だから、関学はConditioning and Learningを中心として実験一筋で行くのだということです。
 それで、今度は国立大学はどうなっているかというと、「百貨店だ」とおっしゃったのです。アップルパイもドーナツもうどんも売っています。しかし、関学は塩昆布しかありません。だから、学会に行ったら、「関学です」といえば、「ああ、条件づけですか」といわれることがあります。
 関学の人間は、知覚はだめ、あるいは臨床もだめ、しかし、学習を条件づけの面から考えるのだったら、私のところに来いということです。東京大学のある大学院生がここに来て研究したいという申し出があったぐらいです。これは目指す方向が明確だからです。その申し出があったとき、それでは来ていただこうと古武先生も今田先生も手を尽くされたのですが、向こうは国立大学でしょう。こちらは私学ですから、書類の判この数から違うわけです。だから、国立のお金で私学で研究するのがややこしかったので、いわゆる研究員として来るのではなくて、どうぞご自由にお越しくださいということになりました。それが一つの関学のカラーでしょうね。今はそのようなカラーは薄らぎましたが、私と今田寛先生がおられる頃までは、関学のいわゆるカラーというものは、条件づけと学習、そこから人間を理解していくというカラーを持っていましたね。
実験をしていたので、逆に大学や研究所への就職も、割合あちらこちらに行けたわけです。


インA・B 今日は本当にありがとうございます。

インタビュアー:荒川歩(武蔵野美術大学)、小泉晋一(共栄大学)
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