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岩脇 三良先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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    岩脇 三良先生

岩脇 三良先生の略歴

・戦争・東北大学・電通での調査・京都セミナー・霊長研・海外研究者との共同研究
・1952年東北大学を卒業後、京都大学教育学部助手を経て、電通入社、防衛大学校助教授を経て、中京大学教授、兵庫教育大学教授。博士論文『心理検査における反応の心理』
・高校生の頃召集を受け入隊、終戦後、原爆で家族や家を失い、高校の先生の支援も受け、弟を養うために働きながら東北大へ進学、苦労しながら電通で調査技術を磨き、アイゼンクを始め、多くの海外の研究者の紹介や共同研究を行ったお話のなかから、国際化の開拓時代の様子が見えてきました。

日時:2015年9月22日(火)
場所:名古屋国際会議場(第79回大会会場)

インタビュアー(以下、「イン」と略)  本日はお忙しい中、ありがとうございます。今日は日本心理学会教育研究部会の歴史小委員会のインタビューと言うことで順にお話しを伺っていきます。最初は、心理学を学ぶに至る経緯についてです。先生は、今ほど心理学が知られる前の時期から心理学に取り組んでいらっしゃったと思うのですけれども、なぜ先生は心理学を学んだのかというお話までを頂ければと思います。 心理学との出会い 岩脇  私は、新制の高校を卒業していません。心理学を初めて知ったのは、旧制高等学校の講義であります。日本史、西洋史、東洋史、そして倫理学もありましたが,その中に、心理学があったのです。そして、私たちの中学校では心理学を教えてくれなかったので、心理学の講義を聞いていたら面白そうだったのです。それは1年生のときです。 そして2年生になったら、私は、まだ17歳だったのに、召集令が来て、兵隊になってしまったのです。今でも恨んでいます。まだ、誕生日前ですから17歳だったのですね。山口県の男性は全員、18歳の年齢で健康な人が召集されたのかもしれません。自宅を出るときに、ポケットへ突っ込んでいった本が、どうも心理学の本だったようです。 私たちの部隊は、砲兵でした。そのときから、「日本は負ける」と思っていました。砲もなければ、銃もないし、剣もないのです。もし行くのであれば、土佐の高知へ行って、上陸してくるアメリカの部隊に、砲でバンバンとやるはずだったのですね。砲がないので、どうするかと言えば、海岸に穴を掘って、向こうの戦車が穴の上を通るときに、下から火炎瓶をぶつける訓練をするはずでした。 戦後になって 兵隊から自宅へ戻ってきたのですが、家屋は原爆でやられましたし、誰もいないのです。学校へ行くことをやめようと思って、高等学校へ行ったら、「あと1年半、学校に何も金払わなくていいから、出てこい」と先生に言われて、「出てこいと言われても、生活しなければいけない」と返事をすると「生活の間に学校へ出てこい」と言われました。そういうわけで学校へ行っていたのですけれども、そういう状況でしたから学校の成績はよくなかったです。そのようなわけで、私の頭に残ったものが心理学科への進学だったのです。心理学の点だけ、とてもよかったのです。「大学へ進学するのならば心理学科を受ける」と思い、私が高等学校で習った先生は、森 義孝先生ですが,その先生のところへ聞きにいったら、東北大の心理学科に東大での同期生が勤務しておられる事がわかりました。「その先生のところへ行ったら親切に教えてくるから、あそこがいいんじゃないか」。「東大や京大、行ってもいいけど、一緒に酒飲んでたり、どんちゃん騒ぎしていたら、卒業できないぞ」と言われて、友達付き合いでお金がそちらへ出ていったら、大学へ通えないということで、物価の安い仙台にある東北大学へ進学することに決めました。 東北大学ですから、入学試験のための勉強は何もしませんでした。 ただし,すぐに通えたわけではありませんでした。その時私の弟は旧制の中学、農学校の生徒として広島市外の、空爆のない町の寄宿会に在学中でした。私は,彼が卒業するまでは生活費を払ってやろうと思って、そちらのお金まで払っていました。そして卒業したので、ほっとしたら、「兄貴、悪いけど、新制高校というのができて、その第1回の卒業生になるから」と言うので、「そんなら、おまえ、卒業しろ」ということで、もう1年で、結局大学は2年ほどブランクです。   東北大学にて  休学明けて、仙台へ行ったら、教育学部が創設され,正木先生(この先生が旧制高校の先生の同級生です)、それからもう一人、金沢の四高におられた松本金寿という先生が教育学部に来られて、そのお二人は東大の心理学科を卒業された先生なのです。文学部は東北大出身、教育学部、教育心理の方の先生は、東大出だったのです。 私は、東北大学では,あまりにバイトが忙しくて、学校へ行っていなかったので、他の学生の被験者になったことがなかったのです。自転車を学校に置いて、仙台市内を駆け回っていたので、変な所でのこのこ歩いている教授に会ったりしていました。 卒業してのち、京都大学の助手になって行ったのは、正木先生が京大へ行かれたからです。卒論が、卒業して半年ほどして心理学研究に掲載されました。  その頃は、どこの学校へ行っても、岩脇ですというと「“自動運動の研究”を書かれた人ですね」と言われて、助かりました。  京大の助手は京大の卒業生よりも、知った人がいいだろうということで、続先生が正木先生に「あれを連れていけ」と助言されたので,京大教育学部の助手として赴任することになりました。それは卒業間際に話が決まった人事であるために、私は5月から京都へ行ったのです。 京大の助手をしているときは,助教授の苧阪先生それから、もう亡くなられた梅本先生と一緒に、京大NX式知能検査を作ったのです。 その頃、私は、高等学校は文科ですから、電気のことをよく知らなかったのです。はんだ付けも私はやったことがないので、はんだ付けができなかったら、理科出身の苧阪先生から「少し勉強するように」と言われて、それから悔しくて、はんだ付けの練習をしました。それから、「子供の科学」だったか、そのような雑誌で弱電の方から勉強をしていると,心理学科の中にもうそ発見器や脳波などが設置されるようになりました。その際,故障したときに、私は修理ができなかったのです。業者を呼ぶと、高くつくでしょう。そこで,私が直すようにと言われるのですが、最初は配電図を出しても、全然分からないのです。そこで,それから2か月か3か月弱電関係の勉強をした。結局、1年もたたないうちに、少なくとも学生には負けなくなりました。後日,矢田部先生が「君がいろいろなことの修理ができるのは、苧阪君のおかげだから、一生頭が上がらないよ」といわれました。今でも上がらないです。 他方,梅本先生は、実験屋というより、むしろ本読み屋ですね。その本の読み方など、あの先生のゼミに出ていると、「こういうとこは、こうやって訳すのか」と勉強になりました。その頃、私はピアジェにちょっと興味があったのでピアジェの本を読もうと思ったのですが、フランス語ですよね。それで、ちょっと悔しくて、京大の道を挟んだ向かい側の、日仏会館に通って、フランス語を2年間ほど勉強しました。 それから、京都大学にいるときに、矢田部先生に「おまえの卒論はいいぞ。すぐ短くして、『心理学研究』に出せ」と言われて。今のドクターコースぐらいの内容とはいえ「卒論ですよ」と言いつつも出したら、一発で通りました。 イン 「自動運動の実験的研究」ですね。 岩脇 ええ、それです。それで、英語で要約しなければいけないではないですが、英語には自信がなかったので、アブストラクトの英文を矢田部先生のところへ英文原稿を持っていって直してもらったら、直されすぎて私の文章はどこへ行ったか分からないくらいでしたがその後、矢田部先生にかわいがってもらい、いろいろなことを教えてもらいました。 ところが京大に移ったときは知らなかったのですけれども、2年たったら、ある先生が2月に「おまえ、もうくびだよ」と言われたので、「えっ。誰がそのこと決めた」とつぶやいたら、「初めから定年は2年だ」といわれました。「もっと早く言ってください。こっちも準備があるから」と言ったら、「だめだ、自分で探せ」と言われてしまいました。 その頃,仙台の北村晴朗先生から「元気かね」と葉書が来たものだから、「元気じゃない、しょぼんとしてます」とお返事すると「3月になったら、もう、口ないぞ」と言われました。文学部の教授だった矢田部達郎先生が、「教養部の心理学の助手の人が、4月からアメリカへしばらく行くので、彼がアメリカでドクターを取るまで、助手をしてくれんか」と言われました。ところが学部から教養部へ行くということは、教育学部の名折れだと言って、はねられてしまったのです。 そして「いやあ、まいった、まいった」と愚痴をこぼしていたら、続先生から,名古屋大学教育学部の統計の白石先生が、「電通名古屋支社で統計のできる人を募集してるよ」と紹介いただき,「そんなら行きましょうか」と言って、それで電通へ行ったのです。 電通にて  私は、電通へ行ったことは、悔いていないです。統計技術と、その頃出てきたカードでデータ処理するプログラムが身につきました。また電通ですから、スポンサーの中日新聞やCBC、中部電力などの調査に関わることができました。私が、パンチカードに穴を開ける方法を覚え、電通へ行っている間に、調査技術は心理学の研究者の中で一番できる方ではないかと思うぐらい統計をやらされました。普通、平社員で入ったら、何年かかかって主事になりますが私は1年でなってしまいました。だから、2年と10か月ぐらいいて私が辞めるときに、社長に「君に長くいてもらおうと思って」と怒られてしまったのです。「すいません、やっぱり勉強の方がいいんです」というと「そういうやつもおるんだな、世の中には」と言われました。私はその後の私の研究はほとんど質問紙を利用するようになりました。プログラムの組み方も、当時ですから、言語はフォートランが多かったでしょうか。統計と調査はその後の定年までやっていました。私は、そちらの専門家ではないけれども、苦にはならなかった。転がっても、何か拾えば、役に立つものだなと思いました。私にとっては、統計が身についたということは、身についたというよりも、統計が怖くなくなったわけですね。学生が因子分析をしたいと言うので「できるんか」と言ったら、「できません」と言うので、「じゃデータだけ取ってこい」ということで、そして、私が組んだプログラムで、計算していました。  質問紙法による研究が専門にできたのは、電通に勤務したおかげです。心理学研究や社会心理学研究を見ていると、質問紙が割に多く,それも、学生に配布して、自宅へ持って返す人もいるでしょう。電通の調査のときは、面接調査ですから、質問紙は渡さないのです。  面接調査と配布調査は違うのです。配布調査は、誰が答えたか分からないのです。面接調査の場合は、会話しながら、向こうの返事を聞いて、丸バツをつけたり、語句をメモしたりするでしょう。調査員の判断で、「はい」または「やや、はい」等の回答を決めます。常に調査員の学力、調査力、そして調査をしている出来事の知識、そのようなものを総合して回答者の回答を決定します。 他方,配布調査の場合、誰が答えたかわかりません。ですから,論文を読んでいて配布調査ということがわかったら、回答が信用できないですからそこから先は読みません。 会社に入って2年と8か月ぐらいたったときに、日本心理学会があったのです。そのときに、東北大学の北村晴朗先生から、「岩脇君、会社どうかね」と聞かれたので,「いや、辞めたくてしょうがないんですよ」と言ったら、「ボウ大学がある」と返事され、「どこの大学かな、某大学って」と思っていました。私には「某大学」と聞こえたのです。どこでもいいやと思って「どこですか」と聞くと,「関東だ」というので「ああ、それはいいですね」と言って決めたら、先生が早速電話をされたらしく、そうしたら「防衛大学だ」という返事であった。「えっ。某大学とは違うじゃないですか」と言ったら、「防大に間違いないだろ」と言われてしまい、今さらことわれないと思って、防衛大に行くことにしたのです。 防衛大学校にて ちょうど防衛大が決まった頃、矢田部先生が京大で定年になって、東京へいかれたのです。それで葉書が来たものですから、名古屋から東京の先生宅まで行ったら,「君、早稲田へ行かないか」と言われました。「電通へ行ったばっかりなんですが」というと「電通で勤まっているのか。君みたいなつっけんどんなやつは、会社ではだめだ。早稲田へ来い」といわれたので、聞いたら、助手が欲しかったらしいです。矢田部先生は京大から早大へ行かれたので学生とは、なかなかなじめないではないですか。気楽に話しにくいのでではないかと思いましたが、「防衛大学が決まったばかりで、東北大学に対して申し訳ないので、すいません」とお断りしました。おかげで、矢田部先生が亡くなられる直前に、奥さんから電話がかかって、「間もなく死にますから、会ってくれますか」と言われ、東京へ行ったときに、「早く防衛大学から出ろよ」と言われたのが遺言でした。「そんなとこにおったら、勉強できないぞ」と言われました。それで10年ぐらいいたでしょうか。 そのときの助教授が大谷先生という東大の卒業生で年齢は私より1、2年上だったのです。私は助手を1年半ほどで、講師になり、それから、また1年半か、2年ぐらいでしょうか、助教授になってしまったのです。 やはり会社と違って、自分のやりたいことができるのですが,その代わり、電通のときの月給の、本当に真半分。生活に困ってしまいました。 しかし,名古屋から東京へ行けば、知った人が何人かいました。千葉大学の大山先生もそうなのですが,大山さんに、あるとき「どうしてる」と聞かれたので、「いや、会社辞めて防大へ行ってるんだけど、何を研究していいのか、ちょっと分からなくてね」などと笑っていたら、イギリスのアイゼンクの「MPI(モーズレイ・パーソナリティ・インベントリー)を作りかけてるんだけど」というのです。これは「テストのことなら岩脇さんがよく知っているし」と、東大におられた肥田野先生が助言されたらしいのです。そこでこのテストに関わることになりました。 防衛大学校時代の思い出 私が防衛大学へ赴任したら、苧阪先生が「防衛大学にプールがあるか」と聞かれました。50mのプールがあったのでそう言うと、あるとき苧阪先生が横須賀までやってこられました。そして、「プールで円いものを出して、月の大きさと一緒にして、それで錯視がどれだけ出るかやるから」といわれたのです。被験者は誰かきくと「おまえだよ」と言われました。季節はいつだったかは忘れましたけれども、ちょっと寒い時期にプールでパンツをはいて、「はい、こっち方が大きい」「こっちの方が小さい」とやりました。この論文がどうなったかは知りませんが,それがきっかけで、共同研究をしました。地上で見た場合は、われわれは、プールの底に足がついています。「空中にぶら下げて、上下で見たら、違うんじゃないか」と変な思いつきで、「落下傘にぶらさがって空中で観察したらいいじゃないですか」と考えました。自衛隊の落下傘訓練所に交渉して空中における錯視の観察をしたことがあります。千葉の自衛隊に落下傘部隊の訓練所がありましたので,そこに電話して、防衛大学から助教授の人が来てるということで,通ることができました。ところが,「助教授は何扱いだ。三尉なのか、三佐なのか」と言うのです。すると三佐なのですね。被験者は上空80mの高さまで落下傘に乗り、そこで位置を固定して、そこで静止し、足の先に標準刺激があって、地上の円い比較刺激と比較して、等しい丸が出るまで、「違う、違う」と言って、観察したことがあります。 アイゼンクとの出会い 当時アイゼンクの研究の中に、パーソナリティと時間評価に関係があるという論文がありました。つまり「外向性の人は誤差が大きく、内向性の人は少ない」という結果であった。私は、防衛大学の学生は普通の学生とは違って命令に従う方だからと思って、それで内向性の人は、あまりいませんので、やってみました(『時間評価とパーソリティ特性との関係』)。ただし,日本にはモーズレイは、まだ翻訳されていなかったので、田中式向性検査を使ったら、アイゼンクのような結果が出ないので、その旨手紙を出したら、「日本の性格検査とサンプルが悪いよ」と返事がありました。それからですが、なぜかアイゼンクは私をかわいがってくれて、その後ずっと、80年代まで共同研究がありました。アイゼンクとは美的判断に関する共同研究があります。その理由は簡単なのです。私が日本人だからです。彼はユダヤ人でしょう。  ヨーロッパで迫害を受けているのですね。彼の弟子にLynn,R.という人がいて、私は二つぐらい、リンさんと連名の論文を出しています。 イン 『性格と国民性』、翻訳もされていますね。 京都セミナー 岩脇 ところで,MPIの件,大山さんが、どうして東北大卒業の私を知っているかというと、これは、正木先生に感謝しています。グレアムという知覚の先生が、私が助手をしているときの夏に、京都セミナーというのが開催されました。  苧阪先生は,新しがり屋で,昭和27年頃ですが、電動式のタイプライターを教室に買っておられました。そして,Graham,C.H.さんのセミナーのときには、プリントは英語ですから、私が座ったまま、ぱあっとタイプライターを打つでしょう。「いいやつが来た」と言って使われました。そのときに、東大の八木さん、田中さん,大山さん、東さん、それから九大の三隅さん、それから、京大の文学部の方のスタッフ、それから、同志社の先生方が全部。それから、関西学院の今田先生などと知り合いになりました。 大山さんとは今でもつきあっています。 時間的に前後しますが1990年にクロスカルチュラル・サイコロジーの大会を日本でやったのは、私が主催者の役目をしたのです。そのときに、三隅さんは、九大と大阪大学と両方の教授をしていましたので、そこの教え子を4、5人会場へ送ってくれて、手伝ってくれました。この学会が終わったあと、国際応用心理学会が京都で開催されました。国際応用心理学会にはたびたび参加しましたが、京都のときほど参加者が多かったことはなかった。三隅さんとも、それからずっと仲良くお付き合いをしていて,「防衛大学へ行ったのなら、(彼の得意の)リーダーシップの研究をやれよ」と言っていましたが結局、やりませんでした。 グレアムさんのおかげです。これはグレアムさんのセミナーがあって、私が手伝いをしていた秘書だということがもとなのです。皆さんのおかげだと思っていますけれどもね。何がどこで役に立つか知らないけれども。 非常勤講師とフランス語  私はやっと防衛大学へ行ったのですけれども、最初は防衛大学で、私が講義するわけではないし、事務的なことを少ししたら、もう用がないではないですか。だから、立教大学、明治学院、千葉大学と週に3回非常勤として行っていました。  また立教が済んだら、まだうちへ帰るのは早すぎるからと思って、アテネフランセに行ったのです。  フランス語は、今はだめですが、当時は会話ばかりだから英語より達者でしたね。そういうわけでまだ防衛大学にいたときには、京都大学の仏文の卒業生で私を知っていた白水社クセジュの担当の人がやって来て、「クセジュの心理学の本を訳してくれませんか」といってきました。やはり、こちらは自信がないので、フランス語の先生に私の訳文を点検してもらい、共訳者として、「集団力学」と「実験心理学」の2冊を白水社から出しました。 でも、私は、おかげで、自分の文献のどこかに、一つフランス語の論文があると思います。それは、私が書いたのです。フランス語があとで役に立ったのは、その後、防衛大学のあとに中京大学へ行っていますね。そのときに、いつ頃行ったかは正確には覚えていません。カナダへ3回行っていますCalgaryに計2か月滞在していたときにカルガリ大学の教育心理学の名誉教授であったVernon, P.に会ったことがあった。彼とは日本人の学力のことで共著論文があります。カナダへの渡航費を含めた研究費のうち2回はカナダのお金、1回が日本のお金でした。  そのようなことで、フランス語は、京大へ行ったことで、前述のようにフランス語を学ぶ機会があり、とても役に立ったと思っています。 この他に千葉大に非常勤で行っていた頃,神田のニコライ堂はロシア系で,ロシア語を教えていたので、3年ぐらい通いました。おかげで、ロシア語読めるようになりました。 テストの翻訳とテストの問題  あるとき,もう絶版になっていますが,Edwards Personal Preference Scheduleというものを「手伝ってくれないか」と言われて、手伝ったのです。その他,スピルバーガーのState-Trait Anxiety Inventory(STAI)を、実務教育出版から出したときにも、手伝っています。そのような関係で、テストが出版されたのはもっとあとですけれど,防衛大学校にいた頃から手伝っていました。 それが一つのきっかけで心理検査の問題に,取り組むようになりました。防衛大学へ勤務していた時、矢田部ギルフォード質問紙検査を施行すると,気になったのは,自分の成績、学業成績に関係すると思うからでしょうか。防衛大学の学生は格好いいことばかり答えているのですね。リーダーシップのあとの話のときに、Y・G性格検査を使ったら、どう見ても格好のいい答えをしているのです。その頃ちょうど質問紙における反応傾向、社会的望ましさなどが問題にされ始めた関係で、ちょうどいいと思って、防衛大学で、「これは任官のときに必要なテストとして、皆、答えてくれ」と言ったら、格好よく書かれていました。その前にやった、普通に答えてもらったときの回答と大差がなく,2回の性格検査への回答の相関が高いのですね。 「なんじゃ、これは」と思って、今度は別のクラスの学生に、各項目の社会的望ましさの程度を知るために、5段階評定してもらったら、各項目へのはい・いいえ回答率と望ましさの評定平均との相関が高かったのです。それで、「質問紙やるなら、こういう問題からしなければならない」と思って、しばらく取り組んだと思いました。 この研究はJournal of Social Psychologyに掲載されるのですが,防衛大生というのは、キャデットであって大学生ではないので,レフリーから、「訓練生ではだめだよ。もういっぺん取り直せ」といわれてしまいました。そこで、立教大と明治学院大と千葉大で回答を取って回答した人数ももっと多数に訂正して原稿を送りました。  あとは、YGでランダムに,つまりサイコロを渡して奇数が出たら「はい」で、偶数が出たら「いいえ」で答えるようにもとめたことがあります。するとYGの平均点と等しくなってしまったのです。YGには悪いから、あまり発表したくないなと思ったけれども、出してみたら、米国で作業してくれて、どこかに出ていると思います。そのように、その頃は、極端な回答の問題を扱うことが、はやっていたのです。レスポンス・テンデンシーですね。  そのようなことで、私は,どうしても方法論が気になったもので、質問紙の問題に取り組んでいきました。 それから、その頃から、カウエン(Cowen)という人と一緒に共同研究がありました。この人も、初めは社会的な望ましさのことで知り合ったのではないかと思います。やはり気になるので質問したら、「いや、ほんなら、日本のデータを寄こせ」と言われた。私が外国の人と知り合いになったのは、向こうの論文に対する疑問や、それから、「こうしたらいいのではないか」と、アメリカ人では気がつかないことを、言ったせいでしょうか。そして親しくなった人が、たくさんいます。 イン それは、論文を読んで、手紙を書いて送るという形ですか。 岩脇 ええ。直接に送ったのです。そうしたら、このようにたくさんの自分の論文が来るのですよね。すごいですよ。読み切れないです。 博士論文  またちょっと戻しますけれども、中京大学にいるときに、東北大学の北村先生が、「博士論文を書け」と手紙を下さいました。大山さんには、随分お世話になっているのですが,これも大山さんが北村先生に会ったとき、「岩脇君に論文を書かせたらどうですか」と言ったらしいのです。 私はすでに発表していた論文を加えて、新しく1週間で書き上げて東北大学文学部へ送りました。その代わり、そのときは、中京大学へ行きませんでした。「体の調子が悪いからちょっと休ませてください」といって,走り書きしました。そうしたら、団地の近所の奥さんが、旦那から「手伝ってあげろ」と言われて、清書してくれたのですけれども、誤字が多いです。北村先生から、「君の論文は、あんたの字じゃないけど、随分、誤字脱字が多いね」と言われて、「すいません」と言っていたのを覚えています。それを当時心理学科の助手の丸山君が直してくれたらしいです。何年か前に、「岩脇さん、苦労しましたで」と、そのときの話をしてくれたのです。なおこの論文の引用文献名は図書カードにタイプ打ちしてありましたが、その図書カードをアルファベット順に原稿用紙へ打ち直さなければならない作業がありました。図書館員がその作業をして下さり助かりました。日頃、外国語(英語以外)の文献の題名を訳してあげていたことへの御礼だそうです。この博士論文は1973年に本になって出版ました。 なお,卒論の自動運動の研究には、東北大学の先生は誰も口を出していないです。被験者はほとんど心理学専攻生でした。 それから、私は1969年に中京大学に移ったのは、千葉大学の望月先生が、「岩脇さん、防衛大学校を出ていった方がいいよ」と言って下さったのがきっかけです。あの先生が、千葉大学で学部長をしていらっしゃったのですけれども、文部省での学部長会議のときに、「こういういいのがおるから採ってくれないか」と顔なじみの学部長に言ったら、「防衛大学というと学生が騒ぐから嫌です」ということで、四国の大学から全部断られてしまいました。  私も防衛大学を辞めた方がいいと思ったのは、学生が、「千葉大学では防衛庁の職員が来て講義している」と、立て看板をしたのです。それを聞いて、ますます移った方がいいなと思ったら、大山さんが、どこかで聞いてきたのでしょうか、中京大学で、教授をもとめている。それで、「それなら行こうか」と、中京大学に打診したら、「すぐ来てくれ」と、すぐ受け付けられまして、1969年から中京大学から1980年まで勤務しています。 霊長類研究所 イン  はい。この間に、霊長類研究所ともお仕事をされているのですね。 岩脇 よく調べていますね。これは、霊長類研究所に松沢君がいるでしょう。私は松沢君と親しくしていました、 もともと私が東北大学2年生のときに、3年生の人で、卒論でネズミをやっている人がいました。その人が卒業されるので、ネズミがかわいそうだと言って、もらい受けてそのネズミの実験をしていたのです。ネズミの扱いなど知らなかったのですけれども、卒業していく人にいろいろ聞いて、それで動物実験だということで、宮城県庁に行って粉砕米をもらう手続きをしました。その頃、私はお金がなくて,悪いけれども、ときどきそのお米を失敬して、ぬかが、わっと浮くのですけれどもね、それを洗ったら、きれいなものなので,時々、誰も来ないことが分かっている時間に食べていました。ネズミさまさまでした。 それで一回、動物心理学会に入ってしまったのですよ。動物心理学会の役員に、東さんや大山さんが会員にいたと思うのですが,彼らに入会の質問をしたら会員が少ないから入ってくれということで私はこの学会へ入会しました。 中京大学へ行くと、霊長類研究所から、オペラント行動の実力者、浅野さんという慶應大学を出た人が、中京大学に非常勤で来ていたのです。サルの話ばかりするので、「なら、私にもサルの実験をやらしてよ。学生のとき、ネズミの実験していた」と言ったら、霊長類研究所で会議にかけられ、「来てもいい」ということになって、交通費だけは自分で払いましたけれども、実験に使う日本猿と、えさ代、それから病気になったときの猿の治療費、それを全部、京大が払ってくれたのです。私の記憶では、兵庫教育大学に行く前まで行っていたと思います。 私の研究に利用していた3頭のサルが私になついてしまいました。当時サルの集団心理などやる人はいないから,3匹、同じおりに入れたら、あっという間に、ボスとびりが決まるのですね。このことは、どこかに発表したかもしれません。 今でも記憶にあるけれども、掃除のために、私がそのサル檻(おり)の中に入ると、一番すごいサル(ボス)が、私の足もとへ来て、威嚇する。掃除道具を使用し、掃除のじゃまになるので、しかりつけるか、知らん顔しているものだから、私がボスになってしまいました。すると一番ボスは、一番後ろに行くのですよ。サルの集団で1位であったものが一番地位が低くなるのです。サルの集団力学は、そのようなものだなということが分かりましたね。2位は自分がトップになれるからとても喜ぶのです。私が、あそこへかよった時期は、霊長研のチンパンジーのアイと同じぐらいです。私が昭和女子大へ行ってから、愛知県出身の女子学生が、「あそこのアイちゃんに会いたい」と言うので、「そんなら連れていくわ」といって犬山まで行ったら、もう20年ぐらいアイに会っていないのですがにおいをかいで、覚えているのか、おりの向こう側から来て、なつかしそうな行動をとりました。私はあそこに3年ぐらいいて,アイは生まれて間もなく来たのですが,その頃、一緒になって相撲を取ったときに、においをかいで覚えていたのでしょうね。動物の親子関係というものは、人間と違うのだなと思いました。  仲間が困っているとき助けるHelpingがみられるかどうか実験してみたことがあります。腹が減っているときのボスは、小さいサルが相手でも、全然餌をわけてやらないです。お腹いっぱいになったら、小さいのが手を出しても、「ふん」と横を向いて知らん顔しているのです。 親子のサルは違いますが、群を成しているサルの間での助け合いというものは、そのようなところがあるのだと思いました。 当時、室伏さんという女性教授が心理学部門にいました。彼女の知恵もあって、浅野さんが色名の日本語文字(あか、あお、白など)と色紙の色とを結びつけるサルの学習をしていました。私はそれを人でやってみようと思い、私がドイツへ行ったときに、ドイツの心理学専攻生を集めて、色名を日本語(例。赤、青、黄など)で書いて、そして、色名と同じ色の色紙を指さす学習のセッションをしてから、ちょっと休んでもらって、文字を提示してどの色紙を指すかという実験をやったら、結果はチンパンジーと変わりませんでした。これは、動物心理学会で発表したのではないでしょうか。 海外紙への投稿と共同研究  それから、私は防衛大学在任の最後の頃、千葉大に内地留学という名目で、10月から翌年の9月まで、足掛け2年行っていたのです。そのときには千葉大学の学生たちと仲良くしていました。1972年頃に、大山さんが「何か知覚の実験しないか」というので、大山さんの計画していた研究の実験者になってその結果をRole of convergence and binocular disparity in size constancyという論文にまとめてPsychologische Forschungに投稿したのです。「英語でいいの」と言ったら、大山さんから「いや、Psychologische Forschungは英語で出せるから、心配しなくていいよ」と言われ、それでこの雑誌へ投稿してしまったのです。その他、アメリカの心理学者(Clement,D,E.)と共著でPsychologia(1972)にpattern perceptionに関する論文が1つあります。そのようなことで,私には知覚の論文が二つあります。  1972年から、Journal of Cross-Cultural Psychologyに、私の論文が出るようになりました。この雑誌にはBuss,D.M.がmate選択について37の文化を比較した論文があります。日本の資料は私が提供し著者のひとりになっています。1976年にはDevelopmental PsychologyにDevelopment of personal space schemata among Japanese childrenという論文をだしました。これも発達心理学者のLernerとの共著です。この方は「論文書いて出せ、出せ」とよく手紙に書いていました。あとから分かったのですけれども、彼は発達心理学の方の何かの雑誌のエディターをしていたのです。それが原因で、Lernerとの共著論文はいくつかあると思います。 この話は、前後しますけれども、1984年にメキシコのアカプルコで国際心理学会があったのです。その帰りに、彼の大学へ「立寄れ」と手紙がきたので立寄って、そのときに初めてLernerに会ったのです。 「何か学生の前でしゃべってくれ」と言われて、その頃研究していたことをしゃべったのでしょうね。お礼と言って、メキシコからサンフランシスコかどこかまでの飛行機の切符代を向こうが現金で出してくれたのです。彼は言語学を卒業しているので,文章が他のアメリカ人よりいいのですね。このような文章がどうして出るのか分からないぐらい、書いてあるのです。  そのようなことがありまして、私は、いくつあるか数えてもいないですけれども、英語の論文は50以上あるでしょうね。その論文のうち半分ぐらいは、共同研究者が少し直したところもありますが私の文章です。アイゼンクとの共同研究のものは、秘書が私の英文を直したのでしょうね。 私の共同研究のうち、外国の人は欧米の人だけでなく、韓国の人とか香港の人がいます。The Chinese culture connectionというグループ名で1987年に(Journal of Cross-Cultural Psychologyに)発表された論文で,中国の価値についての共同論文があります。他には1989年にL' être humain dessine par les écoliers de sept à douge ans (Cahiers de Sociologie Economique et Culturelle, 1989,VoL12,119-142)というフランス語の文章が一つあったと思うのですけれども、あのフランス語は、私が書きました。アフリカとオランダと日本の子供たちの人物画の比較研究でした。共同研究者Wandewieleは心理学者ではありません。 私はカナダに3回行ってきたと言いましたが,行くきっかけになったのは,ジョンBerryという人です。彼との共同研究の論文は一つもないですけれども、この人は当時、『クロスカルチュラル・サイコロジー』のボスなのです。クロスカルチュラル国際心理学会で「カナダへ行くけれど、どうしよう」と言ったら、「それなら、うちへ来るように、カナダの大使館へ書類を出してみたら」と言うので、彼の所へ行ったのですけれどもね。  カナダに行くと,肌の色の問題は大きな問題です。ある1人の先生の奥さんは黒人で、子供さんも肌が黒い。すると学校で「汚い、汚い」と言われて、「悔しいから、学校の勉強はクラスで1番だよ」と言っていました。そのようなことが、小さいときからあるのです。日本にいると、皮膚の問題は、あまり実感のない問題です。1978年に、私と、日本人でKenichi Sonoo、それから米国のJohn E. WilliamsとDeborah L. Bestという人との共同研究で"Color bias among young Japanese children"、Journal of Cross-Cultural Psychologyに出ている論文があります。中身は簡単に述べると、白と黒がどれだけ嫌われているかということで、同じものが,白い物か黒い物かで好みの程度を質問する研究で,アメリカ人は、黒い物が嫌いな方に回答がかたより、白い物が好きな方に回答される率が多かったというような結果でした。日本人で同じ条件で追試したら、そのような傾向はなかった。  アメリカでは知らないけれども、イギリスでは、金髪がやはり男の子に好かれるのです。どうしてかと言うと、イギリスにいるスウェーデン人、ノルウェー人は、向こうの貴族の出身で家柄がいいのです。ですから、白人の男の子が、好きになる。そのようなことが裏にあるけれども、それは、あまりどこも発表していません。そのようなところがあるので、皮膚の色、髪の毛の色というものは、どうも民族の優劣を決める一つの決め手なので、いくつかの論文で書いています。でも,白黒の問題は、日本では学生は「先生、こんなこと、何の意味があるんですか。白と黒、どっちの方に回答が流れたっていいじゃないですか」という反応ですね。 外国の雑誌に論文をたびたび投稿したら、どう書けば採用されるかということが、分かってきます。日本だったら載らないけれども、適切な言葉を一言、二言と入れることや、副詞をどのように使うかということで,掲載の方法を覚えていきます。  私は、研究費が十分になかったのでアメリカの雑誌へ投稿するのは経済的に苦痛でした。共同研究者が支払った論文が多かったと記憶しています。アメリカの雑誌に投稿し、採用されると、雑誌によっては掲載料を取られました。非常勤をしたり翻訳をしたりしたのは研究費を補うためでした。初めは、1ドルが340円の頃でしたのでそのころは支払いがきつかったです。今のように百何円ではないですから。中京大学へ行ってからは、一つの大学へ非常勤に行っていたけれども、自分の研究費不足をおぎなうために翻訳をやたらにした時期があります。 性問題の研究 他方,イギリスへは、アイゼンクのおかげで、何度行ったか覚えていません。ちょっと欧州へ行っても、すぐにロンドンに寄りました。もう1人、グレン・ウィルソンというアイゼンクのインスティテュートの人と仲良くなって1980年と83年に論文を書きました。この人は、社会心理学者です。この人はセックスの問題が好きで、向こうでセックスの問題のある人に対するセックスセラピーの研究をしていました。日本人がどのような態度を持っているかといって、彼との二つの論文はそのテーマで書きました。 中京大学に在籍していたときはじめて海外研究にでかけました。しかし、学校からいただいた補助金は少なく生活は楽ではありませんでした。お金がなくて,他の国立大学の人は補助金をいろいろもらっているのに,こちらは研究のために食事代も削っていました。でも兵庫教育大での最初の学長は私を割にかばってくれて、お辞めになって岡山県に戻られたのですけれども、あそこに、テレビ局の名前は忘れましたけれど谷口奨励賞と言うものをもらいました。また,中京大学にいるときは、中日新聞からも賞をもらったと思います。  兵庫教育大学での研究 兵庫教育大に、私はなぜ行ったかと言いますと、発達心理学の私の論文が80年から出だしたので、中京大学にいる頃に、小学校のデータ、中学校のデータは取ろうと思って学生の親族の学校に頼んで見たことがあるのです。しかし校長に会ってみると,「中京大学のようなへっぽこな先生じゃ、ろくなことしないから、お断りします。私たちは、この間まで名古屋大学と協力していました」といわれてしまったのです。 兵庫教育大へ行ってから、ミシガン大学のBussの研究に参加しました。37の文化が研究対象となりました。Bussにはこの研究に参加した人々を著者にした論文が1つあります。小学校や中学校などで、子供の教育のときに、その国の価値というものがでるのです。でも私は、直接,児童・生徒を対象にするより,教員に書いてもらった方が望ましいことを答えるので、ぴたりと出るよと言って、書いて出したら、本当に学生より大分いい方向に返事がきました。その論文は私が兵庫教育大学でやった研究の最後ぐらいでしょう。  私は、自分でこのように書いてきたのですけれども、紀要は、全部、私は外しています。院生をもっと大事にしてあげて、学問の世界に残るようにすればいいと思うのだけれども、昭和女子大の院生さんは、ほとんどカウンセラーになってしまいますね。  私は、カウンセラーにはあまり口を挟まない方がいいので、挟んでいませんけれどもね。けれども、今から言ってもしょうがないのだけれども、できのいい子の大勢集まる心理学科に勤めると、いいなと思いますね。自分のやりたいことを手伝ってくれるでしょう。また、その人も、共同研究で名前を出してあげると、うれしくなって、2、3度書いてくれるでしょう。特に私の共同研究でも、日本の名前の人が何人かいました。そのほとんどが京大の学生です。私が、京大で元助手をしていたという縁です。  私は『クロスカルチュラル・サイコロジー』の学会に、頻繁に行って発表していました。それで、役員と顔なじみになったので、「日本からの役員がいないから、なってくれ」と言われて学会の役員になったのですが,役員になると論文審査が頻繁に回ってくるのです。そこで「ちょっと学校が忙しくて、審査できないから」と、何年かして断ってしまいました。 クロスカルチュラル・サイコロジーには9つほど論文を出しているのですが,その他に『Australian Journal of Psychology』に嘉志摩佳久さんと書いています。初めて会ったのはオーストラリアで学会があったときに、彼が空港まで迎えにきてくれました。 著書 私は、日本の単行本であちこちに一つ二つの章は書いていますけれども、大体、知能や認知、質問紙などに関する章を書いています。大山さんの本に二つ三つぐらい書いたでしょうか。私の若い頃は、知能というとピアジェしか出てこない人が多かったもので,ピアジェも知っているし、アメリカの知能も知っている人ということで、大山さんが私を指名したのだと思います。 国際的にも有名なEPPSとSTAIの日本版作成にあたり,肥田野直先生と福原眞知子さんに協力したことは,私にとって忘れられない研究でした。いずれも単純に英語版を翻訳した質問紙心理検査でないことは誇りにしてよいでしょう。STAI原著者であるSpielbergerおよび肥田野先生,福原さんとともに日光に行ったことは,私にとって忘れられない出来事でした。 後は,1969年に最初に私がエディターになって検査法について書いています。それから日本文化科学社の『心理検査入門』,そして博士論文の「心理検査における反応の心理」などがあります。海外の単行本ではbook Chapterとして9つの論文が掲載されています。アフリカの教科書に1つ、日本の「自己概念に関する研究」を紹介しています。ストックホルム大学のMagusson,D.との不安に関する共著論文が2つあります。 海外との交流 あるとき,ブルガリアの文部省から,日本の中学生などが,国際テストなどで、とても優秀な成績をとるのでその理由を話にくるようにと依頼がありました。行ったのですけれども、アメリカの状態・特性不安で有名なSpielberger,C.D.が、もう一人の登壇者としているのです。「ええっ、あれと一緒に話すの。これは比較にならない」と思いましたが、仕方が無いので20分ほど話をしました。何とかしゃべったら、帰りにおみやげをくれました。印象に残っているのは、帰国のため、空港まで飛行場に連れていってくれた女の子が、とても美人だったのです。出るときに、「この界隈で一番美人です」と係の人が言って、そうだろうなと思いました。ブルガリアから招かれた理由は不明ですが、推測すると、私は欧州で開催されたTest Anxiety、正確にはInternational Society for Test Anxiety Research(STAR)あるいはInternational Conference of the Stress and Anxiety Researcher Societyにたびたび出席していたからではないかと思います。  NATOというものがヨーロッパにあります。そのNATOから、モチベーションやアチーブメントについてのシンポジウムで話をするように依頼がありました。参加したらギリシャのアテネでシンポジウムのようなものがあって、そこでしゃべってきました。それが『Human Assessment Cognition and Motivation』という書名で出版されました。私の発表題目は“Achievement Motivation and Socialization in Japan”であった。  それから、イギリスも、アイゼンクが亡くなったとき、日本で言う追悼会というものがあるので参加するように連絡があったのですが,これは自腹ですし,往復したら、すごいお金ですから、迷ったのですが行かず,手紙だけで失礼しました。かわりに,その後イギリスへ行ったときには、奥さんに会ってきました。 海外に行くのには,お金がかかりますが,いろいろな国に国際研究への助成制度があります。そのようなことで、調べればいくらでもあるのです。カナダのものは、カナダの大使館に直接行って、研究助成の制度はありませんかと言ったら、教えてくれます。私はそれで、3回行っているのです。  皆さんが、もし行くのであれば、カナダがよいですね。夜おそくまで大学にいても危險なことがありませんでした。女子学生が夜おそく帰宅しても安全だといっていました。私は中国にも行っています。韓国は、ソウルに3回行ったでしょうか。現地によく知っている人がいるので、行くのです。日本人は、もっと多く海外の学会や、学校へ行ってほしいなと思います。本当に、私も間もなく死ぬと思いますけれども、若い人が、向こうの人たちで、面白い研究をしていることがあるとそのような人と、直接、連絡を取ってしまうのです。向こうが「痛いところをつついているな」というような点をつつくと、返事が必ず来ます。それがもとで、このように論文が、共同研究がたくさん出せるのです。現地へ一度行って、本人に会うことが一番いいのです。私がよく行っていたのは、結局、博士論文を書いたあとだったでしょうか。43歳、44歳からあとではないかと思います。それまでは、手紙のやり取りだけです。  それから、外国の心理学者が日本へ来たときです。それから、私は日本の心理学会にあまり貢献しなかったけれども、正式な名前は忘れましたけれども、1990年にInternational Association for Cross-Cultural Psychologyの第10回大会を奈良で開催しました。それは、私、三隅さんにお世話になりましたけれども、三隅さんも、海外へ行ったとき、「岩脇の国際学会を手伝ってくれ」と言って、誰かに頼まれたらしいです。当時、三隅さんが、奈良大にいたものですから、奈良に顔があるので、彼のおかげで異国の心理学者に舞楽を提供しました。  舞楽を学生にやらせて、外国の人は喜んでいました。 質問 イン  少しだけお伺いしてもいいですか。軍隊に行かれるときに、心理学の本を持っていかれたと、先ほどおっしゃっていましたけれども、何の本か覚えていますか。 岩脇  覚えていません。入隊したら、すぐに取られてしまったので。相良先生の、昔あった(戦前)教養新書の一つだったのではないでしょうか。それも、表紙を見ただけで、中を読んでいないたよりにならない記憶です。 若い人へ  若い人には,海外に行ってほしいなと思います。今、アメリカの良い学校で一番多い他国学生は韓国、中国出身の人々です。そのような学校には,アメリカ国内から優秀な人が来ています。彼らは 将来、社会に出てから活躍するのです。大統領になる人がいくらでもいるのです。その友達なのです。その連中が、大統領にならなくても、そのクラスまで行ったときに、その人が中国・韓国のプロフェッサーになっているでしょう。一言書けば、何も手続きしなくても招待してくれるでしょう。カナダにいたVernon,P.E.から「日本の知能研究のことを紹介してくれ」と手紙がきて、原稿を書いて送ったことがあります。Human Abilities in Cultural Context(1988),Cambridge University Press:という書名の本の1つの章になりました。彼は1987年に永眠していますが、その書物は1988年にイギリスで出版されました。折角共執筆者として印刷されたのに残念です。 投稿しても共執筆者が手伝ってくれるのです。それで、私の英語の文章を見て、うまいなと思ったら大間違いです。 いろいろ事情があるのですけれども、若い人が海外へ行って、まず友達を作ることを進めます。ゼミの中へ行って発言を聞いていたら、誰がいいことを言うかということが分かってくるので,その人と、仲良くなればいいのです。その人は必ず論文を書くでしょう。指導している先生に、「学生のうち、あの子が賢いなと思うけれども、どうですか」「実験は誰がうまいですか」などと聞いて、その人と仲良くなれば一番です。その人は博士号を取ったら、たくさん論文を書くでしょう。そうしたら、日本との比較というものも出てくるのです。ですから,若い人に、ぜひ海外へ行って、そして論文を海外の雑誌に出すと、必ず向こうから,連絡が来るのです。それにうまく返事を出すと、そのうち、「共同研究に加わらないか」と、必ず来るのです。 審査での経験 私も、海外の雑誌へ投稿された論文を審査したことがあります。英語が,直訳な論文がある。「こうして、こう直したら」と助言して返すと、その論文は二度と再提出されなかったりします。怒ったのだなと思いますが,怒った方が損です。直してもらったら、直したものを出した方がいいのです。海外に永い間いた人以外は、日本語を英語にしたという英語だから英文論文がぎこちないのです。内容が良ければ英語圏の友人が直してくれます。 イン 貴重な話、ありがとうございます。 岩脇 何か聞きたいことがあれば。 高等学校での思い出 私が、高等学校へ入ったときから文学部をねらっていたのは、国文と英文以外の文学部が無試験だったからです。時々、心理学は、年度によっては試験があったそうだけれども,面接試験ぐらいで終わっているのです。中学のときは、国文へ行くつもりだったのですが,もう1人、高校の同級生に国文学科へ行く人がいて、その人は東大へ行って助手になって、広島大の先生になりました。そのような人がいたので、2人も国文学科へ進学する必要はないということで、「自分のいける学科はあと心理学ぐらいしかないな」と思って、心理学へ行ったのですけれどもね。 高等学校3年間といっても、初めの1年間は遊んでいて,あとの2年は、まず兵隊に召集されて2年生の5月から8月下旬までは休学という形になった。8月下旬に除隊の命令を受けましたが広島の原爆で家屋も家族もなくなり、それからバイトに忙しくて、学校にはほとんど行っていませんでした。そのようなわけで私は、高等学校の文科でびりなのです。心理学はよかったですが,それ以外の学科の成績も悪いし,卒業できるはずではないのです。試験も、同じ科目(国語)を前期も後期も遅刻してしまったのです。先生は、点のつけようがないです。でも,私の1年生のときの成績と、もう一つ、特講というものがあって、それは95点だったのです。ご自分の学科も休んでいるのですけど点をくれ,最後の教授会のときに、「あいつはできるから」と一言言って下さったようです。そうしたら、もう1人、歴史の先生だけれども、「あいつは、文学部へ進む連中の中で、助手に残れるやつは、あいつだけだ」と言ってくださったそうです。 その歴史の先生は,私が京都大学の助手になったときに、静岡の、女子大学の教頭をしていましたけれども、「私、京都大学に助手で行きました」と通知を出したら、喜んでくれて,その葉書が着いてすぐ、勤務先の学校の講義を休校にして、京都まで来たのです。私は幸せな人間だなと思いました。どうしてがんばってくれたかと言うと、「あいつはびりだけど、原爆のせいで学校休むのも無理もないんだ。もともとできるんだから、ぜひ卒業させてくれ」と言って、他の先生方に頼んで歩いたようです。おかげで、教授会で私の卒業が通りました。 その先生が飯を食いながら、涙を流していました。「岩脇を卒業させるときは、俺は苦労したんだぜ。あっちの先生、こっちの先生に、個人的に回って、あいつを卒業させなかったら、ここでぐれてしまう」。  決まってから、正木先生の同級生の森先生のところへ行って、「心理学へ行くことにしました」と報告しました。そのときに助けてくれた先生が、もう1人の国語の先生です。「あれは頭悪くないよ」と言ってくれました。「あれだけ授業出てなくて、私は95点、つけていますからね」と言ってくれたのです。あとは赤点がずらりと並んでいました。でも、世の中は、どのような人がいるか分からないけれども、私はそのような意味で感謝している先生は、もう一度言いますと、卒業のときに助けて下さった高等学校の先生、それから、正木先生を紹介して下さった森先生,大学を卒業後にいろいろお世話になった北村晴朗先生,そのとき、文学部から教育学部へ行かれた正木先生。あの先生が京都へ赴任されたので、私が助手としてついていって、そしてグレアムさんに会えたのです。そのとき、私を世話してくれた人が続先生です。 イン はい。分かりました。ありがとうございました。 (録音終了) 学術雑誌に投稿し,採用された論文は, Journal of Cross Cultural Psychology, 9 Psychologia, 9 Journal of Social Psychology, 6 Psychological Reports, 3 Perceptual and Motor Skills, 3 Child Development, 2 Personality and Individual Differences, 2 International Journal of Behavior Development, 2 International Journal of Psychology, 2

インタビュアー:荒川歩(武蔵野美術大学)、小泉晋一(共栄大学)
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