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肥田野 直先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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    肥田野 直先生

肥田野 直先生の略歴

・東京大学、クローンバック、ウィリアムソン、学生厚生補導講習会、心理適性研究所
・1943年東京帝国大学文学部心理学科卒業。1945年復員後に東京帝国大学文学部大学院入学。津田塾大学助教授、東京女子大学助教授、東京大学教授、大学入試センター教授、放送大学教授、日本心理適性研究所所長を歴任。博士論文「人格目録の測定論的研究」。
・東大学生時代の講義や読書会の思い出や、進駐軍の指示による進学適性検査の仕事でクローンバックに出会ったこと、学生厚生補導講習会でウィリアムソンのカウンセリングを学んだことなど、第二次世界大戦後のアメリカからの心理学を学び発展を支えました。

日時:2014年3月27日(木) 13時30分―15時
場所:肥田野先生ご自宅、都立大学前にて
肥田野(ひだの)直(ただし)
 1920(大正9)年7月9日、東京都で出生。1943(昭和18)年9月、東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒論「シロネズミの砂堀り行動に及ぼす動因の強さの影響」)、海軍予備学生として入隊(旅順での基礎訓練後、海軍技術研究所に配属)。1945(昭和20)年9月、復員。1945(昭和20)年10月、東京帝国大学文学部大学院(旧制)入学。1946(昭和21)年、文部省教育研究所嘱託。1948(昭和23)年、津田塾専門学校教授。1953(昭和28)年、東京女子大学文学部助教授。1955(昭和30)年、東京大学教育学部教育心理学科助教授。1966(昭和41)年、東京大学教育学部教授。1973(昭和48)年、教育学部長。1981(昭和56)年、東京大学を定年退職(名誉教授)、大学入試センター教授・研究部長。1982(昭和57)年、大学入試センター企画調整官(副所長)。1986(昭和61)年、大学入試センターを定年退職(1992年名誉教授)、放送大学教授。1991(平成3)年、放送大学を定年退職。文学博士(1976年「人格目録の測定論的研究」東京大学)。学術会議会員(第13期~第15期)。日本教育心理学会名誉会員(1991)。日本心理学会名誉会員(1993)。日本応用心理学会名誉会員(1994)。行動計量学会名誉会員(1997)。勲二等瑞宝章(1994)。(以上、大泉編『日本心理学者事典』より)

インタビュアー(以下、「イン」と略)A このインタビューの目的と概要ですが、日本心理学会は2017年で設立の90周年を迎えます。90周年の記念事業として、日本の心理学の発展の歴史を後世に伝えるために、日本心理学会名誉会員の先生方にご自身の研究を語っていただく心理学者オーラルヒストリーを行うことになりました。日本の心理学をリードしてこられた先生方の研究や思いを後進に伝えるため、ご協力をお願いしております。本事業は日本心理学会教育研究委員会の歴史小委員会、委員長はサトウタツヤになります。

肥田野 皆さん、歴史に興味がおありですね。昔はそういう方が少なかったんですが、最近は段々増えて心強いです。昔は心理学会そのものも歴史がなかったんです。心理学史といえば外国の心理学史しか考えられなかったんです。しかし、現在は日本の心理学史の学会もあるようですね。

インA 今日は、先生のお話に合わせながら伺っていけたらと思っております。心理学を学ぶまでのお話を伺えたらと思います。よろしくお願いします。

肥田野 私が心理学に興味を持ったのは戦前の頃でした。当時は心理学の概説書も殆どありませんでした。せいぜい児童心理学とか青年心理学の本しか目に入りませんでした。
そういう状況では心理学というものを理解するには十分な資料がなかったのです。私が心理学について学問的な講義をうかがったのは、旧制高校の2学年の時でした。当時は文科では2学年に「心理・論理」という科目がありました。心理と論理はあまり関係がないんですが、なぜかひとつの科目として同じ先生が教えることになっていました。私は静岡高校でしたから、小木曾恩 先生に心理学を習ったわけです。しかし、心理学に興味を持ったきっかけは小木曾先生の講義というより当時読んだ「人間 この未知なるもの」という本でした。これはカレキンス・カレルという人が書いた本で白水社から翻訳が出版されていました。高校の寮の図書室でみつけて熟読し詳しいノートもとりましたが現在は手元にありません。

インA 今もベストセラーですね、カレルの本は。

肥田野 現在も出ているんですか。すごいロングセラーなんですね。私が中年になって専門の違う同年輩の学者にちょっとカレルの話をしたらその人も似たような記憶があるといわれました。青年期はみんな同じような経験をするものだと深く印象づけられました。カレルは広い視野を持った自然科学者というか哲学者というべき人で、自然科学人文科学が進んでゆくと交差する所に人間を理解する鍵が見つかるかもしれないと彼が言っているように私は思いました。心理学はその方向を目指しているのではないかと私は空想したのです。私の父は眼科の開業医で自然科学的雰囲気もあったんです。しかし、医者という職業は嫌いでした。

インA 大分、医者に「なれ」と言われたのでしょうか、先生は。

肥田野 医学の修行は解剖なんかがあり、何か切ったり張ったり血を流さねばならない。これは苦手だから避けたい。医学を進路から外すと心理学しか残らない。心理学を学ぶには大学の文学部の心理学科に行かねばならない。そこで小木曾先生の出身校の東大を当面の目標としました。ご承知のとおり当時は心理学科しかなかった。社会心理とか臨床心理など細かく分かれていませんでした。高校の文系の同級生の大部分は法学部か経済学部を志望していて文学部志望は少なく、いても英文とか国史でした。そんな中で心理学を志望するには決心が要りました。実は高校に入学した年に父は他界しており相談相手もいなかったのです。

インA ご病気か何か……。

肥田野 ええ。そうです。自宅に帰る途中狭心症で亡くなりました。まだ50台でした。そこで父はなく進路相談は母には荷が重すぎ、姉や弟は若すぎて話し相手にもなりませんでした。幸い父の先輩の眼科医 は大学教授で、大学の学習とか入試について一般的知識は大体わかりましたが心理学については専門が離れすぎていて情報は得られませんでした。親戚は銀行家が多く、文系は国文や英文はいても心理学は一人もいませんでした。ところが、同期生の一人が心理学志望と分かりました。

インA どなたでしょう。

肥田野 その名前は三浦武 という人で一緒に大学に入りました。心理学会の会員で長生きされ数年前亡くなられました。東京都立大学 の名誉教授でした。その方は文甲 で、私は文乙 というように学科は違いました。志望が同じと分かってからは、時々一緒に小木曾先生のお宅に行き東大心理学科の情報をうかがってきました。
 そして高校を卒業した年すなわち1941年に東大に入学したのです。ところがこの年に限って心理学科の志願者が定員を超過したんです。文学部は学科によって定員が違いますが、英文学や国史などの学科以外は例年志願者が定員に足りず無試験で入学できました。心理学科でも試験がある年は珍しいので、あわてて受験勉強をしましたが、幸い全員合格でした。

インB 旧制高校の小木曽先生の授業はどういう内容だったのでしょうか。

肥田野 小木曾先生の授業の内容は正確に記憶していませんが、記録したノートも処分してしまいました。論理学の部分はごく簡単で、大部分は心理学でした。それは知覚と学習・記憶が中心で、発達とか社会心理はあまり話されなかった。小木曾先生の卒論は児童心理だと後で知りましたが、先生の講義には出て来ませんでした。また、臨床心理学もありません。社会心理学というより産業心理を話されました。労働とか疲労などに触れられたと思います。

インB 職業場面でのいろんな疲労でしょうか。

肥田野 そうです、職業的な疲労ですね。使用者としてどんな面に気をつけなければならないか。そういう講義でした。全般的に広く浅く分かり易い講義でした。講義だけでなく、例えばミューラーリーエルの錯視実験などのデモンストレーションがあればもっと面白い講義になったと思いますが、これはないものねだりの要求でしょうか。

インB そうですか。ありがとうございます。

肥田野 さて、いよいよ大学に入りましたが、当時は文学部心理学科は3人の教授がおられた。正教授は桑田芳蔵 先生で、心理学概論を担当しておられました。この心理学概論は必修で毎年行われましたが、すべて桑田先生が担当されました。この先生はドイツで心理学を集大成した有名な学者ヴントに学んだ方でした、いわば古典的心理学を代表する方でした。他に千輪(ちわ)浩 と高木貞二 という2人の助教授がおられ、それぞれ各論を担当しておられました。これは毎年題目が変わりました。千輪先生はドイツに留学されましたが新しいGestalt心理学の立場から古い心理学を批判しておられました。高木先生はアメリカに留学され知覚や学習を講義されました。その学習心理学にはスキナーの新行動主義はまだ取り上げられていなかったと思います。尚、私が入学した年は桑田先生が民族心理学も講義されましたが、これもヴントによって開拓された分野でした。以上のほか必修科目として基礎心理学実験演習があり、各年に両助教授が交代で担当されました。私たちが入学した年は高木先生の担当でした。しかし、実際指導されたのは助手、副手、研究生や大学院生でした。学生は2人1組となって、毎週別のテーマで実験を行い、指導者は担当する同じテーマについて毎週順番に別の組を指導するのです。レポートは各自毎週提出しなければなりませんが、結果をまとめるだけでなく参考文献を読んで考察を書かなければなりません。久保良英の書いた大きな本がありますが、多くの文献が紹介されていて非常に参考になりました。この本は図書館に1冊しかないので、借り出されている時もあり、図書館に日参することもありました。レポートは、4枚程度でしたが、実験結果の整理の仕方、文献の探し方、レポートの書き方を勉強させられました。この基礎実験演習で大分鍛えられました。

インA その基礎実験演習は学部1年のときにあった講義でしょうか。

肥田野 1年です。入学した年です。レポートを提出すると指導を担当した方が容赦なく批判して手元に戻ってきました。それがよい刺激になりました。

インB その、2年目は、別の実験演習があったんですか。

肥田野 ええ。2年目は特殊実験演習といって、一つのテーマで数人が1組になって実験するのです。本来は1年間かけてやるのですが、私が入学した年の12月8日に太平洋戦争が始まったのです。そのため在学年限が半年短縮され、特殊実験演習は6カ月間しかありませんでした。
とにかく、基礎実験演習は私にとって高校時代に描いた漠然とした夢を打ち破り心理学の実態を見せつけたといえるでしょう。
 さて、入学した年の講義に戻りますと、特殊講義としては非常勤講師の山下俊郎先生の児童心理学、労働科学研究所の桐原葆(しげ)見(み) 先生の産業心理学、これらの講義は毎年あるのではありません。非常勤講師は年度ごとに交代するのです。それから教育心理学の講義を担当されたのは教育学科に属しておられた
岡部弥太郎 先生でした。また生理学と精神医学の講義は医学部の先生、人類学は理学部の先生が担当されました。こういうのを他学部聴講といいました。尚、文化人類学は当時はまだありませんでした。私が習った人類学は発掘された頭蓋骨を分類して人種や時代を判定する学問でした。
文学部の講義には哲学や哲学史などの必修科目があり和辻哲郎 先生の倫理学は必修ではなかったが面白かったので2回も繰り返し聴講しました。また、旧制高校の「心理及論理」の教員免許の資格を取るため、教育学や教育史や論理学(正確な講義名は忘れました)などの単位を取りました。
講義を聴講する以外に、上級生の実験の被験者をすることも勉強になりました。上級生はそれぞれ研究のため実験する人が多いのですが、被験者になってくれと勧誘されることがあります。こういうとき積極的に志願すると新しいことを経験できます。
その経験で私が学んだことはナイーブな被験者になるということです。つまり、2回同じ刺激を繰り返されたとき、同じような報告をしなければならないと考えるのではなく、前のことは考えないでその時経験したことを素直に報告すればよいのです。
それから、ラットや猿の実験は見学させてもらい、なるべく手続きを真似するように心がけました。
また、上級生が開いている読書会に参加することも勉強になりました。そういう方がそれぞれ参考書やジャーナルをコピーして輪読していたのです。私は英語やドイツ語の自主ゼミに入れてもらい様々な分野の知識を得ました。

インA どんなものを読書会で読まれたか覚えてらっしゃいますか。

肥田野 読書会のテキストはあまりよく記憶していませんが、前田嘉明(カメイ) 先生は後に大阪大学の教授になった方ですが、ドイツ語の本で動物の感じる環境と人間が感じている環境との違いを描写していました。その書名は忘れました。動物の感覚器官の構造からどんな形あるいは色を感じているかどんな音を感じているかを推定し人間と同じ環境にいても感じている世界は全く違うということを書いています。それから小川隆先生 とは切断肢という、戦傷者で肩から先の腕のない人が切断面を刺激されると指先で何かに触れている感覚を持つ現象、これを幻影肢というそうです。そういう英語の文献を読みました。この幻影肢については橘 先生の『手』という著書に詳しく書かれています。また、Gestalt心理学で大事な実験である仮現運動の実験などの文献も読みました。こういう風に正式の授業以外に先輩の方々の自主ゼミから非常に多くのことを学びました。

インA 卒論は、先生は「シロネズミの砂掘行動に及ぼす動因の強さの影響について」であったと、本の方で拝見しましたけども。

肥田野 そうです、そのとおりです。しかし、その前に桑田先生が定年でご退官になったときのことをお話したいと思います。
私が1学年の終わった3月、桑田先生が退官され、千輪、高木両先生が教授に昇進されました。その後任として、相良(さがら)守(もり)次(じ) 先生が助教授として着任されました。先生は記憶の専門家で最初の講義をされました。梅岡、末永両氏と私は組になってラットの自由空間における行動の観察をしました。これが6ヶ月間の特殊実験演習でした。9月末には上級生が卒業し、私たちが3年生になりました。そこから卒論の準備に入り高木先生にご指導をお願いしました。私はアメリカの文献に先行研究があったのでそれを手本にして装置を作製し、実験に取り掛かりました。最初は研究生の前田さんや八木先生、小川先生に相談しながら始めたわけです。データの処理法は田中先生に指導していただきました。
インA 当時、同じような、ラットを使った研究をされていた学生はどのぐらいたんですか。

肥田野 その年は割合多かったんです。まず梅岡義貴さんが有名なスキナーボックスを使って実験しました。これは日本で、最初の実験だったかもしれません。もう一人は小瀬(おせ)輝(あきら)さんでした。この方は卒業してからJRの国鉄労働科学研究所で労働心理を研究され、定年後大学に移られました。長生きされて数年前亡くなられました。従って梅岡、小瀬両氏と私の3人がラットを使って卒論を書いたのです。なお、 2 年生のときラットの行動観察をした仲間のうち末永さんだけは社会心理学で卒論を作成されました。
 動物実験のほか苧阪さんのように知覚の実験をした方も何人かいたし、児童や産業関係の研究をした人など結構多彩でした。

インA 卒論を投稿された というのは。

肥田野 戦後「動物心理学年報」に投稿しました。そこに掲載された実験装置の簡単な図(Fig.1)がありますが、見ていただきます。ブリキで筒を作って二つの箱を繋げたのです。













インA 作られたんですか。

肥田野 筒は業者に作ってもらいました。最初は空の筒を通って上の箱にある餌を食べる練習を行い、次回からは筒に砂を詰めます。そして、ラットが砂を掘っている時間と掘った砂の重量を記録しました。一方、動因は空腹の程度としましたが観察ではそれを判断できませんので、絶食時間の長さで操作的に決めました。すなわちラットを4群に分け絶食時間を1、12、24、36時間としました。各群の測定値(時間と重量)を比較して動因の強さと測定値の関係を検討しました。私の卒論は以上のとおりで動物実験はそれ以後行っていません。しかし、梅岡さんは戦後も動物実験を続けられ、行動主義の全盛時代のリーダーシップをとっておられたわけです。
 卒論は以上のとおりですが、それを提出してから 9 月に卒業し、月末呉市の海軍施設に入り、その翌日輸送船で旅順の予備学生訓練隊に入隊しました。東大心理学科を卒業した同期生の数名が一緒に第3期予備学生として4ヶ月の基礎訓練を受けました。彼らの多くは基礎訓練後、土浦の海軍航空隊で適性検査を行いパイロットを選抜する任務に配置されました。私は他大学の心理学科卒業生と共に恵比寿の海軍技術研究所に配属され、種々のテーマ例えば超音波測距儀の訓練方法の研究に携わりました。
我々同級生は海軍予備学生、陸軍に召集された人、召集を解除された人、戦病死した人など様々な運命を経て終戦の日を迎えました 。

インA では、研究について、研究テーマを選ばれた理由と変遷などをお教えください。

肥田野 戦後進駐軍の要請でアメリカから教育専門家の使節団が来日し、教育改革を勧告しました。その勧告の一つは漢字混じりかな文を廃止してローマ字を採用せよというものでした。私の実験はローマ字に関するもので、ひらがな、カタカナとローマ字の読みやすさを比較するものでした。活字の大きさは文字によって違いますが、閉じ熟語を号数を統一した活字でかなとローマ字で印刷しました。このカードを提示して判読可能な最低の照明条件(可読閾)を求めました。これ以外にも瞬間露出器で読み取る最短時間を測定する方法もありましたが 、装置の利用が困難でした。勿論単語よりも文章の読みやすさが実用上重要であったでしょうが。
 この実験よりも先に担当した仕事は私に重要な意味がありました。それは 1947年の国公立学校の入学試験の改革に関連して各校が行う学力試験に並行して実施された全国共通の進学適性検査の解答結果を集計・分析する仕事でした 。この検査も進駐軍の民間教育情報部(CIE)の指示に基づいて行われたもので、検査の効果を判断する為に解答結果の集計と分析が必要と考えられたのでしょう。この分析の仕事の助言者としてCIEが招いたアメリカの新進心理学者がリー・クローンバック でした。彼は助手が必要になり、東大の高木先生にアルバイトをする人間の推薦を求めました。そこで大学院生の私が助手の仕事をすることになったのです。その仕事を通じて私はテスト分析の方法を習得しました。いわば短期間の大学院留学のようなものでした。クローンバックが帰国した後も教えられた方法を使ってデータを分析し、1年間をかけて 1947年度進学適性検査の報告書を完成しました。教育研修所と共同執筆の形ですが。このクローンバックは帰国後信頼度係数の一つであるα係数を発表しましたが、私が学んだ中にもそのアイデアが含まれていました。いわば最も新しい方法を学んだのです。

インA 最先端の研究法だったんですね。

肥田野 話は別ですが、当時は因子分析さえやれば卒論になるというような時代でした 。データが何であろうと分析法さえ新しければよいという風潮がありました 。
 さらに遡ると、広島大学の古賀先生がイギリスで学んだ2因子分析法を日本で紹介されたものは非常に面倒な計算法でした。また、アメリカで進歩した多因子分析法も計算が大変でした。現在ではコンピューターに仕込まれたプログラムを使って簡単に因子分析ができるようになりました。そのほか、戦後盛んになった、統計的仮説検定法とか母数推定法などいわゆる推計学も現在ではコンピューターに任せることが出来るようになりました。勿論理論が分からなくては思わぬ失敗をすることも有ります。そこで実例を沢山盛り込んだ入門的教科書を瀬谷正敏さんと大川信明さんと 3 人の共著『心理・教育統計学』として出版しました。この本は使いやすいためロングセラーになりました。 また私は、実験計画法などを応用した心理学の研究法を基礎的実験演習を終わって卒論に取り掛かる準備をする学生のために講義するようになりました。このような講義は心理学科の学生時代の自分の経験から教育心理学科のカリキュラムの中に入れるよう試みたものです。
 こういう方法は教育評価の基礎として重要であると思います。評価の重要な方法にテストがありますが、教育心理学科の卒業生にはテストの研究で優れた研究者が輩出しています。テスト学会の創立者である池田さんや、項目分析理論の芝さんは素晴らしい業績を上げました。
余談ですが、先に述べたクローンバック教授は1967 年に招聘教授として1年間講義をしてくれましたが、これも学生に大きな影響を残してくれました。
話が戻りますが、私が助教授として教育心理学科に配置された当時は依田、澤田、三木 の 3 人の教授がおられました。 依田先生は人格心理学、澤田先生はカウンセリングと生徒指導、三木先生は児童心理学と知的障害児教育が御専門でした。私はどの講座にも属さず上に述べたような講義を担当しました。ただ、必修科目である教育心理学概論は私を含め全員が毎年交代で受け持ちました。講義以外原書購読の演習は各自で、また、教育心理学実験演習は三木先生と私が担当したと思います。

インB 先生のお仕事のうち、カウンセリングみたいなものも多くありますが。

肥田野 カウンセリングに関しては占領下時代に遡りますが、民間教育情報部(CIE)の企画で教育者や学者がアメリカ視察に派遣されたことがありました。その一環として日本心理学会から推薦された 6、7人が1組になって、3ヶ月間アメリカ各地を回りました。私は 岡部先生に同行して東海岸から西海岸に主に鉄道を利用して大学やテスト機関に行きました。途中全国的に進学適性検査を実施している(ETS)教育テストサービスを見学し、いくつかの大学を訪問したとき非指示的カウンセリングのロジャース教授に会ったのです。

インA ああ、そうなんですか。

肥田野 私はカウンセリングの知識がなくロジャースが偉い人とだとは知りませんでした。其処でイソップ物語を例にして強い北風よりも暖かな太陽が自発的に外套を脱がせたというノンデイレクテイブの話を聞きました。これは有名な話ですね。それは1951年のことだったでしょうか。

インA 31歳のときに行らっしゃっているようですね。

肥田野 その翌年にSPS研究会がありま した。そこでも私は講師団の助手みたいなことをやりました。アメリカの学生相談の専門家が何人か来日し、日本の専門家も加わって講師団を作りました。国内の大学の学生部の職員や相談の専門家が研修生として参加し、カウンセリングを学んだわけです。私も初めてカウンセリングを学びました。特にボロウという方からテストをカウンセリングに使うにはどうしたらよいかとかどんなテストが役にたったかを勉強しました。臨床心理学の専門家の方とは多分出発点が違っていたでしょう。

インB この学生補導更生研究会でしょうか。

肥田野 ええ、そうなんです。当時は学生厚生補導講習会と呼んだよう です。

インB このカウンセリングの講習会は向こうからこのテーマでという形で来たんですか。それとも、こちらから希望を出したとか。

肥田野 詳しいことは分かりませんが、文部省が企画してアメリカ側で人選したようです。要するに、授業料値上げなどいろいろ学生には不安があるので、学生の言い分を良く聴かねばならない、よい相談相手にならなければならない。そういう考え方を学生部に広げるために講習会を開いたわけです。最初に九州、次に京都、最後に東京で3ヶ月間ずつ講習会を開いたのです。講師の中にはボロウさん、中間派、また、純粋の非指示派のウォルフさんもいました 。指示派は精神医学と同様まず診断を行ってから治療するというやり方、一方反対派は徹頭徹尾相談相手の話に耳を傾けるというやり方です。カウンセリングが普及し始めるとこの立場を主張する友田 氏を支持する人が増えたようです。しかし、私は昔ながらの指示派も忘れられません。また、この講習会と前後して東大の 二つのキャンパスに学生相談所が新設され、駒場では中村先生 、本郷では澤田先生 が所長になりました。こうして、学生相談が全国に広がっていったのです

インA ウィリアムソンですね。

肥田野 1956年ウィリアムソンが東大で2ヶ月間講義をされました。私は澤田先生と 一緒にその手伝いをしました。ウィリアムソンさんの講義はミネソタ大学で学生部長として担当しておられたケースのデータを学生に提示されてそれを検討しながらどのように指導するかを考えさせる、聴講している学生に意見を発表させて、先生の意見も述べながら議論するのです。その状況をすべて録音して後で文章化して日本語に訳しました。この講義禄を ウィリアムソンさんの著書として出版しました。この仕事を澤田先生と一緒にしましたのでウィリアムソンさんのカウンセリングの中身を随分深く勉強できたと思います。

インA 何か先生がその後、学生問題研究会に、1958年、昭和33年ごろに設立されてるようですが、こちらも参加されていたんでしょうか。

肥田野 そうですね、東京のSPSに参加した人の中で熱心な人が勉強会をしようと提案され、 東大でウィリアムソンさんの講義を受講した人なども加わって日本学生相談研究会が設立されました。昭和33年ごろだったと思います。そして、毎年アメリカから専門家を招いて講義を聞くことにしたのです。最初は文部省にお願いして、講師の人選や招聘手続きをしてもらうようにしたようです。

インA この1952年に学生補導更生研究会という……。

肥田野 それがSPS ですね。

インA そこからだんだんとそれが発展したのですね。

肥田野 そう。学生相談研究会とかね。それともう一つが産業の方で、日本女子大の杉渓 さんね。あの方が産業の方で、SPSとはちょっと別の系統なんですけども、そこも同じようなこと、やっておられたんですね。

インA なるほど。ちなみに、何かラットの研究から学生相談の研究まで随分、今の心理学から考えると距離があるように思います。

肥田野 何かねえ、だから、変遷とどこかに書きましたけれどもね。初めにお話した通り心理学について夢を見ていたのかもしれません。あちらこちら手探りで進みながら結局研究方法というものの大切さに気付いた次第です。

インA 時代の何か要請のようなもの、時代の変化というか、その時期の要請もすごく受けていらっしゃったんでしょうか。

肥田野 そうですね。進学適性検査もそうだったし、ローマ字の採択に関連してかなとローマ字の読みやすさに比較した実験もそうでした。苧阪先生のように学生時代から月の錯視というテーマで頑張っておられる正統派に比べると脇道ばかり歩いた人間です。

インA 先生が作られたTPIもSTAIも、まだ臨床でよく使われてます。

肥田野 そうなんです。不思議なことにね、TPIだけはね、すたれずにあるんですねえ。

インB 大学にご就職された経緯をうかがいたいのですが。最初は津田塾専門学校 と。

肥田野 そうなんです。津田塾専門学校に就職の際は、恩師である高木東大教授の推薦によるものでした。その後の東京女子大については、東京女子大助教授の前田嘉明さんは、学生時代の読書会その他の先輩で、私は同大講師として協力していたとき、前田氏は大阪大に転勤、その前にドイツ留学の為退職となりました。そのために、私は津田塾在籍のまま穴埋めに非常勤講師を務めました。津田塾の5年目のことで、翌年東京女子大に移りました。文学部教育学科心理専攻で卒論指導はやりがいがありました。2年目には心理学科独立を計画しました。高木先生は東大を定年退職され女子大学長に就任、カナダ留学中の白井教授を中心として新しいスタッフも揃いました。翌昭和30年に送り出された第1回卒業生には柏木さんほか約20名が含まれていました。

インB で、それから2年間いらっしゃって、東京大学の方に戻っていらっしゃったんですね。

肥田野 ええ。東大は昭和 30 年ですけどね。だから、本当は東京女子大に2年間しかいなかったんです。私は定年になった東大教育学部岡部教授の後任として教育心理学科助教授となりました。だから、指導教官の高木先生や岡部弥太郎先生には本当にお世話になりましたね 。

インB その後、教育心理学会のお仕事とか。

肥田野 そうそう、そうそう。

インB 学会のお仕事もされて。

肥田野 そうなんです。これは大学の仕事じゃないから差し上げたメモに書きませんでしたけど、心理学会の仕事、というより教育心理学会です。岡部先生が最初の会長で、2代目会長は城戸幡太郎先生でした。初代の事務局長は三木先生でそのあとの事務局長は私がかなり長期間引き受けていました。この時はいろいろ仕事をしたので思い出もあります。

インB 学術会議の仕事もされています、いろんな学会活動を通して、苦労されたこととか、何か思い出深いこととかはありますか。

肥田野 まず、日本心理学会ばかりでなく日本の心理学者全体にお役にたった仕事が一つあります。それは第22回国際応用心理学会議を1990年京都で開催したとき同会議の準備会 (これは日本心理学会が中心となり種々の学会が参加して組織したもの)に日本学術会議も共催者として参加したことです。学術会議共催となると寄付金にかかる税が優遇されるので寄付が集めやすくなります。私たち4 人の心理関係の学術会議会員の任期中にこの議題が審議されたので我々4人の意見を反映させることができたというわけです。
 もう一つ、心理学に何の関係もないことですが、私が第1部長をしていたときそれ以前から懸案になっていた問題を解決したことがありました。第1部は人文科学の会員31人から構成されています。会員は自分の出身学会から選出されますが、これはいわば選挙区のようなものです。心理学の定員数は4名ですが細かく分けると心理学3と行動科学1と定まっています。ところで芸術学分野では学術会議の会員が1人もいないのでその定員の枠がほしいと要求していました。これが長い間の懸案でした。そこで私は芸術学は広い意味での哲学の一分野であるから既に一分野として独立している宗教学と同様芸術学も独立させてはどうかと提案し、哲学以外の第1部会員全員の賛成を得たうえ、残りの哲学の会員も賛成してくれました。第1部の選挙区分の改正案は学術会議全体でも承認され、選挙規則の細則が改正されました。こうして懸案が解決したのです。つまり美学 ・美術史などの分野の学者は定員1名の自前の投票区を手に入れることができたのです 。

インB いろいろ学会でも役員をなさっていますけども、他に何か、日本心理学会でも教育心理学会でも、思い出はありますか。

肥田野 そうですねえ。昭和30年代の終わりごろから会員の職業資格認定の問題が起こってきました。いろいろな学会が集まって研究を始めていました。私は日本心理学会から 委員としてその会議に出席していました。議論の結果、必要性が高い臨床心理から資格認定を始めることになり、日本女子大学の児玉先生を代表とする認定機関を創設することが日心初め種々の学会で認められたのです。ところが、東大医学部付属病院精神科で紛争が起こり東大紛争に発展しました 。
 日本精神神経学会の紛争が臨床心理学会に波及し、資格認定機関は凍結状態になりました。
 壊滅に近い状態になった臨床心理学会に替わって心理臨床学会が創立し、臨床心理士制度が初めて実現しました。
 それ以後はさまざまな学会が○○心理学士という制度を設けるようになりました。これが乱立したため、国家資格を法律で決めることが国会で審議されています 。

インA ありがとうございます。

肥田野 いいえ。どうも。

インA 後世に伝えたいような何かがありましたら。

インB 今後、心理学を目指す若い人に。

肥田野 昭和30年ごろまでは心理学の範囲が狭かったと思います。現在は非常に広がっているので、心理学のIDENTITYが分かりにくくなっているように思われます。現在の心理学者、特に若い人にその問題を考えていただきたいと思います。

インB ありがとうございます。

インA どうもありがとうございました。
インタビュアー:鈴木朋子(横浜国立大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)
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