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畑山 俊輝先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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畑山 俊輝先生の略歴

・東北大学、生理心理学、感覚遮断実験、痛みの心理学、交通安全の心理学
・1969年東北大学博士課程退学。東北学院大学教養部助教授、東北大学文学部助教授を経て、1994年同大学教授。博士論文「情動反応発現の心理生理学的考察 : アラウザル概念からの検討 」
・北村晴朗先生の感覚遮断実験への協力、動物実験で被験体に協力してもらうための工夫、東北大学医学部麻酔科への学内留学、コネチカット州立大学やオランダのロッテルダム大学での経験など、先生の多岐にわたるお話からは、先生のあくなき探求心と生涯現役で研究を楽しまれる様子がうかがえました。



業績目録
東北大学史料館所蔵「東北大学機関リポジトリTOUR 業績目録No.908(畑山俊輝)

日時:2018年9月27日(木)
場所:日本心理学会第82回大会会場(仙台国際センター)
インタビュアー(以下、「イン」と略) 心理学を学ぶまでのお話をうかがいたいと思います。

畑山 私たちが高等学校までの間は、心理学という言葉もほとんど聞かれないような時代だったのですね。それまで私自身は、小学校から電気工作のようなことが好きだったのです。それから、音楽が好きで、高等学校の時にはブラスバンドで、大学ではオーケストラをやっていたのです。大学に入った時にどのような専攻をやるかと考えたときに、文学部を選んだ理由の大きいものは、私の叔母が文学部で宗教学を学んでいたということがあります。叔母の大学の友達がたまにうちへ来たりするものだから、聞いていて「文学部もいろいろあるんだな」ということがあって、どこを選ぼうかというときに、教養部の先生方の授業を聞いて、その中の一つが、なかなか面白そうだと。特に、行動というものをどのように考えるのかなど、考えたこともなかったものですから。
当時の教養部に佐藤俊昭先生がおられまして。動物実験をなさっていた先生です。その先生が、マクドゥーガルのサイコロジーを取り上げて、講読をなさっていたのです。今考えれば、少し珍しいですけれども。それが、先生がわれわれの訳したものを直されて、その訳文がなかなか上手なのですね。それも魅力的だったのですが、行動というものをどのように見るのかということは、日常の問題と密接に関わるし、なかなか面白い問題だなということが一つあったのです。それから、音楽に興味があったものですから、心理学的に言えば、感情のテーマですね。専攻選択の理由はそのようなところにあるのですけれども、美学に行こうかと思ったのです、そのとき。

イン 美学ですか。

畑山 ええ。それで、美学の授業も熱心に受けたのですけれども、何となく自分の関心と違うと思ったのですね。ほとんど西洋美術史だし。そのようなこともあって、集中講義で東大から来られた先生しかおられなかったのです、音楽に関しては。自分なりに『音楽美論』なども読んでみるのだけれども、難解で面白くないのです、とにかく。こちらのイメージしているものとは違うので、自分には無理だと。それから、あるときにNHKで、仙台でテレビ放送、お料理番組のアルバイトで、ケーブルを引っ張るようなアルバイトをやったことがあるのですけれども、偶然に、心理学の3年生の方が2人入っていたのです、一緒のグループに。それで、休憩の時に研究室の様子をいろいろと語ってくれるのです。そうしたら、その中の1人が、「電気工作できると、すごくいいんだよ」と言うのです。一体、行動と心の問題と電気工作がどのように関わるのか、よく分からなかったのですけれども、それとマクドゥーガルの心理学の行動というものの考え方が、結びついたのですね。それが、心理学を専攻する大きな動機づけになったのです。

イン なるほど。

畑山 ただ、うちの叔母や、後で叔母の夫になる義理の叔父などからは、「なんだ、心理学へ行ったのか」と、少しがっかりされたのですけれどもね。そのようなことがあって心理学に行きまして、相変わらず音楽活動の方は、熱心にやっていたのです、オーケストラで。オーケストラで困ることは、勉強ができなくなるのです。練習時間が長くて。そのようなこともあって、そのうちに、専攻の主任の先生が、北村晴朗先生とおっしゃる先生ですが。

イン 晴朗先生、ああ。

畑山 大変ドイツ語の堪能な先生で、よく読めるものだと思って驚きましたが、半年くらい過ぎた頃でしたか、先生に「そろそろいいんじゃないの?」と言われたのです。何がそろそろいいのかというと、音楽にそれほど時間を割かずに、もう少し心理学の勉強をしなさいということのように私は受け取ったのですね。それで、それにも少しショックを感じたこともあって、少し勉強しようということで、北村先生がよく取り上げていたヤスパースの『精神病理学総論』を読み始めました。
 これが、予備知識なしにはよく分からないのですね。幸いこの翻訳には、後ろの方に詳しい索引があるのです。ドイツ語と日本語の対訳のようになっていて、これを利用すると少し理解できるのではないかと思って、夏休みにこれの辞書作りをやったのです。あれは、3巻本がありますからね。結構なボリュームになるのです。小さいカードに書いていくのです。また、『精神病理学総論』が人格心理学との関わりが深いことをおっしゃっていたと思うのです、北村先生が。ですから、きっと北村先生を理解するためにも最善の本かなと思って。しかし用語ばかりに注意を向けていると、中身は分かりにくいものですね。

イン ええ。

畑山 ただ、少しドイツ語に近しいような感じになって、それで勉強して。それから、助教授に安倍淳吉先生がおられて、社会心理学ですが、両先生ともドイツ語が堪能な先生ですので、心理学というものは、ドイツ語ができなければだめなのだと思わされるわけです。ですから、ドイツ語に1年くらいは集中して勉強しなければいけないと思って、やりました。オーケストラは、気にはなっているのだけれども、行かなくなってしまったのです。しかし、音楽への興味関心が、実は卒論の時に頭をもたげるのです。

イン なるほど。

畑山 今のようなことで心理学を選んだということでした。北村晴朗先生や、先ほど述べた佐藤俊昭先生は、まさかネズミをやっているとは思わなかったのですけれども、研究に大変熱心な教養部所属の先生で、異常行動研究会などでかなり活躍されていたのです。
 安倍先生は社会心理学だったので、あまり接する機会が多かったわけではないのですけれども、講読などの授業へは出席しました。講義は独特の語り口と独特の社会心理学で、かなり難解ではありましたが、先生の該博な知識にもとづく考察に大いに刺激を受けました。
 北村先生は、その対極にあるような感じで、著書も比較的読みやすいのです。『自我の心理』という主著があります。それから、おっしゃられることも割と分かりやすい。安倍淳吉先生は、非常に近寄りがたい難しさがあるものですから、必然的に北村先生の教えを請うことが多くなったわけですけれども、不出来な学生なものだから、随分「勉強しろ」とは言われたものです。
その頃、昨日の話と少し関連がありますけれども 、研究室の通路に、今で言う古典機器が保管されていたのです。
 ただ、学生には、その意味が分からないのですね。通路の妨げになるではないかと。それから、中に入っているものは、薄暗いこともあって、これが実験機器とも思えないような感じだったものですからね。丸山先生すら、後になって、「早くあれ片付けちゃえ」とおっしゃったくらいなのです。
 古い建物が片平というキャンパスにありまして、1973年に引っ越しをするのです。川内の、国際センターの上にあるキャンパスに。それまで私たちは片平の古いキャンパスにおりまして、北村先生、安倍先生を中心に、佐藤先生や、少し後になると丸山先生が加わり、実験心理の方に力を入れられるのです。実験心理は、決しておろそかではなかったのですが、千葉先生と北村先生は少し似たところがあって、先生方のテーマが実験的検証にのりにくいこともあり、特別の機械・器具を用いないことが多かったようです。学部の3年生としては、意味がよく分からずに、実験というものを割に素朴なものと思いこんでしまったのですね。その頃、研究室には専門の実験心理学者がおられなかったのです。実際には、佐藤先生は居られたのですが教養部で離れているために、どのようなことをされているのかよく分からなかったのですね。しかし、その前にも実験心理は、実はなさっている方がたくさんいらしたのです。それは、大脇先生のお弟子さんなのです。

イン 大脇義一先生の。

畑山 2代目ですね、東北大心理学の。その大脇先生のお弟子さんの中に、鬼沢先生という、岩手大学に行かれた先生ですが、まさに大脇先生のテーマをそのまま引き継いだのではないかと思うのですけれども、直観像の研究をなさっていたんです。
 ですから、残像の装置などが、岩手大に行きますと、あるのです。東北大で学んだ時に見た実験機器の一部が。

イン 岩手にはあるのかもしれない。

畑山 ええ。引き継がれているのです。大脇先生は、調べていって分かったことは、実証精神がかなり高い先生だったのですね。ですから、「実験は大事なんだ」とおっしゃっているのですが、ご自身も千葉先生の影響もありますし、内面の問題にご関心があって、だから表象や直観像などのテーマに取り組まれていたのだと思います。しかしながら、このようなことを解明していくために、実証的にやらなければだめだということを、かなり強調されていたようなのです。私は直接指導を受けていないので、そこは、資料や先輩の話の受け売りになってしまいますけれども。
 ただ、大脇先生は、お嬢さんの大脇園子先生という立派な先生がおられるのですが、そのような先生との問題。それから、大脇先生の後継の問題で、いろいろなことがあったのですね。ですから、実はその後のお弟子さんたちが、あまり多くを語らないのです。

イン 語らないのですか。

畑山 大脇先生の教育・研究についての話が、よく伝わってこない理由がこの辺りにあると思われますが、お仕事は立派です。直観像の研究などで、昨日も少し申し上げましたが、仙台で初めて脳波の測定をなさっているのです。それが、驚くことに、研究室にまだ脳波計がない時です。
 どのようにやったのかと思って調べていったら、生理学の本川先生の研究室、あそこでやっているのです。そして、鬼沢先生などとともにやっているのです。医学部との関係が、多分、あったのですね。好ましい関係があったのだと思うのです。そのようなことで、大脇先生は、かなり実験や実証ということに力を入れられて、東北大の講座が、その当時は1講座しかなかったですけれども、それを実験講座と同じようになさる努力をされて、研究費を増やされたのも大脇先生なのです。正式の実験講座になって2講座化したのは、そのずっと後ですから。北村先生になってから。ただ、事実上、実験講座化したのですね、その1講座を。それは、大脇先生の功績なのです。そのようなことも、全然伝わってこなかったです。

イン 畑山先生は学部時代には、大脇先生に会われたことはないということなのですか。

畑山 もちろん研究室のパーティーのような時に来られたことがありますし、あるときにどこかで立ち話くらいはする機会はあったのですけれども、ご指導いただいたことはありません。

イン 分かりました。関連のことで、畑山先生は、1965年にご卒業されているではないですか。

畑山 ええ。

イン 東京国際大学が1965年に作られた時に、まだ教養は学部ではなくて、ただの教養課程で、託摩武俊先生が調べられた時に、安倍淳吉先生がその後学部長をやられていることは記録に残っているのですが、記録に残っていないところで、大脇先生が来られたのではないかということを書かれているのですね。
 1965年に大学ができて、そのようなことが可能なのかということが私の中でずっと残っていて、例えば、全く新しい新設の大学ですから、大脇先生のお力で東北閥の方が何人か続けて行かれているということは、ありうるかなと思いながら。

畑山 あるかもしれないですね。大脇先生は、たしか1960年でご退職なのですね。そして、そのあと北村先生なのです。それまで助教授でおられて、大脇先生のご退職とほぼ同時に教授になられて、その3年後ですね。私が学部の専攻に進んで、北村先生の教え子になる。後で分かったことですけれども、北村先生は私の父親と同じような年齢なのですが、実はご長男が、私と1日違いの誕生日なのです。「ああ、息子さんと同じなんだ」と思いました、それは。私は1965年に卒業しておりまして、その間、今申し上げた3人の先生が主な指導教官でした。たまたまその頃、北村先生の研究室のプロジェクトがありまして、それが感覚遮断の研究なのです。

イン はい。

畑山 短くても1日やりますから。少し長いと2日になるのです。そうすると、真夜中も誰かいないといけませんから、3年生が夜中の当番だと言われるのです。ただ、何かうれしかったのです。真夜中に出てきて、研究室のお手伝いができるということでしょうね。ですから、嫌ではなかったです。
 どのようなことをやっているのかというと、北村先生ご自身の研究とまるで違って、「これが実験だな」と思いました。その実験も、不思議な実験なのです、考えてみると。何か刺激を加えて反応を見るのではないですから。小さな防音を施した部屋にリクライニング・シートのようなベッドを置いて、パジャマに着替えて、そこに被験者の方がゴーグルを着けて、見えないゴーグルですね。それから、初期の頃はボール紙の筒を前腕部に着けて、そのような格好で横になるのです。そして、一晩そのようにしているのです。

イン 指標は、何を取られていたのですか。

畑山 脳波なども取ります。実は、だんだん分かってきたのですけれども、精神科と共同研究をやったのです、最初。

イン そうだったのですか。

畑山 精神科の先生が来て、被験者の方に聴診器を当てて、「調子大丈夫ですか」と聞きながら。それからゴーグルを着けて、研究室の中を3回、着けたままで実験協力者の人が廊下を引き回すのです。そして、どこにいるかという、空間のオリエンテーションをなくさせるということをやるわけです。そのうえで小さな部屋に入れるのですね。そして、じっとしているのです。「すごい実験だな」と思いまして、被験者の人は大変だと思うわけです。この種の実験では、モントリオールのマギル大学で先行する研究をやっていたのですね、ヘロンのような人たちが。
 そして、幻覚様の症状が見られるということで、精神科が非常に興味を持ったのです。そのようなことで共同研究をやるに至ったようですが、このプロジェクトそのものは、心理学研究室の中で考えられたものなのですね。精神科から研究計画が提示されたのではなくて。もう故人になられましたけれども、茨城大学に行かれた大久保先生などが実質的な役割を果たされたとのことです。

イン ああ、大久保先生。はい。

畑山 名古屋大学でも類似の研究をなさっていて、そこでは、数日間くらいの、いわば社会的孤立ですね。われわれがやっていたことは、完全に外と隔離して遮蔽するような条件でやっていたので、拘束期間は、せいぜい1日か2日くらいなのですが、名古屋の方は、言ってみれば学生の一人暮らしのような、アパート暮らしのような条件なのです。たしか一時期は、テレビなども見られたようです。この場合もわれわれのところと似たような効果はあるのですね。われわれのところで一番大きかったことは、感覚機能が促進されるという点で、これは面白いなと思いました。1日ですから、認知機能がガタガタとだめになるということは、ないですね。

イン 食事などは、どのようにされていたのですか。

畑山 食事は特に用意はされてはいませんでしたが、クッキーの類は中にありまして、前腕部に厚紙の筒をはめないような研究のやり方になってからは、自分で手を伸ばしてつかめるようになっていました。

イン 触れる所にあって。

畑山 見えないけれども、取って食べられるのです。水も、ゴムチューブから飲めるようにしてあるのです。それから、トイレですね、問題なのは。
 小の方は、とにかくそこで済ましてもらう装置を部屋の中に取り付けたのです。どうしてもお腹がだめだという人は、そのときは中断ですね。

イン 中断で行っていただいて。

畑山 そのときは中断しましたけれども、小の方は結構あったのですが、中断しなければならないのはその理由ではなくて、「やめさせてくれ」と言うのです。

イン つらすぎると。

畑山 そうなのですね。何もしないでいるわけです。あの当時、たしか私の記憶では、1日のアルバイト料が7,000円くらいだったと思います。1960年代の初期ですから、学生には結構なアルバイトであるにもかかわらず、「もうやめさせてくれ」と。
 非常に後年勉強になったと思うことは、そのように言っていた学生の多くは、アルバイト料目当てで来た学生さんが多かったですが、そうでない人は、違うのです。驚くべき人がいるのですね。楽しんだ人がいるのです。それはどのようなことかというと、理学部の院生が来たことがあったのです。
 本当に印象的で、たまたま私が担当で、先輩のインタビューを聞いて脇にいたのですけれども、「自分は、これが一体どういう意味があるのか、非常に興味がある」と来た人なのです。

イン 「これ」というのは、その実験そのもの。

畑山 つまり、感覚遮断の研究が、そして隔離されているということが。それから、自分自身を見つめるためにも、いい機会だと。「こういう人がいるんだな」と思いました。

イン 私が学生の時に感覚遮断を読んだときに、「ああ、やってみたい」と私自身は思いましたけれども。

畑山 ああ。そのような方は、本来の効果がなかなか出にくいかな。

イン 女性だから、ないだろうなとは思いましたけれども。

畑山 その(院生の)方は、それほどストレスフルではないのです、1日終わっても。

イン そうなのですね。

畑山 アルバイト料をただ取りされたような気分になってしまったくらい、「自分を見つめるいい機会だ」と言っていたのですね。心理検査の結果も違うのです。ですから、それで思ったことは、個人差というものが出てくる。

イン ああ、逆に。

畑山 だからこそ、心理学という問題なのだなと思ったのですね。本当にいい勉強になりました。ところで、話は前後しますが、私自身は、先ほど言いましたように、音楽に興味があったりしたものですから、感情ということをどのような形で卒論につなげるかと思っていました。たまたま仙台にある知的障害者の施設に先輩がおられまして、その先生が「子供たちのところ見てみる?」とおっしゃったことがきっかけになって、知的に遅滞している子供さんの感情はどのようなものかということに興味を持ちました。そのときに、たまたまその先生が、ご自身の大学院の研究の時にGSRを使われていたのです。

イン ああ、そうなのですか。

畑山 ですから、必然的にGSRを使うようなことになってしまったのです。GSRの手ほどきを受けて。あの頃は高価な機械ですから、学部生に使わせるということもそうはなかったのですけれども、そのような先輩のおかげで使わせてもらいました。子供たちに、いくつかの曲の中の一部を選んで構成して、それを順に聞かせていって、どのようにGSR上で反応するのかということを見たのですけれども、ほとんどはっきりしたものは出てこないのですね。ですから、理屈づけに、このような感情反応は知的なものとは違って、そのような子供たちでもきちんと機能するのだという、無理やりそのような結論づけをするわけです。

イン GSRを、指先から取ったということですね。

畑山 そうです、ええ。先輩がおられたので、いろいろと示唆を受けまして。ただ、自分の卒論が至らないことはよく分かったものですから、このままで終わらせたくないという思いもあり、大学院へ進むことを考えました。

畑山 北村先生には、大学院を受けさせてほしいと言ったのですね。「勉強しないとだめだよ」とまた言われましたが、何とか大学院に採っていただきました。懸案のGSRの問題では、やはり基礎的なことを勉強しなければだめだなと思いました。そのために、ネコを使って、ネコの発汗を調べることで基礎研究をやろうと。北村先生に言ったら、半ば笑われたのですけれどもね。研究室にはネズミしか飼育していないですから。今思えば若さゆえの、ずいぶん無謀な計画を考えたものです。

イン ああ、ネコはいなかった。

畑山 ただ、「まあ、何やってもいいけど」とおっしゃられたのですね。自分でも、ケージもなければ、どこでやるのかということも冷静に考えれば分かるのだけれども、「やってみます」と言っているのです。 
そのように言った理由の一つが、実は医学部の麻酔科に、心理学の大変好きな先生がおられたのです。元気のいい若い先生で、心理学会にもよく出てこられて、その先生に「GSRの手伝いをしてくれ」と言われたのですね。不思議にGSRに関わりがあったのです。そこで、医学部に1年間、ほとんど学内留学のような形で行って、研究室に戻るとケージ作りなどをやっていたのです、ネコの。その先生のお手伝いをしながら、動物実験を随分見せてもらったのです。ほとんどはイヌでした。

イン ああ、なるほど。

畑山 ネコはほとんどなかったものですから、「おまえ、何やるんだ」「ネコ」と言ったら、ネコは嫌だと言われましたが、それでも、一所懸命麻酔のしかたなどを教えてくださったのです。そのようなことで1年間、事実上麻酔科に通って、もちろん手術場に入れていただいてGSRの測定のお手伝いをするということがあって、言ってみれば、心理の学生としては少し変わった体験をしました。マスターの1年の時に。

イン イヌでGSRというのは、どのようなことですか。

畑山 そうではなくて、患者さんなのです。

イン 患者さんなのですか。

畑山 患者さんです。なぜそのようなことをやったのかというと、麻酔の深度を客観的に測定する方法を探しているというのです。

イン なるほど。深い麻酔など。

畑山 ええ。主観的だったのですね、今までやっていることが。少し音を聴かせる、あるいは声をかけるなどで、効いているかどうかを主観的に判断する。それを客観的に測る方法はないか、GSRでやってみたいということで、「手伝ってくれ」と言われました。思わぬことで1年間の学内留学になりましたね。そこで麻酔や動物実験を教えられたのです。それがなければ、多分、ネコはやらなかったです。
 やっとケージを作って、それが修士の1年の終わりです。「いったい何を勉強したんだろう」と思ってしまいますね。ただ、北村先生は、だまって見ていてくださった。正門脇に小さい守衛室があって、そこを使わせてもらってケージを置いて、ネコを2~3匹しか置けなかったけれども、どのようにネコを管理するかということは大問題ですが、先輩のサポートも得ながら何とかやっていました。しかし、いざ測定となると、これも大問題。海外の論文を見ると、非常にスマートにネコの実験をやっているのです。そこではハンモックを使っていました。そこへネコをすとんと入れて、そうすると静かにして測定できる。論文を見ると、そうなのです。ですから、「これでいける」と、ハンモックも作りました。その当時アメリカは何をやっていたかというと、全く違うことをやっていて、すごいのですね、インストゥルメンテーションなども。雑誌で見る裏側はなかなか読み取れないけれども、日本で1980年代になって行われるようになったコンピュータの心理学研究への応用や問題点の議論は、アメリカ心理学会では1960年代には行われていました。

イン 遅れているということですね。

畑山 高砂先生は昨日、アメリカのスライドをお見せくださいましたけれども、あれを見るとよく分かります。とにかくアメリカは豊かなのです、戦争をやっていても。なんせディズニーの作品を作っているのですから、戦時下で。「白雪姫」など。やはり戦争だけではなくて、文化もきちんと維持するようなことをやっていたのですね、アメリカは。ですから、心理学の研究もすごかったのです。それを大脇園子先生が指摘されています。3年くらい向こうへ行っておられましたから。日本では、本当にお金もないような状況だから、感覚遮断の研究は、よくぞできたと思うのです。あれは多分、旧帝大くらいにしか渡らなかった科研費がついていたからできたのだと思うのです、その当時。しかし、一般の研究者は四苦八苦で、それこそ工作室で何とか装置を作ってやらざるをえなかったのですね。そのようなことが20年くらい続いて、あとはコンピュータが万能機ですから、これを工夫しながら、比較的ローコストで研究を進められるような具合になってきていますけれども、その途中は、やはり大変だった思いがありますね。
 私の話に戻ると、そのように動物実験をやって、実はハンモックが壊されるくらい、ネコは静かにはしていなかった。本当に動物実験は容易ではないということが、肌身に感じて分かりました、そのとき。

イン そうですか。

畑山 どうしていいか分からなかったですね。あるときに「ネコに困ってる」と妹に言ったら、「じゃあ、手伝うから」と言って来てくれて、ネコを抱いてみたのですね。そうしたら、静かになるのです。このように抱いて、シールドルームの中で。やっとデータが取れたのです。ですから、動物を隔離して実験するという、それはそれで客観的なデータが取れる。アメリカの研究者が一所懸命やっていましたけれども、スキナー実験などもそうですが。ただ、やはり動物はそれだけではないものがあって、どのような研究法があるのだろうということは、考えさせられました。
 そして、やっと取るだけで精いっぱいで、ひどい修論でしたけれども、北村先生、安倍先生は温情をもって合格させてくれたのです。

イン その研究では、自律反応の何かを取ったのですね。

畑山 そうです。自律神経反応を見ているわけです。脚のこのような所に電極を貼るのです。

イン 肉球など、ありそうですけれども。

畑山 あれは、似ているのです、人間の発汗、精神性発汗と。それは、台湾のワンという生理学者の方が随分なさっていて、モノグラフが出ていたので、それを手掛かりにしたのです。そちらは、だいぶスマートにデータを取っているのですが、全然飼育に苦労したなどという話は出てこないですから。
 そこで、ネコは、マスターで「これはだめだ」と。そして、ドクターに行って、あとはネズミを使う以外にないと思って、まず、感情の基礎的なテーマとして、いわゆる覚醒水準の問題を検討してみました。当時は、あまりネズミの脳波研究はなかったように思います。

イン そうでしょうね。

畑山 ええ。1968年頃ですね。そのような準備を始めて、麻酔科で教わった技術をそこで生かせたのですけれども、電極を植え込むなども何とかやったのですが、そのうちに丸山先生が福島医大から来られて、そのあたりから、本当に実験心理らしいようなことができるようになっていったのですね。
 以前は、工作室があるといっても、時間知覚の実験室が工作室になっていたのです。しかし、室内にはベニヤ板などが散乱してさんたんたる状況で、「これでいいのかな」とは思っていたのですが、丸山先生が来たら、一掃されたのです。「やっぱりな」と思ったのです。実験心理をするためには、そうだろうと思ったのです。

イン やはり好きな方だから。

畑山 昨日のシンポジウムでのプロジェクターの、私の失態で見えなくなってしまった所は、丸山先生の装置などもご紹介するつもりで用意はしていたのです。後になって、文脈もないのに突然出してもと思ってやめたのですけれども、素晴らしい自作の装置を作っておられて。それは、草創期の機器の中から一部パーツを取り出して、組み込んだりしてやっていたのですね。大脇先生に「そんなことやるな」と言われたようですけれども。一部利用という形で使われていたのですね。
 また、そのうちにだんだんいろいろな電子機器も出てくるようになったのですが、私としては、ネズミの脳波を取ることに少し時間を割きたいと思っていたら、福島医大の助手の公募があるから、そこへ行かないかと丸山さんに言われたのです。ただ、北村先生が、どのような訳か、大反対されたのです。そこで福島医大には行かなかったのですけれども、考えてみたら、私が行ったら生理学の中でろくなことができなかったと思うので、それも幸運だったと思うのですね。そうしたら、北村先生の下で、今度は「助手をやれ」と言われたのです。実験できないではないですか、それでは。

イン 助手をやったら実験が出来ない。

畑山 ですから、勉強もできないのに助手というわけにもいかないから、何とか許していただいて、2年間でしたけれども、動物の脳波を取るようなことはできたのです。ただ、深部脳波はとてもできなかったですけれども、皮質脳波だけ取って、脈拍と脳波の対応関係を見るということをやって、パラドキシカル・スリープがラットにきちんとあるのだということが観察できたのですね。それくらいしか分からなかったですけれども。
 そして、2年間それをやって東北学院大学に就職させていただいて、そのときくぎを刺されたのです。「動物実験は、ご法度」と言われたのですね。

イン 学院の方で。

畑山 ええ。ただ、感情の問題はいろいろあるからと思いまして、味覚の実験なども自分なりに工作して、いわば電磁弁などを使って水や溶液をコントロールして。そして、舌の上にうまく乗せるような装置。これは、非常に手間がかかったのです。そのようなもので、味覚と感情などを実験的にやろうと思って。吉田正昭先生などは、官能検査の技法で随分細かいこともなさっているのですけれども、吉田先生がなさってないような形でやってみようと思ったのです。これも作ることは大ごとだったのですが、幸い工作のスペースがあったのです。また、心理生理的手法を適用するために、私学助成による日本光電製4チャンネルの立派なポリグラフを入れてもらいました。
 ただ、ポリグラフが来たはいいけれども、これをどのように使うかというと、シールドルームがないのです。そこで、小さい部屋があったので、ここをシールドルームにしようと思って作ったのです。

イン 分かります。そうですか。

畑山 上司の先生も一所懸命手伝ってくださって、立派な金網のシールドルームを作って、脳波は完璧に取れましたね。その中に味覚の装置なども組み込んだりしながらやっていって、随分その時代は自作して、ほとんど研究者らしい報告ができないままに過ぎて。ただ、考えてみると、あの頃はのんびりしているなと思ったことは、機器の報告だけでも認めてもらえたのですね。「こんな機器を、こんなふうに使っていました」というだけで。ですから、カージオ・タコグラムも作ったのですよ。あれでは、モーターパフォーマンス中の心拍を記録したのです。ところが、モーターパフォーマンスの方のタイミングと、脈拍のはっきり見えるタイミングがずれるので、紙送りを遅くすると、訳が分からなくなってしまうのです。ですから、電圧に変換して、いわば目視で脈が速くなったり、遅くなったりを捉えるような装置ですね。そのようなものが、ICなどが使えるようになって、これが70年代の中頃なのです。

イン 70年代半ばですか。

畑山 それから、マイクロコンピュータのチップが出て、70年の末期になると、かなり実験心理学者が興味を持つようになるのです。吉村さんはそれでアンケート調査をやって、京都の先生がコンピュータ・クラブのようなものを作ったのですね。そして、全国的な、言ってみれば内輪の研究会をやって、私も一度参加しました。そこで皆さんがマイクロコンピュータの成果を報告するのです、実物を持ってきて。藤井先生もそのときにおられたように思うのですが、吉村先生は、その直後にマイクロコンピュータの可能性についてのアンケート調査をやって、「どんなものを使ってますか。今後、どういうふうにこれを利用しますか」と。それを見ると、これからはマイクロコンピュータ。それから、そのあとは小型コンピュータをメーカーでどんどん作って、社会心理学者もこのようなものに興味を持ち始めたわけですね。データ解析などで使い道がありそうだと。ですから、心理学全体にコンピュータが浸透していくのです。
 そうすると、それこそ草創期の実験機器は破損もあるから、だんだん使われない状況になって、1991年開催の日本心理学会の丸山先生が大会委員長の時には、それらの機器は古典機器として展示されました。

イン はい。

畑山 ですから、70年代の中期以後はコンピュータ時代に入っていって、吉村先生が見通されていたような具合に変化していき、心理学全体にコンピュータが浸透していきました。その頃私は、東北大に戻ってきたのですが、そのときに困ったことは、動物実験をやらなくなって10年間のブランクができてしまったため、麻酔を使うこともあまり自信が持てなくなっていたことです。

イン 分かります。

畑山 そこで、院生で興味のある人にやってもらうことにして、自分は違う感情の問題でやっていこうと考えました。東北大に来て各種のコンピュータが使えるようになっていって、自作もあまりせずに済むようになりました。この背景には国が経済力を高め国力を増したことが関係しているように思います。やはり国力は大事ですね。

イン 国力ですか。

畑山 研究を促進するためには、国が出し惜しみをしないということです、教育行政に。戦後大変だったのは、国にお金がなかったからなのです。ですから、出しようがないのですけれども、教育が重要ですから、まず拠点になる大学に出したのでしょうね、科研費を。ですから、多くの一般の心理学者はなかなかお金に困って、いい研究をしようと思っても、やりにくかったのですね。それが、1970年代くらいまで続いているのです。
 ただ、本当に日本の心理学者は立派だと思うことは、その中でも立派な仕事をされている先生がおられました、たくさん。筑波もそうだし、教育大の先生方もよくなさっていたし、その先生方のお弟子さんたちが、更に広げていっていますものね。しかし、少し日本の国力が増したのが1980年代で、科研費も、随分若手を奨励するようなものが70年代の後半くらいから出てきて、私も奨励研究で随分助かったのですね。
 ただ、自作をやっていましたから、その癖が抜けないのです、80年代になっても。やめればいいのに、作ったりするのですね、僅かな時間で。丸山先生も、自作される機会も少なくなって、もちろん主任教授になっていたからでしょうけれども、学内行政で随分お忙しいことになっていたので、パソコンが出てくると、だんだん自信をなくしたようですね。「ああいうふうなものは、やりたくない」と、間接的におっしゃるわけです。
 ですから、しかたがないので、「そういうものは主任教授がやる仕事じゃないですから、われわれ若手に任せてください」と言ったのです。本心は、自作の楽しみが奪われたような気分になったかもしれません。

イン なるほど。確かにそれはそうかもしれない。

畑山 1991年の東北大での日本心理学会大会が終わって、その4年後、退職なさったのですが、その間、東北大学の心理学で実験心理学を強固なものにされて、だから今の行場さんなどもおられるわけですね。行場さんは、丸山先生の優秀なお弟子さんの一人です。
 ただ、少し話が前後しますが、昨日の話と関連づけると、千葉先生以来の主任教授は、理論心理学あるいは人間性心理学的な立場を重視され、固有の存在としての人を全体として見るというアプローチを取っておられたように思います。
これは実験心理学者の立場と少々異なるようにも思えるのですが、実験の場合も個々の機能を問題にするにしても、全体として人を見ることは必要なのではないかと丸山先生は考えられておられましたから、千葉先生以来の思想が受け継がれているといえます。丸山先生は理学部から転学部された方なのですが、心理学の実験を柔軟にとらえていたように思います。

イン 理学部ですか。

畑山 ええ。ですから、理系のことは、かなり詳しいのです。数学も大変好きだし。それから、なにしろ手が器用で、絵を描くのも上手だし、授業はとてもかなわないです。黒板に、ぱっと絵を描くのですね。素晴らしい漫画のような、本質を突くような。
 北村先生の『自我の心理』の中に、自我の構造的なものの絵があるのだけれども、あれは丸山先生が描いているのです。

イン 丸山先生ご自身で。

畑山 ええ。北村先生に頼まれて。ところで私は、丸山先生のもとでいくつかのことをやっていたわけですが、特に前回大会以後、退職なさるまでの間は、丸山先生への企業からの委託研究をお手伝いしながら、感情に関わるデータを取ることをやっていました。その前は痛みの研究をしていました。

イン はい、痛み。

畑山 これは、感情の最も典型的な問題になる。サイコフィジオロジカルなアプローチなのだけれども、幸い東北大学には、痛みに興味のある先生が理系におられたのです。その中で、電気通信研究所におられた先生が医学部の方に移られて、痛みの客観的測定をやりたいということで、「あなた、ぜひ一緒に加わってやってみないか」と言われて、これは願ってもないなと思ったのです。痛みの計測というもので。
 ただし、やはり当時は、痛みの本質的なものは内臓の痛みなどの体内の問題なのだけれども、そこにアプローチできない時代です、1960年代は。
 その頃、マギル大学の心理学者、メルザックさんなどが皮膚の傷害の痛みに関して興味深い心理生理学的モデルを提起されていました。今でもそれが生きているのです、内蔵の痛みの理解でも。今でもメルザックさんのモデルの基本的枠組みは受け容れられています。ですから、心理学は、非常に幅広いのです。1992年に国際疼痛学会がハンブルクであったのですが、その大会長がメルザックでした。

イン ゲート・コントロールで一世を風靡していますからね。

畑山 そうなのです。今でもきちんと名前が使われて、「根幹は変わっていません」と麻酔科の先生が言っているのですから。
そのようなこともあって、痛みの研究を、少し表面を触っただけのような研究になりましたけれども、学内共同研究を行いました。それから科研費が取れて、名大の生理の先生などが加わって、一応は全国組織でやったのです、数年間。これは、非常に勉強になりました。学内の医学部におられた先生が、工学部の他の先生と共同で開発された痛みの測定器を、われわれも使わせてもらって。あとは、現在の看護科にいた看護の先生も協力してくださって、随分面白い研究ができたのです。

イン そのときの、この大山正博先生という先生は。

畑山 臨床心理の先生ですね。先ほどの麻酔科に行くことができたのも、その先生の口添えが、かなりあったのです。北村先生の口添えもありましたけれども、麻酔科の方も、臨床心理学者に興味を持っていたのですね。そのようなことがあって、研究室にGSRをやっている者がいるということで声をかけていただいたということだったのですが、私の場合、感情研究といっても生理心理的な内容だったので、痛みの研究も非常にバリエーションはありますけれども、生理の先生方と共同研究だったこともあって、生理心理的なアプローチになってしまったのです。
 しかし、1990年頃に大体区切りがつけられて、あとは研究室で、丸山先生が委託研究を受けた資生堂の研究や、あるいは、空調会社の高砂熱学というところですけれども、このようなところでの空調環境の研究などを行いました。資生堂との共同研究は随分長く続きました。今の阿部教授につながっています。彼が資生堂の研究室にいましたから。

イン そうですね。

畑山 丸山先生が、資生堂に心理部門を作る時に売り込んだのです、阿部さんを。彼は、人柄もよく勉強もこつこつとやるタイプだったので、資生堂で引き受けてくれて、そこで立派な研究室を作って、もう随分になりますね。少なくとも丸山さんが現役でいた頃だから、4~5年以上になりますね。ただ、メンバーも替わっていくものですから、心理部門は残りましたけれども、担当者が替わったので少しずつテーマは変わっているようです。このような変遷はあるものの、私も、感情の問題とずっと関わりを持ってやってこられた幸運があったと思います。
 それから、やはり応用のテーマですね。退職したあとでも、結構考え方や研究の手立てなどを考える時に役に立っていて、その応用の最も典型的なものが、北村先生の時代になるのですけれども、交通です。

イン 畑山先生のもう一つのテーマですね。

畑山 これは、感情というわけではないのですが、ドライバーの適性の問題につながっていって、1960年代の初期に、丸山先生を中心に、速度見越し検査機というものを開発するのです。やはり基礎がしっかりされていたから、あのようなものができたと思います。これは、古典機器は使っていません、全然。自作されたけれども、幸いなことに特許を取られて、竹井機器に委託販売を任せるのです。先ほどあちらの展示場で竹井機器があったので、「今、まだ売ってるの?」と言ったら、「ありますよ」と言ってました。

イン そうですか。

畑山 あれは全国に使われるようになって、広まったのですね。
昨日あのようなプロジェクターのトラブルがなければ、「これは将来の古典機器候補になりますよ」と言おうと思ったのです。それは、やはり普及していることが大事です、古典機器になるためには。それから、一流の機器メーカー。先ほど展示場で、「あなた方のような一流の機器メーカーで出してもらったから、残る機器の一つになりますよ」と言ったところです。
 学院大学に勤務した時も、八戸に東北大を退職して行った時も、やはり行くと、自分のやりたいことと必ずしも直結しない色々な要求が出てくるのです。地方の大学は、一層そうですから。今、八戸というところに、非常勤ですけれども、行っていますが、健康学部を作る時に、たまたまそれが私の退職とちょうど重なっていたものだから、結果的にそこに行くことになったのです。そうすると、やはりいろいろな地域の要求があるのですね。「皆さんのためになるような話をしてくれ」ということになるわけです。ネズミの話ができるわけがありませんし、感情といってもね。そのようなときに、交通心理学で培った考え方で、どのように発展させるか。一時期は、交通の話を結構したのです。本当にあれは、いい勉強になりました。
 それから、なぜ交通のそのようなプロジェクトが立ち上がったかというと、当時、宮城県内のあるバス会社では、海岸沿いの路線で転落などの事故をしばしば起こしたりするということから、そのバス会社の要請で「調べてほしい」との依頼があったからと聞いています。どうも事故を起こす人は特定の人のようにも思えるので、調べてほしいという要請だったのです、北村先生のところに。
 そこで、丸山先生が事実上のチームリーダーのようになって、研究室全体でこのプロジェクトが立ち上がって、応用問題ですから。ただ、やはり北村先生の基礎的な理論、統御の問題といったようなものが、非常に大きな力になっていたのですね、丸山先生の研究には。
 それはどのようなことかというと、安全や安心を考えるときに、例えば、目の機能だけが少し悪くなったから、すぐ事故が起きるというものではない。全体の統御機能が非常に大事なのだということを、1960年あたりにおっしゃっているのですね。安全学会だったと思いますけれども、論文を出されていて、その延長線上です、この交通研究は。人を全体的に見るという。多少どこか難点があっても、そのようなものは固有のうちに入るわけで、そうではなくて、全体的に人を捉えてその人を理解する。事故の問題もその延長線上で、どのような人が事故を起こすのかということを、どのように捉えていくのか。
 そうすると、単なる感覚系の測定だけではだめだということだったのです。そこで、いろいろな領域に興味のある院生を中心にプロジェクトが立ち上がって、多角的に、多面的に、そのバス会社のドライバーの方に時間を決めて来ていただいて、いろいろな検査をさせてもらったのです。
 その中には、人格検査もありました。初めは、たしかMMPIやロールシャッハなども使ったのだと思うのですけれども、大山先生は、まさにそれをやっていたのです。しかし、そのうち独自の、ドライバーといいますか、その適性に関わるような質問紙なども作り上げられるようになって、丸山先生の見越し検査機の開発もあって、感覚知覚から人格的な問題に及ぶような多面的なテストバッテリーを作り上げてドライバーの方の支援をやって、効果はあったのです。

イン 効果があったのですか。

畑山 ええ。不思議なことに、実は速度見越し検査を一つやっただけで変わるのです。

イン そうですか。出るのですか。

畑山 ハロー効果だと思うのだけれども、きちんとしたところで見ていただいているという意識が、ドライバーの方にあったのですね。ですから、事故がぐっと減ったと言われて、随分先生方は喜んでいました。

イン それはすごい。割と最近、2000年くらいにもされていましたね、交通の絡みは。先生ご自身ではないのですか。

畑山 それは、退職して八戸に行って、さて、自分の研究的なことはそれほどできないけれども、何かやってみたいと。そこで、本当にこれもいいかげんですが、いいかげんなことは研究にも必要かもしれないと思うのですけれどもね。あまり深刻に、厳密に考えると、できないことですけれども、八戸まで時々車で行っていた時にふと思ったことは、ただ運転しているのはもったいないと思ったのです。交通の問題をやっていたし、何か安全の問題と関連づけられないかと思って、事故につながる要因の一つは疲労だと思って、疲労の測定をどのようにやろうかと思ったのです。長距離なので、やはり4時間くらい見積もっておかないと八戸に着かないのです、仙台から。途中で休んだりもするのですが、これを調べようと思って。
疲労というものは車の運転の場合、一つはアクセルペダルを踏みつづけることから生じるのではないかと。高速道路では、右足をほぼ一定に置いていることが多いですから。

イン はい。

畑山 これは苦痛ですよ。1時間くらいはいいけれども、足首の疲労が血流も悪くするし、これがなければだいぶ違うだろうということで、クルーズ・コントロールに注目したのです。
それで走らせてみて、いろいろと変数を変えながら、できるだけ実験的な枠組みでやっていって。それは、学長は嫌がったのですけれども、「こんなのにお金使いたくない」と。しかし、お金をきちんと下さって、高速道路で被験者を使うと事故が起きたら大変なことになるので、自分自身でやったのです。心理学のいいところは、最後には自分自身を被験者に使えばいい。そして、何十往復かしました。なかなかきれいには出てこないですね。測定には、主観的な疲労調査表などと右足の活動量を記録するためのセンサーを用いました。センサーはアメリカ製の「アクティウォッチ」というもので、装着部位は右足の背側面です。ただ、簡便に使えるもののオンラインで見られないので、計測中はどうなっているか分からないのです。実験が終わって、コンピュータにかけなければいけない。ただ、それがあったので、随分助かりました。やはり理系の人に説明する時に、主観的調査表なるものは、あまりよく見てくれないのです。しかし、これがベースになっているので、私はそのようなものと突き合わせながら、休憩を取ったり、取らなかったりして活動量がどのように変わるかみていきました。活動量が少ないということは、疲労感を少し緩和するのではないかということを報告したことがありましたね。
 あとは、今回のポスターセッションで話させていただいた、気分の評定票の応用研究があります。これは随分前に、今は岩手にいる松岡君と共同で作ったものです。簡単にチェックして、気分を評定するという。
そのようなものを使って、最近はお年寄りの気分などを調べるようなことをしています。学生さんとリサーチがなかなかできないので。年齢を重ねたメリットの一つは、地域にいると時々声をかけてもらって、市民センターなどで「しゃべってくれ」と言われるのです。そうすると、あるときふと気がついたのですが、来る人は、みんな元気な高齢者だということ。若者は来ない。自立している高齢者のリサーチは多くないので、これは協力していただけないかと思い、市民センターにお願いして、そして高齢者の方にもお願いしたところ、「そんなもんだったら、いいですよ」と言われて、高齢者の気分の調査をすることができました。これは、やはり年の功かもしれないですね。

イン 生涯現役ですね、先生。

畑山 随分心理学会にはお世話になりました、本当に。私のように何をやっているか訳の分からない者が、何とかやらせてもらってきたということは、心理学会のおかげだとつくづく思います。
 その理由は、北村先生がそうだったように、「何をやってもいい」と言うわけです。ただし、宇宙心理はだめだと言われましたけれども、「ロケットがないからな」と言われて。本当に印象的に覚えているのです。学生の頃に言われているのですね。「ここでは何やってもいいんだ」と。ラットの脳波も、北村先生のお立場からしたら、全く邪道ですね。しかし、サポートしてくださるのです。これはありがたいですね。心理学は、どのようなものでもやれる。最後になったら、自分一人を被験者にしてみたらいいのではないか。そのような研究の広がりといいますか、選択の広がり。
 そして、心理学は、振り返ってみると、行動計測を大切にしてきました。先ほど主観的なものは理系の方が好まないと。心理学者の中にもそのような方はいるのだけれども、やはり気づきの測定は非常に重要で、主観的なものですね。ところが、それなしには心理を語れないと思うのです、行動も。また、動作や表情などは最近大事なインデックスになりますが、それがあって、生理的な活動との突き合わせが大事なので。ネコをただぽんとラックに置いただけでは、とてもではないけれども、測定できない。やはりネコも、ぬくもりを感じなければ協力してくれないのですね。ですから、ただ身体的なものだけ捉えればいい、あるいは、隔離された状態で行動を観察すればいいというだけでは片手落ちで、全体的に捉えるという初代以来の先生方の思想が大事だということは、今も強く思っています。
 あとは、心理学者ほどの行動計測の専門家はいないと思うのです。だけれども、fMRIのようなものを持ってこられると、委縮してしまうのではないかと思うのですね。行動計測がなければ、意味づけができないのです。血流がどうのこうのと言っても。それから、音楽の演奏などでもそうですけれども、慣れてくると緊張・興奮が少ないから、血流など捉えられないのです。

イン そうですね。むしろ気にすると、そこで固まってしまいますものね。

畑山 そうなのです。ガタガタ震えたりね。

イン 気にしないから、うまく自動化できるということですね。

畑山 そうなのです。自信もあれば、過去の経験もあれば、やはり全体的なものが行動に表れてくるわけですし、生理的な活動にも表れる。ですから、全体を捉えるという、大きなテーマですけれども、何とかわれわれの先代の先生方が教授していたような方向に、心理学の研究もうまく進んでくれればいいと思っています。高齢者の問題が、これから多いですから。

イン せっかくですのでおうかがいしたいのですが、畑山先生は、宮城の1978年の地震の時は、どこにいらっしゃったのですか。

畑山 あのときは東北学院なのです。東北大には非常勤で来ていました。

イン そうすると、いろいろと倒れてしまったものもあったのでしょうか。

畑山 そうですね。ただ、残念ながら、機器が置いてある現場を見ていないのです。丸山先生は、写真を撮っていましたからね。めちゃくちゃになったといって、大ごとでした、あのときは。

イン ええ。塀が倒れたことが全国的に有名になって、大変だということになって。

畑山 そうです。亡くなった方もおられましたからね。そのときに、建物もまだそれほど時間がたっていないのに、老朽化の問題もぼちぼちと出始めたのです。かなりやられたから。ただ、そのまま使っていたのです。ところが、80年代の初期に入ると、学内の学科増設の動きが起きるのですね。新しい学科を、社会学科を創ると。それが1983年頃です。研究室を増設しないと増員分の先生方が入る部屋がないわけです。今も同じ建物があるのですけれども、1号館本館という、自分たちが入っている。9階の東の端にいたのです。そして、社会学科ができて、行動科学や社会学、心理学などが新しい文系合同棟ができてそこへ移りました。それが、今ある心理学研究室の入っている建物です。それが、1983年か84年か、そのくらいです。そのときに、機器にとってはそれこそ危機なのですけれども、保管していた保管庫が出せなかったのです。なぜかというと、引っ越してきた時にはクレーンで入れたのですね。9階にクレーンで持ち上げて。

イン 人力では出せない。

畑山 ところが今度は、クレーンは使えないということになって、保管庫を壊してしまったのです。ですから、そこが、大きな破損の原因になっているのですね。そして、宮城県沖地震ですね。地震があって、移って、やはり保管庫を壊したものだから、破損したものも出て、そのままこちらへ移したわけです。丸山先生も、初めはあの機器にそれほど強い興味・関心はなかったんです。光度計などのご自身の実験装置に組み込むものには興味・関心があったけれども。ただ、よく処分されなかったなと思うのですが、ずっと保管していたのですね。

イン 当時からすれば。

畑山 そのようなことがあって、移って、東日本大震災です。それで、こちらの研究室もガタガタになったのです。ただ、本館の方は、老朽化が進んでいることが分かっていましたから、幸いなことに改修されていたのです。東日本大震災の2年くらい前かな。かなりがっちり骨組みを作って、倒れないように、根っこから改修工事をやったのです。その後に東日本だったので、本館はよかったのですが、心理が入っている4階建ての建物は、鉄骨など入っていないようでしたから、「大丈夫かな」と思ったのです。本を置いただけで潰れるのではないかという、考古学などがこの上にいましたから、重いものがたくさんあって、天井がおかしなことになってという、実際にそうなったのです。水漏れがあったり。ただ、幸か不幸か、震災のダメージでもって、改修をしっかりやってくれたのですね。ですから、今は立派になりました。部屋のレイアウトは以前のまま改修し、建物の水漏れもなくなりました。

イン 前にお伺いした時に、遺跡か何かが出てきてしまってという話をうかがいましたが。

畑山 そうなのです。それで、文系の建物がなかなか建てられなかったのです。

イン それは、いつくらいの話ですか。2000年代の話ですか。90年代でしたか。

畑山 文系合同棟ができて、90年かな。丸山先生の退職が近い頃でしたから。

イン いらっしゃった記憶が、あまりないのですけれども。

畑山 うん。そうかもしれませんね。学会の後でしたか。

イン 学会よりは後です。

畑山 では、そうですね。ヴント文庫は、実は大変恥ずかしいのですけれども、自分たちで満足に見たことがないのです。たまに入って、とてもではないけれども、本にホコリがかぶっているものだから、「マスクをしないで入ると大変だな」という、そのくらいの記憶しかない。ただ、ウィリアム・ジェームズの原本があったりするのですね。あれには感激して、ヴント文庫はヴントの著作しかないと思っていたら、違うのです。空襲で焼けなくてよかったですね。

イン 本当ですね。本家は焼けてしまっていますからね。

畑山 残念ですね。

イン 本当に少ししか残っていないですから。

畑山 ライプツィヒの国際心理学会の時に、私は行っていないのだけれども、機器の展示のようなものはあったのですか。

イン 機器の展示があったかどうかは、私も分からないですけれども。

畑山 その当時行った方に聞いても、「別なとこ行ってたから分からない」と言うのです。そのときにもし展示があれば、「こういうものが重視されていたんだな」というヒントになると思うのです。

イン ただ、今も残っているもので、大したものがないのです、ライプツィヒ大学は。機器はないです。

畑山 ですから私は、胤成先生の著作などを読んでいて思ったことは、ヴント自身はどのくらいの実験機器を持っていたのかなと思うのです。

イン ヴント自身ですか。最初にプライベートで実験をやられて。ご自身で持っていかれたわけですね。ハイデルベルクから持っていったか、あるいは、1年だけチューリッヒにいましたけれども。

畑山 ハイデルベルクは、ヘルムホルツの助手か何かの時ですか。

イン 中に入って、その後、いわゆる非常勤講師になって、心理の授業をやっていたのです。ですから、その頃には、自分でもちろん使えていたと思うのですけれども。

畑山 そうですね。初期の頃は、多分、熱心に実験されたのだと思うのですね。しかし、後年、民族心理学に興味・関心が移って。その時代に行った先生方は、大体ライプツィヒに行かれたのは。

イン 20世紀に入ってからですから、あれは。

畑山 ライプツィヒに行かれた先生方は、どなたかが、たしか苧阪(直)先生の編集された中に書いてあったけれども、日本とアメリカくらいだったようですね。たくさんの人がヴントのもとに行ったのは。

イン そうですね。初期はアメリカが多かったですけれども、日本は、学位を取るまで行った人は1人しかいないのです。私が調べた限りは。大体が皆さん、行けばいいので、授業を受けたら「行ってきたよ」と言って帰ってきたり、今でいう研究で2年間くらいという。学位もないですから。アメリカは、初期に学位を結構取って帰っていますので。

畑山 千葉先生の著作を見ていて思っていたことは、19世紀の後半から第1次大戦の前くらいまで、ドイツは割と豊かなのですね。ですから、先ほども言いましたけれども、国力があるから、基礎医学などは特にそうですね。ヨハネス・ミュラー以来のそれが心理学にも影響を及ぼしたし、基礎医学が随分大きな貢献をしているわけですね。あれは19世紀の初めですけれども、後半になると、産業革命以後、ドイツが非常に国力を持ったのですね。割と平和な時期だったようではないですか、ヨーロッパが。

イン 「ドイツ」と一つにまとまるのは、やはり70年代にならないと、プロイセンが。

畑山 プロイセンという強い国があって。

イン ですから、だいぶ統一されていく時期なので、戦争はまだまだ結構やっているのですけれども、負けてはいないのでということですかね。

畑山 やってはいるのですけれども、あの当時の戦争は実にのどかで、夜になると休んで、楽しみごとをやっていたなど。

イン そうですね。決められた所でということですから。

畑山 ですから、ドイツは割と国力もあって、プロイセンはお金持ちだったでしょうから。もう一つは、オーストリアですね。オーストリアの力があって、プロイセンなどの領域では、基礎医学が非常に発展した。それから、南ドイツですか、プロイセンが独立した領地を持っていたのは。

イン 最初は北ドイツ連邦というものができます、プロイセン中心と、こちら側ですね。南ドイツは、バイエルンの辺りは最初は別だったと思うのですけれども。

畑山 ええ。ですから、豊かな時代を迎えていて、基礎医学が非常に発展しますね。

イン そうですね。

畑山 その分派のようなものかもしれないけれども、ヴントにつながっていくような発展をしていて、結局は明治維新期に重なってくるのですね。あれが非常に面白いところだと思うのだけれども、幕府はフランスの軍事学か何かを受け入れていて、維新の人たちは、フランスにあまり力が入らなかったのですね。

イン そうですね。イギリスが別に入っていたりしますからね。

畑山 そうですね。ですから、国力があって、基礎医学が非常に興隆していたドイツに着目して、明治政府は、ドイツはどのように思ったか分からないけれども、ドイツを受け入れるわけですね。

イン お雇い外国人を見ると、医学はドイツですものね、完全に。

畑山 ですから、その流れですね。それから、やはり軍事そのものも、フランスではなくドイツを入れているから、言ってみればドイツに傾斜しているわけです、明治期は。

イン 学校制度などは典型的で、フランスを入れたらにっちもさっちも行かなくなってしまって、わざわざもう1回行って、アメリカから輸入し直していますね。

畑山 ですから、サイコロジストが、胤成先生などが行かれた20年代も、政府がドイツに傾斜していたという影響があったのではないかと思うのです、かなり。

イン 千葉先生が書かれたものは、私は今でもとても記憶にあるのですが、戦争に負けてしまったので、周りの人は「戦争に負けた国なんかにわざわざ行くなんて」と言うけれども、「自分は、ドイツ国民はこんなことではへこたれないと思っている」と言って、わざわざドイツに行くわけです。そうすると、周りにアメリカから来ている人などいないのです。今から100年前に戦争が終わって、1921年頃に行かれたのですね。21年、22年に。そうすると、外国人はわざわざドイツに行くような時代ではないという時に、わざわざ行かれていますから、やはりすごいのです。

畑山 第1次大戦でドイツが負けて、日本が連合軍だったから、勝つわけですね。ですから、一時期は、非常に景気がよくなったという記録があります。そのあとまた不景気が来るのですね、たしか。そのような中で、初代の心理学者の方がドイツに行かれていて、それまでのドイツの心理学者の蓄積があって行かれているのだろうと思いますけれども。それから、ドイツは負けたのだけれども、私の記憶違いでなければ、ドイツ軍の捕虜。あれは、中国の天津かその辺りで捕まえているのではないですか、捕虜を。

イン そうです。

畑山 そうでしょう。あれは、松山に連れていくのですか。

イン 私が聞いたのは鳴門ですね、徳島の収容所です。

畑山 その捕虜の扱いが、世界に誇るべき処遇をしたということが今でもニュースになったりするくらいですね。日本初の「第九」の演奏会が、捕虜たちによって行われるわけです。それは、私が思ったことは、やはりドイツに日本が傾斜していた表れではないかと思うのです。ドイツに敬意を表していたのだと思います。ドイツの捕虜に対する処遇が手厚かったということは、そのようなことかなと思ったのですね。
 そのあとは日本は、明治期にドイツ軍の軍事学を取り入れたことがあだになってしまうのですね。精神主義が強調されるようになって。

イン 千葉先生のものを読む限りでは、嫌な思いをしたとは特に書いていないのです。

畑山 千葉先生の場合は、ヴント亡き後で、クリューガーのところへ行っているのです。クリューガーを、千葉先生は非常に高く評価していますね。学問的にも、「ヴントを乗り越えている」と書かれていますね。それから、ブレンターノもかな。非常に高く評価しています。
 面白いのです、千葉先生の書かれた本を今見ると。そのようなことがあって、東北大としては、千葉先生がいたということは本当に幸いだったと思います。しかも、空襲で建物が残りましたし、ヴント文庫も残って、本当に幸運だったと思います。

イン 一つの学風がずっと残って、先生の世代までもきちんと引き継がれているということですね。

畑山 直接的なことでなくても、頭のどこかに残るのですね。恩師の考え方や研究の取り組み方なども、やはり残るのだと思います。今の時代になると、固有の存在としての人をどのように見るかということは、ますます重要なテーマになっているような気がします。それは、動物も含めて。動物にも温かく接しないと、協力してくれないのです。

イン 私が前にお聞きした時に、オランダかどこかに行かれていましたね、在外で。

畑山 ロッテルダム、はい。

イン ロッテルダムでしたか。そのときのよい思い出などは、ございますか。

畑山 それは、いろいろとあるのですね。在外研究は、私が行く頃には競争が激しくて、学内でなかなか順番が回ってこないのです。回ってきたかと思ったら、「半分俺にくれ」というような状況だったのですけれども、お金よりはチャンスをいただいて行くことが大事だと思って、非常に短期間でしたけれども、初めはコネチカット州立大学に行ったのです。そこは、まさに感情研究をなさっているロス・バックという人がいまして、この人はなかなか人柄もいいし、そこだとモントリオールも近いものだから、メルザックさんのところにも行きましてね。ロス・バックのところで3か月ほどですけれども、コミュニケーション学部という、障害児なども研究しているようなところなのです。心理学部がその脇にあるものですから、そして、バック自身も心理学部で講義をやっていますので、そちらの心理学部の方も、随分見させてもらいました。その3か月間は、アメリカの生活スタイルを学ぶいい機会にもなって、ロッテルダムへ行くことは予定していて、そちらの方が随分長い期間予定していたのですけれども、行きたくなくなったのです。アメリカの自由さと、感情研究で、それこそブレーン・サイエンスまで、ロス・バックはかなり勉強している人だったので。
 ただ、そのときに思ったことは、アメリカの研究者は、実験する時に意外と大ざっぱなことをやっていると思ったのです。彼がエモーショナル・コミュニケーションの実験をする時に、ビデオ録音を取ったりする細工をしているのだけれども、たまたま具合が悪かったのですね。そのときに、私は、在外研究員の時にもちょっとした工具は持っていたのです。それを使って直したら、「おまえ、そんなことできるのか」と驚かれました。
 ただ、このような形で実験し、それから、院生に参加協力してもらっているということは、非常に勉強になりました。それから、心理学はまた違う雰囲気があって、コネチカットでよくやっていた研究は、あの頃は知覚研究でしたね。もう30年近く前になりますが。
 それから、動物実験室も見せてもらったのですけれども、なかなか動物研究はやりにくくなっているとおっしゃっていたのですが、立派なのです。コネチカットという田舎の大学でさえ、これだけ設備を持ってやっているのかと。空調はきちんとできているし、ケージはきれいだし。

イン 分かります。

畑山 非常にきれいに管理しているのですね。お金がかかっていることが分かるのです。しかし、研究はやりにくくなっているとおっしゃる。そのような状況を見て、日本と違うと思いましたけれども、研究環境が、やはりいいなと思いました。
 そのあとロッテルダムに行くのですが、そこの秘書さんから随分心配されまして、「あなた、オランダ語できるんですか」と言われたのです。「できるわけがないです」と言ったら、「それで行くの?」と言われたのです。そうしたら、ロス・バックがきちんと助け舟を出してくれて、「あそこは下手な英語でも大丈夫だから」と。それをいいことにロッテルダムに行ったのです。ロッテルダムに行った理由は、あそこは全く生理心理ではないのです。感情でもないのだけれども、たまたま応用心理学会で知り合いになって、いろいろと話しているうちに、彼らがやっているような、「経済心理学」の話を聞いていると、実験もかなり重視してやっているということで、違う領域をのぞくことは勉強になると思いまして世話になりました。生理心理ではないようなところでしたけれども、7か月くらいいたかな。冬を越しましたから。ところが、途中で文部省の在任期間が切れるのです。学部長からメールが入って、「帰れ」と。しかし、その前に手を打っておいて、在外研究期間は外れても継続しないと、せっかくのこのような機会で仕事がまとめられないからと、大した仕事もないのだけれども、そのように言って認めてもらったのです。「3月までいていい。だけど、9月は帰ってこい」と言われたのです。

イン 1回帰られて。

畑山 1回帰ったのです。それが、今度は再渡航に苦労したのです。ビザが必要になったのですね、オランダの。オランダ大使館にもちろん行きましたし、10月に向こうに行っているという予定でいましたから、一月以内にビザは何とかなるのではないかというようなことを向こうの大学の人が言ってくれているのだけれども、こちらに来ているという証明書も出してもらったり。大使館は、いじわるな人がいるのですね。すぐ出すようなことを言って、出発の前の日まで出ないのです。ぎりぎりで「下りるようになりました」と言うのです。何たることかと思って。次の日の飛行機便を取り直さなければいけないかなと思ったのですが、どのような訳か、うまくいったのですね。東京のオランダ大使館に3度、4度行きまして、随分ビザを取るのは容易ではないと思ったのですけれども。アメリカは、あまり問題なかったのですけれどもね。アメリカでは、ソーシャル・セキュリティナンバーももらっていたので、比較的楽だったのですが、オランダは本当に厄介でした。
ただ、研究室の皆さんは非常に温かくて、院生の人と一緒の研究室を借りて、面白かったです。なかなか美しい方もいたりするものだから。僕はアパートを借りていましたから、結局は日本の生活とあまり変わらなくなるのです。税金のようなものを納めさせられたり、電話もきちんと登録してやらなければいけないし、みんな学生に助けられました。

イン そうですか。

畑山 オランダ語で書かなければいけないですから。ですから、バックさんが言っていたことは、少し違うなと思ったのですね。英語が書ければ何とかなるものではないと思ったのです。しかし、言語がおたおたしていても、不思議に何とか過ごせるのですね。
 最初の1週間は苦労した。なぜかというと、オランダ語でしょう。大学へ行くと、私などがかなわないほど、学生も含めて英語が流暢に話せる。インフォメーションの人も、非常に親切に、あれこれと宿の世話もしてくださる。ただ、街に一歩出ると、全然だめなのです。ちょっとしたファストフードの店に入っても、お姉さんに叱られるのです。「オランダ語でしゃべれないのか」と言うのですね。「無理だ」ともオランダ語で言えないものだから、言えればオランダ語で話せるわけだけれども。ですから、最初の1週間は非常に憂鬱になってしまって、「コネチカットはよかったな」と思ってしまうのですね。
 ただ、そのときに、かつて習った先生方であればどうするかと考えて、やはり言葉に取り組む以外にないのではないかと思ったのです。そこで、地元の本屋に行って、いわゆる言語のコーナーにオランダ語の日本語の本がないかと思って行ったら、あるわけがないのですね。ところが、薄い本でしたけれども、文法の本で、オランダ語の英語の解説書があったのです。それを買ったのです。それを見ると、かなりドイツ語に近いということもあって、とにかく不安でしかたがなかったから、それを一所懸命勉強しました。かつて3年の時の北村先生の勉強を思い出して。

イン なるほど。

畑山 1週間勉強したら、話すことはできないにしても、辞書を持っていれば何とかなるという気分になったのです。そうしたら、不安がすっと消えていくのが自分でも分かるのです。「これだったら、何とかやれる」と。そのようなことがあって、研究室では毎日決まったスケジュールで皆さん生活されていて、東北大では、朝何時に行こうが、夜何時に帰ろうが、時間の管理はめちゃくちゃというか、そのよさもありますけれども、コネチカットもオランダも共通していたことは、先生方は5時になるとみんな帰るのです。もう少しいたいのですが、鍵の管理がややこしくて、結局は帰ることになるのですね。そして、「土曜日に行きたい」と言ってもだめなのです。土曜日はまた鍵の問題がいろいろとあって、コネチカットもそうなのです。しかし、そのようなことにも慣れるのですね。
 怠け者としては、すぐ慣れて。ところが、その頃はコンビニがないのです。1軒だけ、街の中で10時まで開けておく店があって。あのようなスタイルは、今考えると、日本でも本当は必要で。やはり人間は、土曜日・日曜日は休んで、しかし、コンビニのようなものが必要だから、夜中の10時頃まで開いている店が1軒あってというスタイルは、人間性の回復にも。今の日本人は、少し働き過ぎではないかと思いますしね。
 そのようなサイクルで生活すると、それはそれで、決して生産性が下がるわけではないのです。皆さん、よく勉強しています、オランダの人は。朝は9時前には行っていますから、皆さん。そして、研究室の中で勉強して、不思議に雑務をやっている先生がいないのですね。聞いたら、事務でみんなやってしまって、自分たちは関われないと言うのです。不満もあるのだけれども、しかし、勉強はできると言うのです。ですから、5時まで必死になってやって、昼間はお弁当を食べるのです。ミルクが好きな人種ですから、紙パックに入った1リットル位のミルクを飲むのですね。そして、サンドイッチなどを食べながらサッカーのテレビ観戦をして、「日本のサッカーは全然だめだろう」というようなことを言うのだけれども、当時は、Jリーグがやっとできかかっていた頃ですからね。そのような雑談が非常に楽しいし、やはり食生活が違うことに驚かされて、彼らのまねをしてミルクを飲んだら、具合が悪くなってしまった。

イン そうですか。

畑山 あのような大きなミルク。生活が違うのだと思って。それから、生活のスタイルですね。朝9時前にはきちんと仕事の態勢をとって、5時までに一つの仕事は終わらせるような態勢で皆さんやって、昼は本当にリラックスしながら皆さんでおしゃべりして、先生も来るし、そのようスタイル。コネチカットは、少し違っていましたけれども。コネチカットは、院生がみんな集まってという雰囲気ではなくて、東北大のシステムと同じだから、先生も生徒も独自に仕事に取り組むなどとやっていました。いろいろな生活のスタイルを学びまして、どちらかというと怠ける方になってしまったかなとは思うのですが、そのあとの私の大学の生活は、その前とは少し違った感じがありますね。
 年を取ったせいもあるかとは思うのですが。しかし、やはり日本での研究者は、基本的にはどのようなことでもやれるし、日本心理学会がそのような方をみんな受け入れていますね。ですから、幸せだろうと思います。医学部では、かつて麻酔科に通っていた時に、助教授の先生すら主任教授の指示に従わざるを得ない光景すら見ていますから。厳しい、本当に上下関係がはっきりしているのですね。それは、心理学ではほとんど見たことがなかったです。海外でも。
 その後も何回かコネチカットへ行きましたけれども、そのたびに建物が大きくなるなど変わっていて、「ファンドが取れるようになって、こういう建物も建てられた」と。ここで言えば、東北大学などの研究活動を支援した、かつての斎藤記念財団のようなものがあるのです。財を持っている人が寄付をするのです。それで大学の建物が建っていて、日本と少しシステムが違いますね。

イン 論文の最初のリストで、67年に、例のセンソリー・デプリベーションのお名前がある「カトウ・T」というのは、加藤孝義先生ですか。

畑山 そうですね。加藤先生は、当時のプロジェクトの中心的な役割を一部担っていましたし、岩手に行かれて、それから東北大の情報科学部の方に戻ってこられるのですね。ですから、センソリー・デプリベーションは本当にいろいろな思い出がありますし、ある意味で、北村先生のいい教育課題だったと思います。

イン 今日はありがとうございました。
インタビュアー:高砂美樹(東京国際大学)、鈴木朋子(横浜国立大学)
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