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荒井 保男先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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荒井 保男先生の略歴

・横浜市立医学専門学校、慶應義塾大学、老年学、医学史、『医の名言』
・1949年横浜市立医学専門学校(第2内科学教室)卒業、医師(医学博士)。専門は内科。1964年慶応大学大学院博士課程満期退学(文学博士)、横浜市立大学医学部講師、放送大学客員教授、飯山医院名誉院長。
・内科医として老年の患者さんに出会い、老年学の必要性を感じました。診療を続けながら慶応義塾大学大学院へ進学、横山松三郎のもとで老いの自覚、高齢者の知覚、死の恐怖などを研究しました。医療の実践と老年心理学の研究を続けてきました。

日時:2018年3月22日(木) 14:30~
場所:横浜市の御自宅
荒井 私は医者でございましてね。最初は横浜市大の第2内科教室の医局員として勤務しておりました。内科学を勉強しておりますと、診療する患者さんに老人が多いのです。私は老人とは死を前にして疾病に悩み、死の恐怖におののいている存在と思っていましたが、実際に接してみると、そうではないのです。私の診察している老人患者の人達はみな死など恐れておりません。喜々として隣りの患者さんと「おしゃべり」しているではありませんか。私はそれが不思議でならなかったのです。老人はどのように死を扱っているのか、老人の心を知りたいと思い始めていました。その頃、人生80年を目ざす寿命革命が唱え始められていました。私もこれからは「老人の時代」である。老人問題が大きな課題となるであろうが、すべての老人問題はまず老人の心を解することから始めなくてはならないと思い始めていました。そんなわけで老人の心を知ろうとして本を読み文献を漁りましたが皆無に近く橘覚勝先生の著書があるのみでした。

インB はい。

荒井 橘先生の内容は哲学的でね。私は「もっと実験的な心理学的なものをやらなくちゃいけない」と思い始めていました。たまたま慶応大学教授・横山松三郎先生を紹介してくださる方がおりまして横山先生を尋ねて行きました。先生は横浜に住んでおられ、市大病院の内容にも明るく、好意を以って迎えてくれました。先生は「1年間教室に出入りし、来年試験を受けて、大学院に入るように」と指示されました。私は1年間聴講生として通い、試験を受けて大学院学生となりました。

インB 医学博士を取得された後に、慶応の大学院に?

荒井 そうです。私は第2内科の医局長にもなり、学位もいただきました。学位を持っていましたので、大学院に拾ってくれたわけです。

インA はい。

荒井 横山先生は(あとで知ったのですが)水戸中学卒業後、アメリカに渡り、ハーバード大学を卒業され、その後ハーバード大学の心理教室の助手を務められ、日本に帰って来て慶応大学の心理学教室を創設された方で、実験心理学の大家です。大学の理事として学内に大きな力をもっていらっしゃいました。入学すると、先生は「好きなようにやれ」と申しまして、橘覚勝先生を紹介して下さいました。その頃、老人(被験者)は少なくてね。

インB はい。

荒井 この被験者の問題にも恵まれました。横浜市役所の中に診療室がありまして、そこの主任をやっていたのが私の友達(医師)でした。その友達の紹介協力で、市役所の職員を調査対象にすることができました。市役所には定年前後の年輩の方が大勢勤務されていたのです。また私の周辺で、私の知る限りの老人も調査対象といたしました。

インB 老年心理学の研究。

荒井 このような業績になったわけです。当時、誰もやっておりませんので。

インA はい。

荒井 私は老いの自覚(老性自覚)を最初のテーマとしました。橘先生がお書きになっている論文が大いに参考になりました。私達は老化が始まり、それがかなり進んでいても、それを現実の事実として受容するには大きな抵抗をもっていて、なかなか受容しません。「老い」を認めるのは、「自我」の縮小を意味するからです。私の調査では70歳近くになって老いを自覚する者が多く、70歳になって老いを自覚した人もいました。
 老いを自覚するに至った契機などその内容をみてみますと、(1)身体的徴候からくるもの(視力減退、歯牙脱落、白髪、疲れ易くなった、など)と(2)精神的・社会的体験からくるもの(定年退職、配偶者との死別、周囲からオジイサン・オバアサンと呼ばれること、など)の二つに大別されます。定年など社会的要因によって、老いを自覚させられる場合もあるのですね。学歴とも関係深く、身体的労働者は精神的労働者よりも早く老いを自覚します。社会的・文化的要因にも左右されます。

インB はい。

荒井 私は『美しく老いる知恵』 という本を出したことがあるのですが、二、三の人から「先生の本を買って読みたいけれど《老い》という文字が嫌なんだ」と言われましたよ。

インB ああ、老い。

荒井 今は平気で皆さんは「老いる」などというけれど、昭和34年から40年頃は「老いる」という言葉を使うことは非常に嫌がっていたのです。本当は老いを自覚し、老いを受容して老いに適応して生きて行くべきなのですが、受容し老いに適応することがうまくいかない(適応失敗)と、ノイローゼなどの精神障害におちいるのです。

インB はい。

荒井 橘先生にはじめてお会いしたのは学会で出張中の東京で、宿泊先のホテルの一室でした。今は「老いの自覚」の最高年齢は70歳ではなく、恐らく75歳前後だと思います。

インB はい。当時は寿命が今よりもう少し短いので、70歳が最高年齢だったのですね。

荒井 わが国では法的に老齢年金支給開始年齢65歳をもって老人と称しています。

インB はい。

荒井 次に興味をもって、知覚の問題をやりました。

インB はい、老人の知覚。

荒井 まず錯視の問題を実験的にいたしました。

インB ミュラー・リヤーの錯視の実験ですね。

荒井 そうです。その結果、高齢者は成人よりも錯視量が大きかったのです。同心円で実験しますと、逆に錯視量が成人より少ない。とにかく年齢とともに錯視量が大きくなるのです。子供も錯視量が大きいのですが、老人は子供と同じように錯視量の大きい世界に住んでいる訳です。当時、このような知覚の実験をした人はいなかったようです。

インB そうですね。高齢者の知覚はあまり聞かないように思います。

荒井 従って、次にお話する「心理的硬さ」も増加しておりまして、だまされやすいのです。

インB ああ、詐欺などにだまされやすいのは、このような根拠がある。

荒井 悪質セールスマンによってだまされる例が多く(今もそうですが)、この問題について乞われて、『認知心理学』 の中で「老人の認知」と題しまして執筆いたしました。

インB ありがとうございます。このような知覚の心理学の研究をされたのは横山先生の影響が大きかったでしょうね。

荒井 そうです。実験心理学をやっていらっしゃったことが大きいですね。次いで、老人の適応力を知ろうとしまして、老年期の「心的硬さ」(rigidity)を調べました。「心的硬さ」とは「非融通性」「非柔軟性」「固執性」を表す概念ですが、これを知る実験的方法として、ゴッチャルドテストを用いました。

インB ゴッチャルドテスト。

荒井 「この中から、これと同じものを選び出せ」とテスト図を見せますと、融通性、柔軟性が無いと、なかなか見つけることができないのです。

インB 見つけにくいですね。なるほど。

荒井 その結果、高齢者の心理的硬さの増加を認めました。また重量判断により心的硬さをみようとする実験に「重量判断に及ぼすアンカー刺激の効果」がありますが、この実験を行いまして、高齢者の心的硬さの増加を認めました。このように錯視や心的硬さの故に、老人は適応性がなくなり、家族の中で、社会の中でもうまく適応できなくなって、孤独に陥ってしまうのですね。

インB はい。

荒井 この頃、ロールシャッハテストによる研究が行われていましたが、私もやってみました。

インB 随分早い段階、昭和37年に発表なさっているようでしたね。

荒井 そうでしたか。しかしロールシャッハテストで「こうだ」という老年期の特性を私の場合、見出すことができませんでした。

インB 先生はロールシャッハを患者さんに見せたのですか。

荒井 市役所の人など、正常な高齢者が大部分です。主に「正常な老化」の人を選んで実験しています。そのほか、ベンダー・ゲシュタルトによる記銘力検査も行っています。かなりの老人が記銘力が衰えていましたが、高血圧の方はより記銘力の低下傾向にありました。

インB すごいデータ量、研究の量ですね。

荒井 結構やったのかな。

インB 研究は、お1人でされていたのでしょうか?

荒井 幸いにして、時間的ずれはありますが、青木君 と椎名君 、常木先生 が手伝ってくれました。

インB 慶応の横山研究室の学生だったのでしょうか。

荒井 いや、慶応の大学院の同期に鷲見君 という人がいたのです。僕が1人でやっていたら、「友達がいるから手伝ってもらったらどうか」と言って紹介してくれました。

インB なるほど。

荒井 共同でやってくれた人の名前はみんな書いてあります。老年期の不安の分析もやりました。
アメリカの文献を読んでいますと、あちらの方は定年を歓迎し喜ぶと書いてありました。早速、市役所の職員で調べてみると、定年を喜ぶ人は殆どいません。日本人はいつまでも働きたいんですね。この調査結果を老年社会科学会で発表しますと、厚生省の村井さん が注目して下さいました。村井さんは老年社会科学会の創設メンバーの1人で、当時厚生省の課長を務めておられ、以後いろいろ御世話になりました。その後若くして亡くなられてしまいました。残念でした。

インB はい。

荒井 知能の検査もいたしましたが、時間がかかり、専門家にまかせることにいたしまして、文献で学びました。

インA はい。

インB 先生の老いの自覚については全く研究が行われていなかったもので、心理学だけでない発想ですね。先生が臨床の内科医として仕事をされたからこその研究だったんですね。

荒井 そうかも知れません。死の問題についても、興味をもって調べました。死の恐怖も調べてみますと高齢者になるに随って死の恐怖は無くなっていました。老人は死を恐れていないんですね。「はい」「いいえ」の質問による調査でした。

インB 「いいえ」の方が多い。

荒井 老人が恐れているのは死ではなくて、死ぬときの苦痛です。病苦です。死の恐怖は子供や若い人に多いのです。宗教の入信の動機を調べてみますと、若い人は死の問題(恐怖)から入信する人が多いのですが、老人は死の恐怖で入信する人は殆ど無くて、病苦と家庭の問題で入信するのです。

インB はい。

荒井 死生観のようなものを調べても、「生物が枯れるが如く枯れていくもの」と考える人が多く、大部分の人が死を受容していました。

インB はい。

荒井 老人は苦しまずにポックリ死にたいのです。親しい人に囲まれて往きたい(よい臨終)のです。長い間、床に伏して死ぬことやボケることが避けたい死として挙げられます。

インB はい。

荒井 私も同感です。まあ、このようなことをしていたのです。

インB 先生は医学史についてもご著書をお持ちですね。

荒井 そうそう。市大医学部創立40周年にあたり、記念誌を出版することになり、私がその編集長を頼まれました。それで市大医学部ができるまでの歴史を書こうと思いまして、大正・明治の歴史を調べているうちに興味ある史実がたくさん出てきて、記念誌出版後も横浜医学史を調べているうちに、日本医学史へと進展していったのです。

インB 文献が江戸時代の医師たちの文献などを見ていらっしゃる。心理学だともう少し歴史が浅いので、江戸時代までさかのぼることはあまりないのですけれども、医学はやはり歴史があるなと思って興味深く拝見いたしました。

荒井 そうでしたか。

インA はい。

インB ところで、先生が医師になられたのは、そもそもなぜなられたのか、うかがってもよいでしょうか。

荒井 私は旧制中学生の頃は文科志望で、国文学と歴史学をミックスしたような学問はないか、そんな分野をコツコツと学びたいと思っていました。ところが、戦争が激しくなってね。

インB ああ。

荒井 実は私は男6人、女2人(妹)の8人「きょうだい」です。男は私を除いて皆兵隊にとられました。学徒出陣しましたすぐ上の兄が「学生時代に勉強したものは軍隊では役に立たない。学生時代の学問が軍隊でも役立つものは医学しかない。お前医者になれ、医者になれ」と、しきりにすすめて呉れました。両親もそう思ったようでした。時局を考え、私もそれに従ったのです。

インB はい。

荒井 そんなわけで医者になり、勤務しているうちに医局長となり、学位も頂戴いたしましたので、この辺で独立し「生活の糧」を得ながら、好きな学問をしようと思ったのです。最初は哲学なども頭の中にありました。

インB はい。なぜ老いるかなど、哲学的な問題ですね。

荒井 けれども、より実学的な実証的な学問をしようと思いまして、冒頭でお話いたしましたような次第で、心理学を選び、未開の分野と考え、この道を歩むことにしたのです。

インB なるほど。いま戦争の話が出ましたけれども、先生、すみません、お生まれは何年になりますか。

荒井 大正13年5月29日です。私が20歳のときでした。終戦になったのは。

インA ああ。

荒井 だからもう少し戦いが続いていたら、僕も兵隊に行くところだった。

インB なるほど。最近とは少し違うのかもしれないのですけれども、現在でも精神医学から心理学の方に来る医師はいらっしゃるような気もするのですが、内科学から心理学の方に、特に横山先生などという実験心理学の大家のところにいらっしゃる方は少数なのではないでしょうか。内科学から実験心理学だと、飛び越える壁が大きかったように感じてしまうのですけれども。

荒井 そうかも知れません。私の場合は内科学をやっていたおかげで、(壁とはならず)内科学のように実証的に実験的に老人の心を調べたいと、当初から考えていました。幸いなことに、たまたま横山先生がそこにいらっしゃったのです。後でわかったことですが、旧制中学の先輩でもありました。

インB すごいご縁ですね。

荒井 先生はその頃70歳ぐらいになっていらっしゃいました。それで医学的な相談にもあずかりまして。

インB ああ、主治医をされていたわけですね。

荒井 主治医とまでは行かなかったけれども、まあそんな関係でした。何か重要な会議がありますと、「今晩会議がある。よかったら一緒に来ないか」と言われます。それで私もご一緒させて戴きました。先生は私のことを主治医だと紹介して下さいました。

インB 横山先生のご指導はいかがでしたか。どのような形でしたか。

荒井 学問的にはきびしかったです。先生は偉い方でした。分からないものは、きっぱりと分からないと申して、橘覚勝先生など、その道の第一人者を紹介して下さいました。学問以外では優しく接して下さいました。

インB はい。

荒井 小川隆先生という方がおりました。ハトを使って学習の研究をなさっていました。先生にもお世話になりました。

インB 慶応大学では他の心理学の先生方は。

荒井 印東太郎先生がおられました。

インB ああ、印東先生。はい。

荒井 数学がたいへん優れてできる方でした。

インB なるほど。先生、ちなみに日本心理学会は大学院のときから入られたのでしょうか。

荒井 そうです。大学院に入ったらすぐ入会しました。それで長寿会員になっています。

インB はい、終身会員でいらっしゃいます。他には医学系の学会も入っていらっしゃいますか。

荒井 日本内科学会、老年社会科学会、日本医史学会に入っていました。医局時代は高血圧や肝臓病(肝脳疾患)を研究しておりました。医史学関係では、『医の名言』(中央公論新社)3部作の著書もございます。

インB はい。

荒井 大学院を卒業してからも、好きなものを好きなようにやったのです。

インB すごい。臨床の方もずっとされていたのですね。

荒井 そうそう。今は子供に譲りましたからね。

インB 臨床は内科のまま、ずっといられたのですね。

荒井 そうです。生涯を開業医(内科医)として過ごしました。

インB 研究は心理学をされていたのですね。

荒井 そうです。大学院を卒業した後も勉強し発表をしました。医学を研究するには、しっかりした設備のある実験室が必要で個人では無理です。私は開業しながらできる学問、ペンとペーパーがあればできる学問として、最初にお話いたしましたように心理学を選び、この道を歩んできました。その研究成績がこれです。楽しかったです。横山先生に師事できたことが私にとって大きな幸いでした。そのほか、よき先生、そしてよき友に恵まれました。有難いことでした。

インA はい。

インB はい。どうもありがとうございました、先生。

インA 本日はありがとうございました。
インタビュアー:小泉 晋一(共栄大学),鈴木朋子(横浜国立大学)
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