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秋谷 たつ子先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

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    秋谷 たつ子先生

秋谷 たつ子先生の略歴

・東京女子大学・ゲジュタルトクライシス・国府台病院・名古屋大学での日本人研究プロジェクト・ロールシャッハ法・心理臨床
・1953年東京女子大学卒業、国立精神衛生研究所研究生を経て、名古屋大学医学部精神医学教室に勤務、1988年順天堂大学医学部精神医学講座定年退職。
・お話を聞いていると、知覚研究が隆盛の時代、異常心理学や心理臨床に関心を持った方が、どのように、キャリアを重ねていくのか、病院等での臨床機会を得たことなど、戦後の日本の新たな臨床心理学が作り出される時代が生き生きとイメージされました。

日時:2015年8月10日(月)
場所:秋谷先生ご自宅
インタビュアー(以下、「イン」と略) 本日は日本心理学会のオーラルヒストリーにご協力いただきまして,ありがとうございます。前もって,いくつか大きな質問の枠をお送りしていますので,概ね,その順番でお話しいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

心理学を学ぶまで
秋谷 最初に「心理学を学ぶまで」ということについてですが、何しろ時代が違いますから,先生方は全然その時代を連想おできにならないと思いますが,要するに昔は、女性は、高等女学校を卒業して、あまり専門へ行く方は少なかったのです。当時は,学校を卒業しますと軍隊の工場のようなところへ送られるという時代でしたので、私も高等女学校を卒業しまして、当時の言葉で「徴用逃れ」ということですが、軍隊の工場よりは、会社などに勤めていたほうが楽だ、というようなことで、ある会社に勤めました。
 そうしているうちに,当時流行していた結核にかかってしまいました。私は、正岡子規さんのように骨に結核菌が回って重症にはならなかったのですが、戦争中ですから、あまり手当てもできなくて、ギプスを巻かれて、「寝ていなさい」といわれ,そうしていました。そのせいで,戦時中には全く何もお手伝いもできませんでした。ですから,今でも沖縄の方が亡くなりました,私と同年代の方には本当に申し訳ないと思っています。私の生まれは普通の家庭でしたが、7人という当時でも大人数のきょうだいの末っ子だったので,みなにケアされて、当時は寝たままでいました。
戦争が終わって元気になりましたときに、兄たちに一生世話になってはいけませんから、なんとか自立しようと思いまして、大学を志したのです。国立大学のほうが月謝が安いのですが、まだその頃は東大は女性に対して門戸を閉ざしていたものですから、私は早稲田大学と東京女子大学を受験しまして、幸いに両方に合格しました。その当時は、兄を見ていて、男の子と一緒に勉強したいという気持ちもあったのですが、早稲田大学に行ってみましたら、試験場でもかなりのストレスでした。合格はしましたけれども、女子大のほうがのんびりしていますし、病み上がりだからということで、東京女子大学に入りました。
 女学校の時代から英語が上手だったので、東京女子大で英語の学科でもと思っていたのですが、新制大学の切り替わりだとかということで、学科が整わず、予科のような形で2年間すごし何をしていたのか分からないというような感じでした。実は、東京女子大に5年間も在籍することになったのです。女子大を卒業することはできたのですが、そこから心理学を学ぶことになります。女子大に入りましたときに、私は英文科を専攻するつもりで入ったのですが、新制大学でいろいろと学んでいるうちに、何となく心理学科に行こうかなと思うようになっていました。誰でも思うことですが、どうして人間は生まれてきたのか、なぜ私がここにいるのか、存在意義があるのか、などと思って、そのようなことで、哲学科心理学に行くことにしたということでございます。ですから、特別な、心理学とはこのようなものなどと、はっきりとした方向性があったわけではなく、同年代の人が誰しも持つような思春期特有の疑問もあって心理学科を選ぼうとしたのだと思います。
 女子大に5年間も在籍して、そのなかである学年で心理学科というところに入ったのですが、入ってみると,暗室でこれが見えるとか、光点がどうとか、赤い丸がどうしたとかという話ばかりで、私は若気の至りで、あれが一体、人間の心理とどのように関連するのだろうかと思っていました。当時、クラスは、8人ぐらいでしたが,皆さん、女性でもありましたから、学会でも有名だった白井常先生のところにいらっしゃることが多くて、私だけ離れていたというようなところかもしれません。そうしましたら、前田嘉明先生という、当時でいう現象学の先生で,鳴門教育大学の初代学長になられた方のお話を聞く機会がありまして,大変感銘を受け、そのようなものを研究していこうかと思いました。

ゲシュタルトクライシス
当時,前田先生は、ゲシュタルトクライシスという幻覚の問題、つまり人間の内面が変わってくると、外界のいろいろな現象が変わって見えるので、おかしな幻覚や独り言などは自分との対話として出てくるという問題を扱っておられ,私には、そちらのほうが、人間の心理が分かるように思えて、現象学的な立場に行こうと思っていました。
卒業論文も「ゲシュタルトクライシス」という題名で進め始めていたのですが、間もなくそのテーマを与えてくださった前田先生が、日本語を教えにドイツにいらっしゃることになったのです。私には,この後,関心をもってあることに近づくと見捨てられてしまうということが繰り返し起こるのですが,これが私の初めての見捨てられたケースでした。

旭出学園
 当時私は異常心理学と呼んでいたものですが,その講義を前田先生がいらっしゃらなくなった後は、教育心理学の肥田野直先生が、受け継いでくださいました。当時「異常」というものは、当時の言葉で「精神薄弱」といいますが、そのような子どもたちを研究するのであって、医学部でやるような、「精神病者の」ということではありませんでした。私が異常心理学をやりたいと申していますと,「このようなことが、異常ということなのですよ」と肥田野先生に言われて,肥田野先生の伝手で、大学を出たあと,旭出学園という、三木安正先生がなさっていた学校(といいましても、徳川さんのお宅の小さなエリアを借りて、そして遅滞児の対応をしていたのですが)に紹介いただきました。先生のところでは、遅滞児が機織り作業をしていたのです。その機織り教室に初めて行きまして、そのような子どもたちが、どのように機織りの作業ができるのかということを、三木先生は「見ていらっしゃい」ということで、そのようなことをいたしました。

国立精神衛生研究所
 しかし,私は、精神異常の、要するに、近頃でいうところの臨床をやりたいと思いまして、当時、国立精神衛生研究所(現在の国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所)が開所されたばかりだったので、そこへ行きまして、「研究生にしてください」と申し出ました。すると研究生になることをお認め頂いたのですが、そこも開店なさったばかりで、開店休業のようで、先生方が一生懸命どのようにやっていこうかといったことで試行錯誤されているところでした。ちょうどそこには東大の佐治守夫先生と片口安史先生がいらしていて、佐治先生はカウンセリングのほうでしたし、片口先生は、心理査定がご専門でした。私は片口先生のほうに入れていただきました。ちょうど片口先生もクロッパーの本を手に入れたところで、それを読み始めようとしていらしたので、ご一緒に読み始めたことが、私の今日のロールシャッハとの出会いの第一歩だったのです。そこで一番自分の勉強になったことは、図書室にはいろいろな本がありましたから、そこにあった本を読むことが、おもしろかったのです。
たしかにロールシャッハ法の本を読むことは勉強になったのですが、私はずっと異常者に会いたいと思っていましたが,そのような方は、私が行かないときに研究所にいらしているようで、ぜんぜん会えないのです。

国府台病院
 ところが,お隣に国府台病院がありまして、たくさんの、私が対象にしたいと思った、今の統合失調症ですね、当時の分裂病の方がおられました。それを知ると当時若かったですから,1週間に1回、研究会でこちらの研究所にいらしていた国府台病院の先生方に「病院に行ってもよろしいですか」とお願いして、「いいですよ」ということで、病院にまいりまして、患者さんを診させていただきました。そのことが、私の臨床の第一歩でした。
 当時、西も東も分からなくて、偉い先生ということも分からなくて、先生が患者さんを診察される場所へ行かせていただきました。本当に幸いだったことは、今は臨床をやりたい方がたくさんいらっしゃるので、いろいろなところで、心理学科の者までは受け入れられないので医学部に入れなくしてしまっているようですが、当時は、初めてでしたし、先生方も珍しいと思うのか、とても親切にしてくださいました。ただ、驚いたことは、1回診察に陪席させていただき、患者さんがどのような顔つきや容姿をしているか、先生はどのようにその方と面接をなさっているかを拝見したら、とても大変で自分としてはたくさんの体験を致しました。2度目に陪席に行きましたら、「カルテをとって」と指示されて、どのように、患者さんのカルテをまとめるのか困ってしまって、看護婦さんに「他の患者さんのカルテを見せてください」と頼み、慌ててそれを見まして、こことここを聞きとればいいというようなことで、たくさんの聞き漏らしがあったと思いますが、一応形だけは作って、持って参りました。それが、私の臨床実践の第一歩でございました。そこで、そのような初診トリを学び、それから国府台病院の病棟に入れていただきまして、いろいろな患者さんがいらっしゃるのだなと思いました。
 国府台の鍵のかかった扉をあけて入れてくださっていたのですが、お庭の日向に、おばさんが真っ裸で寝ていらっしゃるのです。驚いておりましたら、看護婦さんが、「あの方は、朝起きると、あそこに行って、1日中寝ているんです。」とおっしゃって、「ああ、どうして人間って、ああいうふうになるんだろう」と,私との違いに驚いたことが第一歩でした。それから、私は、臨床といいますか、心の病んでいる人のほうから、人間の姿を見たいと思うようになりました。当時、そのようなことを考えていたわけではありませんが、そのように感じました。

名古屋大学での日本人研究プロジェクト
 その後、ちょっとしたきっかけで、名古屋大学で、村松常雄先生という、国府台の先生の先輩が、ロックフェラー財団から資金をいただいてプロジェクトをしているということを聞きました。
なお,偶然だったのですが、東京女子大にいた頃に、名古屋大学でソーシャルワーカーを1人求めているからという話がありました。私は、社会性のない、引っ込み思案の人間ですから、ソーシャルワーカーはとても無理ではないかと思っていたのですが、私の友達が、「行くわ」と、1人いらしたのです。
当時名古屋大学では、ベック法でやっておりました。その方は1年ぐらい名古屋にいらしたのですが,当時George DeVosという、ロールシャッハのaffective symbolismというものをやっていた人がそこに来ていましたが,デボスさんがアメリカに帰るからということで、私と同じクラスの方が一緒に同行して渡米したのです。私は、精神神経研究所にいるときに,名古屋に行けば、デボスさんがまだいらっしゃるのかと思っていたのですが,私が名古屋に行くのとすれ違いで,そのデボスさんはアメリカに戻っていってしまいました。
 デボスさんのかわりに私に残されたのは,「名古屋大学は、ベック法のロールシャッハ法をやります。元はこの本です」ということで、最初の前田先生とのすれ違いと同様、本だけ残されていました。私のロールシャッハ法にとっては、専ら、文献から教わっていくことが良い体験だったと思っています。
村松先生のプロジェクトには、日本の中都市と山村・農村・漁村のカルチャーの違いを研究するというテーマがありました。日本人の研究です。それを、ロールシャッハ法を用いて研究しました。ロールシャッハ法だけでやっていたのではなくて、私はロールシャッハ法の班に入れていただいたのですが他に、TAT,PSTなどの班がありました。同じプロジェクトには,子どもの担当として,依田明先生もいらっしゃいました。
 それで、クロッパー法は片口先生と読んでいたのでロールシャッハ法というものがどのようなものなのかという概略は分かっていたものですが,とにかくベック法でやらなければということで,一生懸命、追いつかなければいけないと思っていました。ここで、村上英治先生に出会ったのですが、私が着任するとすぐに、名古屋大学の教育学部に職を得られたものですから、移られてしまいました。その方からも私はほとんどお教えいただくことはありませんでした。頼りは本しかありません。名古屋に行きましたのが確か6月だったので、すぐに夏休みになって、教授の村松先生は、避暑に行くとお帰りになったので、「夏休み、先生がいらっしゃらないなら、本をお借りしてもいいですか」と、ベックの本を抱えて家に帰って、1か月で一生懸命、ベックの本のVolume1を読み、夏休み明けからは、一緒にやらせていただきました。
 私が行きましたときには、もう既にプロジェクトが始まっていて、デボスさんが、学生さんなどを指導して、広い地域のサンプルを集めていました。私が行きましたときには、そのほとんどのプロトコルはできていて、私はその学生の作ったプロトコルを見せていただいて、ベック法の教科書にそって訂正するというのが、私の役割のようでございました。
 ここでは、いくつかの班があって、私と一緒にやっていた先生は、植元先生と、名古屋大学出身の西尾明さんとです。植元先生は、優秀な方でしたが、早く亡くなられてしまいました。この3人で、皆さんが集めてきた資料をまとめて、最終的に、統計学の先生の指示を仰ぎながら、資料をまとめました。当時としては、都市が名古屋、岡山です。山村・漁村が佐久島・名倉村・新池村といったようにいろいろなところの資料をまとめました。
 ですから、私にとって、ロールシャッハ法を学ぶうえではとても良い訓練にはなりましたが、社会調査のあり方については自分で反省することが多かったです。というのは,これは学生さんが取ってきた資料ですし、名古屋大学の先生から、「今日、そちらに調査に行かせていただきますけれども、よろしく」などと、いろいろな手配をして、オーケーを受けて行かされているのですがアルバイトで行っていらした学生さんは、「はい、こんにちは。調査に協力してください」「はい、オーケーですよ」と言って、そこでロールシャッハ法を施行して戻ってくるものですから、要するに、皆さん、本音はしゃべっていらっしゃらないで,きれいなデータをお出しになるのです。そのため,私が自分で集めてもっていた統合失調症の方のいくつかのデータに比べると、ほとんどの人であまり変わりがないのです。自分の感情を込めたものは、臨床でコミュニケーションが良ければいろいろなものが出るのですが、そうではなくて、表面的な答えですから。そういうものだということは、後で分かりました。皆さんが苦労して集められた膨大な資料を、後から行きました私が、ベック法の本を読みまして、訂正するというのが仕事でした。その後,仲間の方と一緒に、今度は統計的な手法にかけました。統計は、白石先生がきちんとチェックしてくださって、私どもの仕事は仕上がったということです。
 当時、村松先生は、東大出身でないと研究者ではない、というようにお考えであったようで,私が行く前に、東大から10人ほどの若手を引き抜かれ、その人たちが配分されておりました。それで、名古屋大学に入りましたが、私の時代に10人ほど新しい方を入れて、村松先生は、研究を促進していらしたのですが、なんと、その10人の方、お一人以外はみんな、すでに昇天なさってしまいました。優秀な方たちで、寿命が短くていらしたようです。
 今伺って、依田先生もどうなさったかなと思っております。福田先生とおっしゃるのですが、統計を学んでおられたのは。教育学部ではなくて文学部の心理を出た方がおられました。

インB 何年ぐらい続いたのですか。最後まで関わられたのですか。

秋谷 私は、プロジェクトの最後のほうに行った人間です。初めのほうは、村上英治先生が、いろいろな学生さんなどと一緒に、資料集めをなさっていました。先生は、私が行って間もなく、名古屋大学の教育学部に移られました。一緒の仲間ということで名前は出ておりますけれども、少なくともロールシャッハ法については、私と西尾さんと、先ほど申し上げた、植元先生の3人でまとめました。本当に、名古屋大学医学部にいました6年間ぐらいは、私にとっても、青春といいましょうか、人間的な立脚点といいましょうか、それを与えてくれたところだったと思っております。
 初めに申しましたように、前田先生のところで理論的な基礎をと思いましたのが、見捨てられる体験をしまして,今度は、皆さんはデボスさんからベック法の話を聞かれたのでしょうが、私は、ご本人からではなくて、文献からということで,その後、私の人生は全て、文献からロールシャッハを学んでおります。ただ、結論的に申しますと、ベックさんについても五つぐらい本を出しておりましたし、それからその後は、アメリカのワイナーさんとの出会いが、随分大きかったです。この方は、最初にデンバーにいらした頃は児童の研究をやっていらして、臨床もなさっていらっしゃいました。その方との出会いが、私にはプラスになりました。
 そのようなことですから、私の先生は、専ら文献です。大学ですから、研究会などで一緒にいろいろな文献を読んでくださる同僚や、若い方たちがいらしたものですから、皆さんの後押しと、仲間でやっているということが、私の一つのエネルギーになりました。
 そのような生き方は、今日まで続いているといいましょうか、順天堂大学に行きましたときも、心理の人のために門戸を開けてくださり,直接患者さんに会わせていただけて、というようなことができました。

ロールシャッハ法について
 ですから、その研究テーマを選んだ理由は、ただそこに行きましたらロールシャッハがふってわいたといいましょうかというのが大きいです。同時に私も大変興味を持ちまして、次々といろいろなロールシャッハ文献を見ておりますと、私にはとても学ぶことができました。近頃は、あのような査定は、どうしてもマニュアル化させてしまって、例えば「ロールシャッハをするときにはこのようなインストラクションを与えるのだ」というようなパターンで施行していらっしゃいますが、私はそういう方法は良いとは思っておりません。本当はコミュニケーションなのです。ですから、自分の患者さんとのコミュニケーションに、そのような一つのツールがありますということです。この場所だけでのやり取りですから、いろいろな方とお会いする中でブレはありますが、2人の間のコミュニケーションですから、自分のほうのブレといいますか、自分が相手をよく理解してうまく受け入れていればお話は進みますし、こちらが何となくクライエントをうまく受け入れられないでいれば、それなりに極端なものがでてきます。例えば先ほど申しました、この村松先生のプロジェクトで、「はい、こんにちは」といったようなことだけで始めても、相手はきちんと答えてはくださっていますが、その方の内面は出てこないということを、学ぶことができました。
 ロールシャッハ法は、インターアクションで、相手のことも分かりますし、自分のインターアクションをそれに照らし合わせて分かるということで、私は、大好きなのです。でも、本当に、私としては、臨床をなさる方は、ご自分でなさってみると、自分のゆがみが見えるのですね。

順天堂大学で
イン ありがとうございます。名古屋大学の頃までお話しいただいたと思いますが、その後、順天堂大学に移られますが、これはきっかけか何かあるのですか。

秋谷 それは、プロジェクトが7年目で終わりましたときに,もともと東京の者ですから、東京に帰りたいと思いました。村松先生のほうは、プロジェクトが終わってからもさっさと東京に帰らないで、自分のほうの仕事もしてほしいと思っていらしたようですけれども、かといって、そこの教室で、心理の人を抱える枠はないのです。そこで、「いいでしょう」ということで出していただきました。その際,なぜ懸田克躬先生にお願いすることになったのか、ちょっと今は覚えていませんが、同じ東大の先生でしたから、村松先生も、懸田先生のことを存じ上げているので,若気の至りで、平気な顔をして「順天堂に行きたいと思いますけれども、どうぞよろしく言ってください」ぐらいのことはお願いしたのかも知れません。
 それも本当にうまく連絡していただけたし、私としても、安い月給であっても、職場とすると、何より良かったことは、名古屋大学のときからそうですが、大学ですから、自分が読みたい文献をどんどん買っていただけたということです。その頃には,自然にロールシャッハというルートがついてしまっていましたので、戻ってからも、ロールシャッハ1本でまいりました。

インB それこそ、先生は、クロッパーから始まり、ベックも、ワイナーも恐らく、エクスナーなど、名だたるところを全部読まれておられますのでお聞きしたいのですが。ロールシャッハ本人はすごく若くして亡くなられていますが、残されたものから、いろいろな方が、いろいろな方法や技法や解釈を考えられています。その中で、先生がいろいろ読まれたなかで、「これだ」と思われ,われわれ若手に忠告されるとすると、どのようなところになりますか。

秋谷 おっしゃるように,ロールシャッハ法で言えば、ベックと一緒だった人ではありますが、ヘルツさんという、女性の研究者もいますし、同じベック法を使っているけれども、やはりそれぞれの人のニュアンスがありますから,いろいろなものがあります。私としては、ベック法で始まって、ワイナーさんと出会って、ワイナーのいろいろな本を読んでいます。エクスナーさんの方は、どちらかというと、統計的です。私が見ても、それからエクスナーさん自身も、自分の臨床が足りないことを知っているから、ワイナーさんと、組んでやっていらっしゃいます。私は、あまり統計は得手でないので分かりませんが、エクスナーさんは,ほんのささいな違いでも、どんどん変えていっていらっしゃいます。彼も、実際の臨床では、ワイナーさんに一緒にやってもらって助かっているのだと思います。私は、ワイナーさんともお会いして、とても良いお人柄でしたし、その出会いも、私にとっては、とても貴重なものでした。

インB ありがとうございます。

質問
イン 今、ワイナーさんとお会いになった話が出ましたが、それは直接訪ねられたということですか。

秋谷 直接といいましょうか、学会がありまして、そこではお話ししました。それから、私自身はワイナーさんをお呼びしたことはありませんでしたが、小川俊樹さんという筑波大学の先生が日本に1回ぐらい呼んで、学生たちにお話しさせたのだと思います。

インA 順天堂でのお仕事について、少し伺いたいのですが。先生は、医学部の講師として入られたとのことですが,教育が主だったのでしょうか。臨床もされていたのでしょうか。医学部ですと、両方されていたのではと思うのですが。

秋谷 ええ。医学部ですから、臨床です。細かいいきさつは覚えていませんが、東京に帰ってくるときに、順天堂に空きがあるというような情報が入ってきていたのだと思いますが、多分、戻るときには、順天堂に決めておりました。それで、順天堂には滑り込みました。そのときに、一応、講師という名前でしたが、当時の1教授、1助教授、3講師という形の教室のシステムでの講師としてではありませんでした。心理学ですから、当時、懸田先生のお考えだったと思いますが、「自分たちも精神科だから心理学はやっているけれども、心理学の人が必要ではないか」ということで呼んでくださったのです。そこで、「医学部の方たちに、医学心理学のことをお話ししなさい」ということが始まりだったと思います。
 ただそこで、私として幸いだったことは、名古屋大学ではプロジェクトの仕事もしていたのですが、午前中の外来の時間には全国からいろいろな患者さんが見えるので、そこに行って予診取りをさせられていたのです。今は、プライバシーうんぬんということでさせていないようですが。要するに講師の先生たちがいちいちやっていると大変なものですから、「今日はどのような事情でいらっしゃったのか」、「どのような相談、どこの具合が悪いか」ということを、あらかじめカルテに大体書きこみ,その方の順番になると持っていって、先生の前で、口頭でアウトラインを話しまして,ついでに自分の診断を、「これこれこういう話だから、この方は分裂症だと思います」「ちょっと、この方、こういう点が分かりませんけれど、てんかんじゃありませんか」などとおはなしするということをやっていました。

インA 名大でも、すでに、臨床の訓練と申しますか、そのようなお仕事をされていて、それで、順天堂でも同じように?

秋谷 訓練といいますか、私としては、いろいろなバラエティーの患者さんを、申し訳ないけれども、拝見したいと思って、外来へ出て行きました。とにかく、変な言い方ですが、なまの方とお会いして、なまの方のお声をきいていると、納得のいく感覚で、「この方は、ちょっと精神病くさいな」「ちょっと、こちらは違って、ノイローゼ気味じゃないか」というようなことはやったつもりですね。自分にはそのようなことがとても勉強になったと思います。心理の方が臨床をやりたいと思うときに、「自分でおかしなことを言うから、分裂病でしょ」と言っていたのでは仕方がありません。本当の患者さんの姿が分かっていなくてはだめだし、それから、どのような方かということを、しっかり上の方のご意見も伺う必要があると思います。自分が立てた診立てと、先輩の先生たちの立てた診立てとのずれといいましょうか、そのようなことを理解する必要があります。
 そのような体験があったものですから、こちらの順天堂に来ましたときも、臨床をやりたいと言っていらしたお嬢さんたちには、それをさせていました。そのうちに、私は私流のカリキュラムを作りました。最初は,先ほど申したような予診取りといいますか、面接を1年間ぐらいずっとさせて,いろいろな患者さんを体験させると、大体、雰囲気で分かるようになります。それからあと、今度は知能検査を1年間やっていただきます。私の偏見かもしれませんが、知能検査も、IQを出すことが目的ではなくて、やりながら、一つ一つの問題での答え方を診ていると、そこで、いろいろな病気の特徴というか、要するに、その方が生活しているカルチャーが狭いから、この答えが出てこないのか、というようなことが分かります。臨床をやりたいと言って来られた後輩などには、そのようなことを体験させていました。

インC 順天堂大学で、医学心理学を、先生は教えられていたとのことですが,何人ぐらいの学生さんに、どのような感じの授業をされていたのですか。

秋谷 1週間に1回ですが、1学級に何人いましたか、ちょっと記憶にありません。臨床講堂といいまして、階段教室でした。下の方に患者さんが見えていて、教授と患者さんとの対談を見せていただいて。10分ぐらいお話をした後で、患者さんには退出していただいて、その症状について教授がお話しされる臨床の講義でした。
 医学心理学で、何を教えたかについては、分かりやすく言えば、知能検査やロールシャッハ法が、どういうものかというお話もしました。要するに、患者さんとの面接の仕方とでもいいましょうか。お医者さんは、どうも生物学的になりすぎるので、それも大切なことだけれども、やはり、医者と患者さんとの出会いによって、あちらもお話がどんどん進んでいく、患者さんとのコミュニケーションが良くなれば、出すお薬の効きも良いのだ、というような、大まかにはそのようなことでございます。

インC ありがとうございます。

インA 全部の科に進学する医学生に向けての授業だったのでしょうか。

秋谷 はい,そうです。学生たちは、何科に行くのだろうとも、最終的な決定は、学部を卒業した後,入局の際にそこの科の教授にお願いして、「では、お前は引き受けてあげるよ」と言われると、そこで決まるということだったものですから。

インA どちらかというと、教養科目的な形で、先生の科目は位置していらしたのでしょうか。

秋谷 そうですね。そのように言ってよろしいと思います。要するに、大学院と学部がありますね。学部の中で教養課程と専門課程があります。順天堂には、体育学科もあるので1年生の頃は,その学生と医学部の学生が一緒に過ごします。その両方を対象に、一般心理学を教える先生がいらっしゃいます。それから今度、医学部の学生は、教養課程を終えてから、専門課程の授業として私の心理学の授業がありました。これは、むしろ国立などは、別にそこのところが正規の授業にはなっていないと思いますが、懸田先生は、そこを必須学科にしていました。要するに、一般心理学も教わってきて、もう一つ上の段階に来たときに、学生に、私がもう一度、医者として必要であろう心理学を教えるという仕組みになっていました。医学心理学という名前は教授からいただくのですが、どのような話をしろとはおっしゃいませんので、私としては、医者一般の、患者とのコミュニケーションの話をしました。

インB その後、上智大学の非常勤も長くお勤めになっているようですが。

秋谷 はい。どのようなきっかけで上智に呼んでいただいたかはちょっと覚えていませんが、霜山徳爾先生もかなり臨床的な先生でしたし,懸田先生とも面識があって,いろいろなところに顔を直接お出しになっていて、「上智で話を」ということでした。
上智大学での私の授業の内容は、ロールシャッハテストでした。ただ、私は前期だけで終わらせていただいたのですが、霜山先生は、「後期も」とおっしゃって,そこは、先生と私と意見が違っていました。私としては,後期までやって,解釈の仕方などを全部教えてしまうよりも、最初のところだけやって、「興味があった方は、あとは自分で勉強したほうがいいです」ということで、後期はお引き受けしませんでした。
上智大学以外では、心理が携わっている、家庭裁判所の調査官の研修に行きました。あちらではロールシャッハを使うことがあるので、ロールシャッハをどのように理解してほしいかというような話をいたしました。

イン ありがとうございます。先生は学会でも活躍をされていますが、印象に残っている、学会などはありますか。

秋谷 話しやすいものから言えば、外国の学会はどのようになっているのだろう、皆さんどのくらいのレベルなのだろうと思いまして、1981年に初めての国際ロールシャッハ学会に、日本から乗りこんでしまいました。そのときちょうど、ワシントンDCで大会があったのですが,東京女子大学の同級生でデボスさんと一緒に渡米した方が、ちょうどワシントンDCの国立図書館で職を得ていたのです。私は、うまくスピーチできないといけないから、そのときはサポートしてもらえると思って、出席したというのが本音です。
 でも、そこに行ってみて、「日本でもロールシャッハやってるんですか」などといわれ,日本は知られざる国なのだということが分かりました。

インB 先生はかなり最近まで国内のロールシャッハの学会に行かれていたとお聞きしています。

秋谷 国内のほうは、ロールシャッハ学会ができたとき,大山正先生が、「片口君が創りたかったのだろう」といって,私に「日本でロールシャッハ学会を創ってくれて、ありがとう」と言ってくださいました。
 私は、先生からそのように言われて、驚きました。作ったのは,何となくといいますか、いろいろな先生たち何人かと「創りたいね」ということで、創りました。

インB 日本心理学会とは、いつぐらいから?

秋谷 日本心理学会は、私が東京女子大学を出ましたときに、肥田野先生か、前田先生か存じ上げませんけれども、「ちゃんと学会には入りなさい」と言われましてそれがきっかけです。当時、卒業生で、奥さま業に励まれた方たちは別にしても、皆さん一応入ったと思います。
 そのような理由で入ったのですけれども、ロールシャッハをアピールしようと思いまして、日本心理学会のある時期に、4年間ぐらい続けて、毎回、大会の度に、ロールシャッハを売り込もうと思いましたが、ほとんど会員は聴講にはいらっしゃらなかった。何人かはいらっしゃいましたが、細々でした。

インA 臨床の発表に関心を持つ学会員が少なかったのでしょう、その頃は。

秋谷 そうですね、ええ。

インC 先生は、日本臨床心理学会が設立された頃のことは、何かご記憶はありますか。

秋谷 日本臨床心理学会?

インC はい。

インA 先生、ちなみに、今もロールシャッハの図版はお持ちですか。

秋谷 そうですね。部屋にございます。

インA やはり、マイ図版、自分のものを持っていらっしゃるのですね。

秋谷 でも、今、ここに持ってきているものはほんの一部です。一番悲しかったことは、資料をほとんどもって来られなかったことです。本も、ここに来るときには、私の麻布の家に集まって、一緒に勉強してくださっていた皆さんに、「好きなものを持ってらっしゃい」ということで、持っていっていただき、残ってしまったものは、どうせ古本屋に売っても全然値段にならないし、捨てるのはもったいないから、私と一緒に勉強した方が地方で先生になっていたので、「考えて適当に送るから、その代わり、着払いで送るから」と言いまして、「何でもいいです。いただきます」と言ってくださったものですから、みんな、方々にお裾分けしました。

イン 喜ばれたでしょう、それは、きっと、貴重な本が。


一同 では,そろそろお時間ですので,ありがとうございました。

インタビュアー:荒川歩(武蔵野美術大学)、高砂美樹(東京国際大学)、鈴木朋子(横浜国立大学)、小泉晋一(共栄大学)
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